第1章。 これは、本当に起きているのか。
影は、気づかないうちに日常へ入り込む。
それが異常だと理解したときには、もう遅い。
――これは、
俺が『普通』を失い始めた日の記録だ。
白川・朔
影瀬・ユナ
すすきのを、振り返らずに離れた。
騒音は、思ったよりも早く背後に消えていく。
最初に笑い声が途切れ、次に、半開きの扉から漏れていた音楽が遠ざかり、最後には、踏み固められた雪の上を歩く自分の足音だけが残った。
目的もなく歩いていた。
覚えのある道ばかりなのに、どこか違う。
まるで、街が俺一人のために空になったみたいだった。
冬だということは、見ればわかる。
角に積もった雪、マンホールから立ち上る白い蒸気、白く染まった路面に反射する街灯の光。
……それなのに、寒くない。
気づいたのは、少し経ってからだった。
不安になるには、遅すぎるくらい。
手をポケットに入れることもなく、普通に呼吸をしながら歩き続ける。
冷たい空気が肺を刺すはずなのに――何も感じない。
大通の近くを通り過ぎた。
公園には入らない。
歩道から見える白い景色は、誰も踏み入れていないみたいに静かで、整っていた。
何時間も、人がいなかったかのように。
そのまま通り過ぎる。
開けた場所は、今は避けたかった。
思考は、まとまりなく行き来する。
路地。
危険な気配。
異様な速さで動く何かの音。
……そして。
彼女。
いや……違う。
まだ、それじゃない。
脇腹に手を当てる。
痛い。
コートの下で、生地が硬く、張り付くような感触だった。
乾いた血。
いつ、どの瞬間についた傷なのかは思い出せない。
ただ――ひどく痛かったことだけは、覚えている。
それでも、歩き続けた。
通りは次第に狭くなり、音も、人の気配も減っていく。
低い建物。
明かりの消えた窓。
雪を被ったままの車。
夜の東区は、いつもこんな感じだ。
普通すぎて、静かすぎる。
何かが起きるはずのない場所。
建物に着いても、安心はしなかった。
あったのは、ただの疲労感だけ。
廊下の灯りを点けずに階段を上る。
鍵を取り出す手が、少し震えた。
二度目で、ようやく鍵が回る。
扉を閉めた瞬間、世界から切り離されたみたいな静寂が落ちた。
コートを椅子に放り、靴を脱ぐ。
動きは、すべて自動だった。
自分の身体を、誰かに使われているみたいに。
洗面所へ行き、灯りを点ける。
鏡に映ったのは、見慣れたはずの顔――
なのに、どこかおかしい。
乱れた黒髪。
帽子に潰された前髪。
濃い隈。
いつもより、明らかに血色の悪い顔。
寝不足の大学生としては、特別じゃない。
視線を落とし、シャツを持ち上げる。
切り傷。
打撲。
脇腹と腹部に残る、不規則な痕。
浅くはない。
転んだ感覚も、痛みも覚えている。
だが――
縁が、塞がり始めていた。
完全じゃない。
赤みは残り、触れれば痛む。
それでも……血は出ていなかった。
喉が鳴る。
「……じゃあ、夢じゃなかったんだな」
そのとき。
背後で、何かが動いた。
音じゃない。
感覚だ。
空気の温度が、一点だけ変わったような――そんな違和感。
鏡越しに、視線を上げる。
背後の影が、俺の身体と一致していない。
伸びる。
壁から剥がれる。
濃くなり、形を持ち始める。
振り返ったときには、もうそこにいた。
今度は、はっきりとした形。
少女の姿。
数歩先に立ち、意味のわからないほど落ち着いた視線で、俺を見ている。
完全に人間の姿だった。
……あまりにも、人間すぎる。
傷一つない肌。
肩まで落ちる、黒に青を含んだ髪。
寒さの気配はない。
冬服も着ていない。
それなのに、違和感がない。
震えない。
息も乱れていない。
不快そうな様子もない。
ただ、そこに『いる』。
「遅かったね」
声ははっきりしていた。
落ち着いていて――どこか、からかうようでもある。
俺は、その場から動けなかった。
「……お前、何だ」
問いかけると、彼女は小さく首を傾げた。
まるで、質問そのものを吟味するみたいに。
「うーん……そうだね。君の影、かな」
比喩じゃない。
冗談でもない。
声の調子に、曖昧さは一切なかった。
「……そんなはず、ないだろ」
「でも、ここにいる」
淡々と言われて、言葉に詰まる。
