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Tの悲劇

作者: 多奈部ラヴィル

・Tの悲劇

「Tの悲劇」、今日撮影が始まった。向井理さんに小栗旬さん、堤真一さんに、佐藤浩市さん。そしてDAIGOさん。みな素敵だった。本当にかっこよかった。今のわたしにふさわしいって思える男性ばかりだった。そう、だってわたしは今43キロ。去年の今頃はデブだった。誰からもデブと呼ばれたし、親からもデブと呼ばれたし、確かにそう、わたしはデブだった。その時の体重は65キロ。身長は158センチだから、やっぱりデブだ。  

 だいたい「デブ」っていう言葉、使われ過ぎているし、幼児語でもある。そんなすり切れたような言葉に特に傷つかないし、それを言われても1年前のわたしは大きく首肯するだけだった。そりゃそうだな、と。

 今わたしは住宅街にひっそりとある、ブランコとシーソーしかない、貧相な公園でブランコを漕いでいる。そこには一つベンチがあり、「ペプシ」と書かれている。多分昼間見れば真っ青なベンチなんだろう。別れ話にフレッシュな空気を感じさせるような。そのベンチ、それが真っ青だったなら、きっとこういう風になるはずだ。

「別れましょう」

「うん、そうしよう。それにしても今日の空もこのベンチのようだ。真っ青だね」

「そうね」

っていう風に。しかし残念ながら、小さな虫が大量に集まる公園の電燈に、そのベンチの青さは隠れ気味だ。

「別れましょう」

「え?」

やっぱりだ。青とか晴天、これは人の心にコミットする、とても重要な、とても軽いのに、重さのあるなにかだ。わたしはそれについて、最近考えることが多かった。わたしはメイド役なのだが、やっぱりメイドっていう衣装だし、女優役をやる大女優はボルドーのドレスを着る。その女優は寝るときはシルクみたいな生地でできているガウンを着る設定だ。

 なるほど。そう思わずにはいられない。そんな風に、演劇にも芸術にも深い洞察を身につけつつあるわたし。そう、その冷たいベンチでホットココアを両手でもって、暖をとり、おしっこに行きたそうな、緑のチェックのネルシャツに、時代遅れのブーツカット。黒くてぺなぺなのダウン。そんないじけた「どうせ俺はダメなんだ。結局ダメな奴なんだ」って身体全体で表現しているような男を、いつまでも相手なんてしていられない。

「え?」

と言われても困るのだ。

「だから別れましょうって言ってんの」

「どうして?」

「だってあなたはデブ専だったはず。いまのわたしは43キロよ? たまに42キロになることもあるんだから」

「デブ専だったから好きになったわけじゃない。正直に言って、俺は君の太くてピンヒールを履いた、その脚で踏まれてみたいってずっと思ってた。その気持ちはウソ偽りがない。今でも、だ。本当なんだ」

「馬鹿らしいわ。わたしは確かにピンヒールの似合う、細い脚になった。けれどあなたが求めていたのは、以前のわたしの太い脚に履かれたピンヒールに踏まれたかったっていうわけでしょう?」

「本当に別れるっていうのか?」

「そうよ。当たりまえよ。向井理さんだって、小栗旬さんだって、堤真一さん、佐藤浩市さん、DAIGOさん、誰とだって寝るわ。わたしはそういうスキャンダラスな女優よ」

「金を返せ」

「え?」

「お前、次のエステ代、その次のエステ代って言いながら、俺からいくら搾り取ったか知ってるか? 230万、230万だぞ? 俺はメモしていた。間違いがない。車だって買えただろう。女優になれても、あなたから心が離れることはあり得ない。そう言いながららな。そうして今俺の元を離れようとしている。だったら230万、すぐに返せ。金を返せ」

 なんだか少し盛り上がってきたなあって、わたしは思った。男が激高しつつ、近づくのは結構滑稽なものだなと思って、そいつがブランコの横に立った時、

「顔はやめて! わたし女優よ」

と叫んでみた。すると男は呆れたような顔をして、わたしから離れていき、持っていた空のホットココアの缶を、ゴミ箱にカーンと捨てた。わたしはその音にも

「顔はやめて! わたし女優よ」

と言ってみて、男が去り際、公園のフェンスを蹴った時の短い、ガンっていう音にも

「顔はやめて! わたし女優よ」

と言ってみた。するとだんだん面白くなってきて、あはは、と誰もいない公園、住宅の壁に囲まれた公園で、あはは、と笑ってしまった。その声は住宅街の壁に囲まれ行き場がないように、空に響いた。



・成功している大学教授 

 俺は成功している大学教授だ。成功している大学教授と成功していない大学教授をわけるのは何かというと、テレビ番組のレギュラーを持っているか否かだ。俺は成功している大学教授なわけだから、TBSのニュースのレギュラーを持っている。

 そして妻には先立たれた。4年前のことだ。一粒種の愛を残してすぐだった。つまらないことだが、愛の年頃に愛とか愛子っていう名前は多い。妻はがんだった。肺がんだ。毎日2箱のピースを吸っていたせいかもしれない。

「ピースっていうのは平和っていう意味」

これは妻の真理の口癖だった。タバコのペースが、少し早いぞ、と注意しようとすると、そう言って、もう一本のピースに火をつける。それで俺の言葉はいつもうやむやになっていた。

 俺の父親と母親は、最初俺たちを祝福し、真理を喜んで自宅に招いたが、真理がピースに火をつけた瞬間、母はいやそうな顔をし、父は

「出ていけ!」

と叫んだ。父は「ピースなんぞを吸う女と」とも言った気がする。つまり俺の家の家風は、ピースを吸う嫁などいらないとでもいったような感じだった。真理は

「いいわよ。勝手に結婚しちゃいましょうよ。戦争したがり派なのよ、お義父さん、お義母さんは。わたしはいつも平和を念じてるのに」

と言ったが、俺はそれに反対した。やはり親しい存在から祝福されて結婚したい、そう思ったからだ。俺は

「オヤジ、おふくろ、俺たちの結婚を許してくれ! 真理は平和主義なんだ。ラブ&ピースを標榜している。それであえてピースを吸っているんだ。それはもしかしたら、真理の中で、仕方がないと思っているかもしれないんだ。つまりメビウスを吸いたいけれど、平和を念じたい。タバコなんて大嫌いだけど、平和を念じたい。そういうことかもしれない。オヤジ、おふくろ、この通りだ!」

と言って、俺は頭を畳にこすりつけた。母は涙を流し、父の目も光り、うるんでいた。

「初めから、そう、言ってくれれば」

と母は言って、その場に泣き崩れるのだった。

 そしてめでたく、俺たちは結婚した。結婚式を一応俺の立場上もあってあげたが、美しい花嫁は、進行表ばかり眺めて、

「まだタバコ吸えないの?」

と言うばかりで、最後の方は酔ったのか、タバコを我慢できなくなり、白い手袋を右だけ脱いで、やたらとピースを吸うので、俺は仕方なく、

「平和を祈ってやまない、僕の花嫁にどうか祝福を!」

と叫ばなければならかった。

 そして愛が真理のお腹に宿った。それが女の子であるとわかったとき、俺は怪訝な気持ちになった。オーガズムの結果は男子だと一般的に言われている。俺は真理にオーガズムを与えていないのだろうか? だって真理は、始めると途中からアンアンと言い始め、そのアンアンはとても大げさなものとなり、そして

「わたし、もういきそう。わたしもいくからあなもいって」

と言って、大変に身もだえ、いく。それなのにお腹に宿るのは女の子。これはいったいどういうわけなのだ? それはそれとして、まあ、別に生まれてくるのが男の子だとしても、キャッチボールをしたいとか、いずれは酒を飲みたいとか、女の話をしてみたいとか、そんな想像もしていなかったし、女の子か、案外かわいいもんかもしれないな、と結論付け、その日は退屈をしている真理がチーズケーキを作り、二人で食べた。

 ある日、俺が仕事から帰ると、もうちょっとで臨月の真理が、

「どうしよう、歯が痛いのに、麻酔が怖くて歯医者に行けないの」

と言って涙をぽろぽろこぼしていた。どうやらずっと我慢していたらしい。俺も少しは変だな? と思う時があったのだ。会話の最中、突然口を真一文字に結び、何も言わなくなることがあった。そうだったのか、そう思った。その虫歯に耐えて耐えている最中は、ロキソニンを飲んでいたのだが、それも今日になって、効かなくなったそうだ。

 今、開きなおった花魁のような真理はマッサージチェアにスイッチを入れずに座って、ピースを吸っている。

「あなたって何も言わないだけで、妊娠中にタバコを吸うわたしを責めているんでしょう」

そう言う。

「別に、責めるつもりなんてないよ」

そう答える俺に、ウソでしょう、ウソでしょう、ウソでしょう、ウソでしょう、と繰り返すのみで、そのウソでしょうをBGMに、今日、女生徒から渡された、ラブレターとその女の子の若くてハリのある頬を思い出していた。真理は俺の2歳上、36だ。

 けれどどんな心配も杞憂に終わった。生まれてきたのは、4320グラム、健康なかわいらしい女の子だった。そしてまたしても思う。俺はセックスが好きだ。正直に言って好きだ。けれど真理はどうなのだろう? 大胆なくらいに身もだえる真理だが、女の子が産まれた。まあ、それはそれでいいだろう。いつから始められるのだろうか? そう、もちろんセックスの話だ。

 その2年後、真理は死んだ。真理は病室で、マルコのお母さんと同じ髪型をしていた。そんな気分だったのだろう。そして薄く儚い印象を誰にも与えた。

「入院生活ももう長い。そろそろセックスがしたいだろう?」

と声をかけた。すると薄くて儚い真理はバカみたいにゲラゲラと笑った。そしてその翌日死んでしまった。

 


・愛

その真理の残した愛は今5歳の誕生日を目前に控えている。愛の最近のマイブームは「お相撲さんごっこ」だ。家のリビングに縄跳び2本を円状に置き、それを土俵にたとえて相撲をする。俺には教育上の信念があった。ふざけるにはふざけて。むきになるのならむきになって、本気なら本気になって、というものだった。目には目を、刃には刃をと近しいのかもしれない。そして俺が帰り、夕食を済ますと、愛はまた俺と相撲を取りたがった。

「愛、お風呂が沸くまでだぞ」

と言い含めてから、土俵を作り、相撲を取った。おや? 愛は今日はやけに真剣だ。俺にはそう感じられた。それなら、と俺も真剣に張り手を繰り出し、愛を土俵ギリギリまで後退させ、縄跳びを踏んだ愛はコロンと仰向けに倒れた。

「今日は、パパの勝ちだ」

そう笑って、真理のそばに行くと、真理が泡を吹いている。どうやらシャボン玉まで仕込んでいたみたいだ。

「今日の遊びは度が過ぎているぞ」と言って俺は笑い、愛の脇腹に手を入れ大きく持ち上げると、愛の首は後ろにだらんと垂れた。救急車を呼ぶまでもなかった。死んでいた。そして真理が死んでから、一人で処理してきた性欲が、ふっと止んだ。テレビのモードを「コンピューター」にしてから、マイクに「4歳の女子が21時ごろ死んだ場合」と言った。するとテレビには、女性の姿をしたアニメーションが出てきて、

