58話
「来たわ」
「君も懲りないね……」
ミスティさんの居る3階に足を踏み入れると、すぐさま返事が返ってきた。
もっとも、昨日と同様にどこから声が出ているのかわからない有様だが。
「あ、そういえば外出したりはするの?」
「……明日はアポイントがあって不在だ。だから明日来るのはよしたまえ」
「うん」
私は頷きつつも、周囲の様子を見る。
ディエーレの言った「壁や天井を床として使える」という意味が、この部屋を俯瞰することでよく理解できた。
この階は碁盤目のように仕切られており、合計九つの部屋によって構成されている。2階と3階を繋ぐ階段は北側の部屋にあり、屋根裏部屋へと続く階段は中央の部屋にある。この中央の部屋に行くのがなんとも骨だった。そのまま歩いて行くと重力をねじ曲げられて2階を繋ぐ階段へと追いやられる。真ん中の部屋へジャンプして移動しようとしても無駄で、北の部屋から中央の部屋へ行こうとしてもより強い重力が働いてたたき落とされる。だがディエーレの助言を理解して部屋を見渡せば、進むべき道が幾らでもあるのがわかった。
まず、周囲に設置されている本棚にしろ工具棚にしろ、ねじ曲げられた重力を利用して固定されていた。手の届かないような位置にあるのではなく、壁や天井を歩くことで容易に手が届くのだ。また、まるで補強のような謎の板張りがあった。これは歩くことの出来る通路なのだ。重力がねじ曲がったならば、それに逆らわずに道を探せば良い。
「今居る部屋のここを踏むと……」
私はそのまま北の部屋から中央の部屋へと直進する。
そしてある一定のところまで進むと重力が曲がり、北の方向へと「落下」した。
「よっと」
体をひねって転倒を防ぐ。
そしてそこから私は、厳重に固定された収納棚を足場代わりにして北西の部屋を目指した。
「そう、この部屋はそうやって進むのさ」
「そうね……っと!」
ミスティのほくそ笑むような声が響いた。
北西の部屋は、帽子かけのついたハンガーラックが何本か床から伸びている。それらが何故か扉の側や部屋の中央に立っていて奇妙な置き方だと思ったが、今見てみればわかる。まるで柱のように頑丈な作りだ。動かないようにがっしりと床に固定されていて、ここに私が体重をかけても揺らぐことはないだろう。普通に入ればただの調度品だが、重力が90度曲げられた私には足場にしか見えない。
「で、ここを渡って……」
ハンガーラックを足場にしてぴょんぴょんと飛び跳ねて次なる部屋へと向かう。
今、自分の頭上にあるのは西側の部屋だ。
なんだ、コツを掴めば簡単じゃ無いか。
西側の部屋から真ん中の部屋にいけば、すぐにミスティのいる屋根裏部屋だ。
私は意気揚々に足場を飛び上がって西の部屋へと辿り着いた。
などと、思ったのがいけなかった。
「……あれ?」
西側の部屋に入った瞬間、また重力の向きが変わった。
今までは南から北の方向に向けて重力が働いていたが、今度は東から西へと重力が働く。
つまり西側の部屋から見ると、ミスティさんの居る部屋は……また真上だ。
「なにこれー!?」
「そう簡単に部屋に到達できるとは思わないことだね」
くっくとおかしさを堪えきれない声が響く。
なるほど、挑戦を叩き付けるわけだ。
この部屋の仕掛けには絶対の自信があるのだろう。
「ま、意地悪を続けるのも趣味じゃ無い。ほどほどのところで帰りなさい。気が向いたら私も外に出るよ」
勝ち誇ったミスティに、私は笑みを浮かべた。
うんうん、わかる。
自分の独壇場となる場所で右往左往している人を見かければ、誰だって天狗になる。
私だってそういう高慢から逃れることはできない未熟者だ。
そして、
「……上等!」
そういう場面こそ、やり返してやりたくなる。
◆
紛うこと無く、ここは迷宮だった。
仕掛けの精妙さ、「ここに罠があるならば次はこうくるだろう」という侵入者の予測を裏切る巧みな読み、角度を変えて見えてくる芸術的な部屋の造りなど、どれをとっても一級品だ。美術館であり、ミュージアムであり、そして必死の挑戦が無ければ決して攻略できない、正しく迷宮であった。
「……君も諦めないね。そろそろ私も休憩を入れたいんだが」
やや呆れ混じりの感嘆の声だった。
実際、飽きられるのも無理はあるまい。何度「振り出しに戻る」を繰り返したことか。真横に立つ、逆さまに立つという感覚に一向に慣れず何度となく転んだ。ようやく重力が曲がるという現象に頭が慣れてきたと思いきや、別の罠が起動して強制的に入り口に転移されたときは目が点になった。そして振り出しに戻ってからまた挑戦して、また感覚が狂い、どつぼに嵌まっていった。ミスティさん自身は「紫魔結晶を使えばできる」などとうそぶいているが、多分アドラスにも容易には真似はできまい。ごく限られた範囲内の瞬間移動の魔術は使える人間こそ確かにいるが、それでも至難の業のはずだ。こんな若さで実現できたなど聞いたことも無い。
だがそれでも、
「別に逃げやしない。そろそろ食事でも摂りたまえ……ほら」
「ん?」
ミスティさんの声に促されて背後を振り返った。
「大丈夫か?」
「あっ、アドラス……」
「ほら、無理をするな」
そっと手を差し伸べられた。
どうしよう。
まだ何も結果を出していない。
「疲れて立てないか?」
だがアドラスは、私の逡巡など意に介さずに私を担いだ。
「あっ、ちょ、ちょっと!」
「今日はもう仕舞いだ。休みなさい」
かあっと顔が赤くなる。
いい年してこんな子供扱いされるなど初めてのことだ。
「おっ、降ろして!」
