9章:赤の世界 風歌う場所にて
BLUE・STORY
Episode4 第2部「赤い空」
遥遠なる光の向こうで分たれた運命――
お前は、その中で何を拾うというのだ?
終わりのない旅路の中で、
人は無為な軌跡を生むだけでしかないのに――
淡く、白い濃霧の中、僕は一人で歩き続けていた。ついさっきまでリサがいたのだが、「また会いましょうね」と言って、いつの間にか消えていた。この白い視界の中で、あいつは一体どこへ向かったのだろうか。そう思いながら突っ立ている今日この頃。
……そう言えば、どこに向かえばいいのか、訊いていなかった。何も知らないのに、どうしろと。そもそも、そこは教えなければならないことのような気がするのだが…。
上を見ても下を見ても、左右を見ても霧。遠くに何かがあるのならぼんやりと見えるのだろうが、今見える世界には何もないせいか、果てしなく白い霧が続いているように思える。
と、そんなことを考えていると、突然何かが吹き始めた。
風だ。こんなところで風が吹いているというのか? それは僕の手を誘うかのように、掌の上で踊っている。
「……前へ?」
そう言っているのだろうか。風がささやいているのかどうかなんてわからないはずなのに、なぜかそう思った。
僕は「何かに示される方向」へ歩き出した。
歩いても歩いても、一向に何かが見えてくる気配がない。このまま歩き続けても、何もないような気がする。それでも歩いているのは、心のどこかで確信にも似た小さなわだかまり…みたいなものがあるからだ。喉の奥に引っ掛かって、なかなか出てこないようなもの。はっきりとは言えないもの。
こうやって歩いていると、いきなり足場がなくなっていて、急転直下になってしまったりね。
ハッハッハ。
まっさかぁ。そんな漫画的な展開はないでしょーよ。
などと思っている時、右足を踏み出すと、そこにあるはずの地面(霧なので、地面というのもおかしいのだが、ちゃんと歩ける平面かな?)に足がつかない。そればかりか、どんどん下へ落ちていく。
え……うそ〜ん。
ついさっき考えたことが、現実になった。道が無くなっていたんだ。
「うわぁーーーーー!!!!」
急転直下。ジェットコースターでは味わえないスピードと恐怖が僕の全てを塗り尽くしていく。ああ……父さん、母さん……意気込んで出発したのに、RPGゲームでの始まりで、ゲームオーバーになってしまった主人公のような僕を許してください…。
「たっけてー!! 神様ぁぁーーーー!!!」
祈ったこともない神様に、僕は拝んでいたのだった……(合掌)
…///
って、そんなこと考えている場合じゃない! どうすんだよ!
その時、僕は柔らかい何かに沈んでいくような感触がした。いや…これは、水? 僕は強く閉じていたまぶたの力を抜き、恐る恐る世界を覗く。
澄んだ、濃い青の世界。
ここは……海の中だろうか? けど、呼吸はできる。僕の周りには小さな泡の大群が、大きく揺れながら上へ昇っていく。それを目で追っていくと、揺らめく水面の姿が見えた。水中から見る水面とは、こうも幻想的なものだったんだと実感した。大きな光が、水面が揺れるのと同時に揺れる。それ以外は、透きとおった空の青が広がっている。
ああ……不思議だ。こんなにも心が安らぐなんて……。
僕たちの住まう地球にも、こんな光景は生きているのだろうか……。生きていてほしいと、本気で思えた。
呆然と見とれていると、少しずつ辺りがざわつき始めた。なんと言うか……周りの水たちが動いているように感じた。目で見える水面の揺れなども、さっきよりも激しくなっていた。
この水中の遥か上空にある、光の玉。太陽のようなものが、どんどん大きくなっていく。そして、一気に僕の視界を光で覆った。
思わず目を閉じた少し後、僕を包むものの感触が変わった。水に包まれていたような重みではなく、なんだろう……浮いているような感覚だ。
再びまぶたを開けてみると、驚かされた。
白い雲が隣を漂っている。そう、僕は空を浮かんでいたのだ。フワフワと、まるで紙きれのように浮かびながら、僕はゆっくりと下降している。
