第2章。 俺たちは、追われているのか。
影の存在に救われたはずの朝。
だが、街の中で感じたのは、安心ではなく――視線だった。
正体不明の『気配』に追われるように、朔とユナは中心部を離れ、静かな街へと向かう。
溶けかけた雪、列車の音、そして湯気の立つ一杯のラーメン。
日常に紛れたその場所で、二人は初めて立ち止まり、考え始める。
逃げるだけでは、生き残れない。
ならば知るしかない――
この街に潜む『何か』の正体を。
静かな食事の時間は、嵐の前のわずかな猶予だった。
白川・朔
影瀬・ユナ
桑園
しばらく、動かずにいた。
閉ざされた二つの店の壁に挟まれた場所。
居心地がいいとは言えないが、身を隠すには十分な狭さだった。
吐いた息が、冷たい空気の中でゆっくりと溶けていく。
耳を澄ます。
……何も聞こえない。
足音も、話し声も。
誰かが近づいてくる気配すらなかった。
俺にとっては、ただの通りだ。
いつもと変わらない、ありふれた街角。
「……もう、いない」
数分後、ユナが低く呟いた。
「行ったってことか?誰の話だ」
彼女は首を振った。
その目には、はっきりとした困惑が浮かんでいる。
「……違う。『いなくなった』感じじゃない」
少し間を置いて、続ける。
「最初から……そこに、いなかったみたい」
その言い方が、妙に胸に引っかかった。
歩いて去ったわけでもない。
人混みに紛れたわけでもない。
――ただ、消えた。
存在そのものを、やめたみたいに。
「……普通じゃないな」
そう呟くと、ユナも小さく頷いた。
「うん。影でもないし……人間でもない」
それ以上、説明しようとはしなかった。
できなかったのかもしれない。
あるいは、したくなかったのか。
そもそも、俺たち自身が『普通』じゃない。
「……だったら、今のうちに離れよう」
少し考えてから、そう言った。
「ここにいても意味がない」
ユナは一瞬だけ俺を見て、それから頷く。
「うん。視界の外に出たほうがいい」
慎重に、路地を出る。
朝はもう進んでいた。
雪は降っていない。
雲の切れ間から、日差しが不規則に差し込んでいる。
歩道に残った雪は溶け始め、あちこちに小さな水たまりができていた。
電線。
標識。
低い建物の壁。
それらが、水面に歪んで映っている。
無意識に、それを眺めながら歩いていた。
癖みたいなものだ。
そのとき――
少し後ろで、ユナが足を止めた。
「……ユナ?」
呼びかけても、すぐには答えない。
彼女の視線は、ひとつの水たまりに注がれていた。
そして、ゆっくりと――上へ。
その視線を追う。
古い建物。
三階建て。
錆びた手すりに囲まれた屋上。
……誰もいない。
「何か、見えたのか?」
「ついさっきまで……上に、誰かいた」
「どこに?」
「屋上……こっちを、見てた」
もう一度、見上げる。
やはり、何もない。
反射だったのか。
影の見間違いか。
あるいは――
生まれて、まだ一日も経っていない彼女の感覚が、街に振り回されているだけかもしれない。
「……今は、いない」
ユナはそう言って、続けた。
「でも、行ったわけじゃない。『いなくなった』だけ」
その言葉に、すぐ返せる答えはなかった。
「……勘違いかもしれない」
できるだけ穏やかに、そう言った。
「街は広い。刺激も多いしな」
自分の言葉を、どこまで信じているのか分からなかった。
ユナは反論しなかった。
ただ、もう数秒だけ屋上を見つめてから――視線を落とす。
「……かもね」
小さく、そう答える。
「でも……好きじゃない」
「正直、俺もだ」
そう認めてから、続けた。
「だから、中心部から離れよう」
反対方向を指さす。
「桑園方面なら、人も少ない。線路も近いし、店も静かだ」
ユナは黙って頷いた。
そのまま歩き出す。
中心部のざわめきは、少しずつ背後に遠ざかり、代わりに、低く重たい音が聞こえてくる。
――電車だ。
遠くを走る列車の音。
金属が擦れ合う、一定のリズム。
不思議と、気持ちが落ち着いた。
道路は湿っている。
歩道の縁では、氷がひび割れ始めていた。
「……ここ、違うね」
ユナが言う。
「なんだか……ちゃんとしてる」
「普通の街だよ」
そう返す。
「人が住んでる。それだけだ」
線路沿いを歩き続ける。
すると、また腹が鳴った。
「……最悪だ」
思わず呟く。
「まだ腹減ってるらしい」
ユナが横目で見る。
「……また、食べるの?」
「信じなくてもいいけど、重要なんだ」
少し先に、小さな店が見えた。
派手さはない。
塗装の剥げた、古いラーメン屋。
風に揺れる暖簾。
「……あそこにしよう」
「観光客も来ないし、目立たない」
ユナは店をしばらく観察してから、言った。
「分かった。でも、さっきの“気配”が戻ったら……」
