64話
青い空。
白い雲。
優雅に飛ぶ渡り鳥。
青々とした草原はどこまでも広がり、やがてなだらかな稜線へと変わる。
視線の果てにはこの国一番の高峰、天竜が住むといわれるマレアー山へと続いている。
雲よりも高く突き出た山頂はまさしく霊験あらたかで、遠目から拝む人は多い。
しかし容易に登れる山ではないし、そこに住む天竜もめったに姿を見せない。
姿を見せたとしてもそれは天変地異や凶事の前触れとも言われ、崇められつつも恐れられている。
だからこのマレアー街道を通る者は、マレアー山よりもその手前……迷宮都市レイノールを目的としている者が多い。
マレアー山とはうってかわって、迷宮都市には霊験もありがたさも皆無だ。迷宮の主は竜とは違って当たり前の如く存在している。顔を見た者も多い。なにより、野心にぎらついた冒険者達を煽り、挑戦を待ち構えている。そして迷宮のもたらす潤いが様々な文化や娯楽を栄えさせ、多くの人間を飲み込む。ただひたすらに人間のきらめき、あるいは人間の欲深さを追求したような俗っぽさの塊のような場所だった。
そんな街道を、一輌の馬車がゆったりと歩みを進めている。
つややかな栗毛の馬は頑健で、長旅の疲れも見えない。
白くペンキで塗られた車体には痛みの一つも無い。
家紋もなく装飾もさほど派手ではないが、揺れ具合から見て良いバネを使っているのだろう。
さては身分を隠して巡礼に来た貴族か、あるいは僧侶あたりか。
少なくとも、旅慣れた商人などではあるまい。
それならば、あえてもう少しみすぼらしい馬車を使うものだ。
迷宮都市に来るというのに野盗が舌なめずりするような馬車に乗るなど、認識が甘過ぎる。
道を進む側にとって草原が広がっているように見えても、街道の途中で林になっていたり、岩が点在していたり、隠れ潜む場所はいくらでもあるのだ。丁度俺達が街道の死角となる岩場に隠れているように。
「よし、行くぞお前ら」
「おう」
俺……元冒険者、今はしがない野盗のヘルマンは、こうして日銭を稼いでいた。
これまで銀等級の冒険者として名を馳せた。そのつもりだった。
だがあるとき迷宮で敗北して軍資金を無駄にし、競竜にのめり込み、住むところにも困り、やがては借金に手を出した。夢と野心のための冒険の日々が、気付けば月々の返済のための冒険となり、あるとき借金取りを返り討ちにして今や天下のお尋ね者だ。
もう少しだけ腕が乏しければ、剣を捨てて諦めることができた。
もう少しだけ強ければ、こんなことにはならずに何もかもを得ることができた。
だが、まだ終わっちゃいない。
見たところあの馬車は金持ちだ。
馬と馬車を売っ払うだけで、俺と手下は新たな名と身分を買えるくらいの金は手に入る。
そう、あと一歩。
諦めなければきっと夢は叶う。
「だから……手前ら! 馬車から降りやがれ!」
俺達は一斉に茂みから飛び出して馬車を囲った。
「なんだ貴様ら!?」
御者の男は体格の良い三十絡みの男だ。
腕は立ちそうだが、飛び道具はもってない。
ならば数で押せる。問題ない。
だが、高級な馬車は魔法仕掛けの防護が働いていることが多い。
迂闊に魔法や矢を放って跳ね返されることもある。籠城されて時間をかけられたら厄介だ。
「御者は殺さねえしお前らも殺さねえ。馬と馬車……それと金目の物を出せば許してやる」
事実だ。嘘じゃない。
皆殺しは後腐れが無いようで厄介だ。どこで誰を殺されたか、どのあたりの盗賊が手を出したか……という話は熟練の騎士には推測されちまうし、部下共も娼婦に武勇伝として話すことまでは止められねえ。だからカタギに戻るつもりなら尚更手は出せない。
もっとも、しばらく人質になってもらうなり遊ばせてもらうなりのことはするが。
「……良いだろう。御者には手を出すな。というか御者には魔術の盾を張ってある。手を出して怪我するのはそちらだぞ」
中から男の声が聞こえてきた。
御者の方に小石を指で弾く。
すると小石が御者に届く前に、びりっという音と共に弾かれた。
「本当のようだな」
「こじあけようとしても無駄だ」
「それはどうかな? どれだけ持つかは疑問だね」
御者は杖も何も持っていない。何より魔術師って顔じゃあない。
ならばあれは魔道具か、あるいは中の人間が魔術師か。
人間の使う魔術ならば、魔力を強く込めればそれだけ強い防壁を張れる。
だが魔道具による防壁は、長持ちするがそこまで強くはない。
どちらにせよ破れる。
「言っておくが時間稼ぎしようとしても無駄だぜ。この街道は長いし、国の騎士もこのあたりにゃ居ねえよ」
ハッタリだ。
騎士がどこをどう巡回するかはある程度までしか予想できない。
あくまでこのあたりにいない「かもしれない」だ。
時間はかけれられない。
「わかったわ、今から出る。手荒な真似はしないで」
「アイラ!」
中から、男と女の揉める声が聞こえる。
「へっ、女を庇うとは見上げた根性だが、女のほうが賢いみたいだな」
だが、その賢さと従順さでは、この先やっていけまい。
俺程度の悪党の言いなりにされてるようじゃ、誰かの食い物にされるのは目に見えている。
だから……
「俺がもらってやろうじゃねえか」
そして、馬車の内側の鍵が開く、かたんという音が聞こえた。
ゆっくりと、扉が開く。
二人の部下が剣を構えつつ、不測の事態に備えている。
このタイミングで暴れる奴もいる。
警戒は怠らなかった。
そのはずだった。
◆
気づいたときには、男が二人、真後ろに吹っ飛んでいた。
放物線じゃない。直線を描いて、だ。
「……何しやがったあっ!?」
馬車に駆け寄る。
扉を開けた瞬間に目にも止まらぬ早さて魔法を撃ったのか?
