上杉の殿様
山形県西部に白鷹山というお山があります。
奈良の御代に、行基というお坊さまがこの辺りにやってこられました。その時、白い鷹が飛んできて、虚空藏菩薩さまが現れたと言います。それが縁で、このお山を白鷹山と名付け、頂上には
虚空藏菩薩を祀ったと言います。
そのお山に、つい最近、二つの碑が建てられました。
大きい碑は、この地を領していた上杉鷹山公の『伝国の辞』です。そして、幾分小さい碑には、日本語と英語で、次のような文句が記されています。
『国家があなたに何をしてくれるかではなく、 あなたが国家に何ができるかを問おうではない
か。大統領 ジョンF・ケネディ 上杉鷹山の称賛者 キャロライン ケネディ 駐日アメリカ合衆国大使(平成26年3月11日)』
いうまでもなく、ケネデイー大統領が就任した際の有名なスピーチの一節です。
大統領になったばかりのケネデイーに、日本からやってきた新聞記者がインタビューしました。
「日本で最も尊敬する政治家は誰ですか」と。
当時、アメリカの偵察機U2がソ連によって撃墜され、フランスが核実験を成功させた時代です。国内では、安保条約改定をめぐる混乱で岸内閣が解散し、浅沼稲次郎社会党党首の暗殺事件が起こり、池田勇人首相が所得倍増計画を打ち出すという時代背景の中での質問です。
「Yozan Uesugi」と、ケネデイー大統領は答えました。
大方の日本人が、この時、Yozanの名には疎かったと言います。
ケネデイーは、上杉鷹山から経済対策を学んだのだいうのが一般的です。もちろん、そうした面もありましたが、私は、彼は鷹山から上に立つ者のあり方を学んだ、そのことの方が大きいと思っています。
上杉の家は、謙信の代から頭角をあらわします。
後継争いを経て、謙信の後を継いだ景勝は、秀吉の下につき、五大老にまでなります。秀吉死去の後は、家康と対立しますが、詫びを入れ、その後は米沢藩主として徳川幕府のもとで藩政に邁進します。ともかく、耐え忍び、家を継ぐことに執心します。
江戸の時代も安定し、中期になる頃、米沢藩は危機を迎えます。
凶作、そして、飢饉が起こるのです。
今でこそ、北海道で美味しいお米が作れる時代ですが、ついこの間まで、東北一帯では、冷害で、容易に米は作れなかったのです。江戸の時代であればなおのことです。領民はこの国では食べていけないと去っていきます。
このままでは、お家断絶となります。謙信公以来の名門の家がみっともない理由でなくなるのです。
米沢をなんとか救えないか。
そこで、白羽の矢が立ったのが、治憲という男子です。父は日向高鍋藩主秋月種美です。3万石にも満たない小藩であり、治憲は次男として江戸で生を受けたのです。9歳の時、祖母と米沢藩主上杉重定がいとこといいう関係で、養子として米沢藩主になります。
新藩主に改革の重きがのしかかります。
当初、一向に物事は進展しませんでした。匙を投げ出したいという気持ちになります。ともかく、失敗の連続です。莫大な借金と飢饉の連続で二進も三進もいかなくなります。しかし、藩主治憲はくじけません。
後年、彼の事績を支えた言葉が有名になります。
『為せば成る。為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり』
19歳の青年が藩主として米沢に入った時、一つの騒動がありました。
それは謙信以来続く、「鉄砲上覧」という儀式をめぐっての争いです。謙信の流れをくむ馬廻組がそれを行うか、それとも、景勝の流れをくむ五十騎組がそれを行うかの名誉をかけた争いです。話はこじれにこじれ、お互いの組では悲しいかな、とんでもないことが起こっていました。夫婦であれば離縁、養子縁組であれば解消と、困ったことになっていったのです。
困り果てた国元の家老たちは、思い切って「鉄砲上覧」の廃止を、若き藩主に求めました。この時、19歳の治憲が家老たちに言った言葉は次のようなものでした。
『「鉄砲上覧」を行わないことになれば、謙信公以来伝えられてきた鉄砲の技が廃れてしまう。上杉の軍団として、武士の名誉をなくすばかりでなく、鉄砲技術もすたれて末代までの恥になる。がしかし、その体面を保つために、両者が意地をはって、騒動が大きくなれば、幕府からお咎めを受けることにもなりかねない。万が一、藩が御取り潰しにでもなったら、両組は、一体何を、どこで争うというのか。』
若き藩主が、老舗の藩の面倒臭い行事に対して、家老たちの意見を入れていたら、上杉藩は瓦解していたに違いありません。武士としての本分である武芸に関する取り組みは、それが大切であるからこそ争うのです。ともに、言い分は正しいのです。しかし、両の言い分は一度に受け入れることはできません。世の中には、このようなことは常にあるのです。それを処断し、良いように持っていくのが上に立つ者の仕事です。
この19歳の青年藩主は、まさに、ことの本質を見事にとらえていたのです。
まず、この度の争いは小さいが大切な名誉を守るための争いである。その争いがために、謙信公・景勝公以来育んできた武士としての名誉をなくしてはなるまい。それでは、末代までの恥になる行いである。名誉とは通すことも名誉、退くことも名誉なりと両者を諭したのです。
馬廻組も五十騎組も、この藩主の言を受け入れました。