またもや呆然。今の状況に理解できず、呆気に取られながら瞬きをしていた。変な濃霧の中にいたと思えば、呼吸ができる水中。そして極めつけは、空中。さっきから、あり得ないことだらけで僕は付いていけない。
……てか、こっからどうすりゃいいんだ? なんもできんぞ、ホンマに……。
うーんと、腕を組んで考えていると、いつの間にか僕の周りにたくさんの雲が集まっていた。それはまるで僕を支えるベッドのように、真下に集まっている。
身動きできないまま目をパチクリしていると、背中にくっ付いている雲の塊を通して、何かを感じた。
大地の感触。忘れるはずのない重力。手を伸ばし、そこに触れてみる。
……草だ。それが分かった瞬間、僕を支えてくれていた雲の塊が消えた。上半身を起こし、僕は辺りを見渡した。
広がるのは、草原。遥か彼方まで広がる、草原の海。
柔らかな草萌える広大な地に、僕は一人だった。遠くには青く霞んだ山々が見える。
「…………」
言葉を失うとは、こういうものなのだろう。この眼で見たことない風景に、僕は思考することを忘れ、ただただ眺め続けていた。右を向いて、左を向き、上を向く。
――小鳥のさえずりが聞こえる。
こんなにも穏やかな場所は見たことがない。きっと、元いた世界にはあるんだろうけれど、先進国で育った人々では味わうことがないであろう風景だ。モンゴルとか、そういうところの「草原」みたいだった。あくまで、僕自身の想像範囲内のことだが。
勝手な想像だが、この世界の技術はあまり進んでいないのかもしれない。空気の味も、漂う風の柔らかさも、何もかも違う。それは母国と比べているからかもしれないが、たぶん、この世界の文明レベルは元いた世界の文明レベルと大差があるに違いない。確信はないけれど、それに似た直感がある。
どうしてだろう……僕は知っているような気がした。この穏やかな空気など、全てを。懐かしさが体全体を覆う。デジャヴ…ではないけれど、体が言ってる。僕はこの世界を知っていると。
――一緒に掴むのさ……私とお前で――
ほんの一瞬、亀裂が走ったような頭痛とともに例の声が聞こえた。いや……今までの声とは違う、初めての声だ。若い男性……だ。まるで、微笑みながら言っているかのように。
またわけのわからないことを……。何を掴むってんだよ、何を。
僕は頭を小さく振り、立ち上がった。そして、大きく深呼吸をした。
新しい世界の大気。もう一つの世界の匂い。あっちでは気付かなかった細かなことが、ここでは大切なもののように感じる。どれを取ってみても、なくてはならないものであり、遠い昔から親しんできたもの。それだからこそ、僕たちは忘れてしまうんだろうな…。
さて、これからどうしようか。普通、こんなところに放り出されたら焦ってしまうような気がするが、リサのこともあり、逆に冷静になってしまっている。知らない世界なのだから焦ってもしょうがないわけで、ここはとりあえず……
「……歩くか」
うん。
僕は一人でうなずき、気の向くままに歩き始めた。考えてもどうにもならない状況下なため、とりあえず歩くのが一番だと思う。…ですよね?
辺りを見渡しながら、僕は尖がった山に向かって歩いた。何かを目標にして歩いた方が、何かと進む……ような気がする。
しばらく歩いたつもりなのだが……時計がないため、どのくらい歩いたか分からない。広大な草原のため、自分が始めどこにいたのかもわからない。進めど進めど、尖がった山は近づかない。砂漠の蜃気楼じゃあるまいし、少しは近づいたっていう実感がないと、やる気失せるっての……。
そんなことを考えていた折、ガラガラと何かの音が聞こえた。こういう音って、よくテレビで聴く音だよな。たぶん、馬車の音だろう。僕は後ろへ振り向いた。丘の上を走る馬車の姿があった。それは僕の方へ向ってきている。何もせず突っ立っていると、それはどんどん近付き……僕の目の前に止まった。
始めて生で見る馬車。馬も初めてだ。二匹の馬がこれを引いていた。
「こんなところに、なんで人が?」
馬車の主であろう男性が顔を覗かせて言った。
「こんなところで何してんの?」
彼は頭をかしげていた。無精ひげを生やし、黒い髪の毛を後ろで束ねている。とはいえ、そこまで長い髪型ではないようだ。少し褐色の肌……だな。東南アジアとか、そこらの人と言えばわかりやすいかもしれないが、顔立ちが……違う。どこか日本人であり、どこか西欧人。
