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泡沫の鳥籠  作者: 秋源斗


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第一話 目覚め

初めまして。

興味を持っていただき、ありがとうございます。

こちらは私の3作目です。

ぜひ、楽しみにしていただけると幸いです。

ここへ来る者は皆、同じ噂を聞いている。


 この都市には終わらない命があるのだと。老いも死もいずれは遠ざかる。どこで聞いたのか、ここでは誰も覚えていない。ただ、確かに聞いたという確信だけが残っている。


 人はその目的のために霧を越え、名を捨て、過去を置いてくる。何を失うのかも知らないまま。それでも歩みを止めないのは、ここに残るものがあると信じているからだ。


だがその噂には続きがある。


 血は乾かない。流れ落ちたはずのそれは形を変えてどこかに残り続ける。誰のものだったかなどもう気にする者はいない。


 名は剥がれ落ちる。呼ばれていた音はやがて意味を失い、ただの響きとなる。


 記憶は腐らない。混ざり、重なり、他人のものと区別がつかなくなる。その境界は曖昧になりやがて消える。自分と他人の違いすらわからなくなる。


それでも残る。


 ここではそれを永遠と呼ぶ。何もないことが救いと呼ぶ者もいれば呪いと呼ぶ者もいる。だがどちらにせよ一度触れた者は戻らない。


理由は単純だ。


 もう自分が何を失ったのか思い出せないからだ。そして最後までこの噂を聞き終えた者はいない。





冷たい。最初に戻ってきたのはその感覚だった。


 頬に当たる石が湿っていた。指を曲げると爪の隙間で砂利が小さく鳴る。重い布が肩から背中にかけて落ちている。その下の地面は硬い。耳の奥に水を含んだような鈍さが残っていて、自分の呼吸の音だけが妙にはっきり聞こえた。


目を開けるとそこは灰色の世界だった。


 空でも壁でもない。霧だ。乳白色というには重く、煙というには静かで、息を吸うと舌の根に薄い苦みが残るような。視界の端では霧の粒がゆっくり流れているのが見える。風は感じない。しかし、何かが動いていた。


起き上がろうとして左肩が地面を強く押した。


「......っ」


 声がかすれた。喉の奥が貼り付いている。何日水を飲んでいないのかそれすら見当がつかない。手のひらで石畳を押して上半身をどうにか起こした。


そこでようやく自分の格好が目に入った。


 黒に近い濃灰のコート。フードは背中に落ちている。前を留める紐は二本だけ千切れている。裾は土と何かの黒い染みで重くなっていた。


 腰には剣帯。錆の浮いた片手剣の鞘が太腿の横で静かに揺れている。反対側の腰には銃。銃身が四つに枝分かれした、ずいぶん物騒な形をしていた。なんという名前の銃かは、忘れてしまった。


俺はそれらを見下ろしながらしばらく動かなかった。


見覚えがない。


 正確には見覚えがあるともないとも言えなかった。ただ、剣の柄に手を伸ばすと俺の指は迷わなかった。銃の重さを腰で量る感覚も身体のほうが覚えている。だがなぜ自分がそれを持っているのかはまったく出てこない。


「......えっと」


声を出してみた。空気を確かめるような軽い調子で。


「俺は誰だ」


霧は答えなかった。当然だ。


 頭の中を探ってみる。名前。年齢。生まれた場所。家族。何かひとつでも思い出せればと思った。だが指先で水を掬うように何もない。


 ただひとつだけ、「ユウ」という音が薄く残っていた。誰かに呼ばれていたような、自分でそう名乗っていたような、その程度の手応えで。


「ユウだったか...。まあないよりはマシか」


呟いて肩をすくめた。


 本当ならここで震えるべきなのだろう。記憶がない。場所もわからない。剣と銃を持っているということは誰かと殺し合うつもりだったかその途中だったかのどちらかだ。どう考えても笑える状況ではない。


