Cafe Shelly きらい、キライ、嫌い
きらい、キライ、嫌い。
雨の日、大嫌い。こんな雨の日は、あの時を思い出してしまうから。大好きだったあの人に、突然別れを告げられたあの日のことを。公園に呼び出されて、たった一言だけこう言われたあの日。
「もうおまえとはやっていけない」
理由をもっと聞きたかった。けれどあの頃私は自分に素直じゃなかった。
「そう、わかった」
とだけ告げて、そのまま後ろを振り向かずにその場を去った。雨に濡れたせいなのか、それとも涙のせいなのか。私の頬には冷たいものが流れていたあの日。あれ以来、私は雨の日が大嫌いになった。どうしてもあの日のことを思い出してしまうから。
今日は日曜日。何の予定もない。遅めの朝食を取り、窓際でただボーっとテレビを眺めている。せめて雨が降っていなければ、どこかに出かけようという気持ちにもなれるのに。遊びに行く友達がいないわけじゃない。けれどそこまで親しいわけでもない。
あの日、あのときまで私の心は彼しか見ていなかったから。彼が去って行ってから、私の心の中にはポッカリと穴が空いている。その穴を埋めようという気持ちすら起こらない。特にこんな雨の日は。ただひたすら、嫌いな雨があがるのを待つしかない。
あ、電話。この着メロも嫌い。本当は大好きなアーティストの、大好きな曲のはずなのに。この曲、あの人も大好きだった。だから着メロにした。けれどもう聴きたくない。なのにまだそのままにしている。そんな私が嫌い。
電話は美里から。高校からの友達で、腐れ縁っていうのかな。今もときどき遊びに行っている。でも彼と知り合ってからあまり会わなくなった。電話をかけてきたのも久しぶり。出ようかな、どうしようかな。迷っている私。すぐに出ればいいのに。そんな優柔不断な私が嫌い。そして着メロも切れた。そこで初めて私は携帯を手にした。開いてみると留守録のマークが。美里、何を入れたんだろう。携帯を耳に当ててそれを聞いてみる。
「紗弓、今日暇しているんでしょ。ちょっと連れて行きたいところがあるのよ。これ聞いたら電話ちょうだいね」
美里の明るく弾んだ声。私が彼と別れたこと、美里は知っている。だからきっとこんな電話をよこしたんだ。
窓の外を見る。雨は降り続いている。何も考えたくない。何もしたくない。けれど今のままじゃダメ。早く彼のことは忘れなきゃ。それはわかっている。でも、でも…。また迷っている私がいる。そんな私、大嫌い。
気がつけばテレビはお昼の番組が始まっている。もうこんな時間か。いつまでもゴロゴロしちゃいけない。そう思いながらベッドの上でゴロゴロ。何をするわけでもない。さっき着メロを変えなきゃ、そう思ったばかりなのに。それにも手を付けていない。そう思いつつ、携帯に手を伸ばす。
ブブブッ、ブブブッ
メロディーとともにいきなり震え出す携帯。思わず着信ボタンを押してしまった。仕方なく受話器を耳に当てる。
「もしもし、紗弓? なんだ、いるじゃない。さっき留守電に入れたけど、聞いてくれた?」
声の主は美里。受話器を耳からはずしても聞こえてきそうな大きくて元気な声。それと対照的な声で私はこんな返事を。
「うん、ごめんね。でも雨だからあまり出かけたくなくて…」
「だからダメなのよ。こんなときには気分転換しなきゃ。あのね、ちょっと変わった喫茶店を見つけたの。そこに行くと元気になれちゃうのよ。ね、一緒に行かない?」
美里は私のことを思って誘ってくれているんだろう。でもまだそんな気持ちになれない。断ろうとして声を出そうとする。でも私の口から出たのはこの言葉。
「うん、わかった。一時ならいいよ」
どうしてこんな言葉が出たの? 信じられない。
「じゃぁ一時に迎えに来るから」
美里の言葉が頭に響く。一時か…しかたないな。のっそりとベッドから体を起こす。
「着替えなきゃ」
そう思って洋服を眺める。
「もうこんなの着ないよね」
ジーンズ地のミニスカートが目に入る。彼のお気に入りの服。私はもともとフレアの女の子っぽい服がお気に入り。でも彼は活発なイメージが好きだと言った。だから無理して買った服。本当は活発な自分にも憧れていた。今はどっちの自分になりたいの?