白い服の上に、茶色い薄汚れたブレザーのようなものを重ねて着ていて、白い長ズボンをはいている。そこらの農民…といったような格好だった。その割には、小奇麗にも見える。
「あの……えっと……」
なんて言おう。言葉に迷う。
「……迷子かなんか?」
「へっ?」
「荷物らしきもの一つも持っていないし、旅人には見えないし。…つーか、この場所に一人でいるのってのもおかしな話なんだが……」
ギクリ。僕はつばを飲み込んだ。男性は変な顔をして、僕を見つめている。
「じ、実は……気が付いたらこの場所にいてさ」
その場しのぎの嘘を言った。まぁ、あながち間違ってはいないんだが。
「??」
男性は再び頭をかしげた。
「……つまり、自分もよくわかんないんだよね」
僕は手を広げて苦笑した。
「ってことは、誘拐でもされたのか?」
「誘拐……じゃないと思う」
たぶん。
「?? ……とりあえず、乗せてってやろうか? 君の村まで」
男性は後ろの馬車を指差した。
「君の村までって言うか……それがちょっと、わかんなくて……」
そうとしか言えなかった。だって、別世界から来ましただなんて言えないもんよ。
「まさか……記憶喪失!?」
「あ、それです。たぶん」
咄嗟に言った。そういうことにしておいた方が、何かといいかもしれない。何も覚えていない人間なら、この世界のことを訊かれても怪しまれない。うーん、この人、勝手に解釈してくれてありがとう!
「困ったなぁ。……それじゃあ、一緒に行くかい? 俺、一応旅人なんだ」
男性は少し日焼けしたような顔を笑顔にした。
「……いいんですか?」
「ああ。あっちこっち回っていたら、きっと君の知っている土地にも辿り着けるだろうし」
「…………」
そして彼は僕に手を差し出した。
「俺はヴァルバって言うんだ。ヴァルバ=ダレイオス。敬語は使わなくていいからな。君の名前は?」
僕は少し照れながら、彼と握手を交わした。
「……僕は空。あの空の空」
そう言いながら、青空を指差した。ヴァルバは一瞬驚いたような顔をし、すぐに微笑んだ。
「ソラ? 珍しい名前だな」
「ハハ、よくそう言われる」
「じゃあ、よろしくな。ソラ」
「うん、よろしく、ヴァルバ」
これがヴァルバとの出会いだった。この世界での最初の仲間であり、友達だった。
「ところでさ、ヴァルバはなんで旅をしてんの?」
馬車に揺られながら、手綱を引くヴァルバに訊いてみた。
「う〜ん……」
ヴァルバは片手でひげをさすりながら唸った。
「まぁ、してみたかったから、だな」
「してみたかったから?」
「ああ。……俺はちょっと陰鬱な場所で生まれてね。そこは閉鎖された場所だったんだ。だから、外の世界に憧れてた。開拓されきっていないこの広い世界を、自分の目で見て回ってみたかったんだ」
彼はニコニコしながら話していた。
「まぁ、せっかくこの世界に生まれたんだから、世界の隅々まで見ないともったいないかなと思ってな」
「……すごいな」
普通にそう思った。
「そうか? 珍しいことでもないと思うけどな。各国を旅する人なんてごろごろいるだろうし」
この世界ではそうなんだろうけど、あの世界ではそうじゃなかった。というより、少なくとも僕が住んでいた国ではそうじゃなかった。そんなことを志しても、資金の問題や意志の問題で挫折してしまう。個人的にはやってみたいと思ったことはあるけど、現実問題としては無理なんだよな。……そう決めつけているだけなのかもしれないが。
「何年ほど旅してんの?」
次の質問をした。
「たしか……故郷を飛び出して、もう8年くらい経つのかな」
「8年!? 結構長いなぁ」
「数字として考えれば結構時間が経ったなぁと思うけど、実際には気がつけば…という感覚なんだよ。俺としては、8年も経った気がしないからな」
「……そういうもん?」
「そういうもんさ」
ハハッと、彼は白い歯を見せて笑った。
「そう言えば、ヴァルバって何歳? 8年も旅してりゃ結構……」
「俺は25歳」
「えぇ!?」
僕は思わず声を上げてしまった。