それでも俺の口元はわずかに歪んだ。


 なんというか怖さがうまく届かなかった。胸の奥に空洞めいた静けさだけがあって、そこに恐怖を落とし込もうとしても輪郭ごと飲まれてしまう。だから笑った。空洞を笑いで埋めるのは、たぶん、昔からの癖なのだろう。それすら確かめようがなかったが。


立ち上がると霧の向こうに建物の影が見えた。


「とりあえずあっちに行ってみるか」


 そこにあったのは石造りの低い家並みだった。屋根の傾きが揃っていない。窓は黒く、どれも内側から布のようなものが垂れている。通りの幅は狭く、敷石は何度も補修された跡があって、欠けた角に苔が回っていた。古い街だ。少なくとも昨日今日できた場所ではない。


足を踏み出すと靴の音が思ったより大きく響いた。


それで気づいた。足音以外に何も聞こえない。


 風の音。鳥の声。誰かの話し声。生活の物音。そういうものがまったく聞こえなかった。耳を澄ますほど自分の心臓だけが大きくなっていく。霧が音まで吸い込んでいるのか、それとも本当に誰もいないのか。


俺は通りを進んだ。


 二つ目の角を曲がったあたりで一度立ち止まった。地面に倒れた木箱があり中身が散らばっていた。乾いた果実のようなものと布切れと欠けた陶器。誰かが慌てて運ぼうとして放り出したまま戻らなかった。そういう散らばり方だった。


拾い上げた果実は軽かった。中身が抜けている。


「果物まで空っぽか。ハハッ...」


笑いながら呟いてそれを元の場所に戻した。


そのときだった。


頭上から鐘が鳴った。


「...!」


 高い音だった。澄んでいるというよりは薄い金属を細い棒で叩いたような、どこか神経に触る響きだ。一度。それから少し置いてもう一度。二回。


鳴り終わると世界が変わった。


「なんだったんだいきなり......」


 霧が薄れていく。重く垂れ込めていた灰色が上から少しずつ抜けていくように、頭上から透き通っていった。


 だが空の色は出てこない。代わりに白く乾いた光が降りてきた。太陽というには輪郭がぼやけ、ただ霧の上のどこかで何かが光っているらしいという程度の明るさだった。


視界が広がるには十分だった。


俺は息を呑んだ。いや息を呑んだのは、たぶん身体のほうだった。


通りの先に街が広がっていた。


「...これはまた、なんというか...」


 石畳の道がゆるやかな下り坂になって伸びていた。両側に古い家が並び、その向こうにもっと密集した屋根の群れが見える。屋根は赤茶けたものが多く、どれも色が褪せていた。


「古い街並みだなぁ...」


 煙突は冷たく沈み、白煙の一筋も上がっていない。さらに奥はまだ霧が残っていて見通せない。だが街そのものは明らかに大きかった。少なくともいま立っている場所はその外側のようだった。


 外縁。そう呼ぶ言葉がどこからともなく頭に浮かんだ。誰かに聞いたのか自分で知っていたのかそれも判然としない。


鐘の音が耳の奥でまだ細く尾を引いている。


「......朝ってことか」


 そう言ってみたものの確信はなかった。鐘が夜明けを告げるものなのかそれとも別の何かを告げているのか。ただ霧が引いて光が差したのだから、たぶん夜が明けたという扱いになるのだろう。誰かに確かめたかった。誰でもいい。生きている人間に。




坂を下るとようやく人の気配があった。


 最初に見たのは井戸の前にいた老人だった。痩せた肩に粗い布を巻き、桶に水を汲んでいた。俺は通りの真ん中で立ち止まり、軽く手を上げた。


「あー、すみません。ちょっといいですか」


 老人は顔を上げた。視線がこちらに向いた。だが合わなかった。俺の少し横を薄い膜越しに見ているような目だった。何度か瞬きをしてそれから黙って桶を持ち上げ、家の中へ消えていった。


