外伝:Anliegen
「ねぇ、ベオ」
その言葉を放ち、母は微笑んだ。いつもいつも、俺の名前を呼んで微笑んでいた。食欲がなくとも、寝ることができなくとも、母は俺の名前をいつも呼んでいた。
10歳になる、その時まで。
外には、雪景色。
帝都アヴァロンは、久しぶりの大雪に見舞われていた。窓の外では白い粒子が雨のように降りしきり、世界を埋め尽くすかのようだった。
「ベオ」
優しい声が、俺を呼ぶ。外の猛吹雪に意識を奪われていた俺は、後ろへ振り向いた。そこには、ベッドに座って微笑んでいる母がいた。
「こっちへいらっしゃい」
母は俺を手招きし、自分もそれに従って母の隣へ座った。その瞬間、一人用としてかなりの大きさであるこのベッドが、少しだけ揺れた。
「なんですか? 母上」
ずっと微笑んでいる母上は、幼い俺の頭をゆっくりとなで始めた。
「ベオ、もう少しで10歳の誕生日ですよ?」
「ああ……そう言えば、そうでした」
まるで知らなかったかのように、俺はうなずいた。この頃から、「誕生日」というものについて特に意識しなかったからであろう。というよりも、毎年その日に出会う父が嫌だったからだろうか。幼い俺の脳みそでは、その理由をうまく理解できていなかった。
「その日は、きちんと正装するんですよ」
「なぜですか?」
今まで、自分の誕生日では正装などしなかった。本来ならば、皇子である俺は盛大な誕生日会を開くものなのだが、俺自身が父に忌み嫌われていたため、そういったものが開かれなかったのだ。
「この度は、陛下が開いてくださるのよ」
「……父上が?」
意外だった。10歳にして父に嫌われているのだと悟っていた当時の俺は、驚きを隠せなかった。
いつも自分を見ては厳しい顔をして、「下がれ」と言っていた父。
髪の色が違う俺を見ては、「愚かな息子よ」と言っていた父。
イデアの民でありながら、白い肌を持っていた母とは違い、生粋のイデア人のような肌を持つ俺を、ある意味で憐れんでいた父。
「ええ。陛下は、あなたの10歳のお誕生日を祝って、盛大なものにしてくださるそうよ」
ニコニコしながらそれを話す母は、傍から見れば幸せな奥さん――なのだと思われるのだろう。実際は、全く違うのに。
俺の父は、アルカディア大陸の大部分を統べる神聖ゼテギネア帝国の皇帝であり、「大帝」と謳われる人だ。帝国を築き上げた初代皇帝に勝るとも劣らないと言われており、国民の人望も想像を絶するほど大きい。しかし、問題なのはその歓声に、父が酔いしれてしまっているということなのだが。
俺の母は、父の正式な妻ではない。……そう、「妾」というやつだ。さらに本当のことを言えば、第3夫人だ。
イデアのとある部族長の一人娘であり、前述したようにイデア人が持つ漆黒の髪を持ちながら、その肌は白い。まるで、シュレジエンの人を思い浮かばせるほどであった。だからこそ、父は母に求愛したのだ。裏を返せば、珍しいイデア人であったから、手を出したとも言えるのだが。
生まれつき病弱な母は、俺を産んでからというものの体調が優れない。父の妾となってから、そのほとんどをこの後宮の一部である東の離宮で過ごしている。外へ出ることも、父がいる宮殿へ行くこともなく。
この離宮に来るのは、専らメイドたちだけであろうか。同じような格好をした人たちが、母のための食事などを持ち運ぶだけ。それ以外と言えば、せいぜい離宮内の掃除くらいだろうか。俺でさえ、近頃はやれ勉強だの魔法だのと、ここへ来ることは激減していた。
今日は外で乗馬の練習だったのだが、天候が雪の嵐のため中止になった。久しぶりに、俺は母と一緒の空間にいた。それが嬉しいのか、今日の母はいつも微笑んでいる。
「それに、ゼナン殿下も出席されるのですよ」
ふと視線を母に戻し、俺は首をかしげた。
「ゼナン……?」
「そうですよ。あなたのお兄様、ゼナン殿下です」