二種類のミニスカートを手にして悩む私。なりたい自分が分からない。そんな私が嫌い。結局昔の自分に戻る。一歩を踏み出せない自分が嫌い。
「お化粧もしなきゃ」
目にしたのは真っ赤なルージュ。彼は色っぽく大人っぽい女性も好きだった。でも私はピンクのグロスが好み。
「これももういらない、か」
思い切って真っ赤なルージュをゴミ箱に捨てようとした。でも捨てきれない。ふたたびルージュを机の上に。こんな優柔不断な私が嫌い。きらい、嫌い、大嫌い。もう私なんか大嫌い。
出かける準備が出来て、ふぅっとため息。やっぱり行くのやめようかな…。ちょうどそのとき呼び鈴の音が。美里、来ちゃったか。
「沙弓、準備できたかなー?」
「う、うん」
ゆっくりと玄関を出る私。なんだか足取りは重たい。
「今日連れて行くところはね、喫茶店なんだ。前にね、秋山敬吾くん、ほら一緒に行った合コンで知り合った人。あの人に教えてもらって行ったんだ。あ、秋山くんとは別につきあってるわけじゃないけどね」
矢継ぎ早に言葉を浴びせる美里。そのしゃべりはとどまるところを知らない。でも今の私にはそのくらいのものがあったほうがいいかな。だって、私から何かをしゃべりたくはないもの。
傘をさして町を歩く。おかげで美里との距離はほどよいものになった。雨の恩恵ってそのくらいかな。朝方よりも小降りになっている雨。町はいろんな傘のオンパレード。赤い傘、黄色い傘、ピンクの傘、黒い傘。私がさしているのは花柄の傘。本当だったら彼の持っている大きな傘の下で肩を並べて一緒に歩いていたはず。それを思うと、なんだか傘を持つ手が重たく感じる。大好きだったはずの花柄の傘。でも今はそれが嫌い。
「ほら、ここ、ここ」
美里が指さしたのは階段の上。パッと見るとそこが喫茶店だとはわからない。
「いつもは下に看板がでてるんだけどね。今日は雨だからさすがに出してないのかな」
ふぅん、そうなんだ。美里は元気よく階段を駆け上がり、店のドアを開く。
カラン、コロン、カラン
カウベルの音が心地いい。この音色は好きだな。
「いらっしゃいませ」
続けて女性の声。さわやかな、そしてきれいな人。年齢は私と同じくらいかしら。あ、こんな人になりたい。瞬間的にそう思った私。裏を返せば、今の私にはそんな魅力がない。だって、私は今の私が大嫌いだから。優柔不断で、いつまでもうじうじして。
「こちらのお席にどうぞ」
通されたのは窓際の席。半円型のテーブルに四人掛けのイス。ふんわりと香ってくるアロマ。イスに座ると、ふっと心が落ち着く。あらためてお店の中を眺めてみる。白とブラウンで統一された、落ち着いた雰囲気。三人掛けのテーブルにはカップルが座っている。ほんのちょっと前まではあんな感じでいたんだよな。それを思うと、また落ち込む私がいる。
カウンターには席が四つ。そしてそこには一人の男性が座っている。たぶん二十歳前後かな。学生っぽい人だ。本を手にしているけれど、その視線は別の何かを見ているよう。私はなぜかこの男性が気になった。なんだろう、この感覚。
「紗弓、ここはオリジナルのブレンドコーヒーがお薦めなのよ。ね、飲んでみない?」
美里は私にコーヒーを勧める。けれど私の答はこれ。
「ごめん、今はまだコーヒー飲む気分になれないんだ」
そう言ってロイヤルミルクティーを注文。ふぅっとため息。
コーヒー、今はきらい。飲めないわけじゃない。彼がコーヒー好きだったから。彼といっぱい一緒にコーヒーを飲んだ。けれどその彼はもういない。コーヒーを飲むと、その思い出だけが頭の中に浮かんでくるから。だから今はコーヒーきらい。
「そうなの…ここのコーヒーを飲めば元気になれるんだけどな。じゃぁ私はこのシェリー・ブレンドで」
「かしこまりました。ロイヤルミルクティーとシェリー・ブレンドですね」
店員はさわやかな笑顔を残してカウンターへ。その姿を目で追うと、さっきの男性がまた私の眼に飛び込んできた。どうしてだろう、なぜか気になる。特別かっこいいわけじゃない。それに年下は好みじゃない。もっと大人っぽくて、私をエスコートしてくれる男性が好み。なのに、妙にその男性に惹かれてしまう。
「紗弓、どうしたの、ボーっとして」
美里に呼ばれて我に返る。
「ううん、なんでもない」
「またあの彼のこと考えてたの? ホント、紗弓のことなんだと思ってたんだろうね」
慰めるような美里の言葉。慰められても困る。私は彼のことを責める気持ちはない。私が悪いんだから。きっと私が彼に嫌われるようなことをしたんだから。だからあんなふうに別れたんだ。
窓の外を眺める。雨はまだ降り続いている。この雨、きらい、大嫌い。
「おまたせしました」
