1話
思えば、姉とは子供の頃から妙に折り合いが合わなかった。
私の一つ上の姉、グラッサ=カーライルは不平家だ。恐らくは物心ついたときからそうだった。子爵家の長女として生まれ、父と母とメイド達から蝶よ花よと愛でられて育ったというのに、自分は不幸の星の下に生まれたという謎の妄想に取り憑かれていた。三食不自由なく食べられて衣服も寝床も農民とは比べるべくもないほど贅沢できるではないかと私が言えば、「籠の中の鳥が幸せと思う?」などと肩をすくめる。身を守る籠もなく日々の糧にあえぐ人に比べれば過分な幸せだと言えば「貧しい人間には貴人にはない心の清らかさがある」などと世迷い言を抜かす。心の清らかさと引き換えに粥に肉を入れられて乳飲み子に与える乳が増えるならば清らかさを捨てる者など腐るほど居ると言い返せば、あなたのような汚れた人間にはわかりませんと、こちらを心底馬鹿にしくさった態度をとるものだから、これはもう相手にするだけ無駄だと思って出来る限り姉を避けて生きてきた。幸いなことに私には幾ばくかの剣と魔術の才があったために寄宿制の魔術学校に潜り込むことができて、12歳から16歳までの間を自由闊達……と迄は行かずとも、家族との軋轢に悩まされることなく過ごすことができた。
そして私が17歳――学校で過ごせる最後の年となり、卒業後の身の振り方を考えねばならなくなったときはとても憂鬱だった。姉と共に夜会に出て結婚相手を漁るなど考えただけでも背筋に怖気が走る。いっそ学校の中で丁度良い相手を見つけられればよかったのかもしれない。だが私の通う魔術学校は放蕩貴族のたむろする社交場などではなくそれなりに真面目な学級の徒の集まる場所であったため、良人に巡り合うということも無かった。どこぞの魔術師の派閥の門弟となるか、魔道具工房の職人となるか、あるいは国の魔術師団入りや騎士団入りを目指すといった身の振り方も無いでは無かったが、この国の未婚の貴族の娘にとってそれらの門戸は狭い。貴族の女の結婚は職や学問より優先されるのがこの国の常であり、雇って一年も立たない内に結婚して辞めるかもしれない者をおいそれと雇ってくれる場所は少なかった。仕事を理由に結婚を否む者はどんなに真面目でも放蕩女と思われ、またその女の雇い主も女の幸せを邪魔する非情者扱いだ。人間が働くという当たり前のことで他人を愚弄する者など心の底から馬鹿馬鹿しいと思う。いっそのこと下野して冒険者にでもなってしまおうかという無茶苦茶な考えすら頭をよぎる。
だから、姉が結婚を決めて生家を出るという話を耳にしたとき、私は生まれて初めて姉に純粋な感謝の念を抱いた。これで姉を伴って夜会に出る必要もなくなる。姉の歪んだ審美眼に基づく男への愚痴や世の中への見当違いな怒りを聞かされることもない。姉は子供の頃から夢見がちな性格で、それ故に理想とかけ離れた男に対しては悪罵の限りを尽くすという悪癖があった。また見た目で姉と比較されるということも、なくなりはしないが格段に減るだろう。私のような癖っ毛の黒髪とは違った、姉のさらさらとした流麗な鳶色の髪。瞳の色は姉妹ともに同じ青色でありながら、人を寄せ付けない私の三白眼とは異なって姉の切れ長の瞼は多くの男の首を振り返らせる。姉はそんな恵まれた容姿でありながら性格は表裏が激しく苛烈なものだから、姉の人となりを知ったものは「女とは怖いものだ」という感想を覚え、そして姉よりも怖い見た目である私はその巻き添えを食らって「姉がああなのだから目付きの悪い妹は輪をかけて酷いのだろう」などという心外な評価を受ける。だが姉が結婚して人妻となり人前に出ることが減れば、そんな心外な評価もやがては払拭できる。
一方で、姉の相手をする男性には深い同情の念を抱いた。結婚生活はさぞ苦労することだろうが、どうかぜひとも二人手を取り合って苦難を乗り越え、幸せを勝ち取って欲しい。男児を産み、さっさとお家安泰に貢献して私の知らないところで大いに幸せになって欲しい。心の底からそう願った。祝福した。
願いは叶わなかった。
◆◇◆
「アイラ……在学中のお前を呼び出したのは他でもない」
「はい」
お父様は自分の眉の付け根の深い皺を揉みながら、私の名を呼んだ。