嬉しそうにその人の名を呼ぶ母。その理由を知るのは、もう少し後のこと。
聞いたことはある。ゼナン――父の第2子で、長男。近い将来、皇太子になると言われている。自分より、7つほど年上だっただろうか。
俺には兄弟が多くいるが、そのうち生きているのは20歳になる姉とゼナン皇子のみ。皇帝である父は多くの子を作ったが、そのほとんどが早世してしまった。それも遠因して、健康な俺を嫌うのかもしれない。
20歳になる姉はすでに結婚しており、帝都にはいない。数えるほどしか見ることは無かったが、長い藍色の髪を持つ、美しい女性だったのを覚えている。
兄であるゼナンとは、未だに会ったこともないし見たこともない。すでに17歳の彼は、朝廷や帝国議会にも参加しており、地方への視察なども行っているため、皇居を留守にすることが多いからだ。
だからこそ興味が湧いたのだが、それをすぐに払拭させる感情が現れた。
――会いたくない。それだけだった。
理由は簡単だ。父に愛されている、優れた兄だからだ。自分とは違い、皇室の証である藍色の髪と白い肌、そして碧い瞳。将来を嘱望され、父に愛されていると聞く。
自分が父から受け継いだのは、碧い瞳だけ。それ以外は、東方民族であるイデア人と同じだった。
褐色の肌に、漆黒の髪。俺は、ペンドラゴン家に相応しくない皇子だった。
「ベオ?」
母の声に、俺は我に帰った。
「どうかしましたか?」
心配そうに見つめる、母の黒い瞳。父は、この美しい宝石に一瞬だけでも心を奪われてしまったのだろうか。
「何でもありません、母上」
作り笑顔でそう返すと、母はさっきまでの微笑を取り戻したかのように、小さく笑った。
白い雪はここ数日降り続き、帝都の雪は自分の背丈に迫るほどだった。
その雪が溶け、すでに雪というより氷になってきた頃、俺の10度目の誕生日会が開かれた。
皇居にある、舞踏会場。ここには、千人近く入ることができるほどの大きさで、貴族服を着た人ばかりが集まっていた。
主役である俺は、着たことの無い豪華な服を着せられ、段上にあるいくつもの玉座の一つに、座らせられていた。その隣には、母。母上は俺を産んでから、ほとんど人前に現れたことが無い。今日は朝から体調が良く、珍しく出席することができたのだが、帝都内だけでなく、国内では母は有名だった。というのも、母は妾――側室でありながら、非常に美人だったからだ。
もともと、イデアの辺境部族の民であるのに、艶やかな漆黒の長髪に、アルカディア系の人間にはない、丸みを帯びた輪郭。どこか包み込むような、黒い瞳。イデア人でありながら、雪の肌を持つ珍しい女性。他国の「美人」をほとんど知らないゼテギネアの人々にとって、母は別次元の美しさを持つ女性だと認識していた。
「クラン様、この度はおめでとうございます」
その時、母に声をかける男性がいた。俺はあまりの人の多さに気を取られ、それに気が付かなかった。
――若い男性だ。まだ、10代だろうか。
「ああ、お久しぶりです」
母はニッコリ微笑み、頭を下げた。
「クラン様、なかなかお会いすることができず、申し訳ございません」
母のお辞儀に対し、彼は少し慌てながら言葉を発した。
「いえ、あなた様はお忙しい身……私のような側室の者に、お時間を割く必要性などありません」
母は顔を上げ、彼にいつもの優しい笑顔を向けていた。
「そんな……。それより、クラン様。私のことを『様』としなくても結構ですよ。私は、あなたの息子なのですから」
その言葉に、俺は驚愕した。息子だと、彼は言った。そんなはずが無い。母の子供は、俺一人なのだから。
すると、母は小さく顔を振った。
「いえ、私は側室の者……身分が違います」
「ですが、クラン様……」
そして、彼の言葉を遮るかのように、母は彼を見つめた。彼は少しため息を交えながら、苦笑した。
「クラン様……いえ、義母上。この子が?」
