春のような日 (後)
ケーゴとの交際は学生時代のようだった。食事はファミレスだったり、週末は水族館へ行ったり、同い年くらいの男の子がしてくれるデートとは少し違った。新鮮だった。聞かなかったが、あまりお金もなかったのだろう。
プレゼントに指輪をくれた。薬指につけるやつだ。これも新鮮だった。でも会社につけていくのはちょっと恥ずかしかったし、社会人として何か違うな、と思い休日だけつけていた。するとケーゴが珍しく怒った。
「なんで平日は指輪つけてくれへんの?」
「いやー、会社につけていくのは何となくね、やめとこうと思って」
「あかんの?」
「別にあかんくはないんやろうけど」
「ほな、なんで?」
「なんでと言われると……困るんやけど」
結局ケーゴはその日中、機嫌が悪かった。直接怒鳴ったり、そんなんはなかったけど。ゴロゴロと遠雷を眺めているようにくすぶるものがあった。
私は何も言わなかったが、その時初めてケーゴとの距離を感じた。私は大人でケーゴはまだ子供なのだ。
付き合い始めて半年くらい経った頃、ユウキが急に結婚した。
私はケーゴからその事を聞いていて、あぁ、そうなんだー程度に思っていたのだけど、ある日営業中に偶然ユウキに会った。軽く挨拶だけして別れようかとも思ったのだが、久しぶりだったし何となく喫茶店に入った。
「結婚したんやって? おめでとう」
「ありがとう」
「奥さんはどんな人なん?」
「ん、一つ上の人」
「あ、歳上なんや。へー、それはそれは。良かったやん」
「うん、ちょっとおっかないけどな」
「そうなんや」
私は少し笑った。もしかしたらあの日、ケーゴと初めて会った日、電話をかけてきたのはその奥さんなのかもしれないな。私はそう思った。
「てかマイちゃん、ケーゴの奴と付き合ってるんやってな。驚いたよ」
「あぁ。そうなんよ」
「なんでまたケーゴ? 俺のアプローチには全然応えてくれんかったのにー」
ユウキが自虐的に笑う。
「ふん。ケーゴの方が全然いい男だよ。それにあんたどうせ彼女いたんやろ」
「それにしてもケーゴかー。今付き合ってどれくらいなん?」
「半年かな」
「もうそんな経つんや」
「うん」
「あいつ多分初めてやで」
「どうかな?」
私ももしかしてそうではないかと思っていた。
「子供やろ?」
「え?」
「あいつまだまだ子供やろ? 学生やし、マイちゃんもだいぶ待たなあかんなぁ」
ぴしっ、と私の中で稲光が一本。
分かっていた事ではあるが、だからこそ他人に言われると腹が立つ。
ユウキのその言葉は痛かった。冬の霜焼けみたいにずっとヒリヒリ痛かった。
そんなこんなで私達は互いの距離を意識しつつもゆっくりと歩いていた。そして二年。
寒い日が続く。
あの昼の電話から四日が経つがケーゴは一度も家に帰って来ない。それどころか連絡すらない。提出までの追い込みを頑張っているのだろう、と頭では分かっていてもやはりちょっとシャクだ。どーにもフトした時にいらいらしてしまう。大人気なく。メールの一通くらい送ってこいや、なんて。
そんな事を思っているうちに週末が来た。
私は朝から部屋の掃除と洗濯をした。ケーゴと私、二人で住む部屋。半年前から一緒に住みだした。ケーゴの収入は少ないバイト代だけだったが、私の勤め先からの家賃補助もあり贅沢はできないが、何とか生活しているという感じだった。しかしそれで全然不満はなかった。私もケーゴも元々無駄遣いをしないタイプだったし、身軽な生活は楽しかった。
一緒に住みだしてから少しして、ケーゴの卒論制作が本格化してきた。目に見えて帰りが遅くなり、研究室に泊まる事も増えてきた。そして年を越した頃にはもはや家に帰るよりも研究室に泊まる事の方が多くなっていた。
たまりきった洗濯物を面倒くさくなって一気に洗濯機に入れてみる。
スイッチを押すと、水が流れて、やがてぐるぐると回りだす。洗濯物達が絡まりあってぐるぐる。全部私の服だった。一人でぐるぐる。私、ぐるぐる。しばらくそれを黙って見ていた。
寒空の下に洗濯物を干したら手が氷みたいに冷たくなった。天気はいいのだが、気温は恐ろしく低い。この分じゃ夕方まで干しても洗濯物は乾ききらないだろう。寒いと洗濯物は冷たくなって、乾いているのか乾いていないのか判断しにくい。触ってみても冷たいなぁ、くらいしか思わないのだ。
「ケーゴ、まだ帰ってこないのかなぁー」
洗濯物を干し終えて部屋に戻り、誰もいないリビングで一人言ってみる。
「早く会いたいなぁー」
見えない誰かに呼びかけるようになおも言ってみる。あたりは静かで辛うじて遠くを走るバイクの音が聞こえてくるくらいだった。窓の外に見える何か知らない工場の煙突からも、今日は煙が出ていない。
土曜日の昼、異常なくらい寂しかった。
