如何にして私は新年早々「ぶっ殺してあげようか?」などと口にする羽目になったか
よりにもよって『つきあいの悪い人』を絵に描いたような私を、よりにもよって同窓会なんて場に連れてきた張本人は、よりにもよってすでに酔いつぶれて口から怪しい液をだらだら垂らしつつ、四年来片想いしてきたとの相手にその無駄に腫れあがった胸部をぎゅむぎゅむ押し付けている。
それでいいのか、と思わないでもないけれど、とうとう私たちも成人の身になった。
いい加減自己責任という言葉を覚えるといい。冷ややかにそう思う。しかしよく見ると、押し付けられている方もまんざらじゃない顔をしている。
その赤面は酔いが回ったからじゃなかったのか。文明のしもべたるホモサピエンスのすることとは到底思えない。これじゃあ野生動物の番づくりとまるっきり変わらないじゃないか。
というようなことを考えながら、部屋隅の柱に寄りかかってちびちびソフトドリンクを飲んでいる。
成人の日。
二十歳になった私たちの、同窓会だった。
周囲は死屍累々で、昔から苦労性だった元委員長が、二年年越しにまた苦労させられているのが視界の端に映り込んでいる。
こういう場で損をするのは、一切アルコール耐性がない人と、一切アルコールが回らない人の二種類。意外にも元委員長は回らない方だった。ああいういかにも草食べて生きてます、という顔の男に限って、絡み上戸のキス魔だと勝手に思っていたことについて心中で御謝罪申し上げ候。
飲み放題も食べ放題もとっくのとうに終わって、すでに今はロスタイム。屍体の山にも年季が入ってくる頃だった。
ラストオーダーのときに何を思ったか、そもそも誰が頼んだのか、大量に注文されたバニラアイスは溶けに溶け、いまだにテーブルに鎮座している。
わずかにでも正気を保っていて、かつ食べ物はちゃんと残さず平らげろと教育されたメンバーは、酔いの具合に関係なしに、現在進行形で深刻な虫歯を育てています、という顔で皿とスプーンをかちかち鳴らしていた。
すでに十杯を平らげた私は、お腹をさすりながら、下々の者どもの働きを見守っている。
どうせ家系的に下戸だからと一滴もアルコールは口にしていないのに、それを帳消しにしてもだいぶ余るほど、たぷんたぷんと胃の中で水分が揺れていた。一瞬で顔がむくんだような気がして、頬をつねる。
端的に言って、地獄絵図だった。
成人式の場にバイクも火炎放射器もUFOも現れなかったことにほっと一息をついたのも束の間。まさか高校時代から見慣れていたはずの焼肉屋の隣の飲み屋の中にこんな大罠が待ち受けているなんて、一体誰が予想していただろう。
げに恐ろしきは飲みにケーション社会。これから死ぬまでのおそよ六十年の間、頻繁にこんな大惨事が繰り広げられると考えれば、これは手ひどい洗礼としか言いようがない。地獄へようこそ、とヤマタノオロチの声が聞こえてくる。
しかしこの地獄、とりあえず今日のところは終わってもらわないと困る。
まさかこの状態から二次会がどうのと言い出す阿呆はいないだろうと思うが、人を阿呆にするのがアルコールというのは、目の前の惨状を見れば説得力の塊みたいな言葉になる。
とにかくこれ以上の延長戦はごめんだった。
かと言って周りに解散の音頭を取りそうな――というか取れそうな――人もいない。
私はしばらく考えて、結局、いつも通り一人だけ先抜けすることにした。
「ねえ、委員長」
二年前より相も変わらず黒髪眼鏡、変わったところといえば心なし肩幅が広くなったくらいの元委員長の肩をとん、と叩く。
「わわっ」
と彼は声を出してバランスを崩した。
そのまま畳の上に横たわる別の男にボディプレスをかましそうになる。ここでお好み焼き屋を大開店されても困るので、その肩をぐっとつかんで引き寄せた。畳の上に座る彼を、中腰の私が上方後ろ側から押さえつける形になる。
彼は器用に首で振り向きながら私を見た。
「あ、」
「会計ってどうなるの、これ。お金だけ渡して帰りたいんだけど」
向こうが話し始める前に用件を伝えた。
手伝って、なんて言われたらたまらない。
あの酔っぱらい集団の相手をする羽目になるのには同情するけど、同情だけで苦労を買い込んでると破産する。
というか男の方は男の方で処理してほしい。