義母上。彼は母をそう呼び、俺を見据えた。
「ええ、そうです。その子が、ベオ……ベオウルフです」
「ベオウルフ……そうか、君が……」
二人は顔を合わせ、同時に微笑んでいた。そして、彼は再び俺に視線を向けた。
「ベオウルフ、初めまして。私はゼナン。そなたの兄……になるのかな?」
と、彼は頭をかきながら苦笑した。
ああ、なるほど。この人が、俺の兄……ゼナン第1皇子。皇室の証である藍色の髪に、碧い瞳。笑顔の似合う、爽やかな男性。
「…………」
「ん? 私の顔に、何か付いているか?」
「え? あっ、いや……」
初めて見る兄に対し、10歳になったばかりの俺は、瞬きするのを忘れて見つめていた。これが自分の兄だと思うと、どうも……実感が湧かなかったからかもしれない。
「ハハハ、無理もない。そなたの兄なのに、今日この日まで会うことができなかったからな」
もし、父が笑ったらこうなのだろうか。そんなことを思いながら、笑顔の兄を見ている俺がいた。
「えっと……兄上…………初めまして。ベオウルフです」
と、俺はお辞儀をした。これが噂の兄なのだと思うと、少しばかり緊張してきてしまった。
「そんな固くならなくてもいいよ、ベオ」
俺は顔を上げて、兄を見つめた。彼は、俺のことを「ベオ」と呼んだからだ。母上と同じように。
「今日からは皇居にいることが多いから、一緒に遊ぼうな」
そう言って、兄上は微笑んでいた。
親以外の親族との、初めての会話。
それは、周りから見れば大したことじゃないのかもしれない。
だが、俺にとってこの出逢いは、俺の全てを変えるに等しいものだった。
なぜなら、俺は皇室――ペンドラゴン家そのものを憎んでいたから。
どうして、そういう想いが湧いたのかなんて理由などわからないが、それを考える度に浮かんでくるのは父だった。
結局、父はこの誕生日の席は地方で起きた反乱に対する軍会議ということで、欠席した。嬉しいとか、悲しいとかいう気持ちはないが、わけのわからぬ憤りがどこからともなく湧いていて、いつしかそれは皇室そのものに対する感情へと変貌していった。
あれから、兄――ゼナン皇子は俺に長く接するようになった。それまで皇子として各地を奔走する父に従いつつ、帝都に戻っても公務などで暇を作る時間がなかった。しかし、先日に終結した北方民族との戦争から帰ってくると、ゼナン皇子は父に申し出て、宮廷で父の代わりに政務を行うことにしたそうだ。幼い俺は、兄がなぜそうしたのか……いまいちわからなかった。
ただ、幼い俺にとって「兄」がいてくれることは嬉しかった。それは今まで抱いたことのない感情に近いもので、自分でさえ戸惑ってしまうほどだった。
俺を忌み嫌う父と、病弱な母。冷たい大理石の宮殿と寝室。感情の欠片もない、人形のようなメイドたち。俺を取り囲む全てのものが、どこか色あせた玩具のようで、幼い俺をより一層冷たいものにしていた。
そう考えると、兄はそんな俺の世界をぶち壊す存在だったのかもしれない。教師ではなく家族として、兄は俺に生活する術や馬術・剣術・槍術を教えてくれた。失敗したら怒りはしたが、それでも最後には笑顔を向けてくれる。その笑顔は、母の笑顔しか見たことのない俺にとって、どれほど大きなものだったか……。
それをさらに実感したのが、母が亡くなった時だった。それは急に訪れたもので、俺はすぐに涙すら流さなかった。
ベッドの上で、白い衣を羽織ったままの母。いつにも増して白い肌と、それと対照的なほど美しい黒髪。その姿は、ただ寝ているかのように見える。
父は、来なかった。そして、母はとうとう父に会うこともできずに、死んでしまったのだ。その場に来ていたのは、皇室では兄だけ。俺の傍で、俺と同じように涙を流さず、母を見つめていた。
「ベオ、クラン様……義母上は、幸せだったのかな」
「どうしたんですか? 急に」
そう問い返すと、兄は小さく顔を振った。
