序章:僕たちの日常
始まりなんて、いつも些細なこと。
今思えば、始まりっていつだったっだろう――そう思う。だけど、それは特段変わったことではないものだ。日常の中で、いつも通りの風景や言葉が過ぎ去る時間の中、唐突に、不意に訪れていたのだ。僕たちがそれを知ろうと、知らないとしても。
あの時、僕は高校生だった。もうすぐで二年生になる、春休み。
第一部
――僕と彼と彼女たちの日常――
春休みも終盤に差し掛かり、今日は3月22日。
春風漂う季節とはいえ、未だ寒空が広がる。
昼は眠気を引き起こすほどポカポカとした陽気が漂うものの、夜や朝になれば、布団から出るのが億劫になるほどの寒さが僕たちの世界を覆う。
桜もようやく咲けるなんて昼間に思っていたら、夜は冬じゃないか――と、仰天してしまっているんじゃないかってなんとなく思う。そんな時、桜はなんて言ってしまうんだろう。誤解するような気温にならないでくれなんて、地球に文句でも言うんだろうか。僕は文句なんて言わないけれど、さっさと春らしい季節になってくれないと、やる気が起きない。
春になれば、いろいろと挑戦する気持ちが湧いてきて、それこそ様々なことをやったりしたり――などと思いながらも、結局はすることがないんだよなと、冷静に思慮する第三者的な自分がいる。
それでも、布団の中で丸まっている間だけは、ただただこの心地よさに身を任せて、夢と現実の世界の間を行き来しているのだ。僕にとってそれがこの上なく幸福であると、断言できるものだった。
でも、それを邪魔する輩は必ず現れる。それは予定調和であり、定めのようなものなのだ。
僕の部屋へ通じる階段を、わざとらしく大きな足音を立てながら上がってくる少女。声を聞かなくても、姿を見なくても、その音だけで誰が登って来ているのか僕にはわかる。同時に、それは“一人”ではないことも、はっきりと確信していた。
「おーい! 空!」
うるさいな。本当に。
布団の中でため息を漏らしながらもぞもぞと動き、時計の指針に目をやる。10時13分――まだ朝じゃないか。
そう思った瞬間、勢いよく僕の部屋の扉が開かれた。
「おーっす! 起きな! 朝だぞ!」
僕はその言葉に反応するわけでもなく、無意識に布団の中へ潜り込んだ。ちょっとした防衛本能なのだと思う。
「起きろって! 馬鹿空!」
そいつは、僕の布団を剥ぎ取ろうとした。
「ちょ……海、止めなさいって」
それを止めようと、同じ声が聞こえる。
「起きろ――! 朝だぞ―!!」
だが、彼女は僕の布団を「どりゃぁぁ!」と剥ぎ取った。
「うぉっ! さむ!! 寒い!!」
心地いい暖かさが一瞬で剥ぎ取られ、体を硬直させる寒さが隙を突いたかのように、俺の体へ攻撃してくる。
「朝だぞ! いつまで寝てるつもりだ!」
海は僕の腕をペシペシと叩く。
「わかったから、大声出すなって」
朝から彼女の大声は、頭に響く。気だるさも相まって、余計に動く気を損なわせる。
「朝だってば。もう、起きる時間は過ぎてるんだよ」
両手を腰に当て、まるで仁王立ちしているかのように立っている彼女――海。口をへの字に曲げて、僕を見下ろしている。
「僕とっては、起きる時間じゃないね」
「何言ってるの。さっさと起きなさいよ!」
なぜ僕がお前たちに合わせなければいけないのか? と反論したくなる。しかし、それを言えば余計に手間のかかることをさせられられてしまうだろうから、何も言わずにいるのが正しい。
「小学生じゃないんだから、もう起きないと」
海の隣にいるそっくりな女性が、ため息をしながら言った。
彼女たちは日向空と日向海。
この2人は、近所に住む日向家の娘たちで、双子。一卵性双生児というやつだ。僕と長女の空とは同名という、なんともまぁ奇妙な話。この2人は僕の幼馴染で、僕より一つ年下になる。とは言っても、幼い頃からの付き合いのため、年が違うとは自分でさえ思えない。