運ばれてきたロイヤルミルクティー。カップに手を伸ばし、そっと唇を近づける。 いい香り。なんとなく心がすっとする。そのとき何気に移した視線。またあのカウンターの彼。さっきと違うのは、カウンターの彼も同じタイミングで私を見る。目があった。初めて見る顔。なのにどことなく安心できる。おもわず微笑む私。同じようにニコリとして軽く会釈をする彼。
「あれ、知り合い?」
美里がそう尋ねる。
「ううん、知らない人」
「うそー、だって今あいさつしたじゃん」
「うん…」
それ以上は言葉にならない。私だってどうしてそうしたのかわからないんだから。
「なになに、ひょっとして新しい恋の始まりってやつ?」
ひやかす美里。そうじゃない。恋とかそんなんじゃない。ただなんとなく気になるだけ。そう美里に伝えても、美里はイマイチ納得いかない。
「彼に声をかけてみなよ。見たところ紗弓の方がお姉さんみたいだし」
「え、いいよ、別に…」
私がそう言ったにもかかわらず、美里は勝手にカウンターの彼のところへ。なにやらぼそぼそと話をしている。そして美里は強引に彼の腕をひっぱり私のところに連れてきた。
「あとは二人でごゆっくり~」
美里は自分のカップを持ってカウンターへ移動。突然の出来事にとまどっている彼。
「ごめんなさいね、友達が変なことしちゃって」
「あ、いえ…でもうれしいです」
ちょっと顔を赤らめてそう言う彼。しばし無言の時間が過ぎる。
「啓太くん、新しいお水持ってきたよ」
ウェイトレスの女性がそう言って来た。彼、啓太っていうんだ。
「さしでがましいかもしれないけど。こちらの方が今の啓太くんを救ってくれるかもしれないよ」
「マイさん…そうなんですか?」
ウェイトレスの方はマイさんっていうんだ。でもマイさんの言った意味、どういうことなんだろう? 今度は私の方がとまどっている。
「啓太くん、私から説明しようか?」
「いえ、それは自分から…」
マイさんは啓太さんの肩をポンポンと叩き、励ましを送り去っていった。そしてしばしの沈黙。それを破ったのは私。
「あの…今の方が言われたのはどういうことなんですか? 私が啓太さんを救うって?」
今の私が誰かを救うなんて考えられない。むしろ救って欲しいのは私の方なのに。でもなんとなくこの啓太さんが気になる。
「えっと…その…」
なんだかはっきりしない人。顔はかわいいんだけど、こんなに優柔不断な態度をとる男性は彼氏にはしたくないな。
「あのですね…でもこんな話、初対面の人にしていいのかな…」
「とりあえず話をしてみてよ、ね。」
「あ、はい。実は…ボク、自分が嫌いなんです」
その言葉を聞いてズキンときた。そのセリフ、私が言いたいくらいなのに。
「嫌いって、どうしてなの?」
「実は…えっと…その…」
「彼女にふられたとか?」
なんでこんな言葉を言っちゃったんだろう。
「えっ、ど、どうしてそれがわかるんですか?」
なんと、私の言葉は図星だった。ビックリしたのは私の方だ。まさか、私と同じ状況にいたなんて。そこから堰を切ったように啓太さんはしゃべりだした。なぜだかわからないけれど、突然彼女から別れを切り出してきたこと。そのときに意地を張って理由を尋ねずに黙って別れたこと。そのあと自分がやってきたことを後悔していること。そして、全ては自分が悪いと思っていること。
「だからボクはこんな自分が嫌いなんです、イヤなんです」
まさかここまで私と同じだったとは。だからだったのかな。最初に啓太さんを見たときに、なんとなく気になったのは。
「私と…私と同じだったんだね」
「えっ、同じって?」
「実はね、私もちょっと前に彼氏にふられたの。こんな雨の日だったな。突然公園に呼び出されて、もうおまえとはやっていけないって。たった一言だったわ。理由を聞きたかったんだけど、なんかカッコつけたかったんだろうな。私もわかったって一言だけ言って、あとを振り向かずにその場を去っていったの。今考えるとバカよね、私って」
「そんなことないですよ。その気持ち、すごくわかります。最後くらいはカッコつけさせろって。そう思いますよね」
今度は啓太さんの方がニコリと微笑む。きっと私に元気づけようとしているんだな。
「ありがとう。でもこんな雨の日は嫌い。せっかく喫茶店に連れてきてもらったけれど、コーヒーも今は嫌い。別れた彼のことを思い出しちゃうから。まだ未練なんだろうな。だからそんな私が大嫌い」
「そ、そんなことないです。ボクはあなたがとても魅力的に見えます。年上の人にこんなこと言うのもなんなのですが。大人っぽくてきれいでやさしくて。えっと…ご、ごめんなさいっ」
「ごめんなさいだなんて…そんな…こ、こっちこそごめんなさい」
あれ、私なんで謝っているんだろう。啓太さんがせっかく私のことをほめてくれているのに。あらためてお互いに顔を見合わす。二人とも思わず照れ笑い。
