48話
魔獣の大群に囲まれ、絶体絶命と感じた時のことだった。
無機質で幾何学的な、鰐の縦長の瞳孔が幾つも並んでいる光景は悪夢のようで、屠殺場の鶏や豚はこんな気分なのだろうかなどと、珍しく弱気な気分になったものだ。
王都付近のダンジョン「蒼林党樹海」は、定期的な討伐が奨励されており、私の学校からもここの探索に出かけるものは多い。元々は王家に反旗を翻す賊や追放貴族などの混成軍「蒼林党」がアジトにしていた場所らしく、その中の最も大きな樹木、英霊大樹をくりぬくように作られた砦は難攻不落の要塞として恐れられた。今でこそ蒼林党は討伐されたが、血で血を洗う戦いの結果として森は呪いを蓄え、魔獣や悪霊が闊歩するダンジョンと成り果てた。とはいえダンジョンとしての歴史は浅い上に王都から近いために魔獣退治も頻繁に行われるため、脅威度としてはあまり高くない。初心者から中級者程度の冒険者が訓練がてら訪れるような場所だ。
昔、私も同期の連中に誘われて訪れた。ギリアム、ダリア、ロック、それと何人かの後衛役と私の、確か7人程度のパーティだったと思う。
その頃は学校での生活にも慣れきって、それなりに実戦も経験してきた。普段はより難易度の高いダンジョンに挑戦し、十分な戦果をあげることができる。あえて初級者向けのダンジョンに来たのは魔獣討伐の報奨金が悪くない額であり、また同期の実力の程度を探る好機と思ったからだ。
つまりは、まあ、恥ずかしながら油断した。
私達を囲んだのはウッドアリゲーターの大群だった。
全身が柔らかい草のような毛皮に覆われ、矢や剣をそらす柔軟な盾の役割をしている。その下は樫の木よりも堅く鉄よりは軽い表皮があり、毛皮と皮膚の二重の守りを備えている鰐だ。とはいえ堅い甲殻に覆われる魔獣ほどの堅牢さは無いし、鰐といっても大型犬以上虎未満の図体だ。本来ならば単独で動くか多くても4、5匹程度が固まっているだけで、さほどの脅威ではなく、駆け出しの冒険者でも注意して対処すれば問題なく屠れる。
だが時期が悪かった。一年に一度あるかないかのウッドアリゲーターの産卵期と重なった。この時期ばかりは卵を守るために集団で行動する。ほんの少しでも縄張りに入ったものを、数の利を生かして執拗に攻撃する。そうなれば「初心者で対処できる程度の魔獣」などとはとても言えない。
前衛兼斥候として最初から働き詰めだった私の魔力は尽き、回復役のダリアも予想外に消耗している。魔術師でギリアムの親友のロックが近づくウッドリザードを火炎魔法で対処しているが、今ひとつ効きにくい。時間をかければ十分に倒せる。だがその時間が経てば経つほどこちらが包囲される。時間こそが敵だった。
「ロック、大丈夫ですか」
「悪ぃ、そろそろからっけつだ。頼む」
ギリアムだけは、その豪剣で軽々とウッドゴーレムを両断していた。
悔しいが頼りになる。だがしかし、この状況を打開する何かを持っているとは思えない。あるとすれば前衛の切り込み隊長にでもなって、全員で一気に逃亡する博打に出るくらいだろう。
「……突破するなら私が前に出るわ。ギリアムは殿の方が良いと思う」
「突破?」
ギリアムが不思議そうに尋ね返す。
「違うの?」
「私の魔術で鰐を全部、押し流します」
「へ?」
「詠唱する間、時間を稼いでくれれば十分です。とはいえ長くはかかりませんから。あ、それと濡れては困るものや錆びたらまずい物は、濡れないよう大事に持っていて下さい」
よくわからないことを言い残して、ギリアムは朗々たる声をあげて詠唱を始めた。
◆◇◆
『潮音のざわめき……』
むわっという熱気が周囲を覆った。
いや、熱気ではない。水蒸気だ。
初めて見たときと同様、息苦しくなる程の水の気配が周囲を覆う。
蒸気は水となって地に落ち、水たまりができた。
水たまりは徐々に大きくなり、広がっていく。
広がり切った水は深さを得ていく。
私の足元にまで達し、それが指先、くるぶし、膝下までせり上がる。
荒波で足が取られそうになるところをぐっと堪える。
潮の香りが鼻孔をくすぐった。
心なしか、日差しが強まってきたように感じる。
『……飢え、乾いた地に響き渡れ……』
ごうごうと風が吹いてきた。
足元の水量が徐々にせり上がってくる。
『地を潤せば波濤は我が身を助く』
これはギリアムが得意とする大魔術、「青海青嵐」であった。
限定された範囲内に『海』を召喚する、もはや反則的な魔術だ。今や私の腰のあたりまでが海に浸かった。範囲は仕合場とほぼ同等で、今私達のいる学校の倉庫裏などは簡単に包み込める。ウッドアリゲーターをこれで綺麗さっぱりと一層した。 背の低い魔獣や鍛錬を積んでいない者はこれが発動した時点で流されるか溺れるかして死に至る。
使っているところを見たのは片手で数えられる程度で、蒼林党樹海の探索のときのように魔獣に囲まれたときと、ディエーレと仕合をするときだけだ。並の魔獣や格下の人間程度に使うことはない。使うまでもなく勝負が決まる。故にこれはまさしく彼の切り札だった。切り札すら引き出せずに私もダリアも負けた。この魔術で助けられたときに感じたのは感謝、そして圧倒的な無力感だった。悔しい。届かない。そんな思いがあり、だが今は、どうだお前の切り札を出させてやったぞというささやかな快哉がある。