私の背がいくら人より高めでも、流石に大の男を担ぐのは無理だ。引きずるくらいなら、何とかできるかもしれないけど。
「四千くらい?」
「いや、それが……。誰が伝票持ってるかわからないんだ」
「げ」
めんどくさ。
流石に食べて飲んだ分を清算せずに帰るわけにはいかない。
五千円を超えることはないだろうし、「釣りは取っとけ!」と委員長に札を押しつけて帰るという選択肢も思いついたけれど、そこまで今月の懐に余裕はない。
「たぶんどっちかが持ってると思うんだけど……」
委員長が口にしたのは、二人の同窓会幹事の名前だった。
一人は、私をこの場所に連れて来た友人。
もう一人は、ちょうど先ほどお好み焼きを生成しようとしていた男。
男の方は、目の前で真っ赤な顔をしながら幸せそうにいびきを上げている。
それはもう、幸せそうに。
まずこれは起きないだろうと。確信できてしまうくらい、幸せそうに。
「とりあえずこっちの方は何とか起こしてみるから。ごめん、向こうに訊いてきてくれないかな」
「……おっけー」
というわけで私は、現在破廉恥真っ最中の友人のところに戻った。
「おーい。伝票持ってる?」
机を挟んで呼び掛けたけれど、タイミング悪く、それは店内の別集団の笑い声でかき消されてしまった。
「おーい」
二度呼んだ。
また気付かれない。
仕方がないのでテーブルを回って、友人の傍まで行くことにした。
友人の破廉恥行為は現在進行形でエスカレートしている。
初め互いの膝に置かれていた手は、今やあられもないところを撫で回すような手つきになり、互いの視線は陶酔。
瞳と瞳の距離は今にもゼロへと近づき――。
おめでとうマイフレンド。
長年の恋慕が報われてよかったね。
目の前で死ぬほどねっとりした接吻を見せつけられながら、私はチベットスナギツネの顔で祝福した。
ぷはっ、と二人の唇が離れる。
「あ、ごめん。レシ――」
第二ラウンド開始。
チベットスナギツネ。
ぷはっ。
「あの――」
第三――、
「いや場所を変えろ!」
流石に我慢しきれず頭を引っぱたいた。
ごちん、と二人の額と額がぶつかる。
しかし酔った友人は痛みをあまり上手に理解できていないらしい。
「ほわ?」と声を上げ、今のごちんの正体を探す。
私と目が合った。
「あっは~ん、さっくにゃ~ん」
あっはーん、ではない。
快楽神経が完全に破綻しているような顔で友人は笑う。
若干狂気的なものすら感じる笑みだった。
「なになに? さくにゃんもちゅーするる?」
「しないから。それより伝票持ってる?」
「でんぴょう~? たべちゃった~!」
言って、友人はまた相手とキスをした。
私はいつの間にか握り締められていた右こぶしに、自分の暴力性を垣間見た。
そんなら胃袋から取り出してやろうか――、私の深層心理はそう訴えていたのである。
友人はひとしきりちゅっちゅと小鳥のさえずり的なそれを小刻みに鳴らした後、なぜかこちらに矛先を向けてきた。
両腕をこちらに大きく広げ、よろよろと飛び込んでくる。
「さくにゃんもちゅ~~~」
「い、ら、な、い~~!」
近付いてくる酔っぱらいの顔を両手で押さえて遠ざける。
拮抗。私より背の低い身体の一体どこに、そんなパワーが眠っていたのか。その凸凹か。そうか。ぐうの音も出ない。
ごめん委員長、こっちは無理そう――、思って、向こうに目線をやる。
けれど委員長の姿はそこになかった。
「あれ――、」
「咲耶さん」
「わっ」
いきなり後ろから声をかけられた。
男の声で。しかも名前で。
「いいんちょうだ~」
友人の言葉で、その声の正体がわかる。
「そっちは?」
「残念ながら完全に死んでしまって、僕じゃどうしようもなくなりました」
「死んだんだ……」
「こっちは?」
「見てのとおり、貞操の危機」
私がそう言うと、委員長はすかさず友人との間に割り込むように、一歩踏み出してくれた。
けれど、その背中が視界に映るより先に、友人が後ろへと倒れ込んだ。つまりは、お相手の方に。
肩には彼の手が置かれていた。
それに遅れて気が付いた。
「俺の彼女だぞ! 手え出すなよ!」
「あっは~ん」
あっはーん、ではない。
このときの委員長はとても困った顔をしていた。
「えぇ……?」と声に出していたし、助けを求めるように私を見た。
見られても。
その、困ります。
「伝票は持ってないんだね?」