「あはは、なんかおかしいですね。でもあなたとこんなに似たところがあっただなんて。あ、そういえばまだお名前もうかがってなかった」
「そうだったわね。私は谷山紗弓。紗弓でいいわよ。歳は二十六歳。OLをやってるの。啓太さんは何をやってるの?」
「ボクはまだ大学生です。年齢は二十一歳。趣味は…」
「あはっ、なんかお見合いみたいね」
「あはは、ホントそうですね」
そうやってまたお互いに笑い出す。なんか変な感じ。でもなんだかおもしろい。彼氏という感覚じゃない。友達というのもちょっと違う。なんだろう、この感じ。啓太さんと話すとなんだか心が落ち着く。
「そういえば紗弓さんはここのシェリー・ブレンドはまだ飲んでいないんですか?」
「えぇ、今はまだコーヒーを飲む気がしなくて」
「えっ、それはもったいないですよ。ここのシェリー・ブレンドは絶対に飲む価値がありますよ」
「でも…まだ今はコーヒーはちょっと…」
「何か理由があるんですか?」
理由か。コーヒーを見ると彼を思い出す。それが理由のはず。そう伝えようと思ったけれど、なんだか違う理由のような気がする。なんでだろう? 私が黙っていると、啓太さんはこんな話をし始めた。
「ここのシェリー・ブレンドは不思議なコーヒーなんですよ。飲むと、その人が今一番欲しがっているものの味がするんです。人によっては味よりも何かの光景が見えることもあるんですよ」
無邪気に笑いながら話す啓太さん。でもそんな魔法のようなコーヒーがあるなんて信じられない。
「啓太さんはもうそのコーヒーを飲んだんでしょ。そのときはどんな味がしたの?」
「はい、飲んだんですけど…笑わないで聞いてくれますか?」
「もちろん、笑わないわよ」
「ボクがこのシェリー・ブレンドを飲んだときは、彼女にふられてすぐだったんです。友達から無理矢理このカフェ・シェリーに連れてこられて。元気が出るから飲めって言われて」
あれっ、私と全く同じじゃない。私は今日美里に連れてこられてここにいる。そしてシェリー・ブレンドを飲むことを勧められた。ここまで啓太さんと同じだと、もう笑うしかない。
「で、どうなったの?」
「最初は意地もあってちょっと抵抗したんです。でも…」
「でも?」
「あの人の言葉に負けちゃって。それで飲んでみたんです」
「あの人って?」
私の言葉に啓太さんは後ろを振り返り、そっとカウンターを指差す。そこには美里とにこやかに会話を交わしている一人の男性が。
「この店のマスターです。ボクはあのマスターに救われました」
この店のマスター。年齢は四十代くらいかな。渋さの中にも笑顔が魅力的な人だ。人なつっこそうな感じがして、とても安心感を感じる。
「コーヒーを飲むのを躊躇しているボクに、マスターはこう言ってくれたんです。今は飲めなくてもいいんだよ。それが自分に必要だと感じたとき。そのときが飲み頃だって。どんなものでもそうだけど、自分が欲しいと思っているものは本当は自分が欲しがっているんじゃない。向こうが呼んでいるから自分が欲しいと思うんだって」
啓太さんの言う意味がよくわからなかった。だって、どんなものでも自分が欲しいからそれを手にするんでしょ。相手が人ならともかく、コーヒーが自分を呼んでいるだなんて。そんなバカな。
「そのときはそんなバカなと思いました」
あら、啓太さんも同じだったんだ。だったらどうやってコーヒーを飲んだというのかしら? その疑問はすぐに晴れた。
「マスターがボクに言ってくれたんです。それに見合う人間になりなさいって。ほら、ブランドもののバッグって、持っていて似合う人と似合わない人がいるじゃないですか。似合わない人って、まだそれに見合う人じゃないんです。こういう人はただそれが欲しいと思っているだけ。でも似合う人は違うんです。そのバッグに呼ばれてそれを手にするんです。紗弓さんにもそんな経験ないですか?」
啓太さんの言葉を聞いて、ちょっと前のことを思い出した。私の今のお気に入りのバッグ。売り場に置いてあったものがとても気になって。手にした瞬間、もうこれしかないと思った。このとき、私がここに立っているのはこのバッグに出会うためなんだって思った。これが向こうから呼んでいるってことなんだ。今はっきりとそれがわかった。
「今のはマスターの言葉の受け売りですけど。でもそのマスターの言葉で向こうから呼んでいるっていうのが理解できました。そしてそのときマスターはボクにシェリー・ブレンドをそっと差し出したんです。そしたら…」
「そしたら?」
「なぜだかわからないけれど、ボクの右手はすすーっとカップに伸びて、そして気づいたらそれを口に運んでいました」
なぜだかわからないけれど。この感覚もなんとなく理解できた。あのお気に入りのバッグを買ったときがそうだったから。なんとなく手が伸びて、それをしきりに眺めて。買うつもりでお店に行ったんじゃないけれど、気がついたらそれを手にしている自分がそこにいた。