「そんなときは、明日の仕事や学校を休めるように連絡をし、午前9時に自動歩行器に乗って、火葬場まで行きましょう」

と言ってくれた。俺はマイクに、

「ありがとう。よくわかったよ」

と入れると、そのアニメーションの女性も

「お役に立ててうれしいです。また何かございましたら」

と言ってお辞儀をしてから、しゅっと消えた。

その日は真理と結婚した時に買った、ダブルベッドの上に愛を乗せ、その隣に俺の枕を置いて、一晩寝た。愛はとても固くて冷たかった。そして真っ白だった。

俺はテレビ局に電話した。

「やあ、やあ、やあ、すみません。今日ちょっとお休みさせていただきたくて。多分間に合わないと思うんだなあ。いやね、突然娘が死んじゃってね」

と言うと

「それはご愁傷様です。ご冥福をお祈りします」

俺は愛を抱きしめたまま、自動歩行器に乗った。様々なボタンがある。「駅」「区役所」の他に、様々な種類の病院、ハローワーク、コミュニティ広場、ZEPP東京、などがあったが、「火葬場」はなかった。それで俺は、キーボードの「カ」を押した。案にたがわず、膨大にヒットする。「ソ」「ウ」まで入れると、「火葬場」が出てきた。「決定」ボタンを押す。俺の身体にフィットせず愛を抱いている。生きている愛は、愛を抱くと、身体にフィットしたものだ。けれど今は違う。そして口の周りが白く汚れているのに気がついた。真理がいたなら、そんなこととっくに気づいていただろう。俺はポケットからブル―のマドラスチェックのハンカチを取り出して、愛の口の周りを入念に拭いた。

 火葬場に着くと大きな焚き火がたかれていた。まさかとも思わなかった。今はこんな風に焼けていく近親者を見て冥福を祈るのが主流であると、俺が担当しているニュース番組で取り上げられたことがあったからだ。

「どうぞ、娘さんかな? 投げてください」

言われた通り、少し助走をつけながら、愛を焚き火の真ん中らへんに投げた。

「お客さん、不思議なもんだよね。人間を焼くときもさ、ほら他の牛だの豚だの焼くでしょ? それと同じでね、人間もね、ジュって音がするんもんなんだ。焼けるときだよ? そしてね、これが不思議なんだけど、牛や豚を焼くと、食欲をそそるいい匂いがするでしょう? それがね、人間だととっても臭い。不思議なもんだよね」

この火葬係はきっとこの言葉を「お客さん」にいつも言っているのだろう。頭の中も

「ジュ」と「臭い」で出来上がっているのだろう。そして火葬係は続ける。

「もちろんさ、あなたくらいの年なら知ってると思うんだけどさ、人間一体焼くには相当な火力が必要なわけ。これただのたき火に見えるでしょう? でもちょっと違うんだな。焚火なんかと比べ物にならないくらい、火力が強いんだ。それはさ、特許出願中だからさ、説明はできないんだけどさ」

ルーティンというのはそういうものだからだ。そしてそのルーティンに中々耐えているその火葬係を俺は少し尊敬した。

遺骨はだいぶ他の人や、枯葉なども交じっているだろう。火葬場で特大のブランドイモ、紅芋を焼きいもにして食べた俺は、お腹がいっぱいになって、食欲がなかった。火葬係は「紅芋だよ、紅芋だよ、ブランドイモだよ。食べな、食べてきな」

と言いながら、その紅芋というイモの焼き芋を配っていたが、あまりそのイモのブランドに詳しい人は少ないようだった。

 家に帰り、食事をする気もしないまま、まあ、それは特大の紅芋の焼き芋を完食してしまったからだが、俺は翌日の授業の準備を始めた。そして少し手が空くと、TBSに電話して、明日の「ニュース『これだ!』」の特集ついて尋ねた。従軍慰安婦だということだった。俺はいやだな、と少し思った。あまりコメントしたくない問題だ。俺は非難さるのが嫌いだ。いつだって優しい人、いい人、頭の切れる人、リベラルな人、そういう風に見られるのが好きなのだ。そしておもむろにキーボードをうちはじめ、プリントし、明日持って行こうと思った。すると、プリンタの様子がおかしい。出続けるのは何も印字されていない、けれど明るいグレーに染まった、用紙が吐き出されてくるのだ。それは宙を舞った。

「おい、愛、いたずらが過ぎるぞ」

おれは椅子に座ったまま愛を叱った。けれど素朴な疑問もわく。確か子供のころ、絵を描いていて、グレーを出したい場合、白と黒を混ぜなかったけ? なるほどな、いろんな色のインクをめちゃくちゃに混ぜているんだろうな。だってインクにクロはあるが、白はない。だからそう思ったのだ。

「こら、愛、いい加減にしなさい」

愛のいたずらはエスカレートして、部屋の天井も壁も床も、すべてがグレーに染まった。どこにもグレーの紙が張り付いているのだ。俺はクスクス笑って、立ち上がった。知ってている人は少ないかもしれない。視界全てが一緒の色になると、人間は平衡感覚を失くす。俺はよろりとして、態勢を立て直し、宇宙遊泳を楽しみ、また倒れ、しばらくの間、愛のいたずらに笑った。


 次の日のニュースの収録の最後に俺の子供が亡くなった旨を紹介された。

「昨日、娘さんを失くされて、おつらい時に収録にも参加いただき、ありがとうございます。なにか一言を」

「はい、昨日は番組に参加できず、申し訳ございませんでした。けれど再度気を引き締めどんなニュースにも対応できる柔軟性を持っていたいと思っています。確かに娘を失くすということは、僕にとって悲しい出来事ではありましたが、これからもよろしくお願いします」 

 司会者の宮尾さんのアップが映る。宮尾さんの目に涙が浮かんでいるのを写すためだ。俺はシラッとした、真面目な顔をしていたが、本番終了後、スタッフ全員が、拍手する中俺は号泣した。違う。ウソつきの涙じゃない。違うんだ。同情されて、恥ずかしくて、それで涙が止まらないんだ。同情されているからなんだ。恥ずかしいんだ。それだけなんだ。



 ・自動歩行機可

 そういえば最近、脚を見ていないなと、その成功している大学教授は振り返った。

 車なら一昨年、政府の決定によって、全面廃止となっている。その時イニシャルDを見過ぎていた、トップスはTシャツの上にチェックの半袖のシャツを着て、ボトムスは太めのデニム、そんな恰好をした若者たちが、その決定に抗議するデモを永田町で起こしたが、それを政府は「とても前近代的なロマンチスト」と切って捨て、そして車の全面廃止は昨年4月から施工されている。

 そんなわけで自動歩行機は近代的という産物だと、徐々に誰もが得心するようになり、あっという間に山形県の蕨しか生えない山の中までも普及した。自動歩行機にはタイプⅠ.タイプⅡ、タイプⅢとあったが、それは作られた順番を数字が表しているにすぎず、どれも形はよく似ていて、乗る人の上半身にあたるところでは透明にできているのに、下半身にあたる部分はなにか透明ではないものでできていた。

 そしてその自動歩行機だが、越谷レイクタウンをはじめ、セブンイレブン、すかいらーく、笑笑、温野菜などが歩行器のまま店内に入れるという仕組みに変えたため、それならばと他のお店や産業、そしてロックのフェスも自動歩行機のままで入れるようになったため、誰の下半身も見ることがほぼなくなった。そして、女性たちは一回隠したおっぱいをもう一回見せることをためらうような感じで、ピアノの足に靴下を履かせる、貴族のような優雅さでも持ったとでもいうのか、ロココな女子たちはいずれも中近東のお土産のような、ゆるゆるとした長いズボンを履くようになった。

 大学教授は思う。脚を見たいな。今となっては、風俗でも行かない限り脚を見ることはできない。ああ、と大学教授は回顧的なため息をつく。俺の青春時代、人々は、もちろん女性たちも、海辺で三角の布でおっぱいを隠し、三角のそれよりは大きな布で股間を隠し、脚をにょっきり出して日に当てていた。そして懐かしい。大学教授は目を細めてから微笑した。生足っていうやつ。ショートパンツやミニスカートを、競うように履いて、生き馬の目を抜く的に、だ。あの頃はいろんな脚が堪能できた。太い脚、細い脚、棒切れのような脚、筋肉がついた脚。そして大学教授は当時、太い脚とピンヒールの相関関係について調べ、レポートを発表したものだ。そしてそのレポートは、「これはとても科学的アプローチだ」と判断され、ネイチャーに載った。けれど今のところ大学教授は、ノーベル化学賞の候補になったことはないのだが。

 そしてこうも思う。脚を見に風俗に行ったってつまらない。俺はだな、俺はだな、素人のミニスカートからにょっきり伸びる、そんな「生足」が見たいのだ。男っていうのはだな、普通の女子高生とか、普通の女子大生とか、普通のOL、普通の主婦、そう言うワードにくらりとくるようにできている。つまり素人だ。中にはこんな奴だっているのだ。普通のJKがおトイレするところが見たい。それはなんて崇高な姿だろうか。

 そして大学教授が、脚を見たいなと思った時期と前後するように、「脚が見たいな」と思う男性が数多くいた。そのせいなのか、趣味的出版物であった、パチンコチェーンの社長の息子が発行していた、「THE 脚」という季刊誌が飛ぶように売れ、再販に再販を重ねられた。それはもともと、とてもアングラな雑誌で、置いてある書店も少なく、そう読者が多い雑誌ではなかったのだ。というのも特にボンテ―ジのようなセクシーな恰好やミニすぎるスカートからにょっきりと伸びる、そんな特別にセクシーである写真は少なくて、普通のJKや、若いOLなどが、昔流行した、ミニスカートや、ショートパンツを着ぐるみ的な感覚で、着用し、かわいらしい前歯を見せてピースをしている写真もあれば、ただ単に脚の写真を羅列したページが続くところもあった。そう、その雑誌が今爆発的に売れているのだ。

 そしてそれに比例する。当たり前だろう。脚を求める男性は、多くなっていく。公安に隠れて、集会が日本のあちこちで行われるようになった。そしてそれはポツンポツンとした現象ではなく、横のつながりもあった。連絡は主に手紙だった。そう、確かに前時代的と言うよりもっと古いやり方だ。けれど公安に見つからず連絡するには、郵便局からっていうわけにもいかず、その手紙を自転車に乗った若者が運ぶという役割を担わされ、その若者は、それを崇高な役目であると張り切り、木枯らしの向かい風の中も、張り切って、自転車を漕ぐのだった。

 その頃赤坂では政治家が土瓶蒸しを食べていた。

「総理、脚が見たいですね。正直言うと」

「誰もが我慢しているんだ。大臣も我慢するんだ」

「そうですかね?」

というやり取りがあった。

 そして元旦も開け、1月3日、不意を突くように全国でデモが起こった。それは激しい怒りに満ちたデモだった。国会周辺は占拠された。そして人々、男子学生も年よりも、だいたい男であったし、それにはニューハーフと呼ばれる人たちも交じっていたし、ほんの少数の女性も交じっていた。その女性たちは案外にも女性運動家であったりした。

国中が叫んでいた。

「脚」

「脚」

「脚」

と。けれどそれはあっという間に、人々の頭に「足」というワード、同じ読みだが、違う漢字、それが占拠し始めた。そしてそれはいつの間にか「あし」になり、「ASHI」となってしまった受験生までいた。だいたいの人が経験すると思う。ひらがなの「ら」とか「め」を書いたとき、唸った経験があるだろう。本当にこれはひらがなの「ら」だろうか? 本当にこれはひらがなの「め」であろうか? 

