六.宝玉
廻る。廻る。映写機がカタカタと音を立てながら廻る。
埃にまみれた、打ち捨てられた工場の一角でのこと。蒸気と煤煙の絶えない帝都のどこかでのこと。
奇妙な仮面で顔を隠した男が一人、映写機の横で拍手をした。祝福するかのように。喝采するかのように。
道化のごとき面相の、白い陶製の仮面。素顔をさらしている口元に浮かぶ笑み。襞襟を巻いた真紅の燕尾服が、男を道化師のように見せている。
だが、その奇矯さはけして喜劇を語るようなものではない。けして滑稽を振り撒くようなものではない。笑みを浮かべる口は、観客に惨劇を語り、混乱を振りまくものに他ならない。狂気に侵され、恐怖する観客を嘲笑するものに他ならない。
無銘道化師。
犯罪組織〈黄金の幻影の結社〉の絶対であるとされる幹部序列の番外に位置する怪人だ。彼は組織の重大事を取り仕切る権能を有している。これに異論を持つ幹部もいるようだが、組織の支配人である序列二位が認めているものなので、大っぴらに異議を唱えもしない。
映写機が止まり、ぼんやりと灯りが点く。無銘道化師の反対側に男が座っていた。
「凱旋を待ちわびておりました。白貌閣下!」
起立して恭しく一礼する道化師。口元には白々しい嘲笑が張りついている。
映写機を挟んで隣に座る男は鼻白んだ。二十数年にもおよぶ付き合いでどういう人物かはわかりきっているが、時間が生理的な嫌悪を埋め合わせてくれるわけではない。当の道化師も嫌われて愉悦を感じるような男だ。無視するに限る。
「星辰の則にて聖櫃を開きしとき
智慧は時の檻より解き放たれ
世俗の権力者は空となる」
道化師が片足でぴょんと飛び跳ねて短い詩を吟じる。
「歴史に消えた聖櫃の開け方ですな。もっとも、漫然と櫃を開けるだけでは真なる解放とはならぬのでございますが! あな悲しきや黒曜の預言者、《法皇》の手に囚われ幾年を経――」
白貌仮面は妄言を聞き流す。道化師は常に熱に冒されているような躁狂な男だ。大したことは言わず、大それたことしか言わない。まともに聞いていれば頭がおかしくなる。
トップハットを被った白貌仮面は洋装の小洒落た格好をしていた。切れ長のぱっちりした目に高い鼻、鼻孔の下にたくわえられた口髭はピンと張って上を向いている。道化師の語りを聞き流して、そっと絹の胴着の上から脇腹に触れて顔をしかめた。百貨店からの一件から二日、手毬月に負わされた傷はまだ癒えきっていない。
「――こうして幽邃なる〈春告棺〉もまた地上に残りえたのです。ところでさてはて、聖櫃に目をつけてからの予告から実行に至るまで、全ては白貌閣下のお力あってこそ!」
道化師の白い歯がのぞく。嫌われたくてやっているとしか思われない。
「名誉の負傷と聞きおよんでおります! 閣下には昨年来の機関閣下ご同様にしばらく休養いただき、ご自愛くださいますよう――」
「くどい」
うんざりした白貌仮面が割って入る。
「……白貌閣下も存外に性急でございますな。暗黒閣下のようになられますぞ?」
「貴様が言う〈叡智〉とやらを持参した。確認するのだろう」
しかめ面の男が緩慢な動作で小箱を差しだす。
「ときに世間では、白貌閣下はあえなく遁走したとの虚構がまことしやかに報道されております。むろんこの帝都に虚構でないものなど、そうそうはございませんが」
「世間がどう言おうと得る物があったのならばそれで良い。他人の虚構に真実の己を振り回されるほど愚かしいことはないだろう」
白貌仮面は苛立ちを通り越して諦めたかのようにささやいた。道化師が笑みを深めて口を開く。
「古代にいう聖櫃、丹精にいう〈春告棺〉もいまでは〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉との野暮な名を与えられ、贅を尽くした工芸品だなどといわれておりますが、当時の者が聞けばさぞや嘆き悲しむでしょうな。あれこそ由緒ある聖遺物の一つでありますのに!