しかしながら、ここからが本番だ。
当然、ただの水、ただの海を呼び出したわけではない。
荒波や暴風でこちらの動きが阻害されるが、それだけであれば苦労することはない。
これは敵を妨害し彼に利する、大掛かりな結界だ。
まずは、
「……くッ!」
彼の姿が消えた。
空気中にもまた水分が充満し、霧のように周囲を覆っている。
水と光の屈折を利用して、彼の姿が私の視界から消えた。
そして斬撃だけが襲いかかる。
「よく避けました」
「勘は自信があるから」
嘘だ。
本当は向こうが詠唱している間、探知の魔術を使って四方八方を警戒している。
今、なんとなくギリアムがどこにいるかはわかっている。
だがわかっているという顔は見せられない。
もっとも向こうも、気取られているという想定で動いているだろう。
「じゃっ!」
水流が飛んできた。
いや、水流などという生易しいものではない。
その速度や重さを考えれば、鉄球を投げつけられたようなものだ。
本来は水の塊をぶつけるだけの初級魔術だが、青海青嵐の結界の中では十分に脅威だ。
水はそれこそ湯水の如くある、そこに指向性を与えるだけで強力な鈍器となる。
身体をそらし、剣をあて、だが勢いを殺し切ることはできずに動きが封じられる。
「くっ……!」
徐々に波が荒くなる。
海水の飛沫、波間を反響する音、様々なものが感覚を阻害する。
そして私が混乱した隙を狙い、必殺の斬撃を食らわせてくる。
「ーーそこです!」
「甘いッ!」
どこからともなく現れることはわかっていた。
機を読めるならば防げる。
「ふむ、まだまだ元気はありそうですね」
だが、防ぐだけでは勝てない。
この状況、残った体力においては圧倒的にギリアムの方が上だ。
「ーーではもう少し消耗して貰いましょう」
ここから水塊を放って牽制し体力を奪い、頃合いを見て必殺の斬撃を食らわせるのがギリアムの必勝パターンだ。人間相手だけではなく図体の大きい魔獣にもよく効く。海棲の魔獣でもない限りはどんな敵相手にも有効な、嫌らしい戦法だ。
そう、そこまではわかっている。
私が苦境に立たされるであろうことなど、自明だ。
「……これだけ強いのなら、別に仲間なんて誰でも良いんじゃないの?」
「何をおっしゃる。大事ですよ仲間選びは」
「へぇ」
ますます荒れていく波が音をかき乱す。
ある程度までは把握していたギリアムの位置も朧げになっていく。
雑談に乗ってきたのは恐らく自分の位置を撹乱するためだ。
その証拠に、彼の声がしたと思われる方向とはまったく逆から、水の塊が矢のように襲いかかる。
避ける。肩をかすめた。
倒れそうになるところを必死にバランスをとる。
手玉に取られている。
辛く、苦しい。
私は一体なんでこんなことをしているのか。
道端で人を襲い、そしてギリアムは学校の敷地が水で台無しになることなどお構いなしに反撃してくる。
正直に言えば、後始末を考えると非常に頭が痛い。
義などはない、みっともないただの私闘だ。
コネルのときとは違い、勝っても得るものなど無い。
だがそれでも、証を立てたい。
「まあ巡り合わせが会えば、私も冒険者や傭兵になってたかもしれない」
「ふむ」
「多分、楽しいと思うわ」
「どういったところが?」
「地位を利用したでも金を積んだでもなく、自分の腕一本で、自分がここに居るぞと、こんな高みに登り詰めたぞと、世の中に自分を見せびらかすのが、楽しくないわけなんてないじゃない」
「……アイラ、あなたはたまに妙に俗っぽいですね」
呆れたような、肩をすくめたような口調でギリアムは語りかける。
「何言ってるのよ。俗っぽいことを突き詰めたのが冒険者ってものでしょう」
「まあそうですがね。では何故それを選ばないのですか?」
「ひとつ、単に負けっぱなしで家に帰るのが嫌だったのよ。あなたが勝負をしかけたかったように、私も負けるのが嫌だった。だから、ただ単に、あなたと同じ陣営には行かない」
「……もう一つは?」
「側に居たい人ができたから」
「……アイラ」
「なに」
「真面目に剣を合わせているときにそんなのろけは止めてください」
「ああ、ごめん」
そんな話をしている間に、呼吸を整えた。
だが向こうもまた、止めをさす機会を狙っている。
この熱く苦しい勝負も、長くは続くまい。
遠距離からの攻撃を撃ち続けて私の消耗を待って逃げ切る、ということはあるあみ。
少なくともこれだけの大魔術を使ったのだ、そう長い時間は使えないはずである。
だがそれよりも、ギリアム自身、そうした消極的な勝ちを拾いにはいかない。
決めに来るとすれば、恐らくは次。
私は大きく息を吸い、吐き出した。
肺の中の空気の粒一滴までもを出し切るように。
斜め後ろから水塊が放たれた。
躱さずに、左肩で受ける。
ダメージはある。だが、致命的ではない。
重さと衝撃こそあるが、覚悟をすれば剣を握る手は緩まない。
勝負は一瞬。
絶対にギリアムは、魔術ではなく剣で勝負を決めに来る。
そのときこそ、魔剣、そして私の授かった技がーー




