『彼』は、ただ愛していた。『彼女』は──
少し前、とある家の中では一人の男が自室に籠っていた。
夕食を終え、湯あみも済ませ少し寛いでから、寝るまでに仕事を終わらせるためだった。家に持ち帰っても支障のないものだ。
以前までのアレンなら、その類いの仕事が残っても城の執務室で終わらせて帰っていただろう。
しかし、今は違う。
出来るだけ定時に帰ることが出来ればいいと思う理由があった。帰る家に、待ってくれている愛しい存在がいるから。
ノックの音が聞こえて、アレンが返事をすると、控えめにドアが開かれた。
「アレン様」
顔を覗かせたのは、アルヴィアーナだ。
「お茶を、お持ちしました。入ってもよろしいですか?」
「ああ」
アレンは唇をほころばせた。
アルヴィアーナはドアを開き、トレイに乗せてお茶を運んできた。アレンが前にする机の上、邪魔にならないようにと端にティーカップが鎮座する。
「アルヴィアーナ、先に寝ておいていいからな」
「そんなに、遅くなるのですか?」
「いいや? 少ししたら終わるだろうから、後で行く」
「では、お待ちしておきます」
アルヴィアーナは微笑み、長居はせずに、部屋を出ていくべくドアに向かう。
──当たり前にできた幸せだった
こんなやり取りは特別なものではなく、日常のもの。
婚約者となったからには、このまま自分は彼女と結婚し、同じ日々を送っていくのだろう。
結婚、と考えて、最近考えていることを思い起こした。
結婚するに当たって、一つ、つけておきたいと思っている区切りがある。
アレンは、アルヴィアーナを愛していた。
どれほど周りが反対しようと、想いは揺るがなかった。
なぜ、周りがそれほどアルヴィアーナに遠巻きであるのかが分からなかったくらいだ。
確かに、他の誰にも感じたことのない雰囲気を纏っている女だとは思った。そして、アルヴィアーナ自身、外交的な方ではなく内向的な方で、負の種の空気を持っていた。
だが、そんなことはアレンには悪い意味で気になることにはならなかった。
女一人であることや、自分が見つけたことが手伝っていたのかもしれない。アレンは彼女を気にした。気遣った。
けれど、保護には色々なやり方があり、専門の者がいる。
普通なら、彼らに任せておけば良いことだったが、アレンが日々彼女を気にかけたのは、そのときには、特別な感情が生まれていたからだっただろう。
出逢ったときに、心奪われていたのかもしれないと、よく思う。
不思議な魅力を感じる女だった。
謎に包まれてもおり、彼女のこれまでの詳細は知らない。
言いたくないことを経験した可能性がある。──もしくは、後ろめたいことをしてきたのだと、周りが言うような経歴がある可能性も、万が一には。
けれど、アレンは聞かなかった。言いたくないのなら、言わなければいい。
今ここにいる彼女は、ただの一人の女だ。何の害もなく、むしろ弱々しささえ感じるのだ。
どれにしろ、この地で新しく生活を始めればいい。
アレンは聞こうとせず、それでいいと思っていた。
でも、アルヴィアーナは時折陰を色濃くした。
もしも過去のことを、自分が一緒に抱えていけたなら、アルヴィアーナの様子は少しは晴れるのではないだろうか。
何か、彼女が思っていることは確かだ。それを、共に背負わせてはくれないだろうか。
彼女に憂いなく、この先の道を歩むために。
ずっと考えていた。アレンは、そのとき、華奢な背に声をかけた。
「アルヴィアーナ」
部屋から出ていこうとする彼女を、呼び止めた。
アルヴィアーナは足を止め、振り返る。立ち上がったアレンは、その体を、抱きしめた。
細い体だった。
折れそうな腰、しなやかな線を描く背中、細い首。
全てを腕の中に包み、アルヴィアーナの頭に口づけた。
彼は、ただ女を愛していた。だからこそ、今、女の全てを尋ねる決心をした。
その過去を受け止め、共有し、これからの生活を送るために。
「アルヴィアーナ」