なぜなら、藩主はこの伝統行事を認め、平和な時代ではあるが、武士としての鍛錬の証であるこの行事を存続させる意向だったからです。それも、理路整然と諭されたのですから、納得づくで引き下がったのです。
治憲は、武士としての士気を高めることを良しとし、そういうことに金を惜しまないよう督励したのです。そして、五十騎組が先に披露することでことを決したのです。もちろん、藩主の言に
馬廻組も文句を言う筋合いではありません。
名誉を重んじる藩主は、一気に藩の武士たちに受け入れられていきました。
この侍たちはこれから若き藩主の元で、刀をナタに換え、山仕事に。あるいは、そろばんを手にして倹約のために働くことになるのです。
武士ばかりではありません。
若き藩主治憲は、武士だけでこの困難を乗り切るのではなく、百姓町民にも国作りに参画することを求めます。人は己れの意思で動くときに一番力を発揮することを治憲は知っていたのです。そのため、彼は「興譲館」という藩校を作り、領民すべてに門戸を開いたのです。
百姓は百姓をしていればいい、商人は商いだけをしていればいいでは、そこに改革は生まれません。
社会主義は、王制圧政の下で、理想の社会を見させてくれましたが、実際は改革がなされずに停滞をしてしまいました。それは人民が権利に安住したからにほかなりません。労働するより休養をとる方に主眼がいってしまったきらいがあります。余計なことをするより、気楽にしている方が楽だからです。だから、指導者は強権を発動します。総動員の掛け声で、計画経済を推進していきます。異論を唱えることは許しません。あえて異論を唱えれば抹殺されるのです。それでも、一向にはかが進みません。
当然です。言われたことをするだけでは人間の意欲、内在する力は発揮することができないのです。
治憲のそうした人の心を得た方策は、次第に成果を上げていきます。
こんな話があります。
安永6年12月6日づけの手紙です。
『秋稲のざんぎり干しをしまいたいと思っていましたが、夕立が来そうで、気を揉んでいたところ、通りがかり二人の侍が、お手伝いしてくれた。帰りがけに、この米で作った「刈り上げ餅」をどこへ届けたらいいかと尋ねた。』
刈り上げ餅とは、新米で作った餅を取り入れの際、手伝ってくれた人にお礼として渡すもので、そうすることが当時のこのあたりのしきたりであったと言います。
米沢の百姓家での一こまですが、それだけで、母親が娘に手紙を出したわけではありません。そのあとに驚くべきことが起きたのです。
『お上のお屋敷の北の御門番に言うておくからというので、作った餅を三十三個持っていったところ、その方はお侍どころか、お殿様であった。腰が抜けるほどたまげた。』
お上のお屋敷とはお城を言います。稲の干したのを下げるのを手伝ってくれた侍は、何と殿様、つまり、治憲だったのです。それゆえ、母は驚いて、そして、自慢げに、娘に文を綴ったのです。
おまけに、勤勉であるというので、この母親は、ご褒美に、殿様から銀5枚を拝領したと手紙は続いています。
このは母上、殿様のご恩を忘れないようにと、頂いた銀5枚を使って、家族のために足袋を作ります。
そして、それを送るに際して、綴った手紙がこの手紙だったのです。
百姓の難儀に際して、殿様が手助けをする。その手助けに対して、もちのお礼をする。そのお礼に対して、殿様がご褒美を差し上げる。
殿様も立派なら、領地の民も立派です。
治憲は、藩の財政立て直しを図るために、支出半減・産業振興にも知恵を出しました。領民の家の垣根には、食用になるウコギを奨励し、飢饉に備え、また、公娼制度の廃止など、良い政を積極的に行いました。
治憲は、34歳の時、家督を治弘に譲ります。
その際、若い城主に「伝国の辞」なる3条項を申し送ります。
一 国家は先祖より子孫へ伝え候 国家にして我私すべきものにはこれなく候
二 人民は国家に属したる人民にして我私すべきものにはこれなく候
三 国家人民のために立てる君にて君のために立たる国家人民にはこれなく候
若い新君主に説いたこれらの言葉は、今の時代にも十分に通じるものです。上に立つ者のあるべき姿を明確に示しています。
後年、ケネディー大統領が、日本の政治家で尊敬に値する人物として、Youzan Uesugi を挙げたのもうなづけます。
さて、治憲が34歳で隠居し、鷹山と号したののには理由があります。
藩主であれば、参勤交代で江戸に詰めなくてはなりません。当然、その間、藩政改革は中断をせざるをえません。そうではなく、自分が国に残って徹底的に改革を行うという気持ちがそこにはあったのです。
思いこんだら、徹底的にそれを行う。政治家ならずとも、すべての人のあり方に通じるものです。
ケネデイー大統領が、この殿様のことをどうして知ったかはよくわかりません。駐日大使でご令嬢のキャロインさんが言うには、確かに、父親は鷹山のことを知り、ほめていたということです。志を持つ政治家は、志を遂げた政治家のこと自ずから知るということだと思います。
同じ国に、素晴らしい人物がいて、それを外国の方から教わる。順番は逆でも、遅くはありません。素晴らしい先人の教えを、今の若い人々が学び、鷹山以上の、ケネデイー以上の人物になっていってほしいと思うのです。
了