第五部⑫ ~穿たれし空の上で、僕たちは殺し合う④~
ゆっくりと、彼女は倒れた。
「レ……ナ……?」
シリウスは何が起きたのか、わからなかった。
僕が? レナを? 攻撃した?
なんでなんでなんでなんで?
「レナァァ!!」
ユリウスの彼女を呼ぶ声が、木霊する。彼は血だらけの身体を動かし、レナの下へ行き彼女の体を抱き起こした。
「お兄……さま……」
「レナ! しっかりしろ!」
ユリウスは彼女の大きな傷口に手を添えた。この傷では、どうにもならないことなどわかっていた。それでも、無意識に出血を止めようとしていたのだ。
「わた……し、お兄さま……のこと……大好き……です」
レナは口からも溢れる血を吐き出しながら、掠れる声で言葉を発していた。
「ずっと、ずっ……と、大好きで……す。優……しくて、いつ……も、護って……くれ……お兄……さまが、大好き……です……」
「レナ……!」
ユリウスは彼女の細い手を、血塗れの手で握りしめた。彼女の魂が、徐々に薄れていくのがわかるほどその手には力がなかった。
「なの……に、こんなこ……とに、なって……ごめ…………なさ、い……。こん……な…………わた……を……ゆる……てくだ……い」
彼女の双眸から、涙があふれる。それは口元の吐血と混ざっていった。
「ユ、リ……ウス……兄……さ……ま――――」
出逢った時のような、あどけなさの残る微笑みを浮かべたまま、レナは事切れた。
生気を失った――魂がいなくなってしまった瞳は、ずっとユリウスを見つめたままだった。
「レ……ナ」
自分を自分たらしめる存在は、どこかに存在している。自分がないと思っているだけで、本当はあるのだ。そして、人はそのことに最後まで気付かない。失って初めて、それが何たるかを知る。
――俺は、なぜ今まで気付かなかったんだ。
なぜ、なぜ。
なぜ、何もかも奪われなければならない。
全部全部、俺のせいなのか?
そう、俺たちのせいだ。
呆然とするシリウスに、ユリウスは気付く。それと同時に、彼と過ごした様々な日々が浮かんできた。
物心ついた時から、シリウスは傍にいた。そう、俺が傍に置いたんだ。
でも、褒めるのは皆、あいつだけだった。
父に似ていると。
天帝になるべく生まれた俺を差し置いて。
あいつなんて、下賤の民の血を受け継いでいるのに。
正統後継者である俺には敵わないはずなのに。
なんで、お前が褒められるんだ。
フィンも、ロスメルタも、レーグも。
全員、お前を褒めていた。
ああ。
そうか、お前が奪うのか。
お前が――――俺の大事なものすべてを、奪っていく。
父の愛も。
皆の尊敬も。
リタとレナさえも。
――お前さえいなければ――
殺意が、彼を塗りつぶしていく。それと同時に、ユリウスは咆哮にも似た叫び声をあげた。
「ガアアアァァア!!!」
ユリウスは魔剣ティルフィングを掴み、シリウスに突撃した。血のように真っ赤な涙を浮かべて。
だが、シリウスは一歩も――微動だにしなかった。
僕が、レナを殺したのか?
え? レナ、死んじゃっタのカ?
にいさんをころそうとしたのに。
れなをころそうとしたんじゃない。
にいさんをころそうとしたんだ。
でも、れながじゃまをした。
きみがわるいんだ。
ぼくをみない、きみが。
ぼくはきみのそばにいたかった。
きみのえがおをみつづけたカッタ。
でも、きみはぼくをみない。
にいさんばかり。
だかラ、きみがにくい。にいさんがにくい。
にくいにくいにくいニクイニクイニクイニクイ。
え?
ニクンデイタ……のか?
――気付いていただろう――
――あいつは、振り向きもしないって――
闇夜から囁くような声が、脳内に木霊する。
「死ねえええぇぇ!」
そのまま死のうと、シリウスは思った。もう、どうでもよくなった。世界の命運も、自分の命も。ロスメルタと約束したことさえ。
ユリウスの剣が、天空の太陽の光を背に振り下ろされる。
だが、この天帝の間に高い金属音が響き渡る。魔剣ティルフィングを、水色の刀身が防いでいたのだ。冷気が広がり、小さな氷の粒が空中に舞う。
「くっ……!」
シリウスを護るようにして、ユリウスの攻撃を防いだのはランスロットだった。彼の貴族服も血に塗れ、ところどころから焦げた臭いが漂ってくる。
「シリウス! 何をしている!」
ランスロットの声に、シリウスはハッとした。
「お前にしかできないことを……するんじゃなかったのか!?」
僕にしかできないこと――。
僕でしか、果たせないこと。
「邪魔を……するなぁぁ!!」
ユリウスの叫び声と共に、闇色の円環が広がり爆風となった。ランスロットやシリウスを弾き飛ばし、轟音が鳴り響く。
「ぐっ……ユリウス!」
ランスロットは宙で反転し、着地をした。それと同時に、ユリウスの斬撃が襲い掛かる。激しい攻撃は、さすがのランスロットでも防御に徹するしかなかった。
その時、ランスロットの剣――霊剣アロンダイトが、上空へ弾き飛ばされた。
「しまっ――!」
「ガアアァ!」
魔剣ティルフィングが、ランスロットを貫こうとした。その刹那、この空間の気温が一気に下がった。ユリウスがそれが魔法であるということに気付いた時には、遅かった。
「――レイシヴェルサ!」
氷河の壁が、ユリウスを阻み包み込む。その隙にランスロットは距離を取り、アロンダイトを取り戻した。
「……なぜだ……!」
ユリウスはその魔法から抜け出し、床に着地した。そして、その魔法を放った人物を睨みつけていた。
そこに立っていた人物を、この場にいる全員が知っていた。だが、彼を除いて数年ぶりだった。
「叔母上……!?」
紫苑の長髪に、真っ黒なドレスを羽織った女性。その美しさは、かつてクーデターを引き起こそうとし失敗し、地上へ捨てられる直前に会った時と変わっていなかった。
「ユリウス……お願い、もうやめて」
アムナリアはどこか寂しげに、そして哀れむような双眸でユリウスを見つめていた。