63話
「……気を抜きすぎたわ」
酔いの回りきった頭でも、なんとか屋根裏部屋に潜り込んで寝姿をメイド達にさらすことは避けられたようだ。酔っ払い三人のひどい雑魚寝は流石に見せられない。だがもう朝日はもう燦々と輝いており、恐らくアドラスや職人達は朝餉を終えて仕事に精を出していることだろう。うう、下の階に降りにくい……。
「いやあ、平日だって忘れてたね」
「本当ね……」
ディエーレに毒づきたくなる気持ちをぐっと堪える。今回ばかりは私も同罪だろう。
3階で身支度を調えて、皆、何事もありませんでしたといった風の済ました顔でアドラスの書斎へと出向いた。
「色々ありましたが、無事終わりました」
「それは重畳」
うむ、と普段通り真面目な顔でアドラスは頷く。
やった、怒ってなかった……などと安堵したものの、何も言わないわけにもいかないだろう。言い訳じみたことを言うのも恥ずかしいが腹をくくろう。
「えっと……ごめんなさい、勝手に泊まってしまって」
「ん? 気にすることでもあるまい。むしろミスティの趣味に付き合ってもらったようなものだろう」
「ちょっと兄さん」
アドラスはミスティの視線を軽くいなす。
こういうところは兄妹なのだな、と感じる。
「ともかく兄さん。そろそろ三階の方は空けるよ」
「……空ける?」
「どこか物件を借りて独り立ちしようと思う」
「本気か?」
アドラスが珍しく焦った顔をして、書きかけの書類を仕舞った。
というか隣で聞いている私やディエーレも驚いている。そんな話、昨晩は一言も出ていなかったのに。
「ああ、本気さ。この家の看板も使わないよ」
「しかしだな……お祖母様やお祖父様のことを思ってのことなら」
「違うよ」
ミスティは首を横に振った。
「やりたいからやるんだ。お祖父様やお祖母様のことは関係ない……って言うと言い過ぎだけど、私は私なりに受け継いだものを活かしたいんだ。誰かのためと言うより、自分の力を誇りたいのさ」
ミスティがほくそ笑みながら言った。
アドラスはそれを見て、少しだけ寂しげに笑った。
「それに義姉さんの部屋だって今後必要になってくるだろう? いつまでも客間に泊まらせてないで用意してあげなよ」
「お前に心配されるまでもない……というよりもお前が三階を丸々占領してたんじゃないか」
「家賃は稼いだんだからそこは大目に見てほしいね。……それはともかく!」
と、油断してたタイミングで、ミスティが私の肩に手を回して抱き寄せた。
「へ、な、なに!?」
「可愛い義姉だ、大事にするんだよ兄さん」
「はぁ……こっちの台詞だ」
やれやれとアドラスは手を額にあて、それをみたミスティがにやにやしていた。
「さてと、それじゃ私達は行くとするよ」
と、そのあたりでディエーレが声を掛けた。
「ん? 私達?」
「わたしと、ミスティ。ちょっと物件探ししてくる」
「……二人で?」
私が呆けたような顔をしながら尋ねた。
「どうも意気投合しちゃってね、ミスティを手伝うことにしたよ。色々と面白そうだし」
「……ええと、ディエーレ。そんな簡単に進路決めて良いの? 冒険者になるとかなんとか言ってなかったっけ?」
「ああ、最終的には行くつもりだけどね。ミスティが工房を建てるスタートだけは手伝おうと思って。色々と勉強にもなるし」
「自由人ね、まったく……」
「それじゃ、今日はこれで失礼」
ディエーレとミスティが軽やかに去って行く。
どうもあの二人は悪ノリが激しそうで見ていて不安だ。
「ずいぶん仲良くなったみたいだな」
「そ、そうかしら」
アドラスが微笑む。
妙に意気投合してしまったことは確かだが、そこまでだろうか。
「少し羨ましいな」
「羨ましい?」
まったく予想外の言葉だった。
羨ましいと思っていたのは私の方なのに。
「仲良くなって欲しいとは思ったが、取られたようで寂しいものがあるな」
「取られたって……どっちが? 私? それともミスティ?」
「さて、それを説明するのは控えようか」
珍しくはぐらかされた。
私もあえて問いただしはしなかった。
そういえば今頃私の弟は何をやっているのだろうか。
そして、姉も馬鹿をやってはいないだろうか。
そんなことを思う。
「……あんまり人には言わないで欲しいんだけど」
「ああ、他言はしない」
アドラスはさらりと言った。
この人は、学校にいるようなお調子者と違って本当に言わないんだろうな。
「私、お姉様がどこかへ消えたことがちょっとショックだったみたい」
「……ふむ」
「いや、その、アドラスに言って良いことじゃないんだけど」