「そ、そんなに驚くことか?」
「い、いや……だって……」
無精ひげだし、黒いし、老けて見えるし……ぶっちゃけ、初見では30歳を過ぎたあたりかと思っていた。
「ったく、失礼な奴だな。そういうソラは何歳なんだよ? つか、覚えてんの?」
「あ、ああ……まぁ」
そう言えば、記憶喪失っていう設定だったな。
「僕は……たしか、今年で17歳になる、と思う」
「17歳か……若いな。俺が旅を始めた時と同じ年齢だな。…今思えば、あの頃は無計画でこの旅を始めちゃっもんだ」
昔を懐かしみながら、ヴァルバは青空を眺めていた。
「家出みたいなもん?」
「ん? ん〜……まぁ、いうなれば……そうか、な」
微妙にはぐらかしたような気がしたが、気のせいかな。
「……苦労しただろ?」
「そりゃそうさ。お金も無かったし、頼る当ても無かったからな。とにかく辿り着いた街で日雇いの仕事をしたりして資金を貯めて、船に乗って海を渡って……いろいろあったもんだ」
「……話を聞いてると、すごく楽しそうだな」
「男だもんな。親の庇護の下暮らし続けるんじゃなくて、男なら自分の足で生きたいとこに行けばいいんだよ」
「足じゃないじゃん」
僕は笑いながら馬たちを指差した。
「……気のせいだろ」
それなりの時間が経った。それなりに進んだ。それでも、周りの風景は変わらない。いつまでたっても緑の草原が広がるばかり。
「なぁ…一体、この草原はどこまで続くんだよ?」
僕はため息交じりで言った。
「この草原は2大陸の中では、最も広い草原だからな。夕暮れ時には、村に着くかもしれない」
「2大陸?」
僕は頭をかしげた。
「お前、それくらい…ああ、記憶喪失だったな」
ヴァルバは一度頭をかいた。
「…この草原は〈ルナ平原〉と言うんだが、これが〈ロンバルディア大陸〉の南部にあたる。んで、海を挟んで西にあるのが〈アルカディア大陸〉」
どうやら、今知られているのは2大陸のみのようだ。世界はそんな狭いもんじゃねぇし。
「ロンバルディア大陸の北西に〈シュレジエン諸島〉ってのがあって、ここは1年を通して雪が降り続ける地域なんだ」
ロシアみたいなもんかな。
「国とかってのもあんの?」
「そりゃそうだろ。ここ、ロンバルディア大陸の大部分を支配しているのが〈ルテティア王国〉。現在はたしか…33代ルーファス8世国王だったかな」
ルテティア王国か…。中世ヨーロッパみたいな感じだな。
「ルテティアの東南部には〈イデア王国〉ってのがあって、国土のほとんどが砂漠なんだ」
「…暑そうだな」
「何度か行ったことがあるが、ありゃあ死ぬな。気がふれちまいそうなくらい暑いもんよ」
ヴァルバはべろを出しながら言った。よっぽど嫌だったんだろう。
「西のアルカディア大陸には、ルテティアのように大陸の大部分を支配する〈神聖ゼテギネア帝国〉がある。この国の南には教皇が治める〈ソフィア教国〉があるんだ」
「へぇ……ソフィア教国ってことは、何かの宗教?」
「ソフィア教さ。イデア王国を除く、2大陸の国全てがこの宗教を信仰してる。一応、俺もソフィア教徒だからな」
「…そうは見えないけど」
信者っぽくねぇもんな、見た目的に。
「ハハ、そりゃそうだ。聖書だって持っていないしな」
聖書…ねぇ。ガイアにあるキリスト教の位置なのかも。
「あと、シュレジエン諸島を領土とする〈シャロン=シュレジエン王国〉があるんだが、ここは永世中立国って呼ばれてて、自国自ら戦争を行うようなことはしないんだ。攻められたとしても、戦争を仕掛けた国はソフィア教国より破門にされかねないんだよ。ソフィア教国は絶対的影響力を持っているからな」
「ふーん………。つーことは、言い換えればソフィア教皇から許されれば、戦争をしてもいいってことだよな?」
そう言うと、ヴァルバは一瞬キョトンとした。
「……そうだな。考えてみればそうだな。よくよく考えれば、先の戦争もそうだったな」
「先の戦争?」
ヴァルバはうなずいた。
「この2大陸では、ルテティア王国と神聖ゼテギネア帝国が絶えず戦争を行ってきてるんだよ。つい20年前にも、ルテティアはソフィアより大義名分を得て、ゼテギネアに宣戦布告をして戦争をおっぱじめたんだよ」