馬車の扉からは長身の男が出て、魔術を唱えている。
まずい、手練れか。
「ちっ……! おい! 油と魔法だ! こうなったら仕方ねえ、焼いちまえ!」
恐らく御者や馬車を守っているのは魔道具で、今この男が唱えているのは本気の攻撃魔法だ。
魔力もこれみよがしに高まってる。
くそっ、こんなところで魔法の打ち合いなんて無茶苦茶しやがる。
こんな状況で火の魔法でもぶっ放したら、敵も味方も死にかねない。
……仕方ねえ、殺すか。
「おい、まだか!」
反応が遅い。まだ驚いてるのか。
流石に俺一人で魔法使いの相手は無茶だ。
だが、援護さえあれば――
そこで、振り返った。
びゅうと、何かが通り過ぎた。
風よりも重く、獣よりも迅い、何かが。
何か……って、一体なんだ。
「あ……れ……?」
気付けば、20人近く潜んでいた部下達が、昏倒している。
馬鹿な。
嘘だろう。
こいつらは俺と同様、身持ちを崩した元冒険者のゴロツキ達だ。
俺と同じく銀等級だった奴もいる。
貴族の使いっ走りをして上げた等級じゃない、迷宮都市で迷宮探索をした結果の、純粋な腕っぷしだけで得た名誉だ。
だというのに、
「ぐわっ!?」
一人の部下が倒れた瞬間、ようやく目が慣れて見えた。
脚。
それも、女の。
右足を軸にして左足をぐるりと大きく駒のように回し、大鉈のような軌跡を描きながら部下の男の胸板にあたり、弾き飛ばした。
そう、まさに弾き飛ばされたと言う他無かった。
女の脚と同じ速度で真横に吹っ飛んでいく様子はまるで人間が投げ矢にでもなったかのようだ。明らかにスケール感がおかしいのに、当たり前の自然現象のようにさえ思える滑らかで淀みのない動きだった。弾き飛ばされた部下の体は別の部下に衝突し、そして昏倒した。
「よし、と」
そこでようやく、女の姿をあらためて目にすることができた。
黒く長い髪を紐でしばり、馬のしっぽのようにふわりふわりと揺れている。
服は、どこか奇妙だった。
革のベストをきつく締め、白くすらりとしたズボンを履いている。
別に男装をしているわけではない。女性用の乗馬服はこういうものだ。
奇妙なのはそこではなく、服の上に着ているものだった。
ベルトで腰に剣を吊るしている。だが抜いてはいない。
そして脚に履いているのは乗馬用のブーツではなく、鋼鉄の具足だ。
ああ、そうか。
馬車で大仰な魔法を唱えていた男は、囮だ。
この女が存分に動くため、あえて声高に呪文を唱えて注意を引いたのだ。
「一応聞くけど、縄に付くつもりはある?」
残された。
俺だけが。
俺がこの盗賊の頭目だとすでに見抜かれていた。
しかも頭目を倒して切り抜ける……ではなく、頭目を残して完璧に片付ける。
今ここにいる女は、そういう選択を取った。
完全に、侮られた。
いや、侮られたのではない。冷静に、そう判断されたのだ。
「うっ……」
何もかも、俺の敗北だ。
盗賊として培ったものすべてが通用しない。
「せめて……」
「ん? なに?」
「せめて、剣を抜いてくれ」
最後に残ったのは、なけなしのプライドだった。
剣を抜かせずに徒手空拳でやられては、ここまで付き合った部下にさえも面目が立たない。
それに興味があった。
これだけの女が、どんな剣を振るうのかと。
「……仕方ない」
女が、剣を抜いた。
やや反りの入った片手剣だ。
おそらく魔剣。
だが、あれだけの身のこなしは魔剣に頼るだけでは無理だ。
蹴りを入れたときの女の動きを見ればわかる。
たゆまぬ鍛錬によって体幹がしっかりと鍛え上げられていなければ無理だ。
じゃじゃ馬を乗りこなすには熟練の腕が必要なように。
すらりとした体からはわからない、踏み固められた土台がある。
「……いくぞ」
思い出す。
子供の頃の剣術道場の頃、絶対に勝てない相手……師匠と向き合うときは、こんな気分だった。
剣を手にした瞬間に勝敗は見えている。
だがそれでも、万に一つの勝機はある。
こんなことを思い出すのも久しぶりだ。
師匠の振るう剣はきれいだった。
王都や迷宮都市にいる、欲望にぎらついた冒険者どもとは違って。