扉がゆっくり閉まった。


「なんだあの爺さん。感じ悪いなぁ」


 口では軽く流したが背中の毛が少しだけ逆立った。怒りや不快さとは違う。あれはなにか、怖がっている人間の動きだった。


 通りを進むほど人とはすれ違うようになった。水を運ぶ女。荷車を押す男。子供を連れた母親らしき人影。誰もが顔を伏せ、足音を立てないように歩いていた。


 誰に声をかけても返事はなかった。目を合わせる者もいなかった。それどころかこちらと距離を取るためにわざわざ反対側の壁に身を寄せる者までいた。


ひとりだけ例外がいた。


 路地の奥、積み上げた木箱に腰掛けていた若い男だった。痩せた頬に無精髭。膝の上に欠けたカップを乗せこちらを見ていた。視線は合った。合った瞬間、男は笑った。歯茎が見えるほどの、妙に明るい笑い方だった。


「新しい人だ」


男はそう言った。


「......新しい?」


「霧の奥からやって来た顔をしている。皆、最初はそういう顔をして来るんだ」


俺は足を止めた。


「あんた、ここの辺に住んでる人?」


 男はカップの中をのぞき込みながら肩を揺らした。笑っているのか咳をしているのかわからなかった。


「ここの、か。あんたもしばらくしたらここに出てこられなくなる。出てこられたとしても今度は別の顔だ」


「......どういう意味だ。おっさん」


男は欠けたカップの底を爪で弾いた。乾いた音が二度。


「そのまんまの意味だよ。霧から入って来た奴は

長く同じ顔をしていられない。ここはそういう街だ。

人がいなくなるんじゃない。中身が入れ替わる。

だから皆、外に出ても他人と目を合わせない。

今日いた誰かが、明日には別の誰かの目で見てくる」


「...物騒なこと言うな、おっさん」


「物騒なのはこっちじゃない。霧のほうだ」


男は顔を上げてこちらを見た。今度は笑っていなかった。


「ひとつだけ、若造に忠告しておいてやろう。鐘が三回、低く鳴ったら外を歩かないことだ。建物の中にいろ。鍵をする必要はなく、ただ屋内にいることが重要だ」


「......三回?」


「さっきのは二回だったろう。高い音で。あれは昼の鐘だ。まあ昼の鐘とは言ってるが夜明けを知らせる意味がある。ほれ、お前さんには必要な情報はやったぞ。さっさと行け」


言うだけ言って男は俺から視線を外した。話は終わりだという態度だった。


 それ以上問い詰める気にはなれなかった。聞いてもまともな答えは返ってこない気がした。代わりに俺は通りの先を見た。


 坂の下、家並みの奥。霧の薄れた向こうに何か光が見えていた。窓から漏れる暖色の灯りだ。それも一軒や二軒ではない。ある程度まとまった区画があちらの方角でだけ生きているように見えた。


「ありがとうな」


男は答えなかった。


 俺は北を目指して歩き出した。なぜ北かと思った理由はうまく言えない。光が見えたのがその方角だったというだけだ。だがここで突っ立っていても何も始まらないのは確かだった。記憶がない人間にできることはまず歩くことだけだった。




どれくらい歩いたのか自分でもよくわからなかった。


 霧が完全に晴れることはなかった。薄まった分だけ頭上に灰色の天井がかかっているようで距離感が狂う。何度か建物の角で立ち止まり自分の影の向きを確かめた。光源がはっきりしないせいで影もぼやけていた。


途中から足が重くなった。


「み、水が...」


 考えてみれば目覚めてから何も口に入れていない。喉は乾き、こめかみのあたりに鈍い痛みが回ってきていた。視界の端がときどき暗くなる。気がつくと片手が剣の鞘に置かれていた。無意識だった。倒れる前に何かを掴んでおきたかったのかもしれない。