どこの世界にも、戦争ってのはあるもんだな。自分の母国がどれほど幸福な国かわかるもんだ。
「戦争は17年前、ゼテギネア有利だったのにも拘らず、そのゼテギネアによって休戦条約が締結された」
「? なんで?」
「ゼテギネアの皇帝が急死したのさ」
「…じゃあ、ルテティアは攻めなかったわけ?」
いくら不利だったとはいえ、相手の指導者がいなくなったんだから攻め時でしょうに。
「あの時はなんと言っても、ゼテギネアの快進撃だったからなぁ。ルテティアは貿易都市群ミレトスから王都近くまで攻め取られてね。ルテティアは虫の息だったんだよ。王都に迫っている中で、有利国から休戦条約締結の提案。しかも、領土は戦争前に戻すというもの。乗らない手はないでしょーよ」
「…まっ、なんにしても苦労するのは平民だしね。戦争は終わった方がいいに決まってるか」
「そうだな。…戦争なんてのは無いのが一番いいんだが、どうにもこうにも、人間ってのは相容れないもの同士だからな」
相容れない、か…。そう考えると、戦争を止めようとしていくことが無駄に感じてきてならない。そう考えない方がいいんだろうけど、あの大戦が終結しても尚、世界各地で戦乱は起きてる。空しい……というか、儚いというか…。
「まぁつまり、ソフィア教皇に認められれば、戦争は正しいものになってしまうのさ。困ったもんだよ。神だか何だか知らないがね」
神、か。神様なんて信じちゃいない僕にとって、神様を崇拝する集団に対して偏見の目をしてしまう。
「…どういう宗教なの?」
「どういう? うーん……」
どうやら、ヴァルバは考えるときあごひげを触ってしまうのが癖のようだ。
「あんまり知らないんだよな」
「……ダメじゃん」
「実際、そういうもんだよ。ソフィア教徒とは言っても、その教えを理解しているのはソフィア教の司祭や各国の王侯貴族くらいなもんさ。俺みたいな平民たちは、洗礼は受けても教授されないのが現状なんだよ」
そういうもんかね。平民も熱心なキリスト教…っていうのが、中世ヨーロッパでは当たり前のような気がしたけど。もしかしたら、周りがそう言っているからそうしようとしているに過ぎないだけなのかもしれない。「キリスト教徒」、「ソフィア教徒」でなければ、普通に暮らせないのかもな…。
「そもそも、なんでルテティアとゼテギネアは戦争をすんの? 昔から仲悪いわけ?」
素朴な疑問だった。さっきから、質問ばかりしてる。なんて言ったって、知らない世界の歴史だ。聞いていて楽しい。
「昔から仲が悪いと言えば、仲が悪いのはたしかなんだよ。ルテティアが建国された当初、アルカディア大陸はソフィア教国を除いた地域において、群雄割拠の時代だったんだ。それから数百年後、最東端にあった〈アルバニスタ〉という小国がルテティア傘下の公国だったんだが、それをゼテギネアが占領してしまった。しかも、他国のように当主は生かさず、一族郎党皆殺しだったそうだ」
「…うえ……ひどいな」
「戦争なんてそんなもんさ。それでルテティアが怒ってね。ゼテギネアは他の諸国を同君連合として併合したのに、ルテティア王家の流れをくむからといってアルバニスタを滅ぼしたんだ。ある意味、宣戦布告だからな」
「それから、ずっと戦争してるわけ?」
そう言うとヴァルバはうなずいた。
「何度も休戦しては戦を繰り返したんだよ。先の戦争で18回目だったかな。両者譲らず、領土も変わらず、未だに均衡状態が続いてるんだ」
「なるほど。んじゃ、今はどうなの?」
「両国は海を隔てて分かれてるからな。国境の緊張状態というのがわかりにくいんだが、今は先の戦争前に比べて大丈夫なんだそうだ。大きなことでも起きなければ、10年は戦争が起こらないと言われてるらしい」
10年単位で戦争をやられても、困るもんだよ…。
「願わくば、平和条約でも締結してくれたらいいんだけど…」
「そうはいかないだろうよ。両国とも古くからの野望があるからね」
「野望?」
「そりゃ勿論、統一だよ」
2大陸の統一。ヴァルバが言うには、かつて2大陸を統一できたのは歴史上一国だけだという。
