五.巨人と怪人
蒸気と煤煙が抜けきらぬ展覧会場。額に血を滲ませた禰宜山管理官が床の上に倒れていた。完全に気を失っている。
暢気なものだ。そう言わんばかりに手毬月は溜息をついて、河原崎の顔をした白貌仮面に尋ねる。
「貴様は、いや、〈結社〉はこの装置についてよく知っているのだな」
「らしいな。櫃に目を付けたのは私だが、その開け方を〝あいつ〟から示唆されるとは……」
怪盗がつまらなさそうに言う。
「時限作動機能といったか。燃料も水もなしに動きだすとは、理解を越えた装置だよこれは」
手毬月が部屋を出た直後、彼は最終確認だと称して装置に触れた。捜査官にも手伝わせることで、堂々と装置に触れ、あらかじめ示唆されていたとおりに午後八時に作動するよう、時限作動機能とやらをいじったのだ。
そうして仕掛けられた時刻通りに〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉が動きだし、会場は蒸気と煤煙で満ちた。河原崎に化けた白貌仮面はすかさず禰宜山管理官を昏倒させ、彼が現場から消えてしまったかのように騒ぐ。捜査官たちに禰宜山への疑心を抱かせるとともに、主任として命令を発することで一気に外へ意識を向けさせたのだ。
ひどく雑な方法であるが、ふいをついた煙の噴出と、河原崎が堂々と対応していたのとで、捜査官たちはみごと策にはまってしまった。
「理解がおよばないだって? 怪人が言うことかね」
「こう見えて私も現代人なのでね、実際に装置が動くのを見るまでは疑っていたさ」
「動かしかたを教えられただけで、仕組みは知らんというのだな」
「不思議だとは感じるがね、それだけだ。君を前にしていては、なおさら興味も湧かないというものだ」
つまらん世辞だ。手毬月が鼻息を吹く。
「その石ころを見て私もようやく貴様らの目的が読めた。つまりは最初から櫃ではなく石が狙いだったわけかね。その素晴らしい櫃は興味もないと? こいつはとんだお笑い種だ」
「失敬な! 私は櫃に目を付けたのだ。春を告げる風流な趣向と仕掛けを見てますます気に入ったぐらいだよ。しかしこの石が〈混沌なる黄金〉に絡んでくるとなれば話は変わってくる。歯がゆいが、私にもしがらみが存在するものでね」
「怪人がしがらみを語るかね」
「君と違って組織に身を置く身なのでね」
「ならば器ごと石を持っていけばいいだろう。装置が動くまで疑ってたって言うのなら、装置が動かなかった場合の準備も当然しているよなぁ? できんとは言わせんぞ」
「やってできないこともないが、いささか準備時間が短すぎた。ま、それが私に絡みつくしがらみだと思ってくれたまえ。それに君への警戒もあった。先週はまんまとしくじったからねぇ。今日もこれからどう切り抜けるか、いま必死に考えているところだ。私もまだ死にたくないのでね」
素直に両手を上げ、敗北を認めるような言葉を口にする。それでも相手はニヤニヤと笑みを浮かべたままだ。
「ふふん、碩学会のお偉方の堅い口をぶち破るより、お前を撃つ方がよほど楽そうだよ。で、私はいい加減にしゃべり疲れたのだが」
手毬月が照準を定める。
「この世に残す言葉はあるかね」
「どうやって私の変装を見破ったのか、ご教示願えるかな」
銃を向けられているにもかかわらず、河原崎があごをさっと撫でつける。すると硬く四角張ったあごが、丸みを帯びた柔らかそうなものへと変化した。
怪盗の動きを冷静に見据え、手毬月は口角をつり上げる。
「知ってどうする」
「私の変装に不備があるとはにわかに信じがたい。本当に通じないのかどうか、次にも試してみたくってね」
鼻、目と下から順に撫でるたびに、いかめしい河原崎の顔が柔和な若者の顔へと変わっていく。体つきだけは大柄な河原崎を保っている。
優しそうな顔と岩のような体格が不釣り合いだ。彼を知る特高の捜査官たちがいれば、その奇妙な姿に笑いやら安っぽい悲しみやらを感じただろう。それは見世物小屋で蛇女や玉乗りをする侏儒、猿人だと言い張る毛むくじゃらの低能な大男を観たときの、自分はああでなくてよかった、と我知らず見下して安堵し、あいつらはあんなに生まれついてかわいそうだなぁ、と自分からかけ離れているがゆえに易々と同情してしまう感性だ。
幸か不幸か、白貌仮面に対峙している探偵はそういった感性は持ち合わせていない。
「……質問は認めていないし、次もない。このまま消えろ」
手毬月はマウザーの引き金に躊躇なく指をかけた。しかし白貌仮面もさるもの、探偵が言い終わる前から横向きに倒れこみ、〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉の操作桿を引いた。銃口が火を噴くと同時に、古代の櫃がプシュッ、プシュッ、と手毬月めがけて勢いよく蒸気を吐きだす。つづけて大量の煙が排出され、部屋の視界が再び低下する。手毬月はとっさに振り向いて外套で蒸気を防ぎ、すぐさま位置を変えた。薄白い煙の中で櫃の蓋がゆっくりと閉まっていく。
