31話
十二歳になったばかりの頃のことは、今でもよく覚えている。
魔術学校入学のために王都に来た私は、如何にも「初めて都会に出てきました」という田舎者丸出しの顔をしていた。身の丈に合わないほどの大きな鞄を背負って慄然と大地を踏みしめ、だがそれでも田舎では目にすることのないあまりにも多すぎる人混みや高い建物の群れに圧倒され、心の中が決意と怯懦をいったりきたりしていた。
お父様は、お母様の死を紛らわすようにただひたすら仕事だけをしていた。
お母様は、臥せったまま死んだ。
お祖父様もお祖母様も、流行り病で死んでいった。
姉は何を考えているかさっぱりわからない。
自分の行く末と言うべきものを相談できる相手は弟しか居なかった。
だから、弟と話し合って決めた。
お互い、一人でも生きていける力をつけようと。
私は魔術学校に入ることを選び、弟は騎士団に入ることを選んだ。
あえて違う行き先を選んだのは、たぶん、どちらかが居れば逃げて甘えてしまうだろうと気付いたからだ。
人の上に立つ貴族は、自分の下にいる者達のために侮られてはいけない。
お祖父様もお祖母様も、そうした誇りを大事にしていた。
学校の寮長に自分の部屋の鍵を渡され、「自分の屋敷とは違うのだから、たとえ貴族でも自分のことはできるだけ自分でするように」という言葉を貰った。食事は食堂で出されるし、洗濯をしたり湯を沸かしたりする魔道具も借りることができる。だが下男下女に世話を任せ切りにするということはできない。だがお祖母様に仕込まれている。何ら恐れることはない。
ここから私の、新しい生活が始まる。
寮の鍵はその象徴だ。扉の鍵穴に入れて、鍵を回す……あれ。
手応えがおかしい。すでに開いている。
まあ空き部屋だったようだし、鍵がかかっていないこともあるだろうと思ってドアノブを回して入った。
するとそこには、私より少し年上と思しき女が机で居眠りをしていた。
すぐに女は私に気付き、驚いた顔をした。
「うわっ、だれキミ!?」
「ま、間違えま……いや、あれ、ここ私の部屋よね……?」
鍵に書いてある番号も、扉に書かれている番号も、私の部屋であることを示している。
間違いなどではないはずだ。
「あ、え、えっとぉ……私が間違えたかな。こりゃまた失礼!」
女はそそくさと書きかけの紙や筆を片付け、扉から出ていこうとする。
その女のガッと肩を掴んだ。
「……あなた、忍び込んだの?」
「まっさかぁ! いや私の部屋は隣で、空いてたからついつい間違えちゃただけだよ!」
「……寮長に確認しても良い?」
「それは御免願いたい」
人の部屋に忍びこんだことの詰問とその言い訳が、ディエーレと初めて交わした会話だった。
数日経って知り合いも増えて、友人の部屋や空き部屋に潜り込んでくつろぐのがディエーレの趣味と聞かされたときは、なんてだらしのない奴なのだろうと憤慨した。しかも平民である。世が世なら無礼討ちされても仕方のない振る舞いだ。だというのに誰に対しても飄々とした態度を貫く変人だった。
だがそれでも、悪い奴ではなかった。
ディエーレは、私が隣人と知ってからは妙に馴れ馴れしい態度を取ってきた。最初はてっきり、金持ちや貴族に取り入ろうとする小狡い奴なのかと思った。だがその実、誰よりも勉学に秀でて、さりとて机上の論理に固執せず柔軟な発想で物事に取り組み、魔術試しや仕合いにおいては無類の強さを発揮する。飄々とした態度も、身分が上であれ下であれ、優れている奴であれ劣っている奴であれ、別け隔てないものと知ると、なんとなく憎めなくなった。部屋に物があふれて汚いことだけは閉口したが、こいつが部屋に遊びに来ることを何となく好ましく思うようになった。何度か飯を作ってやったり、あるいは逆に馳走されることもあった。ディエーレを嫌う人間も少なくないし私も最初は嫌いだったのに、気付けばこの学校の中でもっとも親しい人間になっていった。
そして私の方はと言えば、正直そこまで優れた学生ではなかった。剣の腕こそ上位だったが、魔術についてはあまり芳しくない。座学で理論を学ぶことについては努力したつもりだが、魔力の絶対量は魔術師の中では乏しい方だと判明した。テンドー師範に支援魔術を教わるまでは魔術師として芽が出なかったと言って差し支えないだろう。
そこで私に「支援魔術が向いているんじゃないか」と示したのが、ディエーレだった。
あらゆる魔術に貪欲に取り組む彼女だからこそ出た助言だった。
