49話
「きぬた?」
「左様」
私に奥義を授けると告げた村長が、重く頷く。
私はいまひとつ話についていけず、ぽかんとした顔で尋ねた。
「それは一体、どんな」
「元はと言えば、古来、洗った布の皺を伸ばすための木槌をきぬたと呼びましてな……」
「いやーその、言葉の由来が聞きたいわけではなくて……」
「む、お嬢様はせっかちですな」
「よく言われます」
「結構、結構。先代様も質実剛健でありました……さて」
そんな談笑をしつつも、村長の目は厳しい。
「どんな技なのかを言葉で説明するのは、ちと無粋でありましょうな」
と、村長が無造作に距離を詰めた。
ぞくりと、予感が走った。
まずい、このまま居ては。
椅子が倒れるのも気にせずに横っ飛びに逃げる。
が。
「遅い」
気づけば私の脇腹に、村長の細い手が伸びていた。
老いによる痩せが現れた腕だ。
だがそれでも、か弱いなどとは少しも思わない。
引き絞られた弓のような秘められた力が感じられる。
その腕の先、掌が私の脇腹にそっと触れる。
突きの技なのか?
だが、医者が腹を撫でるような優しげな仕草だ。
瞬間的に、堅牢の魔術を捉えた。
体術ならば、これで十分に身を守れるはずだ。
だから、まったく痛くない。
……違う。衝撃自体が無い。
魔術の加護がなくとも、触れられた部分には何の痛みもない。
だが、そこからまっすぐ、距離を置けば置くほど灼けるような衝撃が体の中を走る。
熱い。熱い。熱い!
「ぐっ……な、なにこれ……!?」
こらえきれず、身体を床に投げ出した。
打撃とも斬撃とも違う、だが劣らぬ手応えが走る。
「わかりましたかな?」
「全然わからない」
剣にしろ拳にしろ、術理というものがある。
魔術には魔術の理がある。
だが、今受けた技からは、そうした理が見えなかった。
まるで身体の中に衝撃だけを置き去りにしたような、剣とも魔とも違う手応え。
「そうでありましょうな。ですがこれを会得して頂かねばなりませぬ。さあ、お立ちなされませ」
「そ、村長、もう少し加減を……」
アイザックが心配そうに呟く。
だが、村長は涼しい顔のままだ。
「なに、大丈夫じゃ」
「……ちょっと聞いて良いかしら?」
私は倒れ込んだまま、村長に言った。
「なんでございましょう?」
「お祖父様は、この技、使ってたの?」
「儂よりも達者でありましたな」
「……なんで教えてくれなかったのかしら」
教えてくれないどころか、存在すら見たことがなかった。
「七紋雲雀のような技は獣や魔と相対するまさに勇者の技ですが……これは殺し技に近いものですからな」
「殺し技……」
「義によって人を助くならば、剣を使おうが魔術を使おうが、それは正道にございます。ですが、無手で人を死にいたらしめかねない技というのは、使い所の相場というものが決まっています」
村長の言葉に、冷やりとしたものが混ざった。
「……ちょっと物騒な想像したんだけど」
「それは?」
「賊に捕らえられたとか、暗殺とか」
武器を奪われつつも反抗しなければいけない、そういう絶望的な状況がパッと思い浮かんだ。
「お嬢様、それはちょっと」
アイザックが明らかに引いていた。
「え、そ、そうじゃないの?」
「いや、合っておりますとも」
即答されるとは思わなかったという顔で村長が頷く。
思いつくと思うんだけどなぁ……。
「ここぞというときに役立つ技ではありますが……ここぞというときというのは来ないに越したことはありませんからな。先代様も、幼いアイラ様には教えにくかったのでしょう」
「そっか……」
「ま、そういう差し迫った場面でなくとも、武芸者や冒険者どうしの競い合いで使うこともあるでしょうな。無手の勝負が好きな者や、あるいは剣でも魔術でも競い合うのが好きな根っからの求道者にはよく効きますぞ」
「求道者」
村長にそう言われて、何人かの顔が思い浮かんだ。
「さて、長話になってしまいましたが……そろそろ良いですかな?」
「そ、村長」
アイザックが心配そうな顔をする。
だが私は、人からそんな顔をされるのが苦手なのだ。
「このくらい、大したことはないわ」
そして、ひゅっと勢いをつけて立ち上がった。
熱と痛みは残っている。だが、それで立てないなどとは言えない。
そこから、地獄のような特訓が始まった。