とりあえずもう一度、気を取り直して聞くことにした。
「食べた~!」
委員長が愕然とした顔をした。
私は無言で視線で訴えかけた。
安心するといい。さすがにこのアホもそこまでヤギじゃない。単に持ってないと言っているだけだ。……たぶん。
しかしそうなると――。
視線は自然、向こうで完全に死んでしまった屍に向かう。
「委員長に身ぐるみ剥いでもらうしかないか……」
「え」
「なになに~? えっちなはなし~?」
大人しく座っていればいいものを、なぜか友人も話題に食いついてくる。
どう見てもこの酔っぱらいと話をして事態が好転すると思えなかったので、私は投げやりに返答する。
「いいから。こっちはほっといてそっちの彼氏とよろしくやってて」
認めたくないが、これが今日の私のファインプレーだった。
ファインプレーに、なってしまった。
「ホテル!?」
友人が叫んだ。
あたかも私の言葉をオウム返しにするかのような調子でそう言ったので、私は一瞬、自分が気付かないうちにそんな単語を口にしてしまったのかと不安になった。
委員長を見た。
目が合った彼は一瞬たじろぎ、顔を真っ赤にしながらぶんぶんと首を横に振った。一安心。
「ホテル行くの!? 三人で!?」
「何で私も数に入れた? 行かないから!」
「じゃあ四人?」
気の毒な委員長は、気の毒なくらい動揺した。
一方で友人と、その相手のテンションは天井知らずだった。
「よし、そうと決まれば!」
どう決まったんだ。
「二次会ホテル行く人ーーー!」
発言の内容が理解できず、私は自分の頭がおかしくなったのかと思った。
その言葉を契機に、はーい、と声がどぼどぼ立ち上がり、ゾンビどもが蘇った。
状況が理解できず、私は自分の頭がおかしくなったのかと思った。
委員長を見た。
自分の頭がおかしくなったのかと疑う顔をしていた。
「あ、」
そして急に何かを目に留めて、口を半開きにした。
私は視線の先を追った。
「う……、うーーーー、し。集金するぞーーーー」
ゾンビの中に、見覚えのある顔が紛れている。
その男、掲げた右手に白き紙片を携え立ち上がる。
未だ開店準備中らしく、青い顔で口元を押さえながら。
*
濡れるような気温と、肌を切るような風が、夜の空気に紛れて、冬の空から降りて来ていた。
「ほんと疲れた……」
「お疲れさまでした」
「あ、うん。委員長もおつかれ」
地方都市の深夜帯。
ショッピングセンターから漏れる、寒色暖色入り混じる頼りない電灯の色は寂しく。
濃紺の空に輝く星は、欠けつつある、それでも半分以上残った月の添え物のように頼りなく。
私たちの顔は、目の前の飲み屋から漏れる橙の光に照らされていた。
結局、最後まで残ったのは私と委員長の二人だけだった。
集金を始めた幹事たちは、四から先の数字を数えることができなくなっていた。会費は四千円。自分の分だけでおしまいだ。
一人あたり千円札四枚。
膨大な数のお札を押し付けられそうになっていた委員長をさすがに見かねて、お勘定を手伝うことにした。もう他にろくに頭が働く人間も残っていなかったので、二人で何回も数え直して、こうして会計を終えたときには、もうすっかり疲労困憊だった。しばらく人のお金には触りたくない。いや、三十億円くらいなら別だけど。
「みんなは……、今頃二次会かな」
「さあ」
委員長の呟きに、答える声は素っ気なくなった。
ぐでんぐでんになった同級たちは、お札を数え終えた時点でさっさと飲み屋から追い出した。中にいても邪魔だし、店の前にいても邪魔だ。
正直言うと、店から出た瞬間に、二、三人くらい倒れてるのがいるんじゃないか、と心配していた。それが杞憂で終わったのは本当にラッキーだったと思うし、後のことはもう考えたくない。少なくともここから立ち去ることはできたんだから、電車で帰るなり、二次会に向かうなり、まあその、よろしくやるなりなんなりしてるだろう。そう信じる。
「行きたかったの? 二次会」
聞くと、委員長は微妙に困ったような顔で、
「うーん……。咲耶さんは?」
「勘弁してほしい」
「あはは、だよね……」
あ、とそこで気付く。
気付くが、別に今じゃなくてもいいだろう、と話を移す。
「委員長、電車?」
「ああ、うん」
「私も。じゃあ、帰ろっか」
あんまり長いことこんなところにいると風邪を引いてしまう。