 そして今や、デモ隊が国会に突入しようとする頃、人々はもはや「脚」でもなく、「足」でもなく、「あし」でもなく、もちろん「葦」でもない、「あーし」とシュプレヒコールをあげながら、天高くこぶしを突き上げていた。そして思う。「あーし」ってなんだっけ? そして自衛隊に囲まれた群衆は数名の逮捕者を出して、すぐに降参した。公安は一人ひとりの思想傾向を調べたが、そこには特に共通項は見いだせず、ただエロスだけが沈殿しているようだった。それならば、と公安の調査官も思うのだ。「俺だって脚が見たいさ」。

 つまり今回のデモ騒ぎはこうだった。小さくなりたくない、はみ出たい。そして

「もっと自由を!」。その叫びが大いに混ざっていたのかもしれない。

 そして生中継でデモの様子を撮影していた、大学教授がレギュラーのニュースは、デモ

が鎮圧したあとカメラはスタジオに戻った。大学教授はこんなことを言った。

「なに、こんなもの、ただの文化の鬱積。塀で囲まれた人たちの我慢していたおならです」



・ヴァージン

 撮影の帰り道、大学教授は雨の中、車を走らせていた。ゆったりとしたカーブを曲がる。そこには川が沿って流れていて、柳の木がずっと植えられている。その下に髪が長い女性が立っていた。教授は慌てて車を停めて、後部座席に置いてあった、真理の置いていった傘を取って、その女性に差し出した。すると女性がぽろぽろと涙を流し、

「わたし、生まれと育ちが悪いから、こんな風に親切にしてもらうの初めてで、あなたにとって、生まれと育ちが悪いっていうことが、どんなことなのか、想像もつかないって思うけど、わたしこんな風に優しくしてもらったの初めてで」

 その女性はそればかり繰り返すのだ。そしてその女性が言う。

「この傘、女ものでしょう? 大切な傘じゃないのですか?」

大学教授はなぜか照れ笑いをした。

「あなたはヴァージンですか?」

「はい」

「初めての時、必ず感動すると思いますよ」

そう言って窓を閉め、大学教授は家路を急ぐのだ。



・赤いスイートピー

汽車の中、幼く見える女子大生が、中年の、それこそその女子大生の親にさえ見える男性に寄りかかっていた。動物個体の匂い。固有の体臭。それに酔うように、女子大生は目を閉じ、安心しきっている。その中年の男は、それではと、その座席を離れ、ビールを2本買いに行った。女子大生が目を開け、ぱちぱちと目をさせると、そこに中年の男はいない。女子大生は不安になる。どこかに行ってしまった。私の行けないどこかに行ってしまったんだわ。今度は女子大生は、窓際に寄りかかる。途中赤いスイートピーの大群にあった。彼はタバコを吸ってたっけ。確か平和という名の………。女子大生は今、ある意味ふてぶてしい態度であったし、投げやりな態度でもあった。

 「やあ、起きたんだね」

中年の男はその女子大生の彼氏、そういう関係である。その男の「やあ、起きたんだね」という態度に女子大生はふてぶてしい、投げやりな言い方で、

「とっくに起きていたけど」

と答える。中年の男性は、少しもじもじして、

「さて、ビールでも飲まないか?」

と言う。それに対する女子大生の答えはあんまりだった。

「別に」

けれどその男は、被虐的にでもできているのか、そこに感じたのはただ単に、エロティシズムだけだった。男は一本のビールを女子大生に渡し、己もビールのプルタブを開ける。

「この、小さき旅に幸いあれ」

そう言って、彼女の持つ、プルタブも開けられていないビールに、無理やり己のビールをカンと鳴らし、ごくごくのどぼとけを上下させた。ふてぶてしく、図々しい女子大生は、そんなに急に態度を変えられないといったように、ビールのプルタブもそのままに、窓際に寄りかかったまま、膝がしらにビールを当てたままだった。

 女子大生にはきっかけをつかめない。さっき、赤いスイートピーの大群を見たこと。それを男に言いたい。けど表情を変えられない。突然、「さっきさあ、」などと言えない。女子大生はもしかしたら、純粋と言ってもいいかもしれなかった。己の気分を己で変えるとなどできない。でもそれは子供と言ってもいいかもしれなかった。己の態度をその相手に合わせることができない。空気を変えること、表情を変えることができない。

 よく練られた旅程であった。まずその土地の海を見て、宿に入る。風呂を堪能した後、その土地の牛に舌鼓をうつ。そしてまた身体を岩の風呂で温め、眠る。一切エロティシズムの挟まぬ旅だ。男はそう決めていた。清く思い出深い旅になるよう、男は精一杯気を使ったつもりだった。

 しかし、その女子大生には、情緒不安定の気味があった。それは親にも年近い、男もよく知るところであった。宿のある駅で電車を降りる。海を眺める予定である。男女は断崖絶壁に立った。

「なんなの? こんな危険な場所にわたしを立たせて。死ねっていうこと?」

「そんなはずはないだろう。ほら、先に赤い光。あれは燈台だ」

「それがどうだっていうの? 家の近くのライオンズマンションにも、あんな灯り灯っているわ。きっと、」

「きっと?」

「死ねっていうことでしょう? わたしなんか、愛想よくビールの一杯も飲めないし。いえ、飲める。飲めることは飲めるの。でもあなたがわたしに渡したビールは飲めなかった。だから」

「俺が渡したビールを飲まなかったくらいのことどうしたっていうんだ。今日はこの海を眺めて、気分一新、新たに旅立とうじゃないか」

「気分一新? 新たな旅立ち?」

「そうさ」

「だとしたら、その証明のため、あなた、着ているものを全部脱いでよ。パンツもよ」

しばし沈黙が流れる。男はこの情緒不安定の気味のある、この女子大生にどんな態度をとればよいかしばし迷ったのである。

「俺はそれを証明したい。では脱ぐとしよう」

男は着々と裸になっていく。男はきちんと畳みながら、春のコートを脱ぎ、薄いニットも脱ぎ、シャツもチノパンも脱ぎ、ユニクロのパンツも脱ぎ えい、ついでだっていう風に、ユニクロの靴下も縫いだ。そんな恰好だったが、岩がごつごつして痛かったため、茶色い革靴だけは履いた。

「それが証明なの?」

その女子大生は、白い蛇にとりつかれたような、座った目をしてそう言った。

「そう、今できる俺の背一杯の証明だ」

「じゃあ、その服を海に捨てて」

「そんなことをしたら、宿にだって入れないし、電車だって乗れないだろう?」

不思議と男はモテてにやけけるっていう風にそう言った。

「捨てて。なにもかも。靴だけはしょうがないとしても」

情緒不安定、純粋、無邪気、穢れを知らぬ、子供心、野心無し、臭くない、喜ぶ顔が単に見たいのだ。それらの羅列を男は一瞬後悔した。

「よし、じゃあ、みな投げるけど、ちなみにこのコートはバーバリーでね、ちょっと高かった。これは勘弁してくれないかな?」

「すべて、すべてよ」

「よし、わかった」

中年の少しお腹が出ていると、女子大生が改めて思う、そんな体躯で、服のすべてを円盤を海に投げ込むがごとく、投げてみせた男を女子大生は冷ややかに見ている。

「じゃあね」

そう言って女子大生は男に背を向けた。

「ねえ、ちょっと待ってよ」

思わず男はお姉言葉を使う。

「何? なんか用?」

「いや、君は純粋で無邪気で穢れを知らず、子供心、野心もなく、臭くない、そう君の喜ぶ顔が見たくてこの旅行を予定したのだけど」

「じゃあね、温泉楽しんでくるわ」

起きたときにいなかった。スイートピーの大群を見たときにいなかった。ビールを無邪気に渡してくれたのに、プルタブさえ開けるようなそんな表現さえできなかった。女子大生はドラクエで痛恨の一撃をくらったように回顧するだけだ。表現。あなたがいてくれてありがとう。その表現。

男は警察によって検挙されたが、男が言う、証明のために服を脱いだというけったいな問答は通じず、女子大生は

「海辺へ着いたら、いきなり服を脱ぎだして。しかもその服を海に捨てたの。わたし身の危険を感じて、汽車にまた乗ったっていうわけ」

という証言の方が信憑性高しということになり、男はしばし海辺の拘置所に入れられた。

 女子大生が宿に着き、湯を堪能し、部屋に戻ると、

「こちら、お預かりしておりました」

と華やかに笑うおかみが持ってきたのは、赤いスイートピーの手に余るほどの大きな花束で、

「あ、どうも」

と無表情で受け取った女子大生は、誰もいなくなると、泣きながら赤いスイートピーを千切って口の中に一杯にほおばった。



・幸福な一家

ある漁師町に幸福な一家が住んでいた。お父さんは指を詰めた元やくざ者だったが、今は海で大いに働き、一家を支えていたし、その鬼瓦のような風貌にも似合わない、ユーモアのセンスで漁師たちを笑わせることも多かった。その妻は紗枝といい、おたふくによくていた。漁師町のおたふくと言えば紗枝、というくらい、大きな声で笑い、そして働き者、亭主によく尽くす妻として有名だった。その間に息子が二人いて、一人は太郎、一人は次郎といい、相撲の道場に、一時は通っていたものだったが、高校にも入ると、その腕力も手伝って、少し不良めいてきて、地元の中学生、高校生はその兄弟に一目置くのだった。

 紗枝は漁師町に似合わない料理をよく作った。ハンバーグ、とんかつ、スパゲッティ、オムライス、ビフテキなどである。紗枝の自慢はジャガイモのポタージュだった。それは舌の上でとろりと溶け、甘くてほんのり塩味もするポタージュで、家族全員の好物だった。だから紗枝はなにかというとその「ジャガイモのポタージュ」を作るのだった。それは正月もそうだし、大晦日も、ひな祭りも、端午の節句にも紗枝はジャガイモのポタージュをどんどこ作り、近所にだってふるまわれた。

 そんな風に楽しく家族で紗枝の作る、田舎じみない夕餉を囲み、家族は幸せに暮らしていた。どうして紗枝がそんな都会のような料理ばかり作ったのかと言うと、紗枝はこの漁師町出身ではなかったのだ。都内、新宿区の生まれだった。けれどおたふく故縁遠く、故郷である新宿に「さらば新宿」と告げ、この漁師町にたどり着き、その頃やくざ者だった、鬼瓦と出会い、鬼瓦との逢瀬に明け暮れ、すぐにあのよそ者がとうとう鬼瓦と、と噂が立ち、それはあっという間に町中に広まってしまって、それも紗枝はとことん鬼瓦を好いていたから、「わたし、この人に、一生ついていく」という覚悟までしてしまって、鬼瓦はその心に胸打たれ、指を詰める代わりにやくざ者から縁を切って、紗枝というおたふくと結婚したのであった。

 そのまま結婚式などあげぬまま二人、暮らし始めて、翌年には太郎を、その翌年に次郎をという具合に、どんどこ息子を産んだ紗枝は、鬼瓦の方の姑と舅に、

「でかした! 紗枝」

と大変褒められた。けれど翌年、その姑と舅も漁師町で流行ったインフルエンザが肺炎になり、一気に死んだ。

 高校に通う太郎も次郎も屈強で健康に育ち、ある日、紗枝に

「おふくろの若い時分の写真を見たい」

と言ったのだが、紗枝はもじもじしている。そして小さな声で

「田舎に捨ててきた」

と言ったのみだった。つまり幼い頃だって若い時分だって、すべて故郷である新宿の花園御苑のゴミ箱に、いっそと捨ててしまって、この漁師町にいついたそうで、紗枝の生まれというかスタートは、この漁師町から始まって、生きる、人生、そういうものは鬼瓦に惚れてから始まったらしかった。

 隣町、金持ちで有名な家が新しく、子供に家を買ってやることになったらしい、という噂だって、あっという間に広がる漁師町だ。鬼瓦はそれを聞いて、自身が無念な気がしてきた。船に乗って、網を投げ、それを引っ張り上げるだけの毎日。金だってない。

 そうなのだ。鬼瓦一家の残念なところは貧乏だったところだった。紗枝は鬼瓦によく尽くし、生活のすべてをとても丁寧に、時間をかけて、面倒くさがらずにやったし、子供の教育は、勉強なんてできなくてもいいから、健康で、家族思いの優しい子に育ってほしい、それのみであったから、鬼瓦もその妻紗枝を、とても大事に思っていたし、我が息子たちも、紗枝に負けずに可愛がっていた。

 鬼瓦は、それにしても………と思わずにはいられなかった。ああ、家に金があったらなあ。車も買って、そうだな、新しい船も買う。紗枝にもダイアモンドを買ってやってもいいし、ヴィトンを買ってやってもいい。二人の息子の成長のためにも蓄えもほしいなあ、と。その日の夕飯はボロネーゼのスパゲッティだった。太郎が言う。