「父がどんな想いだったのか、とうの昔に悟っていたはずなのに……わざわざ、こんな地に来ることなどしなくてもよかったのだ」
「……?」
「結局、今も昔も変わらない。これでは、義母上も……かわいそうだ」
兄の言っている言葉の意味が理解できなかった。ただ頭をかしげるだけだったけれど、俺はその時見てしまったのだ。
兄が涙を流す姿を。
その時から、俺は兄に付いて行こう――と思ったのかもしれない。漠然と、そう思っていた気がする。
そして、俺は泣いた。いつも俺の名を呼んでくれていた母がいなくなったことは、俺にとってかけがえのない心の拠り所が消え去ってしまったことなのだと、ようやく悟ったのだ。
けど、すぐにわかった。その時、涙を流す俺を抱きしめてくれた兄こそが、もう一つの心の拠り所になっていたのだと。
「陛下、ミレトス貿易都市群マリーを制圧したとのことです」
一人の年老いた貴族が、その白い髪をなびかせながら言った。俺の父にひざまずき、視線を合わせないまま。その視線は、床の大理石へと向けられている。
「ふむ……開戦25日目にして、マリーを制圧したか」
玉座に座るのは父――いや、神聖ゼテギネア帝国4代皇帝ベルセリオス6世。頬杖をつき、戦況を聞いて喜んでいるはずなのに、どこか貴族を睨んでいるようにも感じる鋭い眼光。それを否応なく受ける配下の貴族……心の中では、その臆病な心が震えているに違いない。
父は、恐れられていた。帝国最大の皇帝として。
「愚かなマリーの民たちだ。早々に屈しておれば、無駄な血を流さずに済んだものを……」
不気味に笑い、マリーに住む人々を憐れむ父。憐れむなどと、この人にはないか……そう思った時、父の笑いなどすでに治まっていた。
「レイドリックの部隊はどうなっている?」
齢50を超える父は、冷酷な目で貴族を捉える。
「それが……未だ、陥落できていないとのことです」
その言葉が放たれた瞬間、朝廷内に沈黙が走った。俺は「朝廷の間」にある一つの扉から、その姿を見ることが出来ていた。まだ13歳だった俺は、朝廷の間に入ることは許されていなかった。
「10万の兵を与え、さらにはガルガンチュアやブリカンディアまでも与えたというのに、レイドリックはまだランディアナを制圧できないのか?」
ため息を交え、父は顔を振った。
「も、申し上げます」
その時、貴族の後ろにいた兵士が震えながら、顔を上げていた。父は、ゆっくりと彼へ視線を向けた。
「ランディアナは千年以上もの間、難攻不落の大都市です。半永久的に自然の防壁を作り出すランディアナに対し、海上戦では我が軍は不利でございます」
兵士は父へ目を向けることができないまま、言葉を繋げていた。
「このままでは、無為に兵を損ねるだけではないでしょうか? ここは、北のアルフィナを落とすべきかと……」
ふと視線を上にした兵士は、一瞬目を見開いた。
――父の凍てついた碧い瞳に気付いてしまったが故に。
小さく震え、言葉を失った兵士に対し、父は言った。
「余は貴様に対し、言を発するのを許可したか?」
この後起きたことから、俺は目を背けた。その場に舞い散った血の光景は、父への哀れみと共に恐怖が増していくものだった。
「やはり、アヴァロンの軍勢を使わざるを得んようだな……」
そう呟き、父は微笑んだ。
新暦1981年、ルテティア王国との18度目の戦争が起きた。この戦争で、父は2000年前の統一王朝アヴァロン以来成し遂げられていない、二大陸統一を目論んでいた。朝廷内でも今の戦力ならば勝てる――という意見が大多数で、蓋を開けてみれば全くその通りだった。
開戦一カ月で貿易都市群を制圧し、その半年後にはルナ平原からイデア王国との国境沿いまでを制圧し、大陸の半分を掌握した。この様子なら、来年には王都を落とすのではないかと思われていた。だが……
「陛下が御倒れに?」