コートの襟元をきっちり絞めて、徒歩二十分ちょっとの駅へと向かうことにした。
足取りは、自然ゆっくりになった。
途中で酔っぱらいの集団に再遭遇したらたまらないので。
するとこの時間、沈黙ばかりでは耐えがたいものも生まれる。
「あー……、元気にしてた?」
だから、今更ながらに、こんな話を始めたりする。
「うん、まあね」
ありきたりな質問だったから、答えもありきたりだった。
委員長も私も、高校を卒業したらそのまま大学に進んだ。
人のうわさに疎い自分にしては珍しく、私は委員長がどこの大学に進んだかまで知っている。
同じ大学だからだ。
「そっちは?」
「まあまあかな。とりあえず留年はしてないよ」
「あはは」
だけど不思議なもので、こうして顔を合わせるのは、卒業式以来――、いや、合格報告に学校に来た日以来か。
学部が違うっていうだけで、こんなにすれ違わないものなんだな、と今になって思った。
真っ黒な道路の上を、白い車が、街灯の色に染まって走っていく。
地面の硬さは、タイヤの音からしかわからなかった。
そっか。
そうだよね。
そんな、時間を埋めるばかりの言葉を、繰り返して歩く。
だけどタイミング悪く、目の前で、長い長い横断歩道の信号が、赤く変わった。
立ち止まって、口から上った白い息が、その赤色にきらきらと照らされるのを見ていると、少しずつ口数が減っていく。
歩いているときと、止まってるとき。
不思議に何か、心の感じが変わって、何か意味のあることを話さなくちゃと、追いやられる気持ちになる。
その気持ちはどうも、委員長の方も同じだったらしい。
「なんだか、懐かしいな」
大学の話じゃ、なくなった。
「ん?」
「いや、こうして歩いてると、文化祭のときみたいだなと思って」
へえ、と頷く。
「そんなことあったんだ」
うちの高校は当日に打ち上げするのが禁止だったから、文化祭の日じゃなくて、たぶん前準備のころの話だったんだろうな、と思う。
私は知らない話だ。三年間ずっと、前準備のきゃっきゃしたところは避けて歩いて、当日シフトに入りっぱなしになることでバランスを取るタイプだったし。大体、文化祭の準備って目標だけ大きくなって、見ててハラハラするから関わりたくなかったし。
「あ、いや。その……」
「?」
委員長が、何か言いづらそうにして、マフラーを指でいじった。
そのとき、ちょうど息が眼鏡に当たったみたいで、薄く曇った。
ちょっと笑った。
「覚えてないかな。三年のとき……」
その言いぶりだと、私も知ってる話みたいだけど。
記憶を探ってみた。
二年生と三年生のとき、どっちも委員長とクラスが一緒だった。
三年生のときの出し物は……、えーっと、お化け屋敷のときだっけ。
思い出してきた。
でも確か、あのときも準備には参加してなかったと思う。いやだって、お化け屋敷とかどう考えても準備大変そうだし……。
記憶にあるのは丸一日受付に座っていてお尻が痛くなったこと。あの幽霊の……三角巾?みたいなのをなぜか付けられて、髪に変な跡がついたこと。
あとはシフトを守らなかった人に代わって、机の下からマネキン生首を動かしたり、自転車の空気入れをポンプにして風を吹きかけたりしてたこと。
他には……、
「ほら、咲耶さん、補修手伝ってくれたから」
「……あー」
先に答えを言われてしまった。
そういえばそんなこともあったかもしれない、とさらに思い出してみる。
何日目か忘れたけど、あ、いや。二日目か。
その日の終了三十分くらい前になって、クラスの子が出てるバンドのステージ演奏があったんだ。で、そろそろ人もいないし、みんなでステージ見に行こうか、って話になって、早めに閉じちゃおうって話になって。
で、後片付けだけは一応してこう、って話で私と委員長だけが残ってせこせこやってたら、文化祭委員が来て。
抜き打ちチェックで暗幕がボロボロになってることが発覚して。
「あったねー、そんなこと」
よく覚えてるな、と感心した。
それで補修材が足りないことに気が付いて、二人でホームセンターまで買いに行ったんだった。その道が、今歩いてる道と一緒だった。
まあ、でも。
「結局みんな戻ってきて、直すのすぐ終わったよね」
「あ、うん。そうなんだけど……」
委員長はまた歯切れ悪く言った。