「おふくろ、この前さ、俺が昨夜の晩飯、ボロネーゼだったって学校で言ったらさ、それはなんだ? どういう食べ物だ? ってみんな聞くんだぜ」

と言って笑ったから、鬼瓦も紗枝も次郎も笑った。そこで次郎も言う。

「おふくろ、この前さ、俺が昨夜の晩飯オムライスだったって言ったらさ、あのケチャップご飯をどうやって卵でくるむんだって、みんなが聞くんだぜ」

と笑ったから、家族一同みな一斉に噴き出した。

 その幸せな夕餉のあと、湯をどんどこ沸かし、紗枝が挽いて、ゆっくりとお湯を注いだ、モカを家族一同飲んでいるとき、

「なあ、紗枝、太郎、次郎、俺たちは最も幸せな家族だな?」

と聞くので、紗枝も、太郎も、次郎も

「もちろんそうだ」

と口をそろえて答えると、

「それに、金があったら、もっと幸せかもしれないな?」

と聞くので、紗枝も、太郎も、次郎も、

「そりゃそうかもしれない」

と言った。

しばらく鬼瓦の家にしては珍しく、柱にかかっている、時計の針が、コチコチと動く音がよく聞こえた。

「やるか」

「うん、やろう」

その「うん、やろう」を紗枝と太郎と次郎は鬼瓦の言葉の後、瞬時も間をおかず、一斉にすぐに答えた言葉だった。

太郎と次郎は学校で使う、金属製のバッドを持った。鬼瓦はハトを撃つときに使う、銃を持ち、紗枝は刺身包丁を持った。家族みんなで隣町へ走っているとき、紗枝ははあはあ言いながら、太郎、次郎、お前らは随分達者だね、と言い、鬼瓦も太郎と次郎に追いつけず、

太郎も次郎も随分成長したもんだ、と言った。そしてハアハアとしながらも、一家の笑い声が天の空に響いた。

 当時、その漁村では鍵をかけないうちが多く、その金持ちの家もご多分に漏れなかった。すんなり中に入り、二階で眠っていた、そこの主人と嫁を、ドンドンと二発で倒し、念を入れた紗枝はその胸を刺身包丁で丁寧に刺した。そして息子たちは一階に蚊帳をつって寝ていた二〇代のその家の主人の息子夫婦を金属のバッドでめちゃくちゃに乱打していた。そこに駆けつけた鬼瓦は、さらにもう二発 ドンドンと息子夫婦を撃ち殺し、そして紗枝  も「わたしだって!」と叫んだかと思うと、刺身包丁でその二人の胸をめった刺しにした。家の中を懐中電灯で照らしながら見ると、床の間に大きな茶色いカバンがあって、帯封のされた札束がたくさん入っていた。鬼瓦以一家は大喜びして、鬼瓦と兄弟に順番にそのカバンを持たせ、帰り道は月夜の散歩のように、のんびりと家まで帰った。

 もちろんこの一家は、翌日みなつかまるのだが、その前日の夜は、まるで奇跡のように幸せがあった。紗枝は

「わたしはね、とてもつまらない家で生まれてね。今でいうネグレクトっていうのかね、弟は口に一杯虫が詰まって死んでしまったし、まだ二歳だった妹も押し入れの中から、もちろんその頃の、子供の遊びだけど、家にたまっていたお友達が、その押し入れから、ボーンっと投げたら死んでしまってね。家にあったビニール袋に入れて、川に捨てたんだよ。お腹が空いて空いてしょうがなかった。もしわたしに子供が生まれたならと、若い時分には、料理の本ばかり見て、料理ばかり練習したもんさ。そんな生まれと育ちだから、今のね、太郎も次郎も丈夫に健康に、家族思いに育ってくれて、そしてもちろん一生ついていけるっていうあんたという伴侶も得てね、本当に今は幸せで………」

とコタツ布団で顔をごしごし拭いて、まあ、なんだね、と言って笑った。

「俺もやくざものだったころにはわからなかった、家族っていう大切なものを得て、俺は心から改心した。紗枝、いつもよく尽くしてくれるな。ありがとう」

と言って鬼瓦もコタツ布団で涙を拭く。

 その後は冷酒を一家で浴びるように飲んで、札束を枕に見立てて、鬼瓦は寝てみせたり、太郎は脚の間に札束を挟んで、両手を水平に広げ、屈伸して家族を笑わせ、それではかあちゃんもと、紗枝もしゃしゃり出て、頭の上に札束乗せて、モデルウォーク。次郎は笑い過ぎと飲み過ぎでゲロを縁側でげーげー吐いて、それもまた滑稽に見えて家族で大笑い、そんなとても美しい夜だった。

 まあ、ざっとまとめるとこれが、この漁村に伝わる紗枝という良妻賢母の言い伝えなのだが。



「では次のニュースです」



・人魚姫

ある深い緑色の海、沿岸から遠く、深い場所に人魚姫はいた。そばにいるのはその色がエメラルドグリーンやルビー色で美しい魚、ごつごつした岩のような魚が住んでいて、中には、人魚姫がうっかりとその尾ひれで踏ん付けてしまうと、人魚姫に黒い煙を吐くような、そんな生き物もいた。

 人魚姫は、読書が好きだった。母の影響だ。母は昨年肺炎で死んでしまったけれど、たくさんの本をその本棚に残した。その中には少女が読む月刊誌、そう、漫画もたくさん残されていて、母が亡くなってからは話し相手も特になく、母の残したそのような、ラブストーリーを読んで、いつしか、男性とキスをしてみたい、という願望を人魚姫の中に発芽させ、それは年を追うごとに大きくなっていった。

 人魚姫は怠惰であった。それは誰にもわかるが、そうなかなか、人魚姫は己を怠惰であるとは打ち明けなかった。そう、それはわたしの弱点。メイクをしたまま眠り、その日一日中洗顔をせず、深夜に己のだらしなさ、怠惰さを悔やみ、洗顔をしようと思うのだが、またその夜の疲れに任せて、眠ってしまう日もあった。

 ある日海上に人魚姫の顔が現れた。遠くに大きなクルーザーが見える。それを双眼鏡で人魚は眺めた。

 すると舳先に若々しい青年が立っていて、やはり人魚姫と同じく、双眼鏡を持っている。つまり、その人魚姫と、舳先で望遠鏡を構える青年は、うろうろ視界を移しながらも、人魚姫とその青年は目が合ってしまうわけだ。

 人魚姫は、しばらくそうしていて、青年を見つめていた。すると青年が、双眼鏡を持ったまま、手を一回挙げた。人魚姫の心は沸き立った。そして人魚姫はその青年に精一杯、手をぶんぶんと振ってみた。人魚姫の双眼鏡にはその青年の口元、笑みが見て取れた。そしてうれしくなった人魚姫はそのクルーザーが沖へ着いてしまうまで、その青年を見続けていた。

 人魚姫は自室に戻った。灯油ファンヒーターをつけ、手をかざす。温かい風に身体がときほぐされていくように、人魚姫の思考も溶けだした。

 人魚姫はやっと理解したのだ。わたし、あの青年に恋をした。あの笑みを浮かべた唇に私の唇を触れてみたい。

 けれどそんなことをしたら、わたしが泡になって消えてしまうっていうことは、生前のおばあちゃんからも、生前のお母さんからもよくよく聞かされていたことだ。

 人魚姫のお父さんは近所でも有名だった人で、とにかく「仏」と呼ばれていた。そんな風に人徳のある人だった。けれどお父さんはお金を得るっていうことに関してはへたくそだった。だから人魚姫の家は貧乏だったし、人魚姫はおいしいおコーヒーも、おいしいお酒も、知らなかった。

その日から毎日、人魚姫は海上から顔を出し、青年を探した。青年が乗るクルーザーが泊まっていることも、泊まっていないこともあった。そして泊っていれば必ず、双眼鏡でそのクルーザーの舳先を見たし、そこに青年が笑って双眼鏡を構えていることもあったが、そうでないときもあった。

 人魚姫はその青年の顔をよく知りたいと思った。そしてその青年の声を聞きたいと思った。

 人魚姫は怠惰で、部屋など散らかり放題だったのに、青年に初めて出会い、恋をし、その後自室に戻ってから、部屋を片付けるようになった。ゴミなど今は落ちていない。脱いだパジャマはきちんと畳まれ、ベッドの枕もとに置くようにしたし、毎日掃除機をかけたし、床だってバケツの水を3回、汲みなおして、拭くくようになった。趣味で買った冠をかぶったスズメの文鎮も毎日拭き清め、セキセイインコの飾りのついた花瓶には日々違う花を、どこかで取ってきて、飾った。

 今人魚姫は思う。わたしが今まで怠惰だったのは、どうしてかしら? これくらい、とっても簡単なこと。それが毎日っていうことだわ。わたしはそんなにもすぐそばにあって、生活っていう難しいのか簡単なのかわかりずらい、けれど今の人魚姫にはとても簡単に思える、そういう生活を日々送るようになった。

 ある日人魚姫はまたクルーザーを発見した。人魚姫は持っていた双眼鏡を、海にブクブクと沈ませた。その双眼鏡は母の形見だった。けれどそんなことは今どうでもよかった。とても早いスピードで、必死にそのクルーザーに泳いでいく。息が切れるが、そんなことを今言っていられない。ハアハアと息も荒く、クルーザーのそばまで近づく。

 やっと双眼鏡を足元に置いた青年の顔はやっぱり華やかでかっこよかったのである。それはミッチーに似ていた。人魚姫は王子さまだって信じた。

 

 やっと舳先のそばで青年を見つめる。かすかに微笑みの形をした唇。それを見つめた。すると青年の唇は動き出す。

「やあ、登っておいでよ。お酒だって、チーズだってあるよ。このチーズおいしいんだ」

人魚姫はその言葉の意味がわからないほど、その動く唇を見つめていた。けれどやっと人魚姫にもわかったのは、このクルーザーが、おそらくその青年のお父さん所有の物であることと、青年は白いつるつるした生地でできたシャツを着て、黒い細身のパンツを履いているっていうことだった。

 人魚姫は尾ひれを水中で、みっともないほど無茶苦茶に動かし、何とかクルーザーのへりに掴まった。そこには様々なお酒や、オードブルみたいなもの、そして寝椅子には胸もあらわにした、細い女性が、サングラスをかけて肌を焼いていた。

 人魚姫は今も、そう、みっともないのだろう、そんな風に尾ひれを激しく振って、何とかして青年に触れてみたいと、背伸びを繰り返した。

 そしてそれを見た、青年が手を差し出した。もう、いい。もう、いい。口づけだけをしたい。その微笑みがとても似合う唇に。泡だろうと消えてしまおうとどうでもいい、なにもかも失ってもいい。

 今、人魚姫は誰かがわたしを見ていたらどうしようなどと思わない。みっともなくていい、恥ずかしいとも思わない。鼻に入る海水。鼻がツンと痛い。別にそれだって。

その唇に触れることができたなら、命さえ犠牲にできる。もう、いい。いいのだ。

 そんな風に夢中で青年の、柔らかく暖かい手をやっと握って、舳先より上に顔を出し、

「王子さま、口づけを。それ以上のお邪魔はいたしませぬ」

と人魚姫が言うと、

「OK、ベイベ」

そう言って、青年は人魚姫にキスをした。とても軽やかなキスだった。母は肺炎で死んだ。わたしのほうが、どんなにか幸福なのだろう。わたしはキスをした。その唇は柔らかった。そう人魚姫が思っている最中にも、人魚姫の身体は徐々に泡となり、緑色の海に溶けていった。

 「あーあ、また初恋してみたいなあ、」

そう大学教授は目を細めて何かを思い出そうとしているみたいだ。



・うろうろ

何をあまらして、うろうろしているんだろう。

 ああ、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、逃れたい、逃れたい、逃れたい、逃れたい、この重い荷物、いつから? 捨てたい、捨てたい、いや、捨てやしない、隠れたい、隠れたい、隠れたい、隠れたい、

 おう、大切な人。会えてよかった。そのシェルターに、その二人用のシェルターにかくまってもらえますか? 