◆◇◆
ーー授かった、という丁寧な話ではなく、愚直に食らい続けてようやく指が引っかかった程度に、術理を掴んだ。
だがそれこそが今の状況から起死回生を導く一手だった。
波は荒れ狂い、もはや立っていることそのものが苦行だ。
呼吸すら苦しい。ここで少しでもバランスを崩せば体ごと持って行かれる。
下手をすれば溺れて死にかねない。
ただの仕合になんでここまでするのか。
ギリアムは阿呆なのか。
最悪、私が死んで彼もお縄だ。
だが改めて考えるまでもなく、ギリアムは紛うことなき阿呆だ。
私も阿呆だ。
一歩間違えたら、というリスクとスリルを楽しんでいる。
何もかもが紙一重の、頭が真っ白になる加速の中で、
ギリアムは最高のタイミングで現れ、
その威風堂々とした剣撃を、
青い荒波を切り裂く一筋の剣撃を、
『神速』
捉えた。
アドラスから授かった魔剣落涙。この力を最大限に引き出す。
加速した体には海水が泥のように重く粘着く。
加速した意識は水飛沫の一滴一滴すら見渡せる。
だがそれでも剣閃は稲光のように疾い。
だが見える。初めて、彼の必殺の一撃をその眼で確かに……
「捉えたッ!!!」
荒馬の群れに弾き飛ばされたかのような、重すぎる衝撃が剣を通して両腕、肩、背骨、腰、脚へと響いていく。
剣が軋む。
魔剣は通常の剣よりも余程堅い。
だがそれでも、鋼鉄がたわむ手応えが伝わる。
たわみはやがて限界に達し、そして、
「貰ったァ!!!」
剣が真ん中から、砕け散った。
くそっ、借り物なんだぞ。アドラスから預けられた、大事な魔剣なのに。
私の内心の毒づきに築きもせずギリアムが手首を返し、ニの撃を放った。
だが、魔剣に秘められた魔術はいまだ健在だ。
初太刀を防がれ鈍重になった彼の剣を受け止めるには、折れた剣でも十分だ。
「ぐうっ……やりますね……! ですが!」
鍔元でぎりぎりとせめぎ合う。
体力魔力は尽きかけている。
剣は折れた。
一方でギリアムの剣は健在で、結界の効力もまだ切れる様子はない。
それでもギリアムは二歩下がった。
確実に私を倒すために。
ギリアムは堅実な男だ。
貴族でもないのに意外と型にこだわる。
『波濤は神の怒りなれば!』
水の魔力が彼の気配に集中する。
もう一度、最高速、最高威力の剣を叩き込む気なのだろう。
そうか、間近で見て術理がわかった。
海水がギリアムの剣にまとわりついている。
重さと鋭さの正体は魔力をそなえた水そのものだった。
魔剣を破壊した威力も納得というものだ。
そこで私は、今握っている折れた魔剣の片割れを、放物線を描くように投げた。
あえてゆっくりと、彼の眼に映るように。
ギリアムの顔が驚愕に染まった。
出し惜しみせずに必殺の剣で倒そうという気構えがあるからこそ、ここぞというときの奇襲が役立つ。
ほんの一瞬を付いて懐に飛び込む隙。
魔術を高め、今まさに解き放たれんとする一瞬。
「虎牙兵法奥義っ……砧!」
私の掌が、ギリアムの懐に入った。
「しまっ……うん?」
ギリアムの顔が驚愕し、その驚愕は少しずつ困惑へと変わっていく。
そして、
「がっ……な、なんですかっ、これ、は……!」
ギリアムがもだえ、苦しみ始めた。
それと同時に少しずつ、水が引いていく。
腰まで浸かっていた海水がやがて膝下ほどになり、地面がうっすらと見え始めた。
「身体に満ちた魔力を衝撃に変える、虎牙兵法の必殺の拳よ。大人しく倒れた方が良いわ。変に魔力や気力を高めるともっと痛くなるから」
「な、なんて酷い技を使うんですか……魔術師などこれを受ければ……」
「ふふん」
ギリアムは剣を杖にしてようやく立っており、息も絶え絶えといった様子だ。
私は余裕綽々な顔を取り繕ってはいるが。実は満身創痍だ。
むしろ今のですべて出し尽くした。一瞬でも気を抜けば私が倒れる。
「ふっ……ふふふ、いや、まったく……見込んだ通り、素晴らしい腕前です」
ギリアムがにやりと笑う。
やめてくれ、今そんな余裕ぶったことをされると私が焦る。
「……あなたの、勝ちです」
だがギリアムは、そうつぶやいてどさりと倒れた。
勝ったのか、本当に。
剣を志す学生のほとんどが負けてきた、彼に。
夢ではないか。
そんなことを思いながら、続けて私もその場に倒れ伏した。