「じゃぁ、コーヒーが啓太さんを呼んだんだ」
「そんな気がしました。そしてそのときに驚くような味を体験しました」
「どんな味?」
「確かにコーヒーなんですけど、舌に光るようなものを感じたんです。そこから光が広がって、自分を包み込むような感じ。ちょっと変な話ですけど、やわらかな女性の肌に包み込まれるような。そんな感覚を覚えました」
啓太さんは変な話だって言ったけど、私はそんな気がしなかった。そして私の口から出たのはこの言葉。
「啓太さん、そのとき誰かにやさしく包み込んでもらいたかったんですね。自分の心を慰めてもらえるような、そんな人を望んでいたんじゃないかな」
どうしてこんな言葉が出てきたのか私にもわからない。いや、ひょっとして今の言葉は自分自身の願望だったのかもしれない。言った後、そんなことを思った。
「びっくりだなぁ。同じ事をマイさんにも言われましたよ」
啓太さんの言葉に私の方がびっくりした。
「マイさんが言うには、ボクは今、癒しを求めているんだって。ありのままの自分を包み込んでくれるような女性がいればって。でもそれは恋人じゃない。今の自分を理解してくれる人。それを欲しがっているんじゃないかって言ってました」
その気持ち、私も同じだ。自分の今の気持ちを理解してくれる人。そんな人がいればちょっとは心が癒される。いや、ちょっとじゃない。思いっきり癒されるんじゃないかな。
「ねぇ、啓太さん。啓太さんと私ってすごく状況が似ているのよね。そして今の心境も同じ。だから啓太さんの気持ちがとても理解できるの。今の自分が嫌い。でも本当は自分を好きになりたい。もっともっと自分を好きでいたい。けれど嫌いな自分ばかり見えてしまう。そんな自分がイヤ。ねぇ、どうしたらいいと思う?」
啓太さんのことを話していたつもりなのに、いつの間にか自分のことを話していた。とにかく心がモヤモヤしている。そのモヤモヤを早く晴らしたい。
「だったら一つ方法があります。ボクと紗弓さんの心境が同じだっていうのはそうだと思うんです。でもボクがやって紗弓さんがまだやっていないことが一つだけあります」
「やっていないこと?」
「はい。紗弓さんはまだシェリー・ブレンドを飲んでいません。ボクはシェリー・ブレンドを飲んで、今自分が何を欲しがっているのかを知りました。紗弓さんも今自分が何を欲しがっているのか。それを見つけることから始めないといけないんじゃないかって思うんですよ」
私が今何を欲しがっているのか。私は何も欲しくない。ただ自分が嫌いなだけ。ホントにそうなの? 欲しい物から目を背けているだけじゃないの? 自分が嫌い。そんな自分を悲劇のヒロインにしたいだけじゃないの? いや違う。そんなことはない。でも…頭の中で同じ事がグルグルと繰り返されている。
「紗弓さん?」
「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事してたから…」
啓太さんの言葉で我に返ることができた。どうしよう…思い切ってコーヒーを、シェリー・ブレンドを飲んでみようかしら。でもなんだか怖い。自分が何を欲しがっているのか。それを知るのが怖い。それを啓太さんに、みんなに知られるのが怖い。こんな自分の心の奥を知られること。これがとても怖い。そんなふうに怖がっている自分がイヤだ。そんなふうに怖がっている自分が嫌いだ。結局私、何一つ前に進まないじゃない。
私は黙り込んでいる。啓太さんが心配そうにしている。
「紗弓さん、だっけ。こんにちは」
いつの間にか店員のマイさんが私の横に来て、イスに座って話しかけてきた。
「今、とても悩んでいるみたいね。少しだけ話はうかがわせてもらったの。ごめんなさいね」
マイさんはそうやって謝ったけれど、むしろ今の私の気持ちを誰かに伝えたいくらい。そのタイミングでマイさんがやってきたから私としてはラッキー。
「あの…わたし、どうしたらいいんでしょう?」
たかがコーヒーを飲むか飲まないか。たったそれだけのことなんだけど。でも本当にどうすればいいのかわからない。
「さっき啓太さんとの話、ちょっと聞こえてきたけれど。前にマスターが啓太さんに言った言葉、覚えてる?」
「えっと…」
思い出そうとしたときに、啓太さんが私の代わりに言ってくれた。
「自分が欲しいと思っている物は向こうが呼んでいる。だから自分が欲しいと思う。そうでしたよね」
「うん、その通り」
そうそう、そうだった。でも今の私はコーヒーを欲しがっていない。いや、本当に欲しがっていないの? 欲しい。けれど不安。そして怖い。でも欲しい。それを繰り返すばかりの自分がいる。ホントの気持ちはどれ?
