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影喰。  作者: AAVC
3/3

第2章。 俺たちは、追われているのか。

影の存在に救われたはずの朝。

だが、街の中で感じたのは、安心ではなく――視線だった。

正体不明の『気配』に追われるように、朔とユナは中心部を離れ、静かな街へと向かう。

溶けかけた雪、列車の音、そして湯気の立つ一杯のラーメン。

日常に紛れたその場所で、二人は初めて立ち止まり、考え始める。

逃げるだけでは、生き残れない。

ならば知るしかない――

この街に潜む『何か』の正体を。

静かな食事の時間は、嵐の前のわずかな猶予だった。

白川・朔(しらかわ・さく)

影瀬・ユナ(かげせ・ゆな)

桑園(そうえん)


しばらく、動かずにいた。

閉ざされた二つの店の壁に挟まれた場所。

居心地がいいとは言えないが、身を隠すには十分な狭さだった。

吐いた息が、冷たい空気の中でゆっくりと溶けていく。

耳を澄ます。

……何も聞こえない。

足音も、話し声も。

誰かが近づいてくる気配すらなかった。

俺にとっては、ただの通りだ。

いつもと変わらない、ありふれた街角。

「……もう、いない」

数分後、ユナが低く呟いた。

「行ったってことか?誰の話だ」

彼女は首を振った。

その目には、はっきりとした困惑が浮かんでいる。

「……違う。『いなくなった』感じじゃない」

少し間を置いて、続ける。

「最初から……そこに、いなかったみたい」

その言い方が、妙に胸に引っかかった。

歩いて去ったわけでもない。

人混みに紛れたわけでもない。

――ただ、消えた。

存在そのものを、やめたみたいに。

「……普通じゃないな」

そう呟くと、ユナも小さく頷いた。

「うん。影でもないし……人間でもない」

それ以上、説明しようとはしなかった。

できなかったのかもしれない。

あるいは、したくなかったのか。

そもそも、俺たち自身が『普通』じゃない。

「……だったら、今のうちに離れよう」

少し考えてから、そう言った。

「ここにいても意味がない」

ユナは一瞬だけ俺を見て、それから頷く。

「うん。視界の外に出たほうがいい」

慎重に、路地を出る。

朝はもう進んでいた。

雪は降っていない。

雲の切れ間から、日差しが不規則に差し込んでいる。

歩道に残った雪は溶け始め、あちこちに小さな水たまりができていた。

電線。

標識。

低い建物の壁。

それらが、水面に歪んで映っている。

無意識に、それを眺めながら歩いていた。

癖みたいなものだ。

そのとき――

少し後ろで、ユナが足を止めた。

「……ユナ?」

呼びかけても、すぐには答えない。

彼女の視線は、ひとつの水たまりに注がれていた。

そして、ゆっくりと――上へ。

その視線を追う。

古い建物。

三階建て。

錆びた手すりに囲まれた屋上。

……誰もいない。

「何か、見えたのか?」

「ついさっきまで……上に、誰かいた」

「どこに?」

「屋上……こっちを、見てた」

もう一度、見上げる。

やはり、何もない。

反射だったのか。

影の見間違いか。

あるいは――

生まれて、まだ一日も経っていない彼女の感覚が、街に振り回されているだけかもしれない。

「……今は、いない」

ユナはそう言って、続けた。

「でも、行ったわけじゃない。『いなくなった』だけ」

その言葉に、すぐ返せる答えはなかった。

「……勘違いかもしれない」

できるだけ穏やかに、そう言った。

「街は広い。刺激も多いしな」

自分の言葉を、どこまで信じているのか分からなかった。

ユナは反論しなかった。

ただ、もう数秒だけ屋上を見つめてから――視線を落とす。

「……かもね」

小さく、そう答える。

「でも……好きじゃない」

「正直、俺もだ」

そう認めてから、続けた。

「だから、中心部から離れよう」

反対方向を指さす。

「桑園方面なら、人も少ない。線路も近いし、店も静かだ」

ユナは黙って頷いた。

そのまま歩き出す。

中心部のざわめきは、少しずつ背後に遠ざかり、代わりに、低く重たい音が聞こえてくる。

――電車だ。

遠くを走る列車の音。

金属が擦れ合う、一定のリズム。

不思議と、気持ちが落ち着いた。

道路は湿っている。

歩道の縁では、氷がひび割れ始めていた。

「……ここ、違うね」

ユナが言う。

「なんだか……ちゃんとしてる」

「普通の街だよ」

そう返す。

「人が住んでる。それだけだ」

線路沿いを歩き続ける。

すると、また腹が鳴った。

「……最悪だ」

思わず呟く。

「まだ腹減ってるらしい」

ユナが横目で見る。

「……また、食べるの?」

「信じなくてもいいけど、重要なんだ」

少し先に、小さな店が見えた。

派手さはない。

塗装の剥げた、古いラーメン屋。

風に揺れる暖簾。

「……あそこにしよう」

「観光客も来ないし、目立たない」

ユナは店をしばらく観察してから、言った。

「分かった。でも、さっきの“気配”が戻ったら……」

「すぐ出る」

言葉を被せる。

「文句なしで」

彼女は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「交渉成立……ただ、いつかは向き合うことになると思う」