まだ言っていないことありました。ウソは罪ですか? ごまかしは罪ですか? 正直は尊いのでしょうか? みなまで明かすこと、それは尊いのですか? そうしろと、そうしろと、わたしを責める人がいるような気がします。するとその人、徳でもって徳を持ちつつ、去っていった。ゴキブリになって、生き延びる。それはただあなたのために生きるということ。それのみがわたしのプライドなのです。



・残念

技無し徳無し、クズ、アホ、役立たず。でも義はあります。

もしかしたら笑っていないのかもよ。



・つまらない

大晦日は実家に帰って雑煮を食べる。両親に気を遣う。一言ひとことを選んでしゃべる。そのままスーパー銭湯に行く、大学教授。そこから病魔は巣くっていた。露天風呂に入る。様々な体形の人がいるもんだな、と少しは興味深かった。様々な身体の洗い方があるもんだ、と少し興味深い。風呂場にはお湯の流れる音と、おしゃべりしている男性の声がわんわんと響いて、ちょっと異空間にいるような気分だ。

 俺はシャンプーをはじめてすぐに流した。まあ、もともと短い髪だ。その時だ。そのシャンプーしている間、突然教授はつまらなくなった。

 教授は風呂上りに、枝豆と、青森県産イカの丸焼きを頼み、ビールを飲んだ。のどにぐっとくる。そして教授はぐびっとやった後、テーブルにジョッキを置いたら、突然、「つまらない」と思った。別に枝豆だって青森県産イカの丸焼きだって別に食べたくもない。よくよく枝豆と青森県産イカの丸焼きを見ていると、なんだか不思議な物体にも見えてくる。

「なんだなんだ? これは」

教授はそう思いながら、枝豆と青森県産イカの丸焼きを食べる。そしてなんだかぼんやりした気分でスーパー銭湯を出て、自動歩行機に乗った。つまりは番地を入れればいいようになっている。自動歩行機から見る夜の街の風景。モノクロだって鮮やかな色々だってなぜか懐かしい、と思った瞬間にそれはやはり俺が失ったものだからなのだろうというセンチメンタルを感じる。そしてもう飽きる。センチメンタルさえ長続きしない。そしてまたつまらないと感じる。

 マンションにつく。エレベーターに乗り、階数をしばらく見ていたが、つまらなくなった。玄関でアルコールで手を揉む。コーヒーメーカーに引いた豆を入れ、スイッチを押す。そしてダイニングテーブルの椅子に座る。コーヒーの香りが漂う。教授はしばしぼんやりしていて、ふとタバコを吸おうと思い立つ。コートのポケットに入れっぱなしだった、タバコとライターを取り出して、タバコを吸う。不思議とタバコを吸っている間は、「つまらない」と感じなかった。教授は思い返す。今、タバコを吸っていた間、俺は何も考えていなかったのだろうか? いや、ものすごい高速でいろんなことを考えていた気もする。

 教授はげんこつで肩を叩いた。そして出来上がったコーヒーをダイニングテーブルに置き、頭を抱える。

 あーつまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。つまらない。思い出だって凝縮されて固くなって、サイコロだみたいだ。俺がカロリーを消費してサイコロを転がさなきゃ、映らないし、変化もしない。

 ナイキは玄関に置いてある。走る準備はできていた。どこに突破口があるかなんて、そんなの俺にはわかりゃしない。とりあえず行けるところまで行って、冷たい空気を肺いっぱいに吸いこんで吐く。そう身体にある酸素をすべて抜き切るように。だって俺は、青森県産イカの丸焼きさえ、つまらなかったのだし、思い出さえも面倒くさいからだ。



・李下に冠を正さず

「あなた、大変ステキな帽子をかぶっていらっしゃる」

「どうもありがとう」

「けれど、少し曲がっているような気がしますよ」

「あなたの前では直しません」

「どうしてですか?」

「あなたは低俗な懐疑主義者だ」

「少し、そんな気味もありますが、それが発揮されるのはシャーロックホームズを読んでいる時だけですよ」

「じゃあ、少し帽子を。どう曲がっています?」

「右が少し深いのです」

「これでどうでしょう」

「帽子はよくなりました。けどあなた今、頭上にぶら下がる柿を盗みましたね」



・誰だってあるでしょ?

胸、しめつける恐怖。よくよく噛んで味わえば、極楽浄土の味がする。いつか甘い日が来る予定。それは多分、ココロが静かになる時間………?



・情熱のすぐ横には「死」があります。調子づいて踊っていると、落っこちる。そこは廃棄自転車をシルバーさんが投げ捨てるいつもの場所です。廃棄自転車が死ぬほどあるんだ。その中へもろとも落っこちる。



・雪女

 ある山間の谷底の、三角の切り立った一番さかさまにとんがった谷底に粗末な小屋があり、そこに雪女は暮らしていた。雪女は大変な美貌であった。血管が透き通るような白くてきめ細かい肌を持ち、そこから人はその雪女を雪女であると知らなくても、「絶対に手が冷たいはずだ」と想像するのであった。

 その人の想像通り、雪女の手は冷たかった。それどころか身体全体が冷たいのであった。雪女はそれを承知していた。雪女の血も、また、凍りそうに冷たかったから、雪女の身体、どこを輪切りにしても中も凍ってしまう寸前のように冷たかったのだ。

 村人もさかさまにそのとんがった谷底を訪れることは稀であったから、たまに、ああ、こんなところに小屋がある、ああ、ずいぶんと美しい人が住んでいるなあっていう調子で、長く雪女と付き合う者もおらず、雪女が何才であるとか、夫はあるのか、そんなことすら村人も意識せず、雪女はただの幻のようだった。

 雪女はもとから一人で暮らしていたわけではない。両親がいた。ある夜雪女は夢を見た。父親と母親がくんずほぐれず、裸で大きな息を吸ったり吐いたりしながら、もみ合っている。そしてしばらくそうしていてると父親が大きな声を出して、一回母親の尻をぶった、そうして父親、母やともにしばらく荒い呼吸をやめず、そして息が収まったかと思うと、パジャマを着て、並んだ布団に腹ばいになり、父親も母親もタバコを吸いだした。

「俺はよ、こんなちっちゃい所で終わるような男でねえ」

「そうだね、あんたは東京できっと輝けると思うよ」

「東京か」

「そう、大都会東京。なんでもある、大きなビルに上ってみてもいい。マンションに住んでもいいし、事業をしても、あんたなら成功するはずだ」

「そうか、東京」

 翌朝雪女が目を覚ますと、両親が煙になっていた。違うのかもしれない。ただの開けっ放しの戸から入る、粉のような吹雪なのかもしれなかった。けれど凍りそうなほど冷たい雪女には、煙か吹雪かよく分からないのである。そして雪女は確信した。なにかの理由によって父親も母親も、煙になってしまったのだと。わたしを置いて東京なんざ、いくはずもないし、夢の中で母親はタバコを吸っていた。母は絶対にタバコなんて吸う女ではない。だから、夕べ見たものは全てわたしの夢だし、東京に行ったはずもない。わたしたち家族はどこからも見えない場所で、その中の、小さい睦愛でいつも近くにいた。あれは夢に違いない。そうするとこの煙、多分父親と母親が、水がお湯になって蒸発すると同じく、蒸発してしまった、残り香、そんなもののようなものだろう。どうして気体になってしまったのかわからないが、少し雪女はホッとしていた。実は雪女は父が苦手であった。歯槽膿漏の臭い息がとても近づいてくるときもあったし、だいぶ幼い頃の記憶だが、グンゼのパンツの中に手が入ってきて、それは女の、雪女も女であったから、勘のようなものなのか、歯槽膿漏の息と、パンツの中に父親の手が入っていく恐怖で身体がかちこちに固まってしまったことがあった。けれどそれも夢かまぼろしで、雪女自身、それが現実にあったことなのか、夢、まぼろしなのか、わからないのだ。だれかに、それは、と尋ねられても、雪女自身、自信がなかった。けれど父親が怖いのは大人になった今でも本当で、すでに両親が蒸発し、今父親がいないのに、横になって眠っていて、ふとなにか大きなものの存在を感じると、

「クマが出た!」

と叫んでしまうのだ。もちろんクマも父親もいない。とにかくその記憶はほとんどがあったことなのか、わからないくせに、おぞましさと恐怖は今だに雪女に残っているのだ。

 両親が煙となったのは四年前の一五歳の時だ。だから今雪女は一九になる。伝説とも化け物とも、村人が噂する雪女であったが、さすがにその年頃になれれば、また雪女は美しかったし、求婚するものが二人現れた。

「ゆき、どっちを選ぶ!」

「ゆき!どっちだ」

雪女は逡巡した。「どっち」と言われてみても雪女にはどうすることもできなかったのだ。

「強い方」

ゆきは叫んだ。そう、その日も煙のような粉が吹く、吹雪の月夜だった。

二人の強そうな男二人は

「丸腰で」

「丸腰で」

とお互い誓いあい、一人はピストルを、一人は栗むき包丁を、粉のように埋もれる、雪の中に投げ出した。雪女は、その一人が出した、栗むき包丁を見て、その男に惚れた。その栗むき包丁は、月の灯りを受けて、きらりと光ったのである。

「あんたにする」

雪女は二人の決闘も見ることなく、栗むき包丁を持っていた男に決めてしまった。

 そうして五年が過ぎた。その甘栗を村で売って生活する男は、

「ゆき、お前は今年で二四になったんだべな」

「そうよ」

「不思議だ」

「何が?」

「おめえは、一九の時と変わらねえ。そうして最近気づいたことがある。おめえはウソつきだな?」

「いいえ」

「いや、俺には本当だってわがってる。お前はいつも嘘ばかりついているな?」

「何を?」

「あれはゆきの抒情を誘う、ただの映画だったのだべ」

「何?」

「お前は、あの時、本当は決めていねえかったんでないか? あれはただの映画だったんだべ? お前は今、本当に決められるのか?」

「疑わねえでけろ」

「いや、俺にはそう思えてならねえ」

「頼む、疑わねえで」

雪女が消えたとき残したのはただの氷だった。雪女は消えてしまう直前、大切なもの………と言いかけた。けれど最後までいうことができなかった。その栗むきの粗末な家は凍り付き、春になって溶けるころ、栗むきは家の大掃除をした。その中にあったドロップ型の水色の石に、栗むきは気付くこともなく、掃いて縁側から庭へ捨てた。せっせと掃除をしたのである。けれど掃除をした後の片付いた、ほんのりと温かい部屋で、栗むきは今いない、ゆきを思い出していた。そして懐かしんでいた。石といえば縁側から掃きだされた、その昼春の陽光を味わった。そしてその陽光を照り返し、きらりと光ったのだが、今はもう宵闇に沈むだけだ。生まれたばかりの蛾だってそれに気がつかない。

 雪女は町に出た。朝から夕方まで、今まで知らぬ、それにもちろんやったこともない、パチンコ屋で朝一〇時から夕方六時まで働いた。それほど「枯渇をしのぐ」っていう具合の生活でもなく、冬には人並みにコートも買えたし、部屋にポニーテールという名の観葉植物も置いた。

 次に雪女に懸想したのは、雪女の住む、モルタル二階建ての角部屋に住む、妻帯者だった。なんでも奥さんは夜勤の仕事をしているとかで、夜になると雪女の部屋にそっと上がり込み、コーヒーを飲んだり、ビールを飲んだり、お好み焼きを食べたりして、その後すべきことを滞りなく済ませると、

「妻とは別れる。俺はゆきと一緒になりたい。雪のような一九歳にも見える二五歳に出会ったのは初めてなのだから」

男は本当を言っていた。ゆきは男にとって特別だっていう気がしていた。ゆきはベッドに冷たい凍てついた二月、そとをうろついていた野良猫が、やっと暖を見つけたっていう風に、するっと冷たく入って来た。ゆきは伸ばした髪の毛さえ冷たかった。もうすぐ凍ってしまいそうになるんじゃないかっていういう不安を男に宿した。それは男にとって、いいものであって、快感であった。

 そういった密会はいつまでも続いた。三年経った。男は近隣の沿線にマンションを買うことになった。雪女は、

「行かないでけろ」

とすがったのだが、男はこう言い放った。

「俺でいいのか?」

一瞬雪女はたじろいだ。本当に「俺」でいいのだろうか? なにか万華鏡のような現実のような、夜見る夢のようなものが、頭の中を駆け巡った。

「もちろんだ」

「頼りないんだ。ゆきは。お前が言うことといえば、お茶飲む? 風呂入る? 飯を食う? 