三度目に視界が傾いだとき足が縺れた。


石畳に膝が当たる音がした。それから頬に冷たさが回ってきた。今日二度目の地面だ。


目を閉じる前、視界の端に布の裾のようなものが見えた。


白に近い薄い色だった。それがこちらに向かって歩いてきていた。




次に意識が戻ったとき頬の下が冷たくなくなっていた。


 代わりに誰かの手のひらが額に触れていた。指先はひんやりとして力は入っていなかった。ごく軽い触れ方だった。


目を開けると女の顔があった。


 若かった。たぶん自分とそう変わらない。淡い色の髪が肩のあたりで揺れて、白に近い灰の長衣をまとっていた。


 目は柔らかい色をしていたが、その柔らかさは、たとえば家族が病人を見るときの柔らかさとは違う気がした。もっと均された、誰にでも同じ角度で向けられる種類の優しさだった。


女はゆっくり口を開いた。


「目が覚めましたか」


声は静かで低くも高くもなかった。聞き取りやすい音の置き方だった。


「......ああ、まあ。一応」


 答えながら俺は身を起こそうとした。女の手が肩に軽く触れた。それだけで押し返すには十分な圧があった。


「無理をなさらないでください。倒れていらしたので私がお運びしました」


「運んだ?一人で?」


「ええ。ここではよくあることですから」


「いや、感心してんだよ。俺、見た目より重いだろ。でも、美人さんが運んでくれて俺、嬉しいです」


 女は答えなかった。半分冗談に対して、何を返すべきか考えている、というより考える必要を感じていない、という沈黙だった。冗談というのは美人の方だ。俺は軽口が好きだ。多少反応してくれると思ったのだが...。


 それは置いといて、よくあることと女は言った。倒れた人間を運ぶのがということなのだろうが、その言い方はどこか落ちている荷物を拾うときのそれに近かいように感じた。俺は愛想笑いしながら周囲を見た。


 石壁に囲まれた小さな広場だった。後ろには大きな建物の入り口らしき門がある。両開きの扉は半分ほど開いていて、内側からは温度のある空気が流れ出していた。湯気の匂い。何かを煮ている匂い。久しぶりに嗅ぐ生活の匂いだった。


胃の奥がゆっくりと収縮した。


「お腹が空いていますよね」


 見透かしたように女が言った。責めるのでも笑うのでもなく、ただ事実を確認するような口調だった。


「......ばれた?」


「お腹が鳴っていましたから」


「美人さんにこんなところ見られて、恥ずかしいな」


 また、軽口を叩いてみたが女の表情はほとんど動かなかった。微笑のようなものがあったかもしれないが、それは口元の筋肉が動いただけにも見えた。


「中へどうぞ。温かいものがあります。それから少し休んでお話を伺います」


「話?」


「お名前とどこから来たか。覚えていらっしゃる範囲で結構です」


覚えている範囲で。


 女はその言葉をごく自然に置いた。覚えていない人間がいるのを当然知っている言い方だった。俺は少しだけ女を見つめてから口の端を持ち上げた。


「あんた、人を運ぶのも記憶のない奴に話を聞くのも慣れてるって感じだな」


「ええ。慣れています」


言葉の選び方にはためらいがなかった。


 女は立ち上がり俺に手を差し伸べた。手のひらは小さかった。爪は短く切られ、指の節は滑らかだった。労働で荒れた手ではない。だが白くもない。何か別の仕事に長く使われてきた手だった。


俺はその手を取った。


立ち上がる瞬間、ほんの少しだけ背筋が冷えた。


理由ははっきりしなかった。


 ただ女の手は思ったより冷たかった。倒れていた俺の額に触れたときひんやりと感じた指先。あれはこちらが熱を持っていたからではない。この女自身の体温が低いのだ。


「私はリゼと申します」


歩き出しながら女が静かに言った。


「あなたのお名前は?」


俺は半歩遅れて答えた。


「ユウ。たぶんユウだ」


「たぶんで構いませんよ」


リゼは振り返らなかった。


「ここでは皆そうなりますから」


 門の内側から湯気と誰かの低い話し声が漏れてきていた。俺はその匂いに引き寄せられるように足を進めた。


 灰色の空の下で何か別の鳥籠の戸がいま、静かに開いた音だけが耳の奥に残った。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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