「それを〈アヴァロン帝国〉と言うんだが、今から約2000年前に建国され、初代皇帝レグルスがその偉業を成し遂げたという。アヴァロン帝国は数十年後に滅び、それ以来、多くの国々が建国と滅亡を繰り返したが、統一を成し遂げた国はなかった。だから、伝説になりつつあるアヴァロンに並ぼうとしてるわけだよ、ルテティアとゼテギネアはね」
「……そんなくだらないことに民衆が犠牲にされるなんて、馬鹿馬鹿しいとは思わないのか?」
「ん?」
「そこらで農作業を営む人にとって、統一なんてのはどうでもいいんだよ。というより、多くの民族がいるように、多種多様の国々が勃興するのは自然の摂理なんだと思う。それを無理に統一しようとするなんて、どこかで亀裂が生じてしまうものなんじゃないの? だから、統一を果たした国なんてのはいずれ滅びてしまうんだよ、きっと」
「…………」
また、ヴァルバはさっきみたいに目をパチクリさせていた。
「…な、なんだよ?」
「…ソラって、若いくせによく考えてんだな」
「そ、そう?」
「ああ…驚いたよ。お前みたいに自分の考えを持っている若者なんて、そうそういないと思うからさ」
なんだか、そう言われると照れてしまうな。
「そうだよな…。統一の夢…というのは、権力者の欲望でしかないもんな」
「平民で気づくことなのに、なんで王侯貴族は気付かないんだろうな。あほらし」
「……わからないから、未だに争い続けるんだろうよ……人間ってのは。それに、わかっていても譲れないものがあるもんさ」
「…………」
どこか遠くを見つめる彼の目は、哀愁を漂わせていた気がした。
「あっ、村だ」
日が暮れ始めたころ、丘を登りきったところでようやく村を見つけた。小さな村落のようだ。すでに灯りが灯り始めていた。
「あそこはたしか……〈フィアナ村〉だな。なんとか今日中に辿り着けたか……よかった」
気の塀に囲まれた村。家屋はだいたい…20あるかないかくらいだろうか。100人にも満たない、小さな村のようだ。ゲームの初期に出てくる田舎の村のみたいで、ほとんどの家が木造建築だ。レンガを使用している家屋もあるが、そのほとんどが煙突に使用しているだけだった。いくつかの家屋では、すでに煙が出ているものもあった。
「こんばんは。どちら様ですか?」
村の出入り口付近に、槍を持った農民の男性が話しかけてきた。門番みたいな人かな。
「俺たちは旅人です。この村に宿屋はありますか?」
ヴァルバはいつになく丁寧な言葉で言った。
「旅のお方でしたか。真っ直ぐに行って、あそこの煙が出ている大きな家です」
門番の人は村の方に向き、一つの家屋を指差した。
「わかりました。ご苦労様です」
彼がそう言うと、門番の人と同時に会釈のように頭を下げた。そして、馬車は再び進み始めた。
「ようやく今日はゆっくりできるな…」
すると、ヴァルバは大あくびをした。
「眠そうだな」
「まぁな。昨日、ちょっとイノシシに襲われそうになって、あんまり寝てなかったんだよ」
「…なんだよそれ…」
「ハハハ、旅に危険は付き物ってね」
僕たちは馬を止め、宿屋に入った。宿は思ったよりも広い。古臭い作りではあるが、どこか懐かしさを感じさせる。と言うのも、木造建築であるための木の香りというのが、それを引き出させているのかもしれない。もしくは、このちょっと土臭いのもそうなのかも。自然の香りというのは、人間を昔に回帰させる気がする。
「すみません。旅の者なんですけど、今晩泊めてもらえませんか?」
ヴァルバは皿を運んでいた少女に話しかけた。
「あ……。い、いらっしゃいませ」
少女はぎこちなくお辞儀をして、少し戸惑った様子でこちらに顔を向けた。
金髪――というより、レモンのような爽やかな髪の色。リサと同じで、腰ほどまでの長さだ。
「え、えっと……お泊りでしたら、こちらの……」
と、少女は皿を近くの棚に置き、カウンターみたいなところから紙を取り出した。
「…………?」
少女は何かに気が付き、僕たちの方に向きなおった。
――ヴァルバを見ているのか?
「あの……何か?」
少女は訝しげに問いかけた。その言葉にハッとしたのか、ヴァルバは目を見開いたままになっていた。
「あ~……いや、ちょっと考え事を、ね。申し訳ない」
ヴァルバはその場しのぎのように言った。
……彼女を見つめていたのか?