「ははははは、愉快、愉快。君の殺意はやはり本物だ。帝都にありながら異郷の地の掟に従い振る舞うかのようなその姿、さすがは《異卿》と号されているだけはある!」
煙の中できらりと何かがきらめく。そこめがけて、手毬月は無言で数十発を撃ちこんだ。反応はない。外れだ。貴重な展示品が幾つも並ぶ展覧会場であるが、彼女は怪人の命はもとより貴重な文化財、宝物さえも眼中になかった。
「怪人を殺そうとする探偵に会うのは初めてだ! 素晴らしいね君」
「素晴らしい経験の機会だ、こそこそ逃げ回らず大人しく始末されてくれたまえ。探偵に殺された怪人として世間のお目にかけてやりたいんでね」
またしても煙の中で何かがきらりと光る。手毬月はそちらを撃たず、白貌仮面の声めがけて引き金を引いて掃射した。口汚い罵りが連続する銃声に呑みこまれる。
床が砕ける音だけが響く。もう怪盗の声は聞こえなくなっていた。会場から逃げ出していた。
手毬月は白貌仮面が取っているであろう逃走経路を瞬時に考える。
扉から? 違うな、扉の音はしていない。
窓から飛び降りる? これも違う。上から銃で狙われるおそれがある。
ではどこへ? 上だ、上へ向けて銃を撃つような奴はめったにいない。
手毬月は自分が打ち砕いた窓に近づく。
見上げれば屋上から垂れ下がっている縄梯子をスルスル伝う人影がある。
手毬月はまた一瞬で考える。
あれは本当に白貌仮面だろうか。探照灯もなければ呼子の声も下方からしか聞こえない。捜査官なら単独で行動はすまい。それ以外なら別に誰でもいい。こんな時間に閉店した帝都百貨店の屋上に登ろうとしているのだからどのみち不審者だ。不審者ならば死んでも文句はなかろう。不審という時点で相手は殺されることに同意しているようなものだ。
暴力そのものと化したような思考で手毬月は窓から身を乗りだして、上へ向けてお構いなしに掃射を加えた。ギャッ、と悲鳴があがったが、人影は屋上に登りきり見えなくなる。彼女はまだ口汚く罵りながら、マウザーを片手に縄梯子を伝いあがっていく。
だが、たどり着いたときにはすでに遅かった。
夥しい量の血痕が散らばる屋上で、手毬月は夜空を見上げる。
フワリ、フワリ、と揺れながら上昇していく広告風船に何者かがぶら下がっていた。
それこそまさに手負いの白貌仮面である。
河原崎の顔はすっかり消えていた。顔の表面をいやにのっぺりしたものが覆っている。覗き穴すら目立たない真っ白な仮面をつけているのだろう。まさに《白貌仮面》の号にふさわしき面相だった。
怪人はじっと手毬月の方を見つめていた。夜空に浮かぶ白い仮面は格好の標的だが、銃の射程範囲をすでに越えている。風船は高度を上げて夜空に消えていく。
「私に変装が通じるかどうかを試す、ねえ。ふふん、好きにするがいいさ変装野郎。どうせお前にはそれ以外に手がないものなぁ」
*
東條百貨店がある大手通から南へ通りを一つ隔てるごとに、ビルの高さは低くなっていく。そうしてあるところまで来ると、また同じような高さの低層の雑居ビルが軒を連ねるようになる。中小企業の事務所が多い一角にある池上ビルヂング、その二階に手毬月は事務所を構えている。
看板の類はない。入り口の古びた木製扉に小さな表札が差しこまれているだけだ。その表札も、子供ががんばって木の板に彫りつけたような手作りの感が強く、とても碩学級探偵の事務所には見えない。
「手傷は負わせたが肝心のものを奪われて逃走を許したと。……いやはや」
「なぁにがいやはやだ。お前が現場に詰める直前にも、河原崎に注意しろと言い含めたはずだがね。あっさりと殴り倒されて、あまつさえそれを利用されるとは……。自分の身の安全も管理できぬ管理官は、普段いったいなにを管理しているというのだぁね」
「これは手厳しい」
本当にそう思っているのか。手毬月が毒づく。
「身内を疑うのも結構だが、その確認も最初の一回こっきりでは意味がないだろう。かえって『みんな検査を通っているから』なんて盲信してしまう。だから身内の姿をしたやつに騙されるんだ。手抜かりもいいところだぞ」
禰宜山管理官は先日の事件での傷がまだ癒えていない。包帯が多重に巻かれた額と、口の端に何枚もあてられた傷止めの綿紗が痛々しい。ちなみに本物の河原崎主任は、百貨店の地下倉庫で猿轡を噛まされ縛り上げられた姿で発見された。予告のあった朝に襲われたというが、こちらは上司と違って無傷であった。
「それにな、あの日は何も盗まれちゃあおらんよ。新聞にもそう書いてあっただろう? 病院ってところは新聞も読ませてもらえんのかね」
手毬月が机の上に数紙を放り投げる。一面の下の方に、二号活字で【怪盗、敗走】とある。他紙も見出しこそ違うが同じ内容を伝えている。