彼女が私に道を指し示してくれたこと、その恩をいつか返したいと思いながら、卒業の日が近づきつつある。
◆◇◆
アドラスと別れて寮に戻ったらまたディエーレが遊びに来ており、
「でさーアイラ、噂のウェリング家のご嫡男とはどこまで進んでるの?」
「なっ、なんでそんな下世話な話に乗らなきゃいけないの!」
などと聞いてくるのだから憎らしいというか何というか。
喫茶店を出た後はアドラスと共に雑貨屋を物色したり軽く公園を散策してから別れた。
だからそれが終わって学校の敷地に踏み入れた瞬間、「あ、そうか、これがいわゆる世間一般のデートだったのか」と気付いて、顔から湯気が吹き出してしまいそうなくらい恥ずかしさがこみ上げてきた。まるで本当の恋人のようではないか。また遊びに行こうと言って別れたが、再び会ったときに平静でいられるか自信がない。しかも自分の部屋に戻った瞬間、こんな風に友人にからかわれる始末だ。自分に似合わぬ可愛らしい小物を買ってもらったことは、なんとしても隠し通さねばと固く心に誓った。
「ていうか噂って何?」
「いやーダリアの奴がさぁ、『アイラが二枚目の婚約者を甲斐甲斐しく介抱してた』って噂を広めてるからねー」
え、なにそれ。
「闘争の群の連中、大体知れ渡ってるんじゃないかなぁ」
「ダリアって今どこ」
「んー? 自分ところの師匠に顔出してるはずだよ」
くそう……手加減抜きで叩きのめしてやる……。
「ところで首尾の方はどうだった?」
「しゅ、しゅびって……そ、その……」
そんなことを言われても。
な、仲良くなれたとは思う。淑女的に良い振る舞いだったかは自信は無いが。
そんな私を見たディエーレは盛大な溜息をついて胡乱げな目で見る。
「そうじゃなくて、冒険者ギルド行ったんでしょ?」
「あ、うん、そっちは……難しいかな。なしのつぶてというか……」
「ま、この国も広いからねぇ」
「見つからないほうがある意味気楽かもしれないわ……でも放置するわけにもいかないし」
私の言葉を聞いて、何やら考え事をするようにディエーレは顎に手を当てる。
そしてぽつりと、
「冒険者のことは冒険者に聞けば良いんじゃない?」
と言った。
「そのために冒険者ギルドに行ったんだけど……」
「違う違う、そうじゃない」
ディエーレはちっちっと指を横に振る。
「冒険者ギルドと冒険者は仕事を斡旋したり報酬を用意したりって言う縦の繋がりだね。横の繋がりとはまた違うものだよ」
「……え、もしかして、冒険者がフィデルのことを見つけても黙ってるかもってこと?」
「そこまでは言ってないけどね。でも冒険者ギルドの方に情報を上げてこないことはよくあるらしいよ。ていうかアイラも一応、冒険者ギルドに登録してるでしょう?」
「ダンジョンに潜るために取ったようなものだけどね。普通の依頼とかこなしたことないし鉄等級のままよ」
「じゃあ何も知らないも同然だ。あたってみないか?」
「うーん……他人にウチの事情を話すのはちょっと……」
冒険者ギルドであれば、ギルド関係者も仕事を受ける人間も、ある程度話を漏らさないという義務がまとわりつく。だが私個人が、冒険者個人に事情を打ち明けるとなると話は別だ。話を漏らす漏らさないはその人個人の信義と信用の問題である。というか、個人に秘密を漏らした時点でそれはもう秘密ではない。
「大体、冒険者の知り合いなんて……」
と、言いかけて、何人か顔が思い浮かんだ。
「私とキミ以外の上位ランカーは皆、それなりの等級の冒険者だよ?」
「あー」
ダリア、ロック、ギリアム、三人共、冒険者を副業としている。
というか同じパーティを組んでいる。
「……聞く価値はあるかも」
「知ってるとは限らないけどねぇ。それに秘密を守ってくれるかはわかんないし」
「そうね……まあ頭の隅に入れとく。ところでディエーレ」
「ん? なに?」
「あなた、卒業したらどうするの?」
今まで聞くに聞けなかった話だ。
というか自分のことが精一杯で、ディエーレに聞く余裕が無かった。
「冒険者で稼ぎつつ研究者かな」
「あ、考えてるのね」
「人がなーんにも考えてないような前提でお話するのってよくないと思うんだけどなー?」
「うっ、ご、ごめん」
にやにやと笑うディエーレに思わぬ反論を受ける。
だが本気の揶揄というわけでもなく、ディエーレはあっさりと「冗談冗談」と言って流す。
そしてディエーレは真面目な顔をして、私の問いかけに答えた。
「……実は、迷宮都市に行こうと思ってる」