「い、いえ、別に大丈夫です。えっと、それではこれに、お名前を記入してもらっていいですか?」
「あ、あいよ」
ヴァルバはそれを受け取り、カウンターでサラッと名前を書いた。
「ほら」
彼は書き終わると、僕に渡した。
「……えーと?」
「なーにわかんない顔をしてるんだよ。自分の名前くらい書かないと」
「…………」
まぁたしかに。御尤もだ。
うーん、まずいな。この世界の文字なんて知らないし、どう書けばいいんだろう。実際、ヴァルバの名前のところ、何が書いてあんのかさっぱりわからない。こんな文字、世界史の授業でも見たことないっての。目を凝らしてよく見てみると、どことなくアルファベットに似ているような似ていないような…。
名前が書けないと、ちょっとな…。記憶喪失とは言え、自分の名前を覚えているのに文字が書けないってのはおかしな話だし、それだと言葉も話せないんじゃねぇのってことになりかねないし…。
…まったく…
(……ん?)
一瞬、ピリッとした電流が走ったような感覚に襲われた。すると、いつの間にか僕は名前を記入していた。見慣れない文字で。しかも、なぜかそれが読める。
…ソラ=ヴェルエス……?
それが、僕の名前? この世界での?
誰かが、僕の体を借りて書いたような気分でもあった。
「ふーん、ヴェルエスっていう苗字なんだ」
ハッとしたら、ヴァルバがいつの間にか記入欄がある紙を取り上げて見ていた。
「はい。料金は?」
そして、少女に渡した。
「えっと…お一人様150セルトなので、300セルトです」
「やっす! いいの? そんな安さで」
「滅多にお泊りのお客様はお越しになりませんので……」
少女は苦笑していた。どうやら、この国…ルテティアは「セルト」というのが共通貨幣なようだ。そういうところでも、やっぱり別世界に来たんだなと実感させる。
「2階の一番の奥の部屋になります。すぐ食事になさいますか?」
「そうだな…どうする?」
「とりあえず食べようよ」
即答。僕はあまり顔に出さなかったが、結構腹が減っていた。それに、この世界の食事というのを見てみたいし。
「じゃあ、下で食べますか? それとも、お部屋までお持ち致しましょうか?」
「僕はどっちでもいいや」
「…曖昧な意見はお引き取り願いたいがね…。今回は下で食べますわ」
「わかりました。それでは、お部屋で少々お待ちくださいね」
少女は少し微笑んで、パタパタと小走りで奥の部屋に行った。たぶん、リビングと同様の部屋があるんだろう。
食事の準備ができるまでの間、僕たちは部屋で待つことに。
「ルテティアは約600年前に建国されたんだ」
「結構、長い王朝なんだ」
僕はルテティアのことについて話を聞いていた。
「ああ。王家であるルシタニア家は、神より啓示を受けた一族とか云われててね。当然、人民を精神的に支配するための作り話だがな」
「どこもそうじゃないの? 神の名を使えば、人ってのは簡単に信用してしまうもんだし」
「そりゃ御尤もだな。よく考えれば、シュレジエンもイデアも、ゼテギネアもそうだからな」
ヴァルバは苦笑した。
「ところで、ルテティアはどういう政治体制なの?」
「…そんなところに食いつくなんて、ホント珍しい若者だね」
「…そうか?」
すると、ヴァルバは小さく笑った。「まぁいいや」と言って、彼は続けた。
「えっとな……ルテティアは国王を頂点に、貴族、国民の3階級で構成されてる。まぁ、他国もここは同じだがな。政治を行っているのは〈議会〉で、これは貴族だけで構成されている〈貴族院〉と、平民から選ばれた人望ある平民の〈民政院〉の二つに分けられるんだが、議決されたものは全て侯爵以上の貴族であり、有力貴族のみで構成された〈元老院〉、ここを通して国王に裁断されるため、議会はほとんど意味を成さないのが現状だ」
「んだよ…結局国王に決定権があるなら、議会やらなんやらがある意味なんてないじゃん」
「…表面上、民のための機関というものがないと、余計な反発が生まれかねない。そもそも、議会ってのは100年くらい前に起きた平民の反乱を落ち着かせるために造られたものなんだよ」
「民の要望を聴いたように見せかけて、その実、政治体制は古来と変わらないってことか」