彼はもう一度、囁くように、愛する女の名を呼んだ。
*
女──アルヴィアーナは、突然の抱擁に驚きながらも、それは一時で、微笑み身を委ねた。
アルヴィアーナは、アレンを愛していた。愛していた。ただ、愛していたから、愛されていたかった。それは、今のところ叶っていた。
この日々は彼女にとって、幸福そのものだった。以前まではあると思わなかった、経験したことのない温かで、柔らかな幸せだった。
この国に来た当初は、想像もしていなかったこと。
アルヴィアーナは、本来の目的も忘れ、一人の女としてこの地に居続けていた。
魔女が忘れ去られた土地とはいえ、いつものように、周りの人間からは異物に接するように接された。
その中で、一人の男に出会ったから。
『魔法』を使っていないにも関わらず、アルヴィアーナに近づき、不器用にも気遣ってきた人間がいた。
名を、アレン。アルヴィアーナの正体も知らず、愛を囁く男だった。
奇跡に初めて遭ったがごとき心地だった。
普通、異端を見る目で自分を見て、遠ざかり、恐れの目を向けてくるはずの人間が、たった一人アルヴィアーナに近づくばかりか、好意を向けてきた。
アルヴィアーナは戸惑い、魔法を使う機会を見失った。そして、惑い、揺れてただの人間と過ごす間に、たった一人の人間が特別になった。
初めての感情に包まれ、アルヴィアーナは、一人の女となった。その愛を失いたくなく──その感情に包まれていたかった。
そして、今、無垢な少女のように、自分の世界が壊れるなんて一欠片も想像していなかった。
彼女らしくもなく。
「アルヴィアーナ」
自分を呼ぶ声に浸りながら、「何ですか?」と言った。
「俺に、教えてくれないか」
「何をでしょう」
「お前は、どこから来たんだ」
──彼女は、初めて手に入れた生活に浸っていた。浸ってしまっていた。だから、夢がひび割れる音が聞こえた気がした。
腕の中で、アルヴィアーナは身を固くした。
「お前がここに来るまでのことを話したがらないのは、何か、あったからか?」
愛する男の声が、言葉が、呪いのように聞こえた。
「俺には、教えてくれないか。お前がどこから来て、過去の何を、なぜ隠しているのか。──お前は何者なのか」
過去を暴こうとする言葉が、アルヴィアーナの『夢』を砕いた。
目の前が真っ暗に塗りつぶされ、最近は明るく温かなもので満ちていた心に、澱みが生まれる。
否、戻ってきた。
──あなたも、結局、同じなの?
魔法を使わなくても、私を受け入れてくれた人。
あなたも、同じなの? どうせ、同じなの?
私のことを疑っていたの?
私のことをどれほど疑っているの? 知っているの?
今までの態度は、偽物? 私が酔いしれ、分からなかっただけなの?
分からない。
でも、知ろうとしないで。知ってどうするの。私が何者か、どこから来たのか、何を隠しているのか。
知ってどうするの。言ってどうするの。
きっと、拒絶する。あなたは愛してくれない。嫌悪に満ちた目で見る。愛してくれない。だって私は、
「お前は──」
「──」
女は声にならない悲鳴をあげた。
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてこわいやめてやめてやめてやめて知ろうとしないでやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
私は、魔女。
人間に嫌われたもの。決して人間と交われず、人間を憎み、滅ぼすもの。
私を知ろうとしないで。知ろうとするのなら、知られるのならば、もはや先に待つ未来が同じならば。
彼女の心は決断した。
男の問いに、一瞬にして、彼女は一人の女ではあれなくなった。全てを引き戻された。現実を、拒絶した。全ては、男を──
そして、彼女は、本性を表した。
一人の人間であることをやめた彼女には力が満ち、声にならない叫びに呼応し、窓が割れた。
夢は、終わり