そんな言葉はどうだっていいんだ。本質は別なところにある。暖簾に腕押しっていうのがこういうのなのかな。すぐに沁み込み弾力がない。それが言ってみればゆきだ。つまらないんだよ。そんな女。面白くないんだ。そういうのがお好みの奴と一緒になればいい」

「だってわたしはここにいるもの。どうすればいいの? わたしはここにいるしかできない。どうすればあなたを押し返せるの?」

「おい、ゆき。お前は本当にここにいるんだろうな?」

「もしかしたらわたしは陶器でできているのかもしれない。だからそこに座って動かないのかもしれない。だって動きようがないのだもの。ならば割って。その中にきっとわたしの真心が入っているはずだから」

「つまり、この前俺は玉突きの事故に合ったろ。その時、妻は『でかした!』と言って、お前は『大丈夫?』と言った。そういう違いが」

男は置いてあった、ゆきが浅草の仲見世で買ったと言っていた、招き猫型の貯金箱を思い切り、台所の床に叩きつけた。中に小銭など入っていなかった。それでもそれくらいで男は落胆しなかった。

 雪女は悲しく消えた。今回の雪女は部屋を凍らせず、その座っていた場所をびしょ濡れにしただけだった。暗い蛍光灯二本のうち、一本はずっと前から切れていた。そしてその残った一本も、ぱちぱちと暗くなる。ゆきは何度もその男に蛍光灯を取り替えてくれるよう、頼んだのだったが、とうとう男は取り替えなかった。無精からである。その暗い台所で男はほうきと塵取りを取ってきて、割れた招き猫型貯金箱の残骸を集めていた。その男は気がつかなかった。光を集めなければ、それは光らない。ドロップ型の水色の石がその中に紛れ込んでいたのだ。そしてその男は引っ越し先のマンションで、雪女を次第に忘れていった。過去の女の記憶なんていうものはそう言う末路をたどるのが常だ。そう、男にとって、雪女はいても、いなくてもイッツオーライ、そういう存在だったのかもしれない。So sweet memoryというやつだ。ただ冷たい猫がはじめ物珍しく、そのするっとしたおしろいをつけたような、身体を抱きしめて、その不思議な存在するのかしないのかわからない不思議な身に触れてみたい、ただそれだけだったのかもしれない。

 雪女は消えていく中で、そうだ、あの男はわたしを手折った。あの男が世界中のスイレンすべてを見たわけじゃない。近くに見えて、よさそうなスイレンを手折った。わたしは水に活けられ、しばらくは毎日水を代えてもらっていた。わたしはそこにいるだけだった。やはり、男と比べておなごは断然みじめなのだ。そう思ったような気もする。

 翌年の春、春だという理由ではなかったが、雪女は珍しく張り切っていた。運命の男と出会ったと思ったのである。その男は大木聡という名で、二五歳のバツイチであった。

 男と雪女の出会いはパチンコ屋に始まる。毎朝、雪女は客にコーヒーとサンドイッチを配るのだが、その際いつもスロットの台に向かう大木聡は、雪女に

「やあ、おはよう。今日もきれいだね」

とさわやかに、それでいて少しプレイボーイ風に、それでいて誠実そうに、雪女に挨拶をするようになった。雪女はそれに対し、

「おはようございます」

と少しはにかんだ様子で答えるのが精いっぱいで、その男に密やかな恋心を持つようになっていた。雪女は思うのである。わたしが、好きになった。わたしから。

 そしてそれは以前、栗むきに抱いた気持ち、栗むきを選んだときの気持ちとは、また少し違うと、雪女は感じていた。子供のころ、毒と無邪気でもって、かくれんぼをして遊び、鬼である自分が、誰かを見つけたような気持ち。いや、違う、もっと稲妻のようなものだっていう気もする。けれど雪女にはわかならかった。今までは、近づく、一番に近づいてくる、そう言った男と昵懇となっただけだったから、雪女の方から、その男の胸に近づく方がわからなかったのだ。だから

「やあ、おはよう。今日もきれいだね」

「おはようございます」

とだけの関係しか、雪女には選べなかった。雪女は恋愛こそ、すこしだけ繰り返してもみたが、その相手の胸に近づいていくっていう選択肢が持てないでいたのである。それまでの恋愛の経験にそれが必要なかったせいかもしれない。

 けれど転機は訪れた。雪女が、フレイ・I・Dの真っ白なスウェットのワンピースを着て、真っ白になり、コンバースのギンガムチェックのスニーカーを、トントンとさせながら、家に帰ろうと、店を出ると、そこにその男が待っていた。

「やあ、君の名前を聞いていいかな?」

「ゆきです」

「じゃあ、ゆきちゃん。今日俺、大勝ちしてさ。一緒に食事でもどうかな? 俺の名前は大木聡」

雪女はめったに赤くならない頬を染めた。雪女はこんな恋愛の仕方を知らなかった。惚れた男がわたしを食事に誘う。

 けれど職場の同僚には、バイト同士であるとか、バイトと客であるとか、そう言った関係が恋愛の関係になることも見知っていた。それが今まで雪女には不思議に思えてならなかった。どこが不思議だったとかというと、女の方が先に惚れる場合だった。彼女らは上手に相手の懐に入り込んだ。それはゆきの目には見えない何かだった。その方法も見えなった。それなのにいつの間にか彼女らは、お気に入りの客、お気に入りのバイト仲間、そういった男性に近くにいた。雪女はそれについて煩悶したのである。手を振ってみればいのだろうか? 耳元でウィスパーでもやりゃあいいのか、脚でも見せればいいのか、自分の自己紹介を始めればいいのか、いっそ生暖かいブラジャーでもプレゼントすればいいのか? 

 そんなゆきではあったが、やっと思い人が食事に誘ってくれて、雪女の胸は「助かった!」とでもいったような、歓喜を伴う安堵であった。

 その晩、カウンターに二人並んで、天ぷらそばを食べ、さらに大木聡は雪女を酒に誘った。

「いや、わだすは、そんな」

「じゃあ、観覧車に一緒に乗ってくれないか? 一周だけでかまわない」

大木聡が最初に観覧車に乗り込み、ゆきの手を取って、さあ、と誘う。ゆきもそれに従順に従った。夜八時ごろ、夜景が、ピカピカとやけにきれいだ。ゆきは観覧車ははじめてであった。

「きれいだねぇ」

思わず、ゆきはそう言った。

「俺の話を聞いてほしくて、観覧車に誘ったんだ。ゆき、聞いてほしい。俺の真を。俺はね、以前は羽毛布団の営業の職に就いていた。そしてバツイチで息子が、まだ幼いけれど、二人いるんだ。元嫁は秋田に帰ってしまった。今は一人で1Kのアパートで暮らしてる。ゆき、知っているかい? ずっと掃除機を部屋にかけないだろう? そうすると、ホコリが丸まって、超常現象のように、ふわりふわりと部屋を駆け回るんだぜ。そしてな、ゆき、俺は夢を見つけた。ほら、ここからだって見える。あの北斗七星のようにさ。ちなみに今俺は、金融会社に300万ほど、いやあ200万くらいだろう、まあ、そんなお金を借りていてね。それと生活と子供の養育費、すべてをスロットだけで、ねん出しようっていう、そういう稀有壮大な夢。大木聡、俺の、男のロマンっていうわけなんだ。ほら、ここからも見えるだろう? あの北斗七星のようにさ」

雪女は酔ったのだろうか? と自分を訝った。目に見えるものすべて美しく、きらめいていて、まるでそれが雪女の手に入るような気がしていた。

 手に入れる。そんなことを雪女はあまり考えないで生きてきた気がする。そこにいさせてもらえればいいと、それで満足していた気がする。それがわたしの欠点なのだ。そう雪女は考えてみた。もっと欲しがった方がいいのかな? 欲張りに。その欲張りっていうのが、恋愛とか結婚とか、生きるということなのかな? と考えてもみた。答えは観覧車のてっぺんで大木聡にキスをされても、出なかった。ちょっと前の生暖かいブラジャーまでも考えた煩悶、今のわからなさ、キスのわからなさ、けれど胸がドキドキして高なりが止まらない、それがいっぺんにゆきの頭を駆け巡るので、吐き気さえ伴うほど、ゆきは酔ってしまったのだ。決して観覧車に酔ったわけでもない。

 結局、そのまま大木聡はゆきのアパートにいつき、仕事もせず、雪女にばかり働かせた。そう、冒頭に戻るが雪女はゆえに張り切っていたのである。雪女の胸にはいつも星が光って。聡君に教えてもらった、北斗七星。スロット人生という稀有壮大な男のロマンを、見守るだけしかできない雪女であった。

雪女はこの元羽毛布団の元営業マンはたいそう頭がよく、たいそう優しい人間であることを自分だけが知っていると思っていた。誰も知らないだろう。ふと合わせた終了10分前の水戸黄門。それを見た聡君はその人の人情に感激し、大粒の涙をこぼすのである。

そのうちに雪女の腹が膨らみだした。

「弱ったな」

そう言って、大木聡は軽く、雪女のお腹を蹴ってみた。あくまでも「軽く」である。大木聡はそこまで極悪人ではなかったのかもしれない。「サトシ君」、「ゆき」と呼びあうようになって1年過ぎるころ、台所の蛍光灯が点いたり消えたりするようになった。それを大木聡は雪女が買ってきた新しい蛍光灯と取り替えてくれた。ゆきはその「サトシ君」にさらに惚れ、また壊れえない二人であると安心した。わたしはここにいます。

 その3か月後、雪女は男の子を出産した。なぜか腐ったへその緒のような、猿みたいな赤ん坊だった。大木聡も一応は喜んでみせたが、内心は愉快でないようにも見えた。雪女は、なんとなくこの醜い赤ん坊を産んでしまったことを内心大木聡に後ろめたいような気もしていたのだが、涙をこぼしてその赤ん坊を大事そうに抱き、

「サトシ君、スロットの商売はうまくいってるの?」

と尋ねると、

「そこなのだが」

と大木聡は重々しく始める。

「俺はお前から、出産費用として、もろもろ合わせて五十万預かっていたのだが、今手元にあるのは一万を切っているのだ」

「そうなの」

雪女は、その金額に驚く風でもなく、その男のロマンがなかなかに難しいのだということを、考え噛みしめている様子だった。

 雪女は退院すると、しばらくして猛然と働きだした。北斗七星。忘れてはいなかったのである。駅のトイレ掃除と、ラブホテルの清掃員、パチンコ屋、この三つを雪女は掛け持ちした。雪女は毎日泣いた。別に労働の厳しさに泣いたのではないのである。悟と名付けた我が子を保育所に迎えに行くと、

「おー、おー、悟。さみしかっただろ。さみしかっただろ」

と10分間泣くのである。そして悟もめえめえ泣いてみせる。そして10分泣くと満足するようで、ぴたりと涙は止まり、両目をこすりながら、悟をおぶさって、アパートへ帰った。