ここは私の生まれ育った、カーライル家の屋敷だ。屋敷の2階にあるカーライル家当主、グレン=カーライルの書斎の椅子に私は腰掛け、ここの当主……つまり父と相対していた。父は、騎士の中にまぎれても群を抜くほどの偉丈夫である。この男がしかめっ面をしているだけで小娘や子供が縮み上がるほどの迫力があるが、これはこれで人には優しいところがあった。特に姉には甘かった。私や弟に対しては放任主義で思うところもあるが、まあそれでも子供を私物としか考えない貴族も少なからず居る。それを考えればまだ良い方だろう。その父の髪は私よりもひどい癖っ毛の黒髪をしており、よく見れば白髪が混ざり始めている。私の容姿は父親譲りのところが多く、姉は逆に母譲りの容姿をしていた。こうして向かい合っていると、否応なく自分が父の子であること、そして父の老いというものを実感できた。
「話というのは、グラッサの件だ」
お父様は、姉の名を吐き捨てるように言い放つ。
それだけで嫌な予感が嫌な確信へと変わった。
「……ええと、今更相手が嫌になったとか、指輪や贈答品が気に入らずに駄々をこねているとか」
私は思いあたるところを挙げた。この程度であって欲しいという願いを込めて。
だが、この程度で私が呼び出されるはずが無いというのは重々承知していた。
「あやつ、逃げおった」
「…………は?」
「向こうの家の食客の冒険者に惚れて、駆け落ちした」
えっ。
なんだそれ。
「な、な、なんですかそれは……演劇や芝居じゃあるまいし……」
「演劇や芝居ならどれだけ良かったことか……」
「かっ、仮にも子爵家の長女ですよ!? ありえますかそれ!?」
「あって良いはずがなかろう!」
お父様は、だんと机を叩く。
顔をよく見れば相当悩み、疲れているのか、無精髭が伸び放題だった。
「……すまんな、取り乱した」
「いえ、こちらこそ口が過ぎました。それで私を呼んだ用向きはなんでしょうか」
間違いなく姉の尻拭いであることはわかる。だが問題はそれがどんな内容であるか、だ。
「あやつの結婚相手は、ウェリング男爵家の次期当主、アドラス殿……になるはずだった。それは知っておるな?」
「はい……まあ手紙で知っただけで面識はありませんが」
「そうだな……お前と面識はないだろう、うむ」
「はい」
お父様はまるで独り言のように呟く。私の相槌も、聞こえてるのか聞こえてないのかもよくわからない。
「ときにアイラ。結婚を考えている男は居るか? たとえば魔術学校で懇意にしている者など……」
「……おりません」
「学校の方は、一月くらい休むことになっても大丈夫か?」
「ええ、まあ……卒業要件は満たしたので、一月程度でしたら」
「そうか」
ふう、と父は大きな溜息をついた。
そして顔を上げて、私の顔を真剣な目で見つめた。
「……なあ、アイラ」
「はい、お父様」
「おぬし、ウェリング家に嫁がないか」
「お父様……私にお姉さまの代わりが務まると思いますか?」
「嫌か」
「嫌というか……そのアドラス様はお怒りなのでは?」
「だろうな」
「それで、代わりに妹をどうぞと言われて怒りが静まると思いますか?」
「……難しいところだな」
「でしょう?」
「だが、ウチばかりが悪いというわけではない。自分の世話になっている家の当主の婚約者を引っ掛けるような冒険者を囲っている方にも十分に問題がある」
お父様の言葉は、確かに正論ではある。いかに姉が尻軽だったとしても、そこで声をかける男に咎が無いことにはならない。が、それはその男も同罪だという話であって、カーライル家の長女の罪が帳消しになるわけでもない。そこはどうなのかと問えば、父は眉間を揉みながら答えた。
「向こうの家としては穏便に済ませたい、ということだ」
「家として、ですね」
「ああ」
「つまり、アドラス様の父上や母上はそうしたい、と」
「うむ」
「当のアドラス様は?」
「……そこを、なんとか宥めてほしい」
自分の肩がいきなりずしりと重くなった気がする。
「お前にグラッサの不行状の尻拭いをさせることになるは本当にすまない。だがこれ以外に手は無いんだ。頼む、アイラ」
「はぁ……」
思えば、姉とは子供の頃から妙に折り合いが合わなかった。
子供のうちに一発ぶん殴っておけば良かったとしみじみ思った。