俺なんかとは違って。
なんで今まで忘れていたのか。
「ちぇりやああああああ!!!!」
何もかもを忘れて踏み出した。
大上段から、まっすぐに振り下ろす。
若い頃に何度となく繰り返した型だ、全力の速さを出せる。
力に自信のある奴は打ち返してくるだろうが、見たところ向こうは決して安物の剣ではない。身のこなしの速さを武器にしているタイプだ。
となると、振り下ろした後の隙を狙ってくる。
女は予想通り、教科書のお手本のような動きで俺の剣を避けた。
「甘いッ!!!」
足を踏み出す。
大きく大地を踏みしめ、深く沈んだ腰をぐいと突き上げる。
肩は固定し、足首、膝、腰の動きだけで力を解き放つ。
まるで体当たりをするかのような突き。
これが俺の本気の一撃。
前に出ることだけを考えろ。
故郷での剣の鍛錬で、何度となく言われた言葉だ。
俺は前に出る。何度失敗しようが、前を向いている限りは敗北ではない。
そのはずだった。
剣の真正面にあったはずの女の体は、なぜか剣をすり抜けていた。
「……あっ、ああ……」
この女は幽霊か。
冥府から来た死神なのか。
そんな馬鹿げたことを思ったのは、重さをまったく感じなかったからだ。
確かに突いたと思った。
だが、剣が届く一寸手前で、その姿が、風に舞う木の葉のように舞い上がった。
気付いたときには、俺の突きは空をさまよっていた。
そして女は、まっすぐに伸びた俺の剣の上に、静かに立っていた。
だというのに、全く、重さというものが無い。
いかに身体が軽かろうとも、足は鉄の具足で守り、剣を持った女がこんなに軽いはずがない。
「こなくそぉ!!!」
破れかぶれで剣を振り上げる。
だが、自分が力をこめた瞬間、今度は凄まじい重さが腕を襲った。
まるで、幽霊が生身の人間に戻ったかのような感触。
安堵さえ感じる。
だが、その安堵はすぐに目の前に迫る剣の柄によって絶たれた。
柄で顎を揺すられたと思った瞬間、ただ青い空だけが視界に映っていた。
◆
「ふう……」
盗賊20人近く、無傷で制圧できた。
以前の自分なら手傷くらい負っていただろうが、今ならば問題無い。
「アイラ!」
「アドラス、片付いたわ」
「これは……援護する暇が無かったな」
私のところにアドラスが駆け寄り、驚いた顔をしながら周囲を見渡す。
「ううん、注意を引きつけてくれたから自由に動けた」
ただ囮になっただけではなく、御者と馬車を守ってくれた。
彼が考えた作戦が無ければもっと時間が掛かっただろう。
長期的な判断力は彼には勝てそうもない。
「奥様ぁぁああ! ごっ、ご無事ですか!」
「あー、もう、大丈夫って言ってるでしょ」
馬車の中から小柄なメイドがひょっこり顔を出した。
ウェリング家の新人メイド、ジルだ。
ジルは構わず、むせび泣きながら私にしがみついてきた。
「はいはい、大丈夫大丈夫」
この子、私より年上なんだけどなぁ……。
ともあれ、頭をぽんぽんと撫でて慰める。
この手の荒事に耐性が無いならば仕方ないだろう、うん。
「アイラ、すまない。少し手伝ってくれ」
「あっ、はーい」
見ると、アドラスが盗賊の頭を紐で縛っていた。
「迷宮都市までもう少しだからな。突き出そう」
「トラブル無しには行かないものね……」
優雅な馬車の旅……それもアドラスが職人に作らせたオーダーメイドの馬車で実に快適な旅路だったが、それでも平穏無事というわけには行かなかった。そもそも街道の治安が良くないとはいえ、この先の道程にも様々な困難が待ち構えていることを想起させた。
「……早く止めないと」
私は姉の暴挙を、野望を、阻止しなければいけない。
私達は我が実家とウェリング家を守るため、王都から迷宮都市へと旅立っていた。本来ならば、私もアドラスもウェリング領へと戻り、夫婦として新たな生活のスタートを切っていたはずなのに。だが今こうして剣を佩き、鎧に身を包み、盗賊を撃退したりしている。
何故こんなことになってしまったのか、まずその事の経緯を語らなければなるまい――