 帰ると悟を寝かせ、二人で夜食を食べるのだが、その日大木聡は自慢げに、己の携帯をゆきに見せた。

「これが俺の新しい彼女なんだ。かわいいだろう。学校教師なんだぜ」

その言葉はゆきの耳に、不思議な言葉として響いた。

「学校教師。すごいねえ」

「お前? なんなんだ?」

「え?」

「俺は以前、お前を愛していた。お前は俺を愛したことがあったのか?」

「先に惚れたのはわだすだ」

「そんなはずはない。それはお前の勘違いだ。寄って来た男全ての赤ん坊を産むのか?」

「そんなはずねえ」

「お前は何を見てるんだ? 俺は金と女とセックスを見てる。お前が見てるのは一体なんなんだ?」

「わだすにもよくわからねぇ」

「台所の蛍光灯を取り替えてやったら、喜ぶ。俺の新しい彼女を見せると、学校教師、すごいねえ、と言う。お前、いったいなんなんだ?」

「わだすはわだすとしか言えねえ」

「金でもない、男っていうわけでもない。俺だって、あの赤ん坊が、俺にもお前にも似ていないからって、俺の子供じゃないとか、お前浮気しただろうとか、理不尽な追及はしないさ。だけどお前はどこを見てるんだ? セックスでもない。ぴらぴらとしたスカートか? 生きていくにはな、金と男に欲をかかなきゃ生きていけないんだ。ロマンなんて本のちょっとのふりかけ程度でいいんだ。なぜなら」

大木聡は雪女を裸にすると、タオルで両手を縛って、目もタオルで覆い、犯しながら、

「ロマンは人を生きさせない。それに伴う情熱で死ぬ人さえいる」

男は雪女の手を縛るタオルも目隠しもとらないまま、アパートを出ていった。原チャリが走っていく音がした。雪女はそのまま朝まで眠った。

 そして朝方悟が、ぎゃあぎゃあ泣く声で目を覚まし、なんとか腕のタオルの結び目を見つけ、解き、目隠しもとり、ここは保育所ではなかったが、雪女もぎゃあぎゃあと悟と一緒に泣いて、10分すると、泣き止んで、悟に乳をのませながら、きっとサトシ君は帰ってこないのだろうなあ、教師だもんなあとぼんやり思い、片方の乳を悟に吸わせながら、雪女は考える。わたしが最初に惚れたんじゃなかったっけ? 近づき方の不器用なわたしを上手に先導してくれたのは、この子のお父さんだったんじゃなかったっけ? 

ああ、違うのかもしれない。すべてわたしの勘違いかもしれにない。あの人だって、世界中のスイレンを見たわけじゃない。周りに咲く、スイレンを適当に手折っただけのことかもしれない。もしかしたらおなごとは、選んで選ばれて、そういう風に思い込んで、一生を終えた人が最も幸せなのかもしれない。やっぱり、わたしは手折られて、そう、あの人が手折ったのだ。あの時、わたしを。わたしは手折られ、そういう風に、そういう息の仕方も覚えて、そういう風に息をして、そうしていた。決めないわたしの中を、わたしが透明だっていうみたいに通り過ぎていった。みんな。みんなだ。それだけだった。何度契っても同じだ。何度固く契っても。

ああ、ガラスの靴、とても壊れやすいガラスの靴がほしいなあ、と雪女は思った。とても壊れやすくていいんだ。夢だけを見たい。十二時を回った瞬間に、粉々になるような。わたしは十二時まででいい。だって、いるだけだもの。いるだけ。いるだけしかないのだもの。



・自殺場

己を回顧する。最近はさみしいと思わなくなったな。「さみしい」が鈍麻してしまったのだろうか? いや、さみしいだけじゃないかもしれない。面白いも、楽しいも、悲しいも、みなモノクロで、むかしそんなものあったっけと懐かしむような、そんなものだ。眉根にしわを寄せることも少なくなった。一日きょとんとした気分で過ごしている。パソコンなど触っていない。情報を得ようと思わない。テレビは一日中つけっぱなしで、毛布を掛けて寝ている。成功している大学教授は最近そんな風だった。大学教授は思う。

「そうだ! 俺はつまらないのだ!」

それならば自殺しよう。そう簡単に答えは出た。

大学教授は風呂に入り、歯磨きをし、髪を整え、冷蔵庫からビールを出し、ぐびっと一口飲むと、残りを台所のシンクに捨て、空き缶を捨て、部屋を出た。

 自動歩行機に「ジサツバ」とセットする。

液晶に「『自殺場』でよろしいですね」と表示が出て、YESをタップする。自動歩行機は一定の速度で進む。大学教授は丸い椅子に腰かけて、上を向き、よだれ垂らしながら寝てしまった。これだって、つまらないということの一様態だ。景色はもう秋になっている。黄金色の小さな虫が自動歩行機の窓にくっついている。外はとても明るく見える。落ち葉や色が変わった植物、秋に似合った景色に太陽は今さんさんと降り注いでいるのだろう。大学教授はなぜか、自殺日和だと思った。

 自動歩行機が止まる。

「到着しました。お疲れ様でした」

と女性の声でアナウンスが響く。けれどいつものように自動歩行機のドアがぱかっとひらかない。そして抑揚のない女性らしき声のガイダンスが流れる。

「シヌノデスカ?」

「YES」

「ホントウニシヌノデスカ」

「YES」

「キモチハユルガナイノデスカ」

「YES」

大学教授は「YES」に飽きていた。さっさとしてくれないものだろうか? 古今東西、しつこい女とは結局のところ、やり逃げされるのがオチなんだ。するとぱかっと開いた自動歩行機の扉が開いた。大学教授は少ししつこい自動歩行機を出た。傾斜が穏やかなスロープを歩く。大学教授は一回、頭をくしゃっと掻いて、思う。真理も死んだ。愛も死んだ。そして今俺はまだ、成功している大学教授だ。それらには何の脈絡もない。昔はそれぞれに俺は意味があるのだと思っていた。そして意味があるからこそ、微風にも震えるような、そんなものかもしれないが、そんな糸がそれぞれを、意味を持つものをつないでいると信じていた。そうだ、今は秋。焼き芋。落ち葉炊き、新米、枯葉、イチョウ並木、奥さん近所のマルエツでオイスターソースが特売になってたわよ。ああ、もう秋ねえ。

 なるほど。秋にも意味があるようだ。けれどそれがどうしたっていうのだろう。意味に意味を見つけたいのに、まったくだ。まったくなんだ。ばかばかしい。

 スロープの途中にINFOMATIONと書かれたブースがあって、そこに若い二人の女性が座っていた。大学教授が近づくと、二人とも立ち上がって、大学教授に会釈をする。大角教授は脳細胞が所々壊れてしまったというような、疲れた顔をして、

「自殺をしにきたんだけど、どこへ行けばいいのかな?」

と尋ねた。

「ご案内いたします」

二人のうちの一人、いまいちな方が俺の前をゆっくりと歩く。白いブラウスとネイビーの制服を見ていたが、目線を下に移すと、にょっきりとした脚が見える。ネイビーのパンプスと言ってもウェッジソールだ。その肌色のストッキングに包まれた少し太いふくらはぎを見ていいたら、奇妙に性欲を覚えた。この女のストッキングを脱がせ、脚を開かせるまでは絶対に死ねない。不思議とそう思った。がむしゃらにむしゃぶりつきたい。大学教授は、今生への焦燥を感じていた。

「こちらです」

その女性がドアの前に立ち、右手の指をそろえて、「受付」と書かれている、ドアを指示している。そのそろえられた指には熟練と、確かな教育を感じた。そこで妙に湧いてきた情欲は突然冷め、けれど大学教授はさっき感じた、確かな情熱がまた湧いてこないものかと、深々とその女性にお辞儀をし、間近でその脚を見てみた。情熱とはきっと一瞬で、長続きしないのだろう。その時に、ちょっと前まで感じていた性的衝動を感じることはできなかった。さみしかった。それはどうしてだか、本当のさみしだった。モノクロではなった。胸に突き刺さる短剣。そんな痛みさえ伴うような生もののさみしさだ。けれどその女性は多分己のエロティシズムをひめやかに隠すのだろう。大学教授は深々とお辞儀をしたが、その時、落胆とともに、

「『今度、教育とエロティシズム』というテーマで論文を書きたいものだ」

と思ったのである。

 大学教授はその「受付」のドアをノックし、中に入った。

「どうもよろしくお願いしますー」

奇妙に高い声が出た。受付で、身分証を出すと、一枚の用紙を渡され、そこには名前や年齢、その他もろもろの個人情報を書く欄がびっしりと埋め尽くされたいた。そこに流暢に大学教教授はその欄を埋めていき、ふと気がついたのだが、渡されたボールペンはモンブランだった。係員が突然言った。

「みじめを感じると、死を決意する人が多いものだから」

 そして係員に

「どうして死にたいのですか?」

と尋ねられた大学教授は

「つまらないからです。もちろん今だってつまらない」

「どんな時につまらないと感じますか?」

「常にです。常なんだ。つまらなければ死ぬしかないでしょう?」

「なるほど。では自宅等でつまらないと感じたとき、あなたはどうしますか?」

「自宅のリビングでソファに座っているときに、それをふと感じた場合、俺はソファの後ろにある柱に、ゴンゴン? ゴツンゴツン? そんな風に頭を打ち付けます。すると少しおさまるんです」

「では、審査に入ります。あなたは別室で審査が終るのを待っていただきます。別室は一人で入っていただきます。アナウンスがあるまで誰もそのドアを開けません。監視カメラもついておりません」

 その係員の後をついて行く。しばらく行くと、明るいガラスのようなものでできた、天井に、これもまた、ガラスのようなものでできた、梁が縦横無尽に行きかい、そこに長く吊るされた荒縄のロープが先がわっかになって吊るされている。

「ここはあくまでも『自殺場』であって、安楽死などさせません。このわっかに首を入れ、『自殺』することになります。まあ、もちろんここで自殺していただくわけではなく、これは………、言ってみれば、オブジェですね」

「なるほど」

さっき感じた性欲は、もう消えていて、そのオブジェとやらにも、大学教授は関心をもたなかった。優れた芸術のようにも見えた。けれど悪趣味であるとも思った。どうでもよかった。つまりつまらなかった。

 その部屋に通された。係員が照明をつける。そこにはおびただしい数の、男性であったら、とても興味深いもの、がいっぱいに詰め込まれていた。エロ本はもちろん、様々なニーズに合うDVDが大量にあったし、女性の下着、女子高生の制服、ストッキング、そんなものもあった。南極2号さえ置かれていた。官能小説も本棚にびっしりと「どれでも好きなの選んでね」っていう風に置かていた。そういう激情から、やはり生きようと思うやつもいるのだろうが、大学教授は思った。俺は性を汚いと思ったことはなかった。それは快活な快感に思えた。俺は湿っていなかった。それなのにこの部屋の湿度ときたら、どうだっていうんだ。とても湿ってる。無味無臭だ。でも湿ってる。これらに囲まれて、俺は生きようなんて、とても思えない。とても重くて湿っている。

 大学教授は上衣を脱いで、ソファの上に置き、ピンク色の、けれど決してドン・キホーテで買うようなものではない、例えばフランフラン、例えばイケア、そんな所に置いてあるような、クッションを枕にしてグレーのカーペットの上に横になる。

「テクニカテクニカシャランラ―」

俺はそう言ってみた。そう小さくもなく、そう大きな声でもない、そんな声でだ。その呪文のようなものは、昔見た、アニメの中の呪文だった気がするのだ。どんなアニメだったかも、その呪文がどんな効果を表すのかもわからない。けれど、ただなにか変わらないかな? そう思って唱えてみただけのことだ。そう、思ったのだ。願ったわけじゃない。そんな年齢はとっくに過ぎている。俺は中年の男だ。

「テクニカテクニカシャランラ―」

また唱えてみる。毛頭何を期待してもいない。もしかしたら俺は今、暇なのかもしれない。俺はそう思って、眠ろうとした。俺はちょっとの昔は考えない。それは時に悲劇を起こすからだ。けれどもっと遠くの昔ならば思い出してもいいと思っている。この、悲劇を絵に描いたような部屋にいるからだろうか? 俺はいつもは思い出さない真理や愛の顔が目の前にちらついているような気がした。俺は浮かんでくるなにかではなく、なにかを自分で想像しようとした。稲。秋の稲。実りを凝縮させるみたいに、稲は立つ。バッタが飛んだ。俺は寝た。