「すぐ出る」
言葉を被せる。
「文句なしで」
彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「交渉成立……ただ、いつかは向き合うことになると思う」
「それは未来の俺たちに任せよう」
そう言って、ドアに手をかける。
「今は、飯だ」
扉を押した瞬間、熱い空気が流れ込んできた。
出汁の匂い。
湯気。
昨夜から初めて、胸の奥が少しだけ緩む。
――もしかしたら。
本当に、少しだけ。
考える時間が、取れるかもしれない。
店内に入る。
古いベルが鳴り、くぐもった音が響いた。
中は狭い。
年季の入った木のカウンター。
壁際の小さなテーブル。
使い込まれた背の高い椅子。
空気は湯気で満ちている。
熱。
味噌の香り。
濃くて、重たくて――
外の寒さが、入るのを拒まれているみたいだった。
カウンターの向こうで、年配の店主が顔を上げる。
何も聞かない。
ただ、軽く頷いた。
まるで、
俺たちがここにいること自体、特別じゃないみたいに。
腰を下ろす。
ユナは、すぐには座らなかった。
数秒だけ立ったまま、店内を見渡している。
木の染み。
少し曲がったカレンダー。
数ブロック先を走る電車の、低く鈍い音。
視線が、細かく動く。
「……ここ」
小さく、呟いた。
「誰も、見てない」
「地元の店だ」
そう答える。
「みんな、飯を食いに来るだけだよ。他人を観察しに来る場所じゃない」
ユナは何も言わなかった。
そのまま、向かいの席に座る。
肘をテーブルに乗せる仕草は、昨夜までとは少し違っていた。
どこか――
慣れ始めている。
しばらくして、店主が戻ってくる。
湯気を立てた丼を、二つ。
札幌のラーメンは、遠慮がない。
濃い味噌のスープ。
黄色く、コシのある麺。
甘みのあるコーン。
分厚いチャーシュー。
そして――
表面でゆっくり溶けていく、バター。
冬の食べ物だ。
寒さを耐えるための。
身体を温めるための。
ユナは、黙って丼を見つめていた。
湯気が頬に触れても、気にした様子はない。
「……朝のとは、匂いが違う」
「味噌だ」
そう説明する。
「北海道じゃ、定番だよ」
箸を取る。
動きは慎重だが、不器用じゃない。
力加減を確かめるみたいに、一本一本、意識している。
まず、スープを口にした。
ほんの少し、眉が動く。
「……強い」
「冬には、ちょうどいい」
ユナは、ゆっくり食べ始めた。
警戒しているわけじゃない。
急いでもいない。
ただ――
味を、情報として取り込むみたいに。
俺も、箸を進める。
熱が、胸から腹に落ちていく。
昨夜から初めて、身体が『いつも通り』に反応した気がした。
「……外で感じたもの」
不意に、ユナが言う。
「空腹でも、怒りでもなかった」
顔を上げる。
「じゃあ、何だ?」
「注意」
即答だった。
「何かに見られてる感じ。でも……
まだ、狩る気はない」
その言い方に、動きが止まる。
「……お前みたいな影か?」
そう聞くと、彼女は首を振りながら麺を巻く。
「違う」
「影は、欲する。衝動で動く。血を求める」
一拍置いて、続けた。
「さっきのは、待ってた。もし普通の影なら……昨夜みたいに、私が処理してる」
それが、気に入らなかった。
「……じゃあ、他にもいるってことか」
「似た存在か、別の『何か』」
肩をすくめる。
「世界は、そんなに綺麗じゃない。少なくとも……私は、その証拠」
スープを一口、飲む。
「生き残りたいなら」
そう前置きして、言った。
「外に何がいるのか、知る必要がある」
脅しじゃない。
宣言でもない。
ただの――事実。
「……俺も、同じこと考えてた」
そう答える。
「逃げ続けるだけじゃ、どうにもならない」
ユナが、こちらを見る。
笑わない。
でも、張り詰めてもいない。
「今の君、少し変わった」
そう言ってから、続けた。
「調べるんだね。私は……見る」
俺は、黙って頷いた。
外で、また電車が通過する。
金属音が、店内に薄く入り込み、歩道の端で氷が砕ける音が混じる。
時間は、確実に進んでいた。
寒さは残っている。
けれど――
もう、牙は立ててこない。
ラーメンを食べ終えながら、ひとつだけ、はっきり分かったことがある。
俺たちは、隠れているんじゃない。
――備えている。
何が待っているのかは、分からない。
それでも。
遅かれ早かれ、また外に出ることになる。
そこには――
不確かな未来と、まだ名のない『何か』が、待っている。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
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