「やらずに後悔するより、やってから後悔しろ。そんな言葉がありましたよね」
マスターが突然そんなことを言い出した。それ、私に言っているのかしら? でも目線はカウンターに座っている美里に向けられている。ってことは美里と話をしているだけ? でも今までマスターの声は耳に入らなかったのに、どうしてその言葉だけが聞こえてきたの? マスターは特別大きな声を出したわけでもない。不思議だ。
「自分が欲しいと思っている物は向こうが呼んでいる。これは物だけじゃなくいろんなことにあてはまるの。だからふとした言葉がやたらと目についたり、聞こえてきたりすることもあるのよ」
今の私の気持ちを知ってか知らずか、マイさんがそう言ってくれた。ってことは、さっきのマスターの言葉は私が欲しがっているから聞こえてきたのかしら。もう一度マスターの言葉を頭の中で復唱してみる。やらずに後悔するより、やってから後悔しろ、か。うん、わかった。
「マイさん、シェリー・ブレンドを一杯お願いします」
「はい、かしこまりました」
マイさんは笑顔でカウンターへ戻っていった。そしてマスターにシェリー・ブレンドをオーダー。
「啓太さん、わたし、これでいいのかな?」
「はい。きっとそれでいいんだと思います。シェリー・ブレンドを飲めば、紗弓さんの何かが変わるんじゃないかと思います」
啓太さんのその言葉を信じよう。このとき、あらためて啓太さんを見る。最初の印象は、ちょっとかよわくて慰めてあげたくなるような年下の男の子って感じだった。けれど今は違う。私よりもほんの少しだけ経験をしている、しっかりとした大人の男性って感じがする。どことなく頼ってみたい。そんな気がしてきた。でもこれは前の彼の時に感じた恋愛の感情とは違う。人として信頼できる。そんな印象を受ける。
「ボクの顔に何かついてます?」
あまりにも私がじっと見つめるので、照れくさそうにする啓太さん。そう言われて私の方がちょっと照れくさくなっちゃった。そうしていると、待望のシェリー・ブレンドが運ばれてきた。
「お待たせしました」
カップがテーブルに置かれる。その中の中に広がる漆黒の世界。この奥には私がまだ見ぬ世界が広がっているのかな。そう思うとちょっとドキドキしてきた。カップに手を伸ばし、ゆっくりと口元へ運ぶ。コーヒーのいい香りが鼻の奥をくすぐる。あれっ、コーヒーの香りってこんなに落ち着くものだったんだ。
目を閉じてカップに口を付ける。熱いものが唇にふれる。けれどその熱さもまた心地よい。コーヒーはそのまま舌を通りのどの奥へ。このとき、私の中で何かがはじけた。その感覚は安らぎ。包み込まれるような柔らかな光。その奥からさらにみなぎる力。自分の奥から何かが湧き出てくる。
これ、なに? 私の問いかけにどこからか声が聞こえる。
「それが自信よ」
そうか、自信が欲しかったんだ。奥から湧き出てきたもの。それはキラキラ光って見える。その光に包まれた私。とても魅力的に見える。そんな自分が好き。そう、自分が好き。私、自分が好きになりたいんだ。
「紗弓さん、どうでしたか?」
啓太さんのその声でハッと我に返った。さっきまで私どこかにトリップしていた。とても長い時間に感じた。けれどほんの一瞬のできごとだったみたい。
「どんな味がしましたか?」
まさか、あんな光景を見ただなんて。そんなことを言ったら頭のおかしい人だと思われるかもしれない。けれどその思いとは裏腹に、言葉の方が先に出てきた。
「安らぎと奥から湧き出てくる自信。それに包まれた自分が見えたの。そんな自分になりたい。そうしたら私、もっと自分が好きになれそうな気がする」
「自分を好きに、か。今ボクに足りないところでもあります。まだ自分が好きになれないんです。どうしたらそうなれるでしょうか?」
どうしたら、なんて私に聞かれても答えようがない。だって私だって啓太さんと同じなんだから。
「あら、その答はさっき口から出たじゃない」
マイさんがさらりと答えた。
「さっき口から出たって?」
私はその意味がわからなかった。何を言ったんだろう?