この4月から、2人は僕が通う長束町立長束東高等学校に入学する。地元の中学生の8割が、この学校に入学するローカル学校なのだが、それなりに勉強に力を入れている。毎年、何人か有名大学に入学する人が出るくらいではある。
だからと言って。
自分も成績が良いかと言ったら、そうではないのが現実である。勉強も運動も、何もかも平凡だ。高校1年生のときの成績は、300人中129位。良いとも、悪いとも言えない位置だった。
そんな僕とは違い、彼女たちは成績優秀。学年ではいつも上位を取るほどの実力を持っている。双子だからか、頭の出来はほとんど同じだ。
ただ少し違う点で言えば、姉・空はどちらかと言えば屋内で行うことが得意であり、妹・海はその反対に、運動などのアウトドアなことを得意としている。
その得意な部分を切り取ってみると、彼女たち自身の性格にも反映されているのではないだろうか。空は少し内向的でおしとやかな性格なのに対し、海は快活でよく喋り、いい意味でも悪い意味でもムードメーカーな少女だ。
見た目はそっくりなのに、どこか正反対。でもそれは“正面から見た外面的な彼女たち”であり、僕の見解――それは幼馴染であるからこそ、知り得る彼女たちの姿とも言える部分――は違う。
根っこの部分では同じなのだ。
そのことを僕が知っていると、彼女たちも知っているのだと思う。だからこそ、彼女たちは僕を様々な意味で信頼してくれているのだ。言葉にして聞いたことはないけれど、どこか確信に近いものだった。
「ねぇ、今日どっかに連れてってよ」
海は僕のベッドに勝手に座り、僕の肩を叩いた。
「めんどくさい」
ため息をつき、眉間にしわを寄せて見せた。言わんばかりの嫌な顔、見てくれないだろうか。
「家の中に閉じこもってちゃ、体がなまるよ」
クスクス笑いながら、海は顔を僕に近付ける。
「こんな寒い季節は寝るのが一番」
「ちょっと、空!」
僕がかぶりかけた布団を、海がはぎ取った。これだともう絶対に寝ることなんてできないので、僕は素直に上半身を起こし、頭をポリポリとかいた。
「一応訊くけどさ……なんで僕がお前をどっかに連れて行かなきゃなんないんだ?」
「高校の入学祝」
即答、さらに笑顔で海は言う。それに対し、僕は笑顔になんてなれない。
「……お前さ、そう言って以前もねだったよな?」
「うん」
今度は子供のように、笑う彼女。こういった笑顔に騙される輩は少なくないだろう――と、こんな時に僕は思ってしまう。
「その時にわざわざお小遣いはたいて、プレゼント買ってやったろ? ぼかぁ眠いんだよ」
一昨日かその前か、2人は当然のごとく僕のいる高校に合格し、プレゼントをねだりやがった。高校に内緒で貯めたバイト代を使って、2人にお揃いのペンダントを買ってやった。1万円超えたんだぞ……。
「いいじゃん。バイト代まだ残ってんでしょ?」
ちっ、なんで知ってやがる。僕は心の中で舌打ちをした。
「無いんだな、これが」
「えぇ? うっそだー」
そう、ウソです。いちいちお前らのために使うかっての。
「だから、今日はあきらめな。ほら、さっさと帰った帰った」
片手をひらひらさせながら2人を追い返そうとすると、
「そんな風に言ったって、バレてるよ? まだ残ってるくせに」
空は笑いながら言った。その瞬間、僕の心がビクつく。よく思うのだが、女性というのは勘が鋭い。
「なるほどねぇ。んじゃ、空の財布を確認しようか」
不気味な笑みを浮かべ、海は僕の机を捜索しようとしだした。
「止めんか馬鹿!」
立ち上がって彼女を止めようとした瞬間、海は僕の方に笑顔を向けた。
「ようやく出たか。ホラ、ルーの散歩にでも行こ」
待っていたかのように海はそう言い、僕の手を掴んで立たせた。
