仙人の酔狂な遊戯
首を右に回して、壁にかかっている時計を見る。白い盤に、黒い文字が書かれているこれまたシンプルなデザインの時計だ。針は丁度七時を指していた。
明日はお偉いさんが来るので、少し準備の為に残っていたのだが、いつの間に寝てしまったのだろうか。
蛍光灯がついているのは最早この部屋だけである。それでも、誰かいないかと耳を澄ましてみるが、聞こえるのは各部屋に設置されている、部屋の隅の空気清浄機の動くゴウンゴウン、という音だけだった。
とりあえず、もう今日はこれ以上は残れない。とっとと帰り支度をして帰宅しよう。
俺は部屋の電気を消し、廊下に出る。自分のカードキーを扉よこの機械に通して、ロックをかける。
建物から出た俺は凝り固まった背筋を再度伸ばして、後ろを振り向く。
街灯のあまりない場所に建っているので、電気をすべて消した様子はさながら廃病院である。この研究所が面している暗い道を真っ直ぐ進んでいくと、在来線の通る駅がある。
俺は家の最寄り駅からそこまで電車に乗って、約三十分程揺られてやってくるのだ。
「明日来るのは、どんな人なんだろうなあ。あんまり変わった人じゃないと良いけど……。まあ、この業界で有名な人なんて変わりもんか。それでもすごい人には違いないんだろう、研究所の先輩達も動揺してたし」
そう言って、明日の来訪者の人物像を想像する。来訪者はうちの研究部門には直接関係無いが、仲良く交流している同輩研究員の部門に来るらしいのだ。
この研究所は十数個の研究部門があり、それぞれが研究のための部屋を持っている。またそれ以外に休憩所などの共有スペースが、いくつかあってこの建物は構成されているのだ。
なので、研究員間の交流も盛んで、明日に部門が違うからと言って合わない可能性がゼロではない。
そういう訳があり、気にしているのである。
もしかしたら、目をつけてくれるかもしれない。
「おっ、もう駅だ。次は……もうすぐか」
改札前の電光掲示板を確認してから、ICカードを使う。階段を降りると、もう電車の明かりが見える。疲れた目にライトが刺さる。
ふぉーん。
ホームの端っこに突入した電車は音を鳴らして、奥に入ってくる。俺はそれの一つの扉に入って、家へ帰るのだった。
****
「で、あの方が噂の人ですか?」
「そ、こちらに歩いてくるのが見えるでしょう?」
「あのー、失礼ですけど、かなりお年を召されてません?」
「お偉いさんなんだから、年配の方でも不思議ではないでしょう。と言ってもいささか無理があるかしらね」
俺が今どこにいるかというと、研究所の共有スペースの一つであるちょっとした休憩所だ。椅子や自販機もあって、少し息抜きするのに丁度よく、普段から贔屓にさせてもらっている。
なぜ、業務時間中ましてや、出勤したばかりの時間なのにもう休憩所にいるのかというと、ある話が飛び込んできたからだ。
昨日言われてたお偉いさんが今下に来てるらしいぞ、という。
それを聞いた俺たち研究員はつい気になって出てみると、丁度廊下を歩いてこちらに向かってきているところだった、という訳だ。
両脇にこの研究所でも上の方の人達を引き連れていて、まるで大名行列のようだ。それが気になるものは多いらしく、他にも出ているものや、自分の持ち場につきつつも様子を伺っているものがいる。
俺の隣にいるのは一緒の場所(脳回路機能研究チーム)に所属している二つ上の先輩で、女性の研究員だ。最初にここに来た時に面倒を見てもらったのをきっかけによく話をすることがある。
「うーん、あの真っ白い髭にシワの刻まれた優しそうな顔。なんだか仙人みたいですねー」
「あっ、確かにそうっぽいですね……って、へ?お前いつの間に!!」
「あら、村井くんじゃない。あなたも気になって見に来たのね」