「太古の昔から、国を統率させた者は指導者として君臨する。それがあるべき姿であり、理想像なのが現実だよ。実際問題、ソフィアやイデア、特にシュレジエンの3国は中央集権国家であるのにも拘らず、国は豊かで平和だと言われているしな」
王侯貴族が治める国でも、結局はトップの力量ってことか。
「ゼテギネアも同じようなもんなの?」
「そうだな…あそこは16ヶ国で構成された連合国家なんだが、やっぱり皇帝や宰相、盟主の国の王侯貴族に権力が集中している。ルテティアよりも中央集権に拍車がかかっているかもな。とは言え、ここ数年、ゼテギネアの財政は安定していると聞くがな。逆にルテティアの財政は滞っているとか」
「財政が安定しているって言っても、必ずしも国民の生活が豊かになるとは言えないだろ? 僕はどうしても、お偉いさん方しか豊かでない気がするけどね」
「……まぁ、な」
そんなことを話していると、あっという間に時間が過ぎ、食事の準備ができた。
「…………」
「…? どうした? 食べないのか?」
クリームシチューを頬張りながら、ヴァルバは言った。
「あ、いや…」
「もしかして、苦手なものでもあるのかい?」
この宿屋の女将さんであろうおばさんが言った。
「い、いえ、そういうわけじゃないんです。い、いただきます」
「……『いただきます』…って何ですか?」
案内してくれた金髪の少女が頭をかしげていた。そっか。世界が違うんだ。僕の常識は、こちらの常識ではない可能性大なのだ。
「え? ああ、食事の前の…儀式っていうか……」
…? 何なんだろう? 料理を作ってくれた人への感謝かな? 当たり前のことなのに、それが当り前である理由が分からないってことはよくあること。なぜ、「握手」するのかっていうことも。
「あれみたいだね、ソフィア教の食前の儀式。そう言えば、ヴァルバさんはソフィア教徒じゃないんですかい?」
「俺は…まぁ一応ソフィア教徒ですね。洗礼も受けたし。…けど、いもしない神様を拝むってのは、俺の性にあわなくて」
苦笑いしながら、ヴァルバは水を少し飲んだ。
僕がさっき驚いていたのは、初めて目にしたこの世界の料理があまりにも普通だったからだ。世界が違うのなら料理も違うはずだし、材料も違うはずだと思っていた。だが、このクリームシチュー……ジャガイモも人参も玉ねぎもある。…肉は無いけど。他の料理もそうだ。よくある外国の田舎の料理っぽい気がする。
何でだ? 別世界なのに料理や素材まで同じなんて…。よくよく考えたら、人間もいる。馬などの動物もいる。…別次元の世界…?? よくわからなくなってしまった。
そんなこんなで談笑しながら食事をした。
日は完全に沈み、部屋の窓から見える他の家の明かりは消えていた。
「……今、何時だろ……」
僕とヴァルバはベッドに入り、寝ようとしていた。
「…何時? それはわかんねぇよ」
「? 時計はないのか?」
「時計ってのは、王侯貴族や豪族くらいしか持っていないたいそう豪華なもんなんだよ。俺や、ここみたいな村の人々では到底手に入れることができない代物さ」
「……ふーん……」
時計は高価なものか…。僕の世界での当たり前と、この世界の当たり前は全く違うもの。ちょっとしたことで気づく。でも、中世的な文明レベルに見える世界に、時計なんてもんが発明されてんのか…。少し驚いた。
「もう寝な。明日も早いから」
「…ああ」
僕は一度目を瞑った。
僕は今、知らない土地にいる。それも、別世界。
今頃、みんなどうしているだろう。父さんと母さんは元気だろうか。風とか引いていないかな。
修哉は何してるだろう。最後に会ったのはあいつだし、こちらの世界のことについて何か勘付いているのかもな。
和樹と啓太郎は、当り前のような日々を送ってるのかな。美香も、部活とか頑張っているだろうか。
海は……泣いていないだろうか。独りぼっちだとか思っていないだろうか。…遠くを離れても、僕の心はそこにある。それをわかっていてほしいけれど…。
夜になると、どうしても人っていうのは想い出を振り返ってしまう気がする。つい昨日までのことや、当り前のことを懐かしんで…。
こういうのを「寂しい」ということなのだろう。夜、人は独りになる。それに必然として、巡り合ってしまう。僕たちはその中で、多くのことで悩み、考え、心の中で涙を流すのだろう。
ここは違う世界。
僕は、この世界で初めて眠りに就いた。