一.人か魔か
ゴォン、ゴォンと、帝都中央に聳える時計塔の鐘が鳴る。
世界最高峰の計算機が奏でる駆動音でもあり、帝都の支配者が上げる雄叫びでもある。
中央官庁街である九重西方に位置する帝都国立美術館で、異常を告げるけたたましい警報とともに探照灯が点けられ、一帯が真昼のような明るさにつつまれる。美術館に詰めている守衛と、事前に配備されていた警察官たちの怒号がそこかしこであがり、西欧の神殿を模した瀟洒な美術館は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
その間隙を縫うように、誰にも気づかれることなく美術館の敷地外へと疾走していく影が一つ。
白髪白髭を蓄えた羽織袴の老人であった。知る者が見れば当の国立美術館の館長だとわかるであろう。背に負う大きな鞄が羽織袴と不釣り合いだ。街角をまるで風のように街路を駆け抜けていくさまは、とても齢七十を数える老人とは思われぬ。
それに老館長が浮かべる表情といったら! この世に成せぬことなど一つとしてないのだと、万事はたやすいのだと確信したような満面の笑みを浮かべている。
人は顔の筋肉をこれほどまで巧みに動かすことができるのか。まこと驚愕に値する異貌であった。
追う警官たちもけして無能ではない。館長の姿が見えないと気付くやいなや、すぐさま報告を取りまとめ、数にものをいわせて想定しうる限りの経路へ包囲網を形成しはじめる。
機動隊と本部に常駐している回転翼機の航空隊まで動員しての大捕物だ。
たった一人を追い詰めるには異様な規模であるが、国宝級の美術品をみすみす盗み出され、その上で取り逃がしてしまったとあっては警察の沽券に関わる大問題。ましてや、変装の名手として帝都中で話題になっている、さる怪盗が相手とあらば、追う方もなおさら必死だ。
美術館の倉庫で気絶した本物の館長が発見されたころ。
幾本も立ち並ぶビルヂングの狭間。
都市供給型機関が放つ余剰蒸気が白く煙る都市の隘路。
白い暗がりの中。
「ここまで追ってくるとは、なかなか優秀な班だ」
老館長がつぶやく。しわがれ声は仄暗い水底から響くような無気味なものであった。館長の足元には濃紺の制服に身を包んだ屈強な警官たちと、三人の私服刑事が倒れ伏している。
「優秀だからといって不幸を避けられるわけではないがね」
老人の尋常ならざる力によって、またたく間に昏倒させられていった同僚たちを前に、残された年若い巡査が色を失う。
老翁の皺だらけの顔が丸めた紙屑のようにクシャクシャにゆがむ。目の前にいるそいつの正体に初めて気付いたかのように、巡査は全身を震わせた。
「いや、訂正すべきかな」
と老翁が言った直後、若い巡査も膝をついて倒れこむ。年老いた見た目に騙されてしまうのか、同僚たちと同じく意外なほど呆気なく倒されてしまう。おそらく何をされたのかもわからなかっただろう。
「優秀なのはここまで君たちを導いた指揮官の方だと」
現場の警官たちが怪盗のもとへとたどり着けたということは、その足取りをたどり、指示を出した者が背後にいるということだ。彼が知る限り、それほどの手練れは帝都警察にはいない。
であれば、優秀な指揮官は警察の者ではないということになる。怪盗はすでにその者に当たりをつけていた。帝都広しとはいえ、そんな者は限られているからだ。
「そこまでにしてもらおうか」
彼が待ち詫びていた科白だった。何度耳にしても心地よい。ようやく来てくれた。無言のまま拍手で迎える。望むならば美術館で聞きたかった科白ではあった。
だが、ここまで足取りをたどって来た、かの人物にも事情があるようだ。
「遅い登壇だね。美術館には姿がなかったのでいっときは落胆したものだが」