「櫃は無事だ。大量の煙と蒸気を浴びたせいで少しばかり表面が痛んだようだが、いまごろ邦倉院で長い眠りについているさ」
禰宜山はちょっと考えこんでから、
「碩学会は自分たちで解明できなかった〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉を、このままなかったことにする気ですかね」
「だから無くなっていないと言ってるだろう、わからん男だな。櫃ならまた何十年後かには展示されるさ」
「〈金泥五彩螺鈿鋼櫃器〉として、ですか」
「櫃と器の文字が示しているだろう、あれは丹精だか中だかの皇帝が魅了されるほど豪勢な櫃なんだよ。中身は空っぽだがな。といって怪盗が諦めかどうかはまた別だ」
手毬月は熱いだけの珈琲を一気にあおって、いかにもまずそうな顔をした。ここを巣立って行った同居人が入れてくれた珈琲が懐かしくもある。
「中に入っていた石はどの文献にも記されていないんだとよ。そこで碩学会の石頭ども、記録にない宝石なんてものは存在していないも同然なんて屁理屈こねやがる。存在しないものは盗まれるわけもないってわけだ。ありゃ学者じゃなくて額者だな。中身じゃなくて枠ばかりありがたがってやがる。素晴らしいねまったく、誰も損しちゃいないんだ。損な役回りの特高が怪我をしただけだ」
禰宜山は再び机の上の新聞に目を落とす。『怪人《白貌仮面》は警備の厳重さを前にほうほうの体で退散』とある。そう発表するように働きかけたのは碩学会と特高の上層部だ。当の白貌仮面は何と思っているのか。
巷では、あの白貌仮面が二度続けて失敗した、という話で持ちきりであるが、情報量の多い帝都のこと、次第に忘れられていくだろう。
「ところでなあ、禰宜山管理官よ、アレは一体何だ?」
「アレ、と申しますと?」
珍しく顔を伏せながら尋ねる手毬月に、怪訝な表情を返す禰宜山。彼女が何を言いたいのか、心当たりがある。しかしそこには自ら触れない。
特高は理屈で説明できないことに興味を示さないような方針を採っている。これは入庁時の宣誓書にも記されている。いわば科学時代にふさわしき警察組織の思考法なのである。
「白貌仮面だよ。見破ることはできそうだが、変装の種がな……いまひとつ見当がつかん。種がないのが正解のような気さえしてくるが、顔を変えている事実から目をそらすわけにもいかん。明快な答えがあるはずだ」
「これは珍しい。見当がつかなくても暴力的に解決してきたでしょうに。しかし、はてさて、私は怪盗がどういう変装をするのか見ておりませんので、何とも言えません」
禰宜山は特高捜査官としての模範解答を口にする。手毬月は嘆息して呆れる。よくこれで。いや、これだから、か。昏倒させられるのも致し方なし。ふんと鼻を鳴らし、紙巻を灰皿に乱暴に押し付ける。
「お前ら特高はいつもそうだな。理屈で説明できないものには興味を持たない、合理的に考えるなどとうそぶいて思考停止している。だから脳髄まで煤まみれなんだよ」
「出る杭となるなかれ。私はまだ使われる側でしてね、出世にはそういう技術も必要なのですよ。規律の厳しい組織では特に」
禰宜山も珈琲を口に含む。熱いだけでまったく美味しくなかった。かつて美味しい珈琲を淹れてくれた彼女の同居人はもういない。
「ただ、愚見でよろしければ仮説はありますが。なにぶん愚見ですからね」
「もったいぶるな、私見を持つということ自体が興味深い現象だ、言え」
「では……被害に遭った捜査官からの聞き取りによりますと、白貌仮面が人前で変装するのは蒸気や煤煙、霧といった周囲の視界が利かない条件に限られているようです」
手毬月は直近二回の遭遇を思いだす。一つは蒸気あふれる帝都の路地裏で、もう一つは煙の発生した会場で。「なるほど?」とうなずいて先をうながす。
「この条件に背後からの光が加わると、煙や霧の中に光を浴びた人物の影が浮びあがります。我々が白貌仮面に相対しているとき、怪盗だと思って見ているのは実はこの影の方なのです。もっとも白貌仮面の側でも、蒸気に映った影に表情を浮かべさせるなんらかの方法を別にとっているのでしょうが……」
普段からあまり表情の変わらない男だけに冗談とも本気ともつかない。しかし長年の付き合いではある。その顔からある程度は読み取れるが……。
「典型的な空理だな。理屈ならもっと詰めろ」
手毬月は席を立つ。
「こんな時間にどちらへ?」
帝都はすでに夜の帳が下りている。いつもの軍用外套を肩にかけた手毬月は、マウザーMP989mpの装弾と換装部品を確認する。
禰宜山は露骨に顔をしかめた。紛れもなく荒事へ赴く準備である。
「ほかの依頼を片さなくてはならん。お互いにいつまでも雑談できる身ではないだろう。今日はもう閉めるから帰れ」