執事からそう聞いた俺は、兄の執務室へ向かった。
「兄上、陛下が病床にあるとは本当ですか?」
山積みにされた資料に囲まれた兄は、一つの文書に目を通しながらこくりとうなずいた。
2年前に大陸の半分を制圧した頃から、父の体調はおかしくなっていった。それまで朝廷や帝国議会を欠席することなどなく、前線で指示を送ることもあった。だが、父の病は帝国軍の勢いそのものを弱めることになり、未だにルテティアを滅ぼすことができていない。
それから2年――いよいよ、父が危篤状態になった。ということは、次期国王――次期皇帝の話が出てくるのは必至。
この時、正統後継者である兄を推す派閥と、分家でありながら巨大な権力を持つアヴァロン王家当主オルドヴァス王を推す派閥が反発し合っていたのは、国民でもわかるほどのものになっていた。
普通に考えれば、次期皇帝は兄であるゼナン皇子なのだが、兄は今回の戦争に反対した「穏健派」に属しており、開戦以来、父との溝が深まっていた。
そんな中、父に接近したのがアヴァロン王オルドヴァスの嫡男である、ヴェリガン王太子だった。彼は皇帝独裁と連邦制廃止などを掲げる、いわば「過激派」と呼ばれる者たちの筆頭であり、類稀な才知とカリスマ性を持っていたため、国民からも、群臣からも人望のある人だった。
「あちら側も、何かしてくるでしょうか」
「いずれ事を起こすかもしれない。ベオ、用心しておけ」
「……はい」
兄は、ヴェリガン王太子に関連する話が出る度に、俺に「気をつけろ」といった風な言葉を送る。シンプルな言葉ではあったが、それはいかに彼が恐ろしい人物なのかを物語るに相応しいものだった。
考古学と次元学の権威にして帝国海軍総督であり、名君と誉れ高い現ソフィア教皇と縁戚関係にあるヴェリガン。ある意味で、「大帝」と称賛される父だけでなく、初代皇帝やあのアヴァロン皇帝バハムート1世をも超える存在なのかもしれない。そう思わさせるほど、彼は全てに優れた人物だった。
今でも覚えている。彼を見た日のことを。
あれはたしか、12歳の誕生日のパーティだった。例の如く父は欠席していたが、代わりに来ていたのがアヴァロン王家の人たちだったのだ。オルドヴァス王と共に、ヴェリガン王太子は来ていた。
「ゼナン、久しぶりだな」
俺の隣にいる兄に声をかけてきたのは、オルドヴァス王。長く黒いあごひげと、どこか優しげな顔は父に似ていない――と思った。たしか、オルドヴァス王は父の叔父に当たるのだが、あまり年齢に差はないと聞いた。父と対称的なその顔は、幼い俺の脳裏に深く刻むものではあった。
「これは……オルドヴァス様、お久しぶりでございます」
兄は丁寧に頭を下げる。
「見ない間に、陛下に似てきたな」
「そうですか。父からは、母に似ているといわれるのですが」
そんな会話をしながら、両者は笑顔を浮かべている。それがどこか作り物に見えるのは、気のせいではなかったと思う。
ふと、オルドヴァス王の傍に立っている若い男性に目が行った。20代前半の男――父と同じ髪の色と瞳の色をしていて、グラスを片手に微笑を浮かべていた。
「ヴェリガン殿下も、お久しぶりです」
兄は、その人に声をかけた。すると、その人の鋭い視線がゆっくりと、兄へと向かって行く。
「……そうですね、何年ぶりですか。3年ぶりですかな?」
「北方民族の制圧以来ですから、そうなりますね」
「あれから、皇子は帝都にこもっているとお聞きになりましたが……」
彼は兄から俺の方に視線を向けた。その瞬間、まるで蛇に睨まれたカエルのように、俺は身動きができなくなってしまった。
――冷たい瞳。
「どうやら、そのようですな。ククク……」
小さく笑うその姿は、俺の中にある彼への恐怖を膨らまし続けた。
この人と接してはならない。この人と関わってはならない。子供心に、それがはっきりと刻印された。