ルーとは、日向家で飼われている犬で、柴犬だ。なかなか愛らしいオスである。まだ空たちが小学生に入るか入らないかの頃だったろうか、ルーがやって来たのは。半分茶色で、半分白というよくあるパターンの毛色である。
「……しょうがねぇな……」
そう呟きながら、僕は2人の顔を見渡す。まったく同じ笑顔をしているその姿を見れば、こっちとしては怒る気を失せてしまうってもんだ。理由は簡単だが、彼女たちには言うことが出来ない。言えば、きっと調子に乗ってしまうのが目に見えているから。
「とりあえず、飯を食わないとな」
体を伸ばし、僕は言った。
「今更朝食?」
空はため息を漏らす。
「何か文句でも?」
「だって、もう10時過ぎてるんだよ? 朝食の時間じゃないでしょ」
空は呆れ顔で、時計の指針を指差した。
「僕にとっちゃその時間なんだよ。どうせお前らは馬鹿みたいに早起きして、馬鹿みたいに早く飯食ってんだろうけどな」
「それが普通なんだけど……」
彼女たちの起きる時間は早い。なんたって、午前6時半起きだからな。中学は20分程度のところだし、高校なんて15分程度だ。しかも、開始時間は8時20分。2時間近く余裕があるじゃないかって話。僕なんて、いつも7時45分起きだよ。
「ともかく、飯食ってくるから……ここにいるのか?」
「ううん、下に行く。ね?」
顔を振り、海は空に促す。
「そうだね」
「さいですか……」
部屋を出てあくびをしながら階段を下り、リビングへ向かった。
お母さんはテレビの前ソファーの上で、横になって番組を見ていた。片手には、おせんべいが。こんなんだから、太るんだよ……と思いつつ、まぁこれが現実。
「母さん、飯作ってくんない?」
「なんだってぇ? あんたね、何時だと思ってんのよ」
僕は壁にかけてある時計を見た。
「10時21分でーす」
「ふざけんじゃないわよ」
ほんの少し動くでかいケツが無性に腹立つ。せめて、こっち向いて会話してほしいです。
「朝っぱらから自分で作るのは勘弁」
「蹴り飛ばすわよ」
母さんはせんべいを大きな音を立てて食べた。それは返事じゃないでしょーよ。
「可愛い息子が腹を空かせているってのに……薄情なこった」
僕はぶつぶつ文句を言いながら、キッチンの冷蔵庫からウーロン茶を取り出した。
「うっさいわねぇ。空ちゃん、作ってやってくれない? 可愛くもない腹を空かせた息子に」
まさかのそういうパターン? おいおい、まがりなりにも客人になんてことをさせようとしているんだ、このおばはん。
「うん、いいよ」
微笑みながらうなずいた彼女に対し、僕は肩を落とした。
「いいのかよ……。お前な、そうやってなんでもやってると母さんが怠けるだろ? ちょっとは動かさないと、ただでさえ肥満なのに、肥満に拍車が……」
「空も少しはおばさんの手伝いをしたら?」
空はそう言うと、僕の横を素通りして冷蔵庫から卵を取り出した。
「さすが空ちゃん、いいこと言う」
母さんは片手に掴んだ半分だけのせんべいをブラブラさせていた。
「……どこのおっさんやねん……」
僕は呆れながら、テーブルのイスに座り、コップにお茶を注いだ。
空は料理に取り掛かった。空は料理が上手で、うちのキッチンを使いこなせる人物である。いつだったか、母さんが胃潰瘍で入院した時、空が食事を代わりに作ってくれたもんだ。海はというと、そういうことが苦手な質なのである。というよりも、そういうのをしないだけ――なのだが。たぶん、やれば空並みにできるんじゃないかって思う。
「はい、できたよ」
空はカウンターに料理を置いた。
「お、サンキュ」
料理はご飯と味噌汁、ウィンナーを混ぜたスクランブルエッグだった。朝はこれくらいがちょうど良いよな。基本的に朝は弱いので、そんなに胃の中に入らないのだ。
「おばさん、食器洗っておこうか?」
空はカウンター越しに言った。
「えっ? ホントに? いいの?」
母さんはようやくこっちに顔を向ける。横になったままだが。