こりゃーいかんね。なんて思い、出掛けてみようと服を着替える事にした。鏡の前に立って、このコートにこのスカートはないなとか、ジーパンの色が気に入らないなとか、ニット帽からの前髪の出し方とか、いろいろ考えてみる。
私という着せ替え人形が完成したのは一時間後くらいだった。やっとこさ玄関まで辿り着き、靴も決めた時、初めて行きたい場所なんてどこもない事に気付いた。靴を履いたまましばらく立ち尽くし、考えてみたがやはりどこも浮かばない。
でもまぁ、外に出たら何とかなるだろう、なんて思い家を出てみたが、外はとにかく寒い。冬真っ盛り。くそう。春はまだか! なんて心の中で叫んでみる。すると、春はまだだよ、なんて北風が冷ややかな返事を律儀に返してくれた。私は近所のスーパーでビールを一パックとタイムセールの卵を買って家に帰った。
やがて夕闇が来て、部屋が徐々に暗くなる。私はよそ行きに着飾った格好のままで買って来たばかりのビールを一人飲んだ。土曜日が終わる。私の土曜日が。
今日に限って、ものすごく夜になるのが嫌だった。
特別な理由なんてないけど、いや、実はあるのかもしれないけど。私はそれに気づけない。不安な夜は誰にでもある。何かで読んだ言葉だ。私もそう思う。
ケーゴのせいだ。
あいつが帰って来ないからこうなったんだ。帰ってきたら思いっきり引っ叩いてやりたい。多分、ケーゴはえ? なんで? 的な顔をするだろう。そして私はそんな顔気付かないフリで反対の頬も打つのだ。
思えば私はずっとケーゴの事を待っている。研究室から帰るケーゴを待っている。そしてケーゴが大人になるのをずっと待っている。まるでただ春を待つ起き抜けの熊のように。
ビールをぐびぐび飲んだ。次から次に。買ってきたビールはもうあと一本しか残っていない。思考がぐるぐると回る。洗濯機の中の洗濯物みたいに。ぐるぐると。
ビールを飲みきったら途端に眠たくなった。でもベッドまで行く元気がない。仕方ないから足を折り、脱ぎ散らかしていたコートにすっぽりと包まれた。暖かい。私、本当に熊みたいだ。そして眠る。
迷路みたいな道を歩いてケーゴの名前を呼んでいた。思考みたいに、洗濯機みたいにぐるぐるな迷路の道。ずっとケーゴの名前を呼んでいた。途中、北風に会った。春はまだか! 私は足を止めて叫んだ。でももう北風は返事をしなかった。何も言わずに私の横を通り抜けて行った。だから私は少し満足した。春を待つのも、悪くないな。私は再び歩き出す。
「何してんの?」
ケーゴの声で目が覚めた。辺りはもう明るい。しばらくぶりのケーゴが目の前にいた。
「ケーゴ……」
「何やねん。こんなとこで寝て。風邪引くぞ。人には風邪に気をつけろなんて言っておいて」
私はゆっくりと上半身だけ起き上がった。少し頭が痛かった。むっ、と顔をしかめる。
「まったく。大丈夫かよ? あー、こんなにビール飲んで」
と、言ってケーゴは私が飲み散らかした空き缶を拾い集めた。
「今何時?」
「ん、十時半」
「そう。ケーゴ、卒論は?」
「今朝終わった!」
「うそ、終わったん?」
「うん。最後頑張ったからな。だから思ってたよりちょっと早く終わった」
「良かった」
「うん。これでちゃんと卒業できる」
一仕事終えた後のケーゴは妙に大人びて見えた。対して会いたくてぐるぐるしてた私は子供みたいで恥ずかしかった。
「ほんと。良かった」
「ありがとう。なぁ、卒業したらさ。もう、すぐにでも結婚しようや」
ケーゴがしれっとそんな事を言うから驚いた。
「結婚て! いきなり過ぎるやろ。そんな焦らんでも。ほんま、びっくりするわー」
「えー、そうかな」
「そうや。ゆっくりでいいよ。ゆっくりで」
「せやかてマイももう三十やろ? 俺ももう社会人やで」
「大丈夫。ゆっくり行こう。慌てなくてもそのうち春は来るわ」
「そうか」
ケーゴはにっ、と笑った。人が見たら恋人にプロポーズを断られた危機的状況でもあるのに呑気な事だ。そんな事、まるで気付いていない。
「なぁ、マイ。腹減った」
「あぁ、そうね。ごめん、でも冷蔵庫の中何もないねん。ちょっとスーパーまで行ってくるわ」
「あー。じゃ、俺も一緒に行く」
「うん」
そうして二人で外へ出た。驚いた事に昨日とはうって変わって暖かかった。昨日までの寒さが嘘みたいだった。
「何だか今日は暖かいなぁ」
「うん。今日はなんか春並みに暖かいねんて。昨日天気予報で言ってた。でも長くは続かないみたいやで。明後日からはまた寒いらしい。あ、でも来週はまたちょっと暖かくなるらしいなぁ。よく分からんわ」
ケーゴが太陽の陽に顔をちょっとしかめて言う。並んで歩く私達。
「そうやって段々暖かくなっていくのよ」
「そういうもんか」
「そういうもんや。ゆっくり行きましょ」
私はケーゴの指にそっと触れた。
遠くに煙突の煙、真っ青な空を少しずつ汚してる。ぽかぽかと暖かい空気。春のような日、雲みたいに流れて。




