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海辺の漁村と泡沫の記憶

遅くなってすいません(汗)



「おいで。行きますよ」


 自分を呼ぶ声がする。

 幼い頃から聞きなれたその声は、鼓膜にしっかりと吸い付き、心を落ち着かせる。


 夕暮れの空と、その光を反射する海が美しかった。

 その前に立つ人の髪は茶色く透き通り、こちらに手のひらを向けて優しく微笑んでいる。


 地をかけて彼女の元に寄り、その柔らかい腕の中に飛び込んだ。


「んもー、可愛いんだから。さあ、帰りましょう」


 そう言って頬に手を触れさせ、むにむにとされる。

 洗いたてのタオルに包まる時のような至福を感じ、顔を綻ばせた。


 これは今でも時々思い出す、幸せな記憶である。

 しかし、彼女の名前を俺は思い出せない。


 ****


 目を開けると、見慣れた天井がうつる。

 しかしなんでだろう、どうにも木目が必要以上に歪んでいる気がする。

 瞬きをすると、冷たい雫が左頬を伝った。


 ああ、泣いていたんだ……でもどうして?


 俺は寝ていた状態から身体を起こして、それが、枕に作った丸い小さなシミをじっと眺める。

 何やら夢を見ていたのは分かるのだが、どんな夢だったのかは全く思い出せない。思い出そうと記憶の糸を手繰っても、まるで獲物が逃げてしまったように手応えがない。


 そのまましばらくぼうっとしていると、右側の襖がタンッと勢いよく開く。


「ほら!! いつまで寝てやがる。さっさと起きろ」


 そう言って、髭を生やした厳しい顔でこちらに向かって仁王立ちをしているのは、俺の父親だ。身長は俺よりちょっと低いぐらいだが、毎朝の漁で鍛えたその体は、顔と相まってえも言われぬ迫力がある。

 父はそれだけ言い残すと、部屋の向こうへと消えていってしまった。


 俺は未だ睡気の余韻が離してくれそうになく、ぼやけた頭でその背中に返事を返した。


 茶の間に行くと、既に父は朝食を用意しテレビの天気予報を見ながら新聞の記事を読んでいた。

 一般家庭でもよくあるであろう朝の光景だが、時計が指している時刻は夜中の二時十分。よく見ると、新聞記事の日付も昨日のものである。


 この時間で起こされて、寝坊助扱いされるのだからたまったもんじゃない。でもこれが漁師にとっての普通なのだ。

 彼らは全員超がつくほどの早起きをして、朝一番に海にくり出す。そして、事前に仕掛けておいた網などを引っ張りあげて魚を取るのである。


 一般高校生はこんなに早く起きる必要などないのに……という思いを抱きつつ、俺は窓の外のまだ白んできてすらいない夜空を眺めた。


「ごっそさん」


 先に食べ終わった父は自分の食器だけを流しに入れ、歯磨きをすると玄関に行った。そして、毎朝の出勤衣装である防寒着を着込み、ゴム製の長靴を足に引っ掛けて出ていく。

 古い引き戸式の玄関扉の音を聞き終わるまで放心状態だったが、それの締まりきった音で目が覚める。


「はあ、朝ごはんは四時ぐらいにしようかな」


 本当は漁に行く父に合わせて、こんなに早く起きる必要は無い。子供じゃないんだから、起こしてくれるのは目覚ましで十分だ。では、なぜこんな時間に起きてるのか……その理由は父が俺に漁師を継がせたいからだ、と思う。


 俺が地元の高校に通うことになった時、それまでは何も言ってこなかったというのに、いきなり今度から一緒の時間に起きるように言いつけてきた。最初はそんなの気にせず自分の勝手だと思っていたのに、学校初日に部屋に乗り込んでこられ布団を強制的に引っペがされたのだ。これには従うしかなかった。


 あの時の絶望は今でも覚えている。快適な自分の楽園を他人に侵される不快感を味わうぐらいなら、自分で壊した方が幾分かマシだ。そう思ってからは不本意ながらなるべく自分から起きるようにしている。

 そんな生活にももう慣れ、この登校までの暇な時間を最近はよくジョギングで潰すようになった。


 今日もそうしようと洗面所で顔を洗い、自室のジャージを発掘して着る。そして、水道の水を入れたペットボトルを持つ。最後につきっぱなしだったテレビの電源を切り、外に出て鍵を閉めた。


「まだ涼しいな……」


 もうすぐ夏になろうとしている今は、この夜中の適度な気温が心地良い。どうせなら年中この気温ならいいのに……俺はそう独りごつ。

 時間が早いからか走り出してしばらく経っても、人はおろか夜道をゆく車も見かけない。


 一定のペースで走り続ける俺を白いスポットライトが捉えては離し、照らしては消えを十回ぐらい繰り返したところで目の前に緑のネットに囲われた建物が見えてくる。


 正面の建物は今は電気も消えて夜の暗闇に没しているが、これは地元の小学生達が通う学校で、昼間は子供たちの声でとても賑やかだ。そして、さっき走ってきた道は彼ら、彼女らの通学路となっている。


 俺はその校門の前の道を挟んで真正面にある市営のバス停の椅子に腰をおろした。そのまんまの姿勢で校舎を眺めていると、昔の記憶で特に印象に残っていることだけが断片的に思い出される。その中に含まれない楽しくもない学年の記憶はもうどこかへ飛んでいる。


「はあ、良い汗かいた……水、水」


 持ってきていたペットボトルの水を、蓋を開けて飲む。一度空にしたのを再利用したやつだったので、カチッと音がなる事は無い。

 それがこの静けさを壊さないように気を使っているように思えて一人笑った。



 午前中の授業終了のチャイムが鳴る。

 ずっと机に向かっていてこった肩をストレッチで伸ばしていると、見知った顔がこちらに歩いて来るのが見える。坂部 智之(さかべともゆき)だ。髪は短く切り揃えられ、その顔からは優しそうな印象を受ける。目がタレ目だからだろうか?


「今週末の海開きの式典お前出るか?」


 開口一番に彼はそう言った。

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