「あ、そうか。安らぎと奥から湧き出てくる自信、でしたよね」
「そう、その通り。まずは心の安らぎを得ること。その一番の近道をもうお二人は体験しているのよ」
またまたマイさんの言う意味がわからない。もう体験しているってどういうことなの? これについては啓太さんも目を白黒させていた。
「うふふ、まだわからない? 二人とも今どんな気持ちかな」
あっ、そういうことか。カフェ・シェリーに来るまではひとりぼっちで寂しくて。誰も私のことなんか相手にしてくれない。ずっとそう思っていた。けれど今は違う。啓太さんと話をして、カフェ・シェリーのコーヒーを飲んで、なんだか心に安らぎが生まれた。そうか、そうなんだ。まずは自分をわかってくれる人がそばにいる。それがあればいいんだ。
「マイさん、わかりました。こうやって語り合える仲間がいる。こういう場所がある。それが心の安らぎを得るための第一歩なんですね」
私のこの言葉に啓太さんも大きくうなずいている。きっと同じ事に気づいたんだ。
「うん、そうなの。だから私はこのカフェ・シェリーをそういう場に使って欲しいの。ここには気の合う仲間達がたくさん集いあっている。そして思い思いの会話をして、そこで自分がここにいていいんだって感じ取ってくれている。それが自信につながるの。自分が少しでも人の役にたっているって感じ取ってくれているから。だからもっと自分のできることをやってみようって思ってくれる。啓太さん、そして紗弓さんにもそれを感じ取って欲しいな」
「はい、ありがとうございます。でも…」
はい、と返事をしたものの、私はちょっと不安になっている。今の私に何か人のためにできることってあるのだろうか。
「残りのシェリー・ブレンドを飲んでみて。今の紗弓さんに必要な答が見えてくると思うの」
マイさんは私が言いたかったことをわかってくれたみたい。こっくりとうなずいて、もう一度シェリー・ブレンドに口を付ける。今度はどんなものが見えてくるのかしら。
コーヒーがゆっくりとのどに流れ込む。先ほどとは違い、ほどよい温かさを感じる。その温かさがとても心地いい。こんな温かさを人に与えられたらな。きっとたくさんの人が笑顔になれる。そうか、今度は私が与える番なんだ。温かさを伝えていく。そこにいるだけでいい。相手を温かい目で見つめているだけでいい。それで安心してくれればそれでいい。私にだってできるはず。今啓太さんやマイさんがここにいるように。マスターやここに連れてきてくれた美里がいるように。ただそこにいるだけでいいんだ。
「どうでしたか?」
啓太さんの言葉で目をはっきりと開いた。その瞬間、私という存在が見えてきた。そうか、今私ここにいていいんだ。特別なことをする必要はない。ここにいるだけでいいんだ。
「紗弓さん、何かがわかったみたいね。目の輝きがさっきとは違うわよ。今の紗弓さん、とても魅力的」
マイさんの言葉、素直に受け止めることができた。不思議だな。さっきまでの自分だったらそんな言葉は拒否してしまうのに。
「はい、ありがとうございます」
私は力強くそう返事をした。
「それで、今度はどんな味がしたんですか?」
啓太さんはそっちの方が気になっているみたい。私は啓太さんにさっき感じたことを説明した。今度は映像ではなく、感覚として温かさを感じたこと。そこから「そこにいるだけでいいんだ」ということに気づいたこと。特別な私じゃなくていい。今の私で十分だってこと。
「そうか、それでなんだ」
啓太さんは私の説明で何かに気づいたみたい。何なんだろう? そのことを質問してみたところ、啓太さんはこんなことを話し出した。
「あのですね、最初に紗弓さんを見たときにはボクと同じ匂いがしたんです。匂いっていうと失礼かな。同じような雰囲気を持った人だなって、そう感じたんです。でもさっきシェリー・ブレンドを飲んだときからまったく印象が変わったんですよ。この人がいるだけでいい感じがするなって。ボクをどこかに導いてくれるような。そんな感じがしたんです」
導くだなんて、そんな大げさな。けれど言われて悪い気はしない。それどころか、私自身の存在を認めてくれた、そんな感じがしてうれしかった。
「紗弓、あんた今いい顔してるじゃない」
美里がカウンター席からこちらに移動してきた。
「やっぱ紗弓をカフェ・シェリーに連れてきて正解だった。ここならきっと紗弓を変えてくれるんじゃないかって思ってね」
「美里には感謝してるわ。ここに来て何かに気づくことができた。そんな気がする」