「うん、いいよ。やること無いと暇だしさ」
「そっかぁ、じゃあお願いね」
母さんはそう言うと、再びせんべいをかじりながらテレビに顔を向けた。
「……主婦に見えねぇな……」
僕は呆れた視線を母に送りながら、味噌汁をすすった。この視線、母はきっと気づいていないだろうけど。
「空ちゃんにしても海ちゃんにしても良い子だから、明久が羨ましいよ」
お母さんの後ろにあるソファーで、新聞を眺めている父さんが言った。明久とは空と海のお父さんの名前で、父さんとおじさんは中学からのクラスメイトで親友同士なのだ。
「空はともかく……海はなぁ……」
僕は果てしなく細めで、海を見つめる。
「何よ! 私はダメな子って言いたいわけ?」
海はギロッと僕を睨み付けた。
「お前には、小・中の7年間でいろいろと苦労させられたからな」
とにかく海はやんちゃ坊主(女だけど)で、手を焼いたもんだ。今はマシになった方だ。女らしさが出てきたし、服装もそれらしくなったし。
「否定はできないけど、空だって小学の時は同じくらいやんちゃだったじゃない」
む、それを言うか。
「……まぁ、その点は気にするな」
「あほか」
海の呆れた顔を無視し、僕はご飯を口の中に放り込む。
「空ちゃんか海ちゃん、どちらかが空の奥さんになってくれれば、空の心配しなくてもいいんだけどなぁ」
ハッハッハと、父さんは笑い声を上げた。
「ハッハッハー。父さん、あり得ないって」
そもそも釣り合わないって――とまで言おうとしたが、どうしてか言えなかった。だから、それを誤魔化すためにわざとらしく笑って見せた。
「空ちゃんと海ちゃんが空の相手ってのは、勿体無いわよ」
横のまま、母さんは言う。
「実の母親がそんなこと言うなよ……」
少しは「そうね〜」みたいなことを言えよ……冗談でも。
「空ちゃんと海ちゃんは、空のことどう思う? 結婚してもいいと思うかい?」
父さんは冗談混じりに言った。すると、海は顎に指を当てて天井を見つめる。
「うーん、空が立派な金持ちになったら、してあげてもいいかなぁ」
「なら無理だな。金持ちなんて望んでないし、そもそも僕には無理だ」
平凡が一番。金が多いからって、絶対幸せになるとは限らないし、自分の生活に困らない程度あれば、いらないし。
「夢の無い奴だこと」
僕に聞こえるように、海は大きなため息をついた。
「空ちゃんは、こいつを貰ってくれるか?」
父さんは今度は空に訊ねる。
「え? えっと……えぇっと……」
空は海とは違い、真剣な顔で考え始めた。
「そこは即答で否定してもらわないと、父さんが喜ぶぞ?」
「そ、そうだね」
空は笑った。それが、どこか作り笑いのようにも感じたが……そんなのはお構いなしに、僕は朝食を食べ終えた。
「これは?」
海は英単語を指さす。
「うーん、わからん」
「もぉ、まったく役に立たないじゃない」
子供のようにほほを膨らませ、海は言った。
「お前は僕の学年順位を知っていて、んなこと言ってんのか?」
「……そうだった。ごめん」
「いや、そこは少しフォローしろよ……」
僕は自分の部屋で、海の宿題を見てやっていた。今年の4月に晴れて高校生となる空や海には、入学式までにしなければならない宿題があるのだ。空はもう終えたらしいのだが、海は自分の性格が祟ってか、今の今まで一度も手をつけていないのである。
空はと言うと、母さんの家事の手伝いをしてくれている。食器を洗ったり、掃除をしたり、洗濯物を乾したりしている。今日はポカポカした陽気だから、すぐに乾くだろう。まあ、そんなこんなで、彼女の手伝いが終わるまで、ルーの散歩はお預けで、海の宿題を見てやっているということである。
……って、そんなこと言われても、僕は学年でも中盤程度の成績。それに比べて、この双子は一桁以内に絶対入るという、秀才ぶり。……え? 1年前のものならわかるんじゃないかって? ハハハ、馬鹿だから1年前のでさえわからないんだよ。