この流れで「けど」がつく要素あるかな?と首を傾げる。
首を傾げるといえば信号待ちで、なかなか青に切り替わらない。
長すぎないかな?と思ってちょっと周りを見てみると、自分が間抜けだったと気が付いた。
押ボタン式。
委員長はまだ気付いていない。
というか何だか遠くを見ている。視線の先を追ってみた。
空しか見えない。
とりあえずボタンを押そう、と踏み出そうとして。
「正直、咲耶さんが手伝ってくれるって思わなかったから……」
聞き捨てのならないことを聞いた。
「…………へえ」
「あ、いや、悪い意味じゃなくてさ! ただ、その咲耶さんってそういうの、自分には関係ないって関わらないタイプかと思ってたから……」
それは悪い意味だ。
確かに私は大抵の厄介事は避けて歩くようにしてるけど、何もかも見て見ぬふりで放っておくわけじゃない。多少なり自分にも関りがあって、他に誰も解決できる人がいないなら、見るに見かねて手助けすることもある。今日みたいに。
……まあ、あんまりひどいことになりそうなときには、しないこともあるけど。
「ふーん……」
「うん。だからあのときうれしか、……あの。もしかして。怒ってます?」
「まあ、それなりに」
「え、ええ!? ごめん、そんなつもりじゃなくてさ……」
わたわたと、委員長が弁解を始める。
まあ、悪気がないというのはわかる。
大抵の問題は、悪気とは別のところから生まれるんだけど。
「その、だから。咲耶さんが悪いってことじゃなくて。僕が誤解してたっていうか、そのときようやくちゃんとわかったっていうか……」
しかしここまで明け透けに悪気がないと、責め立てる気も失せるってもので。
「ところでさ」
いい人が得をするなんて珍しい場面だな、なんて思いながら。話を変える。
「委員長って、私のこと、名前で呼んでたっけ」
咲耶、と。
さっきから、今日ずっと、委員長は呼んでいた。
でもきっと、高校生の頃は違ったはずだと思う。私のことを下の名前で呼ぶのなんて、同性ではともかく、異性ではいなかった。……記憶にある限りは。
だから、委員長が今日そんな風に呼んできたことにも、そもそも私の名前を知っていたことにも驚いた。
大学デビューだったりして。
意外と今の友達を相手にしたら、みんなそんな風に呼んでたりして。
「……いや、高校の頃は名字で呼んでた」
その答えに、とりあえず記憶が確かなことは保証されて。
「けど、」
また、よくわからない、けど、がついて。
「今日は、咲耶さんのこと、名前で呼んでみたかったから……」
よくわからない、理由がついた。
「…………」
「…………」
沈黙。
沈黙。
……沈黙。
今のはどういう意味かしら。
ちらっと、横目に窺ってみる。
委員長は、まあ明らかに何かを堪えるような表情をしてるんだけど、顔が赤いかどうかは信号機の真っ赤な光に紛れてわからなかった。
私はとりあえずボタンを押してみて、それから光が青くなるまで待ってみようかと思ったんだけれど、特にそれが何の解決にもなっていないことに、押してから気が付いた。
「……えと」
とりあえず、それだけ声に出して。
残念ながら、委員長はまだ口を開かなかったので、考えて。
たぶん、そういうことなんじゃないかな、と。
思うんだけど、もしかして自意識過剰かな、とか。
いやでも、ここは自惚れてみる場面なのかな、とか。
いやいやそもそも自惚れてみて、一体私は何と答えるつもりなんだ、とか。
そういう思考が頭から溢れ出して、夜の横断歩道の、こっちから向こうまで、浸水させてしまうくらいの時間が。
沈黙が。
信号が、青になっても。
私たちは、立ち止まったまま。
口を開いたのは、結局委員長の方が、先になって。
「つ……。つ、つきが」
月が綺麗ですね。
と。
そんな、いかにも今日のため、このときのため、洒落た言い方を勉強しておいたような言葉を言って。
私はといえば。
その綺麗な月の影に、どうか顔の色まで隠れてしまいますように、と思いながら。
こんな言葉を口にした。
「――ぶっ殺してあげようか?」
如何にして私は新年早々「ぶっ殺してあげようか?」等と口にする羽目になったか。
答――、
死んでもいいわ、なんて。
恥ずかしくて、死んでも言えそうになかったから。
そして信号は、また赤く変わって。
この夜に、立ち止まるための、理由ができる。