「はいー、一目見ておきたいですしね。なんかご利益ありそうですー」
「あなたの場合わざわざ来なくても、後で見れるでしょうに。今日の目的は"そっち"の訪問なんだから」
「それはそうですけど。これはお出迎えですよー、好感度アップです!!」
「真面目に研究してた方が好感度アップだと思うけどな」
呆れながら俺が返した言葉に、一瞬凍りつき、目をキョロキョロと動かし始める。
いつの間にか俺の横でしれっと会話に参加している彼は、俺と同じ頃に研究所に入ってきた同輩と言っていい人で、一つ隣の研究部門の人間だ。
名前は"村井 飄醐"、名前は画数が多くて硬い印象を受けるのに、本人の性格は大変打ち砕けている。良くも悪くもフランクなやつだ。
「なんか聞いた話なんだけどね。あの方、脳の研究が本業じゃない、私達もそうだけど。で、ホントかどうかはわからないんだけど……どうやら自分を使って実験したりもしてるらしいの。だから、見た目は老けてるんだけど、中身、つまり脳はすごい溌剌として若いって話でね。それでまだこの業界でバリバリ活躍してるっては、な、し」
一瞬そうか、と納得しかけたがそんなわけない。確かに体の年齢と脳年齢は違うというのはあるが、それにしたって、信じ難い。きっと捏造された噂に過ぎないだろう。
それに人を使っての研究はリスクがあるため、慎重に行うべきだ。
脳が若くなるトレーニング法を発見して、それを実践しているというのなら信じられるが。
改めて観察してみると見事な海老腰だ、水戸黄門の腰だってあんなに曲がっちゃいない。
という風なある意味失礼な考えをしている間に、一行は私たちの近くまでやってきていた。
その内のこちらから見て右側の先生が眉根を寄せながらこちらを見た。
これは、怒られるかな?
と思っていたところ、予想は当たっていたようで、彼はずんずん歩いてきて、息を吸う。
「すいませんでしたー!!」
突然隣から、謝罪を述べる声が聞こえ頭に衝撃を受けたと気づくと、頭を下げさせられていた。
横目で見ると村井も同じ状況だ。
自分の今の格好はさておき、楽しんでいるとそれがバレたのか背中を叩かれる。
「あんた達、休憩は終わりだ。戻るよ!! では、失礼しましたー!!」
「失礼しましたー。ではまた後でー」
もうちょっと見ていたかったが、しょうがない。先輩のためにも大人しく帰ることにしよう。
そう思って持ち場に戻るために、背を向けて歩き出す。しかし、一歩踏み出そうとした時に後ろから声をかけられて止まらざるを得なかった。
「のう、君たちはどこの所属かね?」
その言葉に、俺は惚けた顔をしてしまう。
原因は、決して質問の意味がわからなかったのではなく、思いもよらない人が声を発してからだ。
俺たちに迫ってきた先生も、何がしたいのだろう、という疑問符が頭の上に大きく出ている。
こっちが聞きたいが、聞かれたからには応えなければならない。
「高麗と申します、脳回路機能理論研究チームのものです。こちらは同じチームの後輩です。今日はようこそいらっしゃいました」
先に言われてしまったので、一応挨拶だけしておくことにする。
「どうぞよろしくお願いします」
「僕は、その隣の脳伝達機能研究チームの村井ですー。今日はよろしくお願いしますー」
それを聞いた彼は片眉をあげて見せる。
「ほう、君たちがそこのチームか。わしの研究部門と近いな。そっちはこちらこそお世話になるよ。面白いものを期待しておるぞ」
「はいー、精一杯頑張らせていただきますー」
あんなにプレッシャーのかかる言葉をかけられても平気で返してみせる村井をちょっと尊敬していると、今度こそ後ろから首根っこを掴まれて、俺たち三人はその場から退散した。
その時に二人は気づいたのか分からなかったが、俺は明らかに視線を感じて背筋に汗が流れた。