「ところで、空には宿題無いわけ?」
「あぁ、そんなもんがあったな」
「忘れてたんだ……」
呆れ顔の海。いつものことなので、ずいぶん昔から驚かなくなっているが。
「宿題が嫌いだって、昔から知ってるだろ?」
僕は体を大きく伸ばした。
「そんなんだから、地元の高校にしか入れないんだよ」
「お前こそ、それ程度の高校に入学するんだぜ? 人のこと言えるのかよ」
「私は好きで長束東高校を選んだの。空みたいに、行くところがなかったからってことじゃないの」
「……嫌味な奴だな」
どうせ、その程度の頭ですよ。
「そう言えば、なんでお前は東高校を選んだんだ? お前なら、三瀬高校に入ることもできただろうに」
三瀬高校とは、この辺りではかなり頭がいいことが有名で、国公立の大学や某有名私立大学に多くの学生を進学させている。空と海は、長束中学校でも学年中5位以内に入るぐらいで、「先生もそこへ行ったら?」と勧めていた。
「そんなの、私の勝手でしょ」
「まぁ、そうだけどさ……理由が知りたいじゃん。幼馴染として」
そう言うと、彼女は頬杖をついてうなり始めた。
「理由ねぇ……」
海はペン回しを始める。指先でくるくる回すのは、日向姉妹共通の癖だ。
「しいて言えば、近かったからかな?」
僕に笑顔を向けて海は言った。
「……そんな理由だけで?」
「悪い?」
と、首をかしげる海。
「せっかく勉強ができるってのに、あんな高校に進学するなんて……勿体無いって思わないか?」
自分が通う高校を非難するのも変な話だが、一生に一度のことなんだ。安易な理由で進路を決めるべきではない。
「そりゃあたしかにそう思うけど、なにも勉強が全てってわけじゃないしさ」
まぁ、たしかにそうなんだが。
「それにね」
すると、海は頭をポリポリとかきながら、天井を見上げた。
「別の理由もあるんだ」
「どんな?」
「私、お姉ちゃんと同じ高校に行きかったの」
僕には顔を向けず、彼女は上を向いたままだ。
「空と? なんでまた?」
「まだ離れたくなかったし、お姉ちゃんは私の目標だもん」
「目標って……料理とかみたいな、家事?」
「……まぁ、そんなところかな」
と、海は苦笑した。どれも海にとっては苦手なものばかり。双子なのに、どうもそこら辺が違うんだよな。つか、海はやらないだけか。
「ふ〜ん。ま、わからんでもないけどな」
たしかに、空は性格は穏やかで優しいし、いろいろと世話を焼いてくれるし、勉強もできるし、かわいいし。幼馴染の自分が言うのもなんだが、日向姉妹は学校内でも1,2を争うくらいかわいいんだよ。それだけ、悪いところがないとも言える。
「ん? 待てよ。と言うことは、空が元々、東高校に行こうとしてたってことか?」
海はうなずき、「知らなかったの?」と言った。
「……初耳だな」
空がねぇ……。あいつも、何を考えて平凡な高校を選んだんだか。頭がいいやつの考えることはわからんよ。
頭がいいやつと言えば、僕の同級生に一人いる。頭がいいというより、飛び抜けていると言った方が正しいが。
柊修哉。僕と修哉は小学生の頃から中学校、高校と同じで、親友と言える友達だ。
僕が小学4年生の頃だった、修哉が僕のいるクラスに転校してきたのは。
肩に届きそうなくらいの長い髪の男の子で、初めて見た時は女かと思うほど。印象としては陰湿で、勉強君な奴っぽいと思っていたのだが、その想像は他ならぬ彼によって、完璧に崩されてしまう。
かなりのやんちゃ坊主で、当時の番長(みたいな6年生)を転校3日目にして殴り倒し、先生に放課後まで正座させられた。授業も真面目に受けるようなやつではなく、いつも窓の外を眺めていたり、堂々と寝ていたりと……最初の印象とは真反対だったのだ。なのに、テストでは常に100点ばかり。悪くて96点。体育や運動会でも、1位ではなかったことが無い。なんでもできる、完璧な少年だった。