後で、俺は兄から聞いた。彼がアヴァロンのヴェリガン王子……自分と対立している派閥の筆頭……だということを。
父が危篤状態に陥ると、兄とヴェリガン王太子の対立は表面化しだした。
兄を推す「穏健派」と、オルドヴァス王を推す「過激派」。それは、戦争を中断するか否か――という相反するもの同士の争いでもあった。
そんな中、父が崩御する。その情報を早くに知った兄たち穏健派は、これを過激派の仕業だと流言した。先に後宮を支配していた兄は、証拠などをでっち上げることに成功し、先手を打たれた過激派はたちまち崩れて行った。
そして、俺に優しい笑顔を向けてくれた一族の一人、オルドヴァス王は計画の首謀者として処刑された。だが、元々少数派だった過激派を巨大な派閥にさせ、議会の中枢を握った張本人のヴェリガン王太子は、妻と共に行方をくらました……。
俺は知っている。
少量の毒を毎日飲ませ続け、父の体調を少しずつ悪化させ、崩御の日、父を殺したのも兄であることを。
「このままでは、この国は迷走するだけだ」
幼い俺にそう言い続けていた兄は、平和主義者だった。だからこそ、無益な戦争に反対し続け、父を殺すことを決断した。そして、それは最大の敵・ヴェリガンを陥れるのに必要なことでもあったのだ。
兄は「ベルセリオス7世」として即位し、議会と海軍を掌握していたアヴァロン王家が滅亡した今、全権は兄にあった。
「ベオ、お前は私に付いて来てくれるな?」
帝城から歓喜する帝都民たちに手を振りながら、兄は言った。俺の意など、とうの昔に悟っていた。
「もちろんです、兄上」
この歓声の中、兄に聞こえるようにはっきりと、大きな声で。
俺の全てだった母上が死んで以来、母上の願いを叶えようと奔走する兄こそが、俺の国――「ゼテギネア」になっていた。だからこそ、俺は兄に全てを捧げよう……そう、決心した。
戦争は終わり、戦争に明け暮れていた国を立て直すために、俺と兄は休む暇もなく働き続けた。北方などの中央から離れている地域は気候が厳しく、作物が育ちにくいために貧しさから抜け出すことができない。そのために、税をできるだけ低くし、代わりに公共事業などに従事させたりなど、国民自身を豊かにさせるために、眠らない日々は続いた。
そんな生活が10年近く続き、国はようやく安定してきた頃、俺は兄に呼び出された。
「ベオ、これからお前にはルテティアへ潜入してほしい」
「ルテティア……?」
意図の見えない言葉に、俺は頭をかしげる。
「工作員から、ルテティアで『巫女』を発見したとの情報が入った」
「巫女……創世記に記されてある、あの巫女ですか?」
「ああ」
にわかに信じがたいことではあったが、それが確かならばルテティアに渡すわけにはいかない――と、兄は言った。それは、いずれ来るであろう「ルテティアからの戦争」を予期させるものでもあった。戦争を嫌う兄は、その可能性の芽を摘まんで来い、という命令を俺に下した。
巫女を見つけ次第、殺せ――と。
だから、彼女に出逢った時、俺はどうすればよかったのだろう。
ルテティアに渡り、俺はリノアンと出逢った。
王都にある「呪術研究院」に忍び込み、そこで研究員として働くことにした。情報を集めながら、俺は実験を受けている巫女を捜索した。
「こんなことしてて楽しい?」
彼女はそう言った。白い牢獄の中、首輪を付けられて拘束されている彼女は、俺を睨んでいた。
「楽しいと思うか?」
皮肉交じりに、俺はそう言ってやった。
「そうね、あなたは違うかもしれないわ」
なぜ、そう言ったのか……当時の俺にはわからなかったし、その時の彼女の強がりな笑みが印象的で、考える暇などなかった。
レモン色の奇麗な長髪。エメラルドグリーンの大きな双眸は、どんな宝石よりも美しかった。後にも先にも、俺にとっての「聖女」は彼女だけだった。