「それは未来の俺たちに任せよう」

そう言って、ドアに手をかける。

「今は、飯だ」

扉を押した瞬間、熱い空気が流れ込んできた。

出汁の匂い。

湯気。

昨夜から初めて、胸の奥が少しだけ緩む。

――もしかしたら。

本当に、少しだけ。

考える時間が、取れるかもしれない。

店内に入る。

古いベルが鳴り、くぐもった音が響いた。

中は狭い。

年季の入った木のカウンター。

壁際の小さなテーブル。

使い込まれた背の高い椅子。

空気は湯気で満ちている。

熱。

味噌の香り。

濃くて、重たくて――

外の寒さが、入るのを拒まれているみたいだった。

カウンターの向こうで、年配の店主が顔を上げる。

何も聞かない。

ただ、軽く頷いた。

まるで、

俺たちがここにいること自体、特別じゃないみたいに。

腰を下ろす。

ユナは、すぐには座らなかった。

数秒だけ立ったまま、店内を見渡している。

木の染み。

少し曲がったカレンダー。

数ブロック先を走る電車の、低く鈍い音。

視線が、細かく動く。

「……ここ」

小さく、呟いた。

「誰も、見てない」

「地元の店だ」

そう答える。

「みんな、飯を食いに来るだけだよ。他人を観察しに来る場所じゃない」

ユナは何も言わなかった。

そのまま、向かいの席に座る。

肘をテーブルに乗せる仕草は、昨夜までとは少し違っていた。

どこか――

慣れ始めている。

しばらくして、店主が戻ってくる。

湯気を立てた丼を、二つ。

札幌のラーメンは、遠慮がない。

濃い味噌のスープ。

黄色く、コシのある麺。

甘みのあるコーン。

分厚いチャーシュー。

そして――

表面でゆっくり溶けていく、バター。

冬の食べ物だ。

寒さを耐えるための。

身体を温めるための。

ユナは、黙って丼を見つめていた。

湯気が頬に触れても、気にした様子はない。

「……朝のとは、匂いが違う」

「味噌だ」

そう説明する。

「北海道じゃ、定番だよ」

箸を取る。

動きは慎重だが、不器用じゃない。

力加減を確かめるみたいに、一本一本、意識している。

まず、スープを口にした。

ほんの少し、眉が動く。

「……強い」

「冬には、ちょうどいい」

ユナは、ゆっくり食べ始めた。

警戒しているわけじゃない。

急いでもいない。

ただ――

味を、情報として取り込むみたいに。

俺も、箸を進める。

熱が、胸から腹に落ちていく。

昨夜から初めて、身体が『いつも通り』に反応した気がした。

「……外で感じたもの」

不意に、ユナが言う。

「空腹でも、怒りでもなかった」

顔を上げる。

「じゃあ、何だ?」

「注意」

即答だった。

「何かに見られてる感じ。でも……

まだ、狩る気はない」

その言い方に、動きが止まる。

「……お前みたいな影か?」

そう聞くと、彼女は首を振りながら麺を巻く。

「違う」

「影は、欲する。衝動で動く。血を求める」

一拍置いて、続けた。

「さっきのは、待ってた。もし普通の影なら……昨夜みたいに、私が処理してる」

それが、気に入らなかった。

「……じゃあ、他にもいるってことか」

「似た存在か、別の『何か』」

肩をすくめる。

「世界は、そんなに綺麗じゃない。少なくとも……私は、その証拠」

スープを一口、飲む。

「生き残りたいなら」

そう前置きして、言った。

「外に何がいるのか、知る必要がある」

脅しじゃない。

宣言でもない。

ただの――事実。

「……俺も、同じこと考えてた」

そう答える。

「逃げ続けるだけじゃ、どうにもならない」

ユナが、こちらを見る。

笑わない。

でも、張り詰めてもいない。

「今の君、少し変わった」

そう言ってから、続けた。

「調べるんだね。私は……見る」

俺は、黙って頷いた。

外で、また電車が通過する。

金属音が、店内に薄く入り込み、歩道の端で氷が砕ける音が混じる。

時間は、確実に進んでいた。

寒さは残っている。

けれど――

もう、牙は立ててこない。

ラーメンを食べ終えながら、ひとつだけ、はっきり分かったことがある。

俺たちは、隠れているんじゃない。

――備えている。

何が待っているのかは、分からない。

それでも。

遅かれ早かれ、また外に出ることになる。

そこには――

不確かな未来と、まだ名のない『何か』が、待っている。

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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