「名前、なんだったっけ?」
それが、修哉が僕に発した最初の言葉だったような気がする。転校してきてから数ヶ月も経つって言うのに、未だに同じクラスの男子の名前を覚えていないってのは、幼い僕からしても少々腹立たしかったのを覚えている。
「悪いけど、シャーペン貸してくれない?」
その頃は修哉の真後ろの席で、テストが手渡し出回ってきた時に、修哉が話し掛けてきた。僕は何も言わず、シャーペンを貸してやったっけ。
「サンキュ」
その時の修哉の笑顔と言うのが、どこにでもいる小学生という雰囲気を放ったように思えた。それまで見てきた彼は、どうも話しかけにくく、僕だけではなく、他のみんなとも一線を引いた先の人間に思えた。どんなことも完璧にこなすために、逆に恐れられていたのかもしれない。だからこそ、その時に見た修哉の笑顔が、意外だった。僕は少しの間、呆然としていたもんだ。
それから、僕は彼に積極的に話し掛けるようになった。そうやって話していると、修哉は完璧に何でもできる少年ではあったが、それ以外のところでは普通の少年だった。話す内容は僕と同じレベルの話題ばかりだったし、外で遊ぶにしてもサッカーを好んでやったり、虫を捕りに山へ行ったりと、やることは同じなのだ。
思い返せば、小学生の頃は常に修哉と空と海、そして僕は一緒だったような気がする。中学生になってからは、そうもいかなかったけれど。もちろん、それは大人に近づいて行った証拠でもあるのだが。
それから約3週間後の4月10日。僕の高校の入学式が執り行われた。
本来、新2年生になる僕は入学式に行く必要は無いのだが、一応生徒会役員なために、いちいち行かなければならない。あんまり大きい高校ではないことと、近年の少子化なために年々入学生が減少しているとはいえ、今年は約400人が入学。その中で、空はトップの成績で合格したらしく、入学式で新入生代表として挨拶みたいなもんを言うらしい。ちなみに、海は5位以内ではあったとか。……十分すごいがね。
「新入生代表、日向空」
「はい」
空は凛とした声で、入学の言葉を言い始めた。彼女を見ていると、去年、あの場で修哉が同じことをしていたのを、昨日のことかのように思い出す。修哉は例の如く新入生トップの成績、しかも全教科満点という離れ業で合格したのだ。いつものあいつを見ている僕としては、どうしても信じられない出来事ではあったが、修哉だもんな……と、一人で納得していた。
「ホントにめんどくせ。なんで俺がこんなことしなきゃなんねぇんだよ」
と、入学式の前日までブツブツ文句を言っていた修哉。
「だったら、わざと一教科80点くらいにすればいいのに。お前ならそういうことできるだろ?」
「俺にかかればそんなことちょろいけどよ、それじゃあ俺がスゲェってことがわからねぇだろ?」
「……なんだ、自慢したかったのね」
そう言うと、彼は僕に向けて笑みを向ける、
「高校の教師どもに、俺の実力を早々に知っておいてもらわないとな。楯突けないように」
「……呆れたを通り越して、ある意味尊敬するよ」
そう皮肉染みたことを言っても、彼は笑いを絶やさない。
「…………平成19年、4月10日。新入生代表、日向空」
気付けば、空の言葉が終わっていた。彼女は一礼して回れ右をし、小さな階段を降り始めた。
その時、彼女は僕が座っている体育館の端の方に目を向け、僕と視線が合った。すると、空はニコッと微笑む。僕も、それにつられて微笑んでしまった。それがわかると、彼女は再び普通の顔に戻り、自分のイスへと座って行った。
「…………」
ああやって笑顔を向けられると、照れてしまうものだな。見慣れているとはいえ。
「なんだ? あの子、こっちに微笑みかけなかったか?」
僕の隣にいる、同じ生徒会役員である進藤和樹が小さな声で言った。