『人々が物事の道理をわきまえず、
稚拙な戦に明け暮れていた神代、
神は愚かな生物を作り替える決心を下され、
大地に救済の使者をお遣わしになりました。
敬虔な者は使者の預言により救われました。
一方で愚かな簒奪者は神の目から逃れるために方舟を作りました。
聖櫃はこの方舟に、いと尊きものを収めるために作られたのです。
ですが神は簒奪者をお見逃しにならず、聖櫃だけが残ったのです。』
ヴリル教会の外典の一節でございますな。この宝玉こそまさに聖櫃に収められし、いと尊きもの! 簒奪者ジョン・ピエールが収めし叡智! 偉大なる天心の集積金剛体!」
道化師は雀躍しながら小箱を開き、宝石を手にした。感嘆し、白い手袋に包まれた手でつまんで灯りにかざす。薄暗くみすぼらしい室内で宝玉が妖光を発した。
「おぉ! この輝きこそ〈混沌なる黄金〉への導、〈叡智の間〉へと通ずる鑰!」
ぽろぽろと大粒の涙を流し、道化師が歓呼する。
宝石の中で緩やかな光がほとばしり、複雑に入り組んだ迷宮のような模様が現れては消えてを繰り返す。
だが、それは長く続かない。
銃声が響くと同時に、宝玉が粉々に砕け散った。
道化師の手のひらに破片が突き刺さる。
「そこまでにしてもらおうか」
砕けた宝石を呆然と見つめる道化師を横目に、白貌仮面は笑みを浮かべた。三度、待ち侘びていた言葉。ここで聞くことが叶うのは想定外であるが、出し抜かれた道化師を見られて愉快でもある。
「お前たちは自分の手を見たことがあるか? これはある男からの受け売りだがね、人はそのありようが手の形に出るものだ。私が見たところ、人でなしのお前たちは最悪にひねくれた性の悪い形をしている。悪なる手のいい見本だよ。そんな手に掴まれちまったんだ、石ころだって我慢できずに砕け散っちまうってもんさ」
翻る軍用外套。毒々しいまでに紅い背広。長く真っ直ぐな黒髪。美貌に似合わぬ剣呑な瞳。
銃口から上がる硝煙をそのままに、現れたのは誰あろう手毬月涼芽であった。
「合点がいった。会場から出ようとする君の肩に私は手を置いたな。あのときに笑ったのは、性の悪い形とやらをしている手を持つ私の正体を見抜いたからだな」
両手を見つめて首を振り、ゆっくりと立ち上がる。
「顔、声、背、服、立ち居振る舞い、そして手の形、まだまだ気を配らねばところがありそうだ。留意しておこう」
「無駄だ。貴様の変装は私には通じんよ」
口髭を生やした白貌仮面は、椅子にかけていた金色のステッキを手にして身構えた。
その横で道化師がはっと我に返り、
「おおお! 感嘆のあまりに言葉を失っておりました。銃のお手前も見事なもの! 射すように撃つ極意を心得ておいでで、さすがは〈蜂〉と呼ばれた――」
銃口が連続で火を噴き映写機が砕けた。道化師は大慌てで机を離れて話題を変える。
「して、ご用件は?」
「たった今すませた」
「〈叡智〉の破壊でございましたか。碩学会の依頼とお見受けしました」
「記録にないものをこの世から消してくれとうるさくせがむのでな、貴様らに悪用されるよりかはましだと引き受けた。で、ここからは私用だ」
手毬月は獰猛な獣の視線を二人に向ける。暴力的な知性をたたえた瞳が愉快そうにゆがむ。
あまり何度も取り逃がしては碩学級探偵の、いや、手毬月涼芽の名が折れる。奇矯な振る舞いが不愉快な旧知の道化師もいる。こちらもついでに始末してしまおう。明日からの帝都は住みやすくなるに違いない。多くのしがらみも消えてくれるだろう。
「なるほどなるほど。白貌閣下とともに精一杯のもてなしをせねばなりますまい」
恭しい礼とともに道化師が嘲笑を浮かべる。傷ついていない方の手をかかげ、パチリと指を鳴らす。
暗闇のどこからか、カッチキンカッチキンという調子っ外れな歯車の音が聞こえはじめた。
音はやがて複数となり、手毬月涼芽を包囲していく。薄暗がりに人影が現れる。様々な表情の仮面をかぶる黒い詰襟姿は結社の戦闘員だ。
数人であればそう対処に苦労はしない。が、現れたのは三人四人ではなかった。二十を越えて手毬月は数えるのを止めた。薄暗がりに立つ無言の黒い人だかり。不気味な光景であった。
「大事なお客様でございます。丁重に歓迎させていただきますよ。手毬月涼芽閣下!」
哄笑して手を叩く道化師。戦闘員たちが一斉に手毬月へ向かう。
「しめやかに歓迎してくれたほうが嬉しいのだがね」
獰猛な笑みを浮かべた探偵は、奇術めいた素早さで愛銃を機関拳銃へと換装する。
襲いくる人影、その異様な仮面の脳天をぶち抜く。
まずは一発の銃声。そして砕ける散る仮面。
長い長い闘争がはじまる。