私は素直に美里に感謝。このカフェ・シェリーに来なければ、私はずっと私が嫌いなままだった。彼との思い出に浸って、何も変わることはなかった。でもようやくわかったの。私は今の私でいいんだ。何もできなくてもいい。ただそこにいるだけでいい。私を好きな私がいればいいんだって。
「みんな、ありがとう。私、私が好きになれそう」
「紗弓さん、ボクもなんだか勇気が湧いてきました。今日紗弓さんに会えて幸せです。本当にありがとうございます」
啓太さんの言葉、ちょっと照れるけどすごくうれしい。よし、力が湧いてきたぞ。そう思ったらとたんにお腹が空いてきた。よく考えたら今日はろくに食事もしてなかった。それを思い出したとたん
ぐぅぅ~
お腹の虫が鳴き出しちゃった。おかげでみんな大笑い。私もつられて大笑い。そんなお茶目な私が好き。私、わたしが大好き。今なら自信を持ってそう言える。
こうしてカフェ・シェリーでの午後の時間はあっという間に過ぎていった。帰り道は雨。傘を開いてスキップして。濡れる私を楽しむ私。何かいいこと起こりそう。そう思える私が大好き。
カフェ・シェリーに行った次の日。この日も雨。でも今は雨は嫌いじゃなくなった。ううん、雨の日も大好き。だって、たくさんの傘の花を見ることができるから。色とりどりに咲いた傘の花を。耳を澄ますと、傘に落ちる雨だれが音楽を奏でる。人にはマネできない、一度っきりのコンサート。それを聴くのが好き。会社に行くまでに道のり。雨なのにこんなに楽しいものだったなんて。会社に着いて朝のあいさつ。
「おはよー」
なぜだかみんな目を丸くしている。
「紗弓、なんか急に明るくなったね。なんかいいことでもあったの?」
同僚からそう声をかけられた。うふふ。いいことか。そう言われて昨日のことを思い出した。最初はカフェ・シェリーに行くのがイヤイヤだった私。けれどマスターやマイさん、そして啓太さんとの出会い。さらには魔法のコーヒー、シェリー・ブレンド。これを飲んでいろんなことに気づかされた。今の私でいいんだ。ここにいるだけで、それでいいんだ。それがわかったから。
「紗弓、ひょっとして彼氏でもできたの?」
彼氏か。昨日は最後に啓太さんの携帯番号とメルアドを交換した。彼氏、というにはほど遠いけど。なんだろうなぁ。そう、大切な仲間ができた。私がそこにいるだけで私のことを認めてくれる。そんな仲間ができた。私、もう一人じゃない。この気持ちをもっと多くの人に伝えたい。もっと多くの人に知ってもらいたい。そうすれば、自分を嫌いな人も好きになれるはず。そのことを考えたら、さらに楽しくなってきた。さぁて、どうやってこのことを多くの人に知ってもらおうかな。やっぱりこの手がイチバンよね。
「ねぇ、今度のお休みの日って何してる?」
隣で一緒に仕事をしている同僚の子にそう声をかけてみた。
「お休みの日? そうねぇ、まだ特に予定は立ててないけど」
「だったらさ、連れて行きたいところがあるんだけど」
「連れて行きたいところって?」
私が唐突に誘うものだからちょっととまどってるみたい。けれど私はそんなのお構いなし。
「あのね、そこに行くととても元気になれるの。おかげで私、見ての通りよ」
「なになに、どんなことがあったの?」
おっ、興味が湧いてきたみたい。さぁてと思って話そうと思った瞬間。
「ん、ううん」
背後から人影とともに咳払いが。課長だ。私たちは慌ててパソコンに向かい出す。ちょっとおしゃべりが過ぎたかな。でもいいんだ。こんな風に楽しめる今がとても大好きだから。
お昼休み。私はさらに先輩と後輩に声をかけてみた。
「でね、そこのコーヒーが魔法のコーヒーなのよ。おかげで失恋から完全に立ち直っちゃったもん」
あまりにも明るく振る舞う私にとまどう。それだけ先週までの私が暗くて声をかけづらかった雰囲気だったみたい。
「紗弓がこれだけ変われるんだから。どんなものか見てみたいわ」
先輩は興味深そうにそう言う。
「あの…わたし…やっぱりやめておきます」
後輩の女の子は小さな声でそう言う。ん、こんな子じゃなかったのに。何かあったのかな?
「どうしたの、元気ないけど」
「えっと…でも…やっぱりいいです」
うぅん、こんな時こそカフェ・シェリーの力を借りるといいんだけど。でも無理強いはダメ。
「そっか。まだ今は気分が乗らないんだね。いいよ、お店は逃げないから」
「そ、そうじゃないんです。実は…」
後輩はぽつりぽつりと語り出した。どうやら彼氏に冷たくされたらしい。自分のどこがダメなのかがわからない。だから悩んでいるとか。私はニコリと笑って一言。
「いいのよ、今のあなたで。まずはそんな自分を好きになろうよ」
私の言葉に微笑む後輩。うん、これが私の今の役割なんだな。
そんな私が今は大好き。
<きらい、キライ、嫌い 完>