俺は彼女の世話係に任命され、専ら食事や体調管理の仕事だった。日に日にやせ衰えてはいないか――など。しかし、過激な人体実験は禁忌とされていたものまで含まれており、これでは否応なく彼女の体が壊れていくと思わせた。それを痛々しいものと思う反面、このまま死んでくれれば、俺は彼女を殺さなくて済む――と思っていた。
「私には妹がいるの」
やつれた顔でスープをすする彼女は、そう口を零した。
「まだ、小さくてさ。きっと、大きくなってるんだろうなぁ」
なぜか、彼女は俺にそういったことを言うようになっていた。他の研究員よりも親身に接していたからだろうか。それとも、彼女が見せた強がりな微笑が、俺の心を射抜いたからだろうか。
この感情を、どう呼ぶのかはまだ理解できていなかった。初めての感情は、少なからず俺の気持ちを昂らせつつ、味わったことのない安堵を与えてくれた。
それを恋だと知るのは、彼女の涙を見た時だった。
「もう、嫌……」
白い牢獄に戻って来た彼女は、涙を流していた。下っ端の研究員である俺は彼女が何をされて、何を受けているのか詳しくは知らない。だが、彼女がやつれていく様は実験がどんなものなのかを物語っていて、なんとなくではあるが把握できるものだった。それでも、彼女は一切弱音を吐かずに「いつか外に出て、妹と一緒に暮らす」と言って、前向きな姿勢を崩さなかった。
だから、彼女が涙を流している姿を見た時の衝撃は大きかった。まるで、今までの俺自身が壊されてしまうほどに。それは、兄が涙を流した姿を見た時のそれに似ていた。
「ダメ……あんなことされるくらいなら、死んだ方が……!」
何をされようとしたのか、何をされたのか、聞きたくはなかった。俺はただ、彼女を抱きしめただけだった。母が亡くなった時、兄がそうしてくれたように。
何かを……誰かを護りたいと、本気でそう思ったのはこの時が初めてだった。そのためならば、俺は俺の全てを賭けてもいい。全てを失ってもいい。……そう思った。
彼女は俺を好きだと言ってくれた。俺も、彼女を護ると誓った。今まで、俺を護ってきてくれていた母と兄のように。
俺は兄に報告するため、リノアンを脱出させて妹のいる辺境の村へと連れて行った。
「少し時間がかかるかもしれないが、きっと帰ってくる。絶対に」
「うん……待ってる。ずっと……」
いつものように、強気な顔を向ける彼女。泣いてしまうのを必死に堪えている様子が手に取るようにわかってしまい、俺は彼女を抱きしめた。そうやることが、この上ない幸福なのだとわかっていたから。
船の上で、俺は空を見つめながら思った。これほどまでに清々しい気持ちになったことはない――と。世界の果てまで見える青空が、いつもよりも鮮やかに見えてしまうのは、気のせいではない、とも。
それはある意味、これから起こることの前兆だったのかもしれない。
帰国した日、兄が倒れた。長年患っていた病が悪化し、休まずに働いてきたつけが回って来たのだ。
「ベオ……お前に、ゼナンを頼みたい」
病床の兄は、虚ろな顔で俺を見る。いつもの声はそこになく、すぐに死が訪れてしまうのを確信させた。
「クラン様との約束、守れそうにないから……お前に、託したいんだ……」
何度も声を詰まらせながら、兄は俺に言う。俺はそんな兄の手を、握り締めていた。いつかの母と同じように、冷たい手を。
「何もかもをお前に任してしまう兄を……許してくれ……」
家臣の前だけでなく、俺の前でさえ弱音を言ったことのない兄が、そう言った。それは俺の心を激しくざわめかせ、涙を呼び起こすものだった。それを止めることなど、俺にはできるはずもない。
「兄上、そんなことを言わないでください。ゼナンは……この国は、必ず守りとおしてみせますから……!」
その言葉が精いっぱいだった。リノアンのことなど、言う余裕などなかった。いや、言ってはならないと思ったのだ。
兄はそれを聞くと、微笑んだ。
「……ベオ……本当に、すまない……」