「ああ、下の階に行ったらな」
「そうじゃなくて!」
やいのやいの言ってもアドラスは聞いてくれない。
今日に限ってどうして話を聞いてくれないのだ、と恨みがましくアドラスを見ると、少し口元が笑っている……わざとだ。普段何気なく接していると忘れそうになるが、この人の方が私よりも頭一つ分は大きく、年上なのだ。
「いちゃつくのはここを出てからにしたまえ」
「あ、すみません」
そのあたりでミスティさんに怒られました。
◆
「意地悪」
アドラスから食事に誘われた。むしろそのためにアドラスは私を呼びに来てくれたようだ。食事を馳走になるばかりか時間も合わせてくれたようで本当に申し訳ない。……とは思うのだが、屋敷の食堂で再び彼と向かい合った瞬間、つい憎まれ口を叩いてしまった。
「すまないな」
そして、びたいちすまないと思っていなさそうな顔で謝られた。
この人は意地悪なところがあると思う一方で、私を怒っても良いのに、とも思ってしまう。彼が本気で狼狽している姿は何度か見ているのだが、こうして面と向かい合っていると自分が子供っぽく思えて仕方が無い。これからも、ときどきで良いからアドラスも困った顔を見せてくれなければ不公平だと思う。
「だが君も無茶しすぎだ。あの引きこもり迷宮に挑み続けるなど」
「引きこもり迷宮」
これはまたひどい名前だ。
「いや、その……気付けばそんな通り名ができてしまってな。実際難しいんだ」
「それは身にしみてよくわかったけど……」
「魔術的な罠についてあまり詳しくは無いだろう。一日で半分以上進んだのだから文句なしに凄いと思うぞ」
「あ、そうだったの?」
うむ、とアドラスは頷く。
「九つの部屋の内、どう回った?」
「えーと、北、北西、西、南西、南ってぐるって回って行こうと思ったらまた最初の部屋に転移で戻されて……今度は東の方から回ろうとして……あ」
「む?」
「もしかして、答えを教えようとしてくれてる?」
「聞きたくないか?」
……どうしよう。
聞いてしまった方が手っ取り早い。
ただそれはそれで、「ああ、そうか、兄さんの力を借りたのかい?」などと言われそうな気がする。いや、大したことではないのだ。独力で突破するのは別に本来の目的では無い。むしろここでアドラスに協力してもらうのは正しい気もする。
「……聞きたくない」
「そうか」
でもやっぱり悔しい。
「妹は無茶な奴で野心家だが、まあ悪い奴ではないんだ」
野心家だが悪くないという言葉はちょっと面白い。
でも腑に落ちるところもあった。ミスティさんは偏屈者だが、どこか人の良さが抜けきらないと私も感じている。
「まあ言いたいことはわかるんだけど」
「家族になるからとか、そういう堅い話は抜きにして友達になってやってくれると嬉しい」
ああ、なるほど。アドラスはあのミスティさんのお兄さんなのだな。
柔和で微笑ましい顔をしている。楽しい仕事をしているときの、嬉しさを隠しきれない顔ともまた違っていた。そんな表情をさせるミスティさんが微笑ましく、そして羨ましく思った。ちょっとズルいぞ。
「アドラスは、ミスティさんの夢を応援してるの?」
「夢……? ああ、工房を建てたいって話か。本人から聞いたのか?」
「ううん、ディエーレが噂を聞いたことがあるって」
「難しいところだな」
おや、純粋に応援しているわけではないのか。
意外には思ったが跡取りはアドラスなのだ。家族として応援できないのも仕方ないことだろう。
「正直、工房の運営などと言うのは腕の良い職人がやるには割に合わないものだ。工房同士の付き合いや会合も多いし、理不尽な目にも合う。ただ名誉を求めるならば応援もしてやれるが、ミスティの奥底にあるのは凄い物を作ってあっと驚かせたいという、職人らしい野心だ。あいつ自身がどちらを選ぶのか覚悟を決めない限り、応援するつもりは無い」
違った。
物凄く真面目に応援しようとしていた。
もしかしたら当の本人よりも真面目に考えているかもしれない。
「ああー……なるほど」
「む? 意外だったか?」
アドラスは、私の脱力した顔が意外だったようだ。
「いえ、てっきりお家騒動になるからやめてほしいとか、そういう理由かと」
「はは、あいつは爵位だの跡取りだのこれっぽっちも興味ないよ。むしろ煩わしさすら感じてる。むしろあいつが跡取りになりたいと言ってくれたら僕も肩の荷が下りて楽になるんだが」
アドラスは皮肉っぽく笑う。自分は気ままにミスティさんのところで遊んでいたが、むしろこの人の激務をいたわる方が重要な気がしてきた。
「忙しくない? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫だとも。具体的な話がまとまれば職人達に任せられるしな。ただ……こうして仕事ばかりであまり妹や屋敷の中のことを構ってられなかった。相手してやってくれるならば嬉しいよ」
うーん……。
正直、ミスティさんに対して同情する気持ちと、羨ましいと思う気持ちの二つが私の中で揺れ動いている。そして彼女がアドラスに対して反抗する気持ちも、なんとなくわかったような気がした。アドラスは大人としての、職業人としての目線でミスティさんと話そうとしているが、ミスティさんの思うところは、恐らく少し違うだろう。アドラス自身は気付いていないだろうが、これは確かに彼自身がミスティさんと話そうとするよりも誰かを介した方が良いかも知れない。
「わかった」
思うところはあったが、私は頷いた。
やることに変わりはしないのだ。