「さぁ? どうだろうね」
「まさか、俺に微笑みかけたわけではあるまいし……」
そりゃそうだ。いきなり見も知らぬ先輩に笑顔を振り向けるかっての。ギャルじゃあるまいし。いや、ギャルでもしないか。いかんいかん、偏見だな。
「新入生かぁ……」
ふ〜んと、和樹はニヤニヤしていた。まぁ、彼女は美人なので、和樹の目に留まるのも仕方ないというものだ。
進藤和樹。高校で同じクラスの友達だ。修哉とも仲が良く、彼とは一時期同じバスケ部にいた。……まぁ、修哉がすぐに辞めてしまったので、ほんの数ヶ月だけだったが。
和樹は何事も無難にこなすオールマイティな奴で、さらにルックスもいいので女性陣に人気がある。ホント、うらやましい限りですよ。
「……以上で、入学式を終わります。一同、起立…………礼」
僕は一礼した。こうして、今年の入学式は何の滞りもなく終了。なんかあっちゃ困るが。
「空ぁ、待ってよ」
荷物を担いで校門から出ようとした時、後ろから海の声(彼女たちは声もそっくりなのだが、空はほとんど大きな声を出さないので、見分けることができるのだ)が聞こえた。後ろへ振り向くと、空と海、おばさんとおじさんがこっちへ歩いて来ている。
「こんちは、おじさん、おばさん」
「こんにちは」
おばさんとおじさんは、ニコッと微笑んだ。おじさんもおばさんも、かなりイケてる顔をしている。まぁ、遺伝って言うのは素直だよね……。
「この度はおめでとうございます」
と、僕は笑いながら言った。
「ハハ、ありがとう」
おじさんはメガネをさすりながら笑った。
「まったく心がこもってない!」
海はそう言って、僕の頭をひっぱたいた。
「いてっ! いちいち叩くな!」
「うっさい、馬鹿空!」
「誰が馬鹿だ! 標準だ、標準。お前らと一緒にすんな」
普通であるならば、文句は言われないのだ。下位よりマシでしょーよ。
「ちょ、ちょっと、2人とも……入学式早々、ケンカしないでよ。恥ずかしいじゃない」
空は少しオロオロしている。彼女は少し人見知りで、極度に目立つことを嫌がる。今日のような代表の言葉みたいのは仕方ないとして。
「ま、これが本来あるべき空君と海の姿なんだがな」
おじさんは僕たちの様子を眺めながら微笑んでいる。
「そうね。昔っから、そこは変わらないわよね」
おばさんも、同じように微笑んだ。
「年がら年中ケンカしてるわけじゃないって」
僕は苦笑しながら言った。すると、おじさんは僕の肩に手を置いた。
「何はともあれ、高校まで一緒になっちゃったけど、2人をよろしくな。空君」
「まーた僕が保護者代わりみたいなもんですか?」
僕はため息を漏らした。小学の時も中学の時もそうだったが、学校では専ら彼女たちの面倒を見るようになってしまっている。
「君に任せておけば2人は安全だし、なにより素直だしね」
「お、お父さん!」
海は少し顔を赤くし、おじさんの服を引っ張ってそれを制止させた。
「素直? 空はともかく、海はそうじゃないでしょーよ」
「……この馬鹿空!」
バチン
再び、海の平手が僕の頭部に直撃。
「もぅ……結局いつもと同じじゃない……」
再び、空は呆れていた。いつものように。
同じような日々が始まるはずだった。今までと同じような日々が続くはずだった。変わるのは、場所が「高校」になっただけ。生活の本質も、周りを取り巻く状況も、何一つ代わり映えしないはずだった。
しかし、少しずつ時が進むにつれ、何かがずれ始めていた。目に見えぬ小さな、小さな歪みの隙間から、暗い何者かが僕たちを覗き込んでいたんだ。気付かれぬように息を殺し、着々と「その時」を待っている。「その時」というのを、僕が知っていたら、こんなことにはならなかったのではないかと思った。
避けることのできない未来。
逃れることのできない運命という名の道。
少しずつ、少しずつ開き始めていたんだ。
「運命」という名の扉は――