喉を触りながら老館長が言う。声の質が深みのあるものから、若さを感じさせる張りのある滑らかなものへと変化していく。これこそが本当の声なのだろうか。
あふれる蒸気の向こう側、賊を追い詰めた女は油断せずにその姿と声を見極める。
「ならば落胆したまま盗品を置いていけ、変装野郎。怪人には顔を隠して目立ちたがる輩も多いが、変えた顔を見せたがる貴様は常軌を逸しているぞ」
怪人。それは警察当局の手を逃れつづけている犯罪者の総称だ。通常の犯罪者とは異なり、総じて奇矯な者が多い。たとえばこの怪盗のように。
「まあ、常軌を逸していなければ怪人などと呼ばれはせんだろうが」
長くまっすぐな追跡者の黒髪が揺れる。無骨な軍用外套を肩にかけ、その下に着こむ背広は毒々しいほどに紅い。端正な顔立ちではあるが、穏やかさとは程遠い目付きをしている。咥え煙草の口元に浮かぶ笑みも鋭い。自然体で佇んでいるが、身にまとう威圧感は強烈だ。暴力的とさえいえる。
「帝都探偵協会に属さぬ身とはいえ、政府の連中から碩学級の指名を受けてからこっち、依頼もしがらみも増えたものでね、怪人を喜ばせる道理も暇もない」
肩をすくめる女性に、怪盗は呵々と笑う。
「これは意外や意外! 君がしがらみを語るのかね! 帝都において君ほど自由な探偵はいないだろうにねぇ」
怪盗が両頬をサッと撫でつける。深く刻まれていた老翁の皺がきれいさっぱり消えた。口、鼻、目と順に撫でるたびに、声に見合った張りのある若々しい肌が現れていき、しまいには若白髪の男となった。老館長の若かりしころの面相だろうか。追跡者には判別がつかない。猫背気味だった背筋もいつしかぴんと伸ばされている。背負った鞄と羽織袴だけはそのままだ。
「まったく、探偵の前で堂々と変装を解いてみせるなど、やはり貴様は常軌を逸した変装野郎だよ、白貌仮面。いったいどんな方法なのだか見当もつかんな。まあ、貴様を捕縛できればそんな奇術もどうでもよくなるし、しがらみの一つ二つも消えてくれる」
「捕縛だって? はは、まさかまさか。協会が誇る碩学級探偵でさえも捕えることができなかった私をかね? 君を何度も出し抜いてきた私をかね?」
揺るぎない自信を感じさせる怪盗の態度に、探偵は顔を歪めて嘆息した。
「まったく、しがらみのせいで甘い顔をしていたらこれだものな。盗みしか働かぬ怪盗とはいえ所詮は怪人、しがらみなどという下らない枷にはめられて生け捕りに固執することもなかったな。貴様はもう十分に帝都を荒らし回っただろう? そろそろ満足したまえよ」
探偵は冷然と笑って、手にした顎門を向ける。無骨な大型の軍用拳銃。いかなる怪物であろうと食い破るのではないかと思われる銃口が、不敵に笑う白髪の怪盗の脳天を睨みつける。牙をむいて飛びださんとする弾丸の奥で、女の威圧感がいや増す。
「ああ! ついに《異卿》と呼ばれる君の境地が見られるのだね。今日は実にいい日だ! だが、殺す気でかかるだけで私を捕縛できると思っているのならば、それは大きな――」
「勘違いしてるんだこの野郎。捕縛するつもりで殺しにかかるんだよ。知ってるかぁ? 死体にだって縄はかけられるんだ。生きて捕縛できりゃ御の字、てな」
凶暴さを露ほども隠そうとせず、嬉々とした表情で探偵は躊躇なく引き金に指をかける。対する怪盗は愉快そうである。まさに自身の命が危機に晒されている、この現状を楽しんでいるかのように。
「さあ、今夜こそ捕縛させてもらうぞ。ま、死体にならんよう精々あがけ、怪人」
「ははは! はははは! 言ってくれるね、名探偵」
薄暗い路地裏。二人は獰猛ともいえる笑みを互いに向けあう。
都市供給機関が排出する余剰蒸気の白い煙に包まれて。
銃声が響く。