 アナウンスが流れた。

「ドアを開けてもいいでしょうか?」

「はい」

するとドーム状になっているドアが左右にゆっくりと開いていく。係員は

「楽しみましたか?」

などとは言わず、少し親しく、それでいて職業的な距離も置き、俺に接する。俺はここで働く人たちは、きっと育ちがよく、よく教育され、サラリーもかなり良いのだろうと想像した。育ちと教育だけでは振舞えない振舞い方だ。サラリーに満足している人の振舞い方だ。

ガラスのようなものでできた天井を見ながら、俺は係員に話しかけた。

「どうやら外はとても天気がいいみたいですね」

「いや、今外は曇っています。天気が良くないと、どうもいけない」

「ここはゆるい傾斜のスロープばかりで階段がないんですね」

「階段を上るっていう行為、これは時々人を絶望させますから」

「あなたは、人間の心理を、熟知してらっしゃる」

「ここで働いて長いんです。ため息を吐きながら、やってくる人を見ていると、どんな条件が揃うと、人は死んでしまうのかわかるようになるんです。死。これは条件です。環境と条件がぴったりと揃えば誰だって死ぬ確率は高まります。というか必ず死ぬんです。つまり絶望にプラスされた環境とか、条件。そういうものです」

 「こちらで審査の結果をお聞きください」

そう係員は言って、灰色のドアを開けた。そういえばこの建物、濃淡の差はあるけれど、天井と床以外はみな薄い灰色なのだ。どうしてなのか係員に聞きたかったが、係員はもう俺に背を向けて歩いていた。

「審査部」

とプレートに書かれている。ドアは開いてはいたが、ドアをノックして入る。背の高い男性がいた。多分俺より年下だろう。男性は冷たい麦茶を俺の前に置き、自分の前にも置くと、その男性と俺の間にあるデスクの椅子に座った。そして

「結論から、先に申し上げましょう。審議の結果、不可となりました」

「そうですか。でも俺はつまらなくてつまらなくて、死ぬしかないと自分では思うのですが」

「そこです。それだけなら審査は通ったでしょう。けれどあなたの場合、頭を柱に打ち付けると、少しの解消がみられるという点から、不可となったんです」

「そうですか」

「以上となります。ご質問はお受けしません」

「そうですか」

「ではお気をつけてお帰り下さい」

「そうですか」

「玄関までお送りします。この建物ははじめての人には迷いやすいものですから」

「そうですか」

 俺はもったいないと思い、慌ててグラスに入った麦茶を飲みほした。飲んでから気づいたのだが、俺は多分のどが渇いていた。

 前を背の高い男が歩く。フランクさのかけらもない男だ。俺は気になっていたことを質問した。

「どうして天井と床以外はグレーなんですか? 僕には不思議に思える」

「ご質問はお受けしません」

「そうですか」

 自動歩行機に乗る。やはりあの係員の言っていたように、空は曇っていた。時計を見た。五時三八分。宵闇が人の心のすきに入り込んでくる時間だ。俺は上衣のボタンをなぜかしめた。自動歩行機の「外部の音集音」と書かれている液晶をタップする。外は枯葉が激情しているみたいにかさかさとからからと踊り狂い、その枯葉を躍らせている風の音も北国の吹雪のように、すさまじい音だった。どこかで稲妻が光ったかと思うと、自動歩行機内にも稲妻が落ちる激しい音がどおんと聞えてくる。俺は死ねなかった。

 それから大学教授はつまらなさが近づけば、固いなにか、柱であるとか、コンクリの壁であるとか、そういうものに頭を打ち付けるようになった。大学教授の後頭部には盛り上がった、固いこぶができた。ゴンゴン。ごっつんごっつん。どーんどーん。そういう風にだ。そうすることで生きなさいと命令された。一回打ち付け方が強すぎたのか、打ち付けた瞬間に後頭部からめきり、といういやな音が聞こえた。しばらくするとものすごい悪寒に悩まされた。だそこで大学教授は体温計を探した。体温計などしばらく使っていない。大学教授は、さて、と考えた。俺しかいないのだから、俺が体温計を使った確率は高い。では俺はどこに体温計をしまってしまったのだろうか。リビング中の引き出しを開ける。俺はいつの間にか、ポロポロと涙をこぼしていた。さまざな、それでいて何なのかわからない思いが痛む頭に駆け巡った。それらは痛みが引っ張り出したに過ぎない。俺は確かに4LDKのマンションに住んでいる。けれど真理のいた椅子には真理はいないし、愛の部屋には愛は眠っていない。当たり前のことだ。そしていつもそんなことなんか考えちゃいない。二人とも死んだのだから。俺は体温計を探すのを諦めた。朝までソファに固くなって横になっていた。悪寒はいつまでも止まなかった。なぜか廃墟という言葉が浮かんだ。朝になりリビングのブラインドを開け、寝室のカーテンも開け、愛の部屋のカーテンを開けに行く。いつもの朝と同じようにだ。なんとなく愛のペン立てを見た。そこに体温計は刺さっていた。愛のベッドに座って体温を測る。四〇度以上の熱があった。「病院」。そうも考えた。けれど俺はもう起きているっていうことに飽き飽きしていた。眠りたかった。思い出を禁止されても、死ぬことを禁止されても、眠るのは許されている。頭は割れるように痛い。それが今の俺を多分巣くっているのだろう。ベゲタミンAとロキソニンを多めに飲んでソファに毛布を掛けて横たわる。いつの間にか寝ていた。その間もテレビはついたままで、様々な人たちの笑顔を順番に写していた。

今大学教授は、手も足も後ろ手で縛られ、自殺を禁じられている。そしてテレビをつけっぱなしにして、深夜のテレビショッピングで紹介されるものすべてが、とても「有益」で「ためになる」と思えたが、それがどうしたと思い、それを思った瞬間に、頭を柱に打ち付ける。



・Tの悲劇

 映画の撮影も終わり、その日は渋谷の大きなレストランの二階を借り切って、打ち上げが行われていた。家で氷結かのどごし生か、高くて一〇〇〇円くらいのワインしか飲まないし、飲むっていったら笑笑とかそういうところだし、その打ち上げのお酒がやけにおいしくって、誰彼かまわず、

「このワインの名前って、なんていうんですか?」

「この日本酒の名前ってどう読むんですか?」

なんて聞きながら、どんどん飲んだんだけど、やっぱり酔ってたのね。トイレでゲロを吐きながら、あれ? さっきのワインの名前って? あれ? さっきの日本酒の読み方って? っていう風に何にも思い出せなかった。そう、女優として知るべきお酒の味や名前。それをちょっと今回は知るには至らなかったけれど、まあ、おいしいお酒をしこたま飲んで、こんな風にしゃれたトイレでゲロを吐くのもまた一興、とわたしはめげなかった。

 二次会がどこで行われるのか知らなかったけれど、流れに身を任せて、二次会にも出ようって思ってた。新人女優として顔を売るチャンスだし、もとデブのわたしの胃袋はやはり天然華奢の女優さんと違って、大きいみたいだ。まだ食べれる。

 出口に向かう人たちの流れにしたがう。パウダールームで化粧も直した。そしてうがいもした。出口に向かいながら、バッグからミンティアを取り出し、口に放り込んだ。外にはデッキチェアが置いてある、いい感じのテラスがある。酔った身体に気持ちのいい夜風。健康なわたしっていう女優志願。そんなわたしにこの渋谷のはずれ、レストランの二階のデッキチェアって似合うと思う。脚を組むともっといいと思う。けれど季節は秋、実りの秋。わたしの何かがきっと実る、そういう秋。私の場合、ある種の意味て実っても困るけど、だってもともと実りやすい体質だから、そんな秋の夜風を感じながら、思索にふけり、デッキチェア。悪くないと思うけど、でも今はこの人波みについて行かなくっちゃ。下を見るとどんどんタクシーが人を吸い込んでは走っていくっていうことを繰り返している。タクシー型、秋の夜のメリーゴーランド、大人限定。

 ああ、偉くなりたいなあ。わたしは偉いっていうことの本質を知っているんだ。たとえば実家の父。父のいうことは絶対で、言うことを聞かなければ折檻された。つまりそういうことなんだろう。人に命令できて、それを遂行しない人間に折檻を与えることができる。つまりそういうことなんだろう。ああ、早く偉くなりたいなあ。

 そんなことを考えてたら、いつの間にか階段まで歩いていて、それに気づかず、わたしはパンプスのヒールを階段に引っ掛けた。

 おっとっとっと。よおっとっとっと。そんな風だった。私は結構長い階段の一番上から、下の道路まで、よろめきながら、持ちこたえながら、ゆっくりと踊るように落ちていき、最後の方で身体のバランスさえもよろりと崩れ、スカートはめくれショーツの上から履いている、肌色のストッキングごと、すべてを見せて、仰向けにずずーーっと落ちていった。

 そのまま立てずにいたら、スタッフが集まってくる。その中に刃物を持った男がいた。そして素早くわたしの元に駆け寄ると、

「近寄るんじゃねえ!」

と叫んだと思うと、その果物ナイフみたいなものを、わたしのお腹にさっくりと刺した。随分ドラマチックだ。

わたしは

「か・い・か・ん」

と言ってみたが、場違いなこともわかってる。

「金を返せ。二百三十万だ」

男は言った。女はなにかもっとドラマをと、もっともっとと焦がれた。わたしは今の自分にさっき、ゲロを吐いたときくらい、酔っていた。わたしと男の周りをぐるっと人が囲んでいる。わたしは口からミンティアを吐きだした。

「なんだ、これ?」

男がそう言うのを待ってましたとばかりに、わたしは少し口元に微笑を浮かべると、

「MDMA、してはいけないクスリ。わたし、いけない女になった。あなたと一緒にいればよかったのかな」

女はこれは脚本的に言うならば起承転結、どの部分に当たるのだろうなあなどと考えていた。男は突然涙をこぼし始め、

「お前、お前ってやつは」

と言って泣きだした。そしてさらにドラマを求め、女は言う。

「あなたに見えるわたしはお腹から血を出して、横たわっているように見えるでしょう? でもね、ことの本質はこう。ある他の人からは、わたしが道路の端にしゃがんでタバコを一服しているように見えるっていうわけ」

その言葉にドラマは生まれなかった。その言葉の意味を男は忖度しかねたのである。

「死ぬんじゃねえぞ!」

いつの間にか警察官が到着していたようだった。警察官に両腕を後ろに回され押さえつけられた男は、

「死ぬんじゃねえぞ!」

「死ぬんじゃねえぞ!」

「死ぬんじゃねえぞ!」

と叫びながら去っていたった。残されたわたしも救急車が到着し、担架に乗せられ救急車に乗った。救急車の中で一回、げほっと血が大量に口から出た。女は少し焦りを感じた。

「あれ? まさか、わたし、死なないよね?」

「まさか、まさかだよね?」

もう一回女は口からげほっと血を吐いた。今度は大量の出血だった。救急隊員が何かを大声で叫んでいる。

 死にたくない。まだ死にたくない。偉くなってから死にたい。だってわたしは今四三キロ。たまに四二キロになることだってあるんだから。まだ死にたくない。そんなの絶対にいやだ。



・うろうろ

何をあまらして、うろうろしているんだろう。

 ああ、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい、逃れたい、逃れたい、逃れたい、逃れたい、この重い荷物、いつから? 捨てたい、捨てたい、いや、捨てやしない、隠れたい、隠れたい、隠れたい、隠れたい、

 おう、大切な人。会えてよかった。そのシェルターに、その二人用のシェルターにかくまってもらえますか? 

まだ言っていないことありました。ウソは罪ですか? ごまかしは罪ですか? 正直は尊いのでしょうか? みなまで明かすこと、それは尊いのですか? そうしろと、そうしろと、わたしを責める人がいるような気がします。するとその人、徳でもって徳を持ちつつ、去っていった。ゴキブリになって、生き延びる。それはただあなたのために生きるということ。それのみがわたしのプライドなのです。   


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