最後の言葉が、それだった。俺の傍で、泣き叫ぶ甥のゼナンの姿があり、それはいつかの自分を思い起こさせるものだった。母を失った時も、俺はこの子と同じだったのだろう、と。
だからこそ、誓った。俺は、ゼナンにとっての「兄上」になろうと。俺の全てとなってくれた、兄のように。
兄の寝室にあった文書には、自身の母に対する想いと、戦争に奔走する父に対する憤り、それを促進させる過激派を含むヴェリガンへの憎しみ……そして、俺の母上に対する感謝の想いなどが綴られていた。
その時、俺は知った。兄は早くに母を亡くし、その代わりを務めたのが俺の母上なのだということを。母上は乳母として後宮に入り、兄の世話をしていたのだそうだ。そして、兄の平和への想いは、母上が抱いていた願いそのものであったことも、この時に知った。
これを読んでいる中でも、俺は涙を流すしかなかった。様々な想いがその文書には映し出されており、兄上と母上を失ってしまった悲しみと喪失感だけが、俺の中に広がっていった。
俺はリノアンのもとへ行くこともできぬまま、甥のゼナンをゼナン5世として即位させ、7歳の彼に代わって宰相として政務を執り仕切った。平和主義者であった兄が亡くなると、それまで鳴りを潜めていた反対派の者たちが台頭せんと動き出したからだ。俺は兄の想いを絶やさないために、ゼナンを護りながら日々を忙しく生きていた。
「叔父上、こういった時はどうするのですか?」
幼いゼナンはそう言って、教科書の文字を指さす。
「これはだな、まず軍隊をまとめて……」
兄のような立派な皇帝にするために、既に両親を失ってしまっていた甥のために、俺は彼にとっての全てになろうと、あらゆることを教えた。まるで、兄と母からもらったものを、ゼナンに与えるかのように。
2年が経った時、俺はようやく時間ができ、リノアンのいる村へと向かった。そして、俺は知る。
彼女は再びさらわれ、殺されたことを。
母を失い、最愛の兄を失い、最愛の女性を失った俺は、天を仰ぐこともできなかった。
――神様がいるのなら、どうして俺をこんなに弄ぶんだ。
掌の上で、踊らされているような気がしてならなかった。そして、俺はこれから何のために生きていけばいいのか……わからなくなった。
大地に広がる巨大な空洞のように、俺の心には大きな穴が広がっていた。そこは何も見えない、果てのない暗闇だった。それは少しずつ、俺の心の弾力というものを奪っていった。崩れていく土砂のように。欠けてゆく月のように。
だが、その時――
「ゼナンを頼む」
兄の言葉が――その空洞を突き抜けた。
その言葉は、俺にこれから何をすべきなのかを教えてくれた。
そう。
俺はゼナンを護ればいい。兄たちが愛した「ゼテギネア」を――彼を護ればいいのだと。ゼナンは俺たちの希望。そして、ゼテギネアそのものなのだから。
俺は帝城から、空を見つめた。そこには、青空の中を優雅に旅する鳥の姿があり、ゴールのない道を歩んでいるように見えた。
自分とは正反対な光景。
俺に微笑みを向けてくれていた母上。最後の最後で、俺を護り続けていたことを悟った俺。
俺を忌み嫌った父上。そんな父上がいる皇室を憎んだ俺。
俺に手を差し伸べてくれた兄上。彼が愛した国民と国を護ろうとした俺。
愛することを教えてくれたリノアン。彼女が全てになっていた当時の俺。
俺は今でも、それらを胸に抱いて空を眺めるだけしかない。
願い事は、あの青空の上で紡がれただろうか。
「叔父上、私は父上のような立派なこうていになります」
幼いゼナンは、俺の手を握ってそう言う。
「ハハ、いつかそうなってくれるのを楽しみにしてるよ」
「絶対になります」
満面の笑顔のゼナンは、俺に残された唯一の希望だった。
だから…………
ヴァルバこと、ベオウルフのお話でした。
彼には彼なりの理由があったのだということを、ちょっと載せてしました。