「言ってはいけないことなどないさ。僕は別に気に病んではいない」
「本当?」
「君と会えたからね」
一瞬、意味がわからなくて馬鹿みたいに口を開けて固まってしまった。
「そ、そういうのいきなり言わないでよ!」
「怒ったか?」
「と、ともかく……なんていうか……」
ゆるみそうになる口を抑えながら、言葉を探した。
「もうお姉様と理解しあえることって一生ないんだなって思って。元々仲の良い関係とかじゃなかったし距離を詰めようってつもりも全然なかったんだけど、可能性が完全にゼロになったって思うと、もう少し話を聞いてやっても良かったのかなって……」
わかりあえない姉だと常々思っていた。
というか、現在進行形で思っている。ミスティとアドラスのように、どこか通じ合っている気持ちなど微塵も無い。
だから次に会うことがあるとしたら、それは決して穏やかな状況では無いだろう。そのときに私は誰の味方に立つかと言われたら、自分とアドラス、そして弟や領民、仕えてくれる人間達だ。姉ではない。
「あ、勘違いしないで欲しいんだけど、別に許してやってほしいとかそういうのは微塵も無いの。ただ……」
「アイラ」
私の言葉を遮って、アドラスは私の名を呼んだ。
「僕は、君の姉の代わりにはなれない」
彼の目は、私を見ていた。
顔や形ではない。
繊細な魔法を紡ぐときのように、石や金属に磨きをかけて仕上げをするときのように、剄く鋭く、そして引き寄せるような瞳で、私すら知らない私を見ようとしている。
動揺した。こんなことを言うアドラスにも、その言葉にうろたえている自分自身にも。もし私に、頼れる大人が居たら。姉や父が、私の気持ちを理解してくれていたならば。
「待って!」
それを考えないように、私は一生懸命に書を読み、剣を振ってきたのだから。理解してくれる友がいる。離れては居ても志を共有した弟がいる。慕ってくれる領民がいる。それで良いじゃ無いか。世の中にはもっと不幸な人がいる。
「だが」
彼は私の手を取り、そっと抱き寄せた。
「私はここに居る。君の側に。孤独にはさせない」
どうしてこの人は、こんなことが言えるのだろう。
私すら知らない、私の言って欲しいことを知っているのだろう。
「妹と仲良くして欲しいと言ったが、その……」
「な、なに?」
「私も放っておかれると寂しいものだな」
「う、うん……?」
そういえば最近ずっと、ミスティと顔をつきあわせていた。
確かに、少しなおざりになっていたかもしれない。
彼の手が私の髪をなでた。
指先は、少しかさついている。苦労知らずの盆暗貴族の手ではない。だが荒くれ者の節くれ立った手でもない。無から有を作り出す軽やかな芸術だ。
「きみは、僕のできないことをいつもやってのける」
「そんなの……」
「だから少し心が痛むときがある。君の自由を僕が奪っているんじゃないかと」
そんなことは無い。
というよりも自由すぎてこちらが申し訳なくなるくらいだ。
「だがもう遅い。君は僕の嫁だ。誰かに渡すつもりはなくなってしまったからね」
「……はい」
声が裏返った。
恥ずかしい。
でもこのままで居て欲しい。
「……ねえ、アドラス」
「なんだい?」
「次の休みはいつ?」
アドラスの目が泳いだ。
あ、そうですか。
「……忙しいのね?」
「ま、少しばかりな。だが大丈夫さ」
「大丈夫とか言って、また徹夜とかしない?」
「そうそう無いさ、そんなことは」
アドラスはそう言って笑ったが、どうにも私は後々そういう目に合う予兆のような気がしてならない。
「ちゃんと休んでね? ミスティのことも心配だろうけど……」
「こういうときくらいは年上ぶらせてくれ。もちろん、君に対しても」
アドラスは私の頭をなでる。
こういうの、ずるい。
「……うん」
そのまま、彼の胸に頭を寄せた。
石と金属と書物の臭いがする。
体温の無い無機物でありながら、彼の体温と共に確かに存在している。
かぐわしいなどとは決して言えないのに、不思議と安心した。
とても彼らしい。
仕事の催促に来る人間の無粋なノックが邪魔をするまで、すっと彼の胸に体を寄せていた。
◆
このとき、私にとっての姉グラッサは、完全に過去の人となった。忘れたわけでは無いが、もはやあの人のことで嫉妬したり、あるいは後悔したり、思い悩ませることは無いだろう。私は、私の人生を、前を向いて歩いて行ける。
……なんて、それがどれだけ甘い見通しだったのか、私は近いうちに思い知ることになる。あの人の駄目さ加減を、まだまだ見誤っていた。