思考が、一気に押し寄せた。
傷。
昨夜の出来事。
血の感触。
ここ数時間、ずっと内側から感じていた『視線』。
「……俺から、出てきたのか」
そう聞くと、彼女は小さく首を振る。
「生まれたの。君から。全然、違うよ」
一歩、距離を詰めてくる。
威圧感はない。
――それが、逆に不気味だった。
「影はね、何かが壊れたときに現れるの。感情が、限界を越えたとき」
理屈で理解しようとした思考は、別のものを拾い上げてしまった。
思い出したくない記憶。
聞きたくなかった言葉。
視線。
まだ皮膚の奥に残っている、あの嫌な感覚。
俺は、視線を逸らした。
「……そうか」
彼女は、かすかに笑う。
「じゃあ、あのときに生まれたんだね」
まるで心を読んだみたいだったが、それ以上踏み込んでこない。
……少しだけ、気遣いとも取れた。
再び、部屋に静けさが落ちる。
「……いつまでも『影』って呼ぶのは、嫌だな」
しばらくして、そう言った。
彼女は首を傾げたまま、俺を見る。
「じゃあ、何て呼ぶつもり?」
少しだけ考えた。
本当に、少しだけ。
名前は、最初からそこにあったみたいに、自然に浮かんだ。
「……ユナ」
「ユナ?」
口の中で、音を転がす。
「急だね」
「急じゃない……ただ、しっくりくる」
彼女は黙って俺を見つめる。
驚きも、拒絶もない。
ただ、重たいほどの注意深さ。
「……別に、特別な感じはしないけど」
肩をすくめる。
「今は、それでいい」
ほんのわずか、口元が緩んだ。
「まあ……悪くはないかな。今のところは」
知らないうちに、息を吐いていた。
「好きなときに実体化するなら……俺と一緒にいるなら、名前だけじゃ足りない」
――何言ってるんだ。
これじゃ、同棲の相談みたいじゃないか。
頭がどうかしてる。
「そこ、気になるんだ」
「……他人に見られたら、困るだろ」
「見られたら、殺せばいい」
何のためらいもなく、そう言った。
「ダメだ」
即答した。
「絶対に、するな」
彼女は俺を見つめる。
反抗するでも、驚くでもなく。
そして――
理由もなく、納得したみたいに、小さく頷いた。
「……じゃあ、決めて」
もう一度、考えた。
今度は、さっきより少しだけ長く。
こんな状況になるなんて、想像したこともなかった。
「……影瀬だ」
そう言った。
「影。そこに、留まる場所」
彼女は、低くその姓をなぞる。
「影瀬……ユナ」
もう一度、俺を見る。
さっきとは違うものが、その表情に浮かんでいた。
「君、創造力ってものが本当にないね」
小さく、からかうように笑う。
「でも……まあ。嫌いじゃない」
洗面台に背中を預け、一気に疲労が身体に落ちてくるのを感じた。
「……正直言うとさ」
息を整えながら、続ける。
「お前が何なのか、まだ分からない。これから何が起きるのかも」
彼女は、一歩だけ近づいた。
距離を詰めすぎることはない。
けれど――
存在を無視できない位置。
「私も、分からないよ」
そう言って、肩をすくめる。
「生まれたばかりなんだから。覚えてるでしょ?」
軽く視線を巡らせ、部屋を見る。
「でもね……ひとつだけ、確かなことがある」
こちらを見ずに、言った。
「私は、消えない」
比喩じゃない。
慰めでもない。
ただ、生き残ろうとする者が言う――
そのままの言葉だった。
俺は、何も言えなかった。
安心もしない。
恐怖もない。
それが、この状況を余計に暗くしていた。
――ああ。
俺の、今までの『普通』は、もう終わったんだ。
そんな、不快な確信だけが残る。
夜は、まだ終わっていなかった。
それでも、これ以上起きている気力はなかった。
「……少し寝る。あと三時間くらいで、朝だ」
そう言って、続ける。
「ベッド使っていい。俺は、床で寝る」
彼女は、何も答えなかった。
ただ、バルコニーへ歩いていく。
月明かりに照らされた、地区の景色を眺めながら、
手すりの向こうに広がる夜を、黙って見つめている。
冬の夜は冷たかったが、空は澄んでいた。
雪を被った屋根が、淡い光を反射している。
その光景が、気に入ったのか。
それとも、別の理由があったのか。
そのときの俺には、もう考える余裕がなかった。
床に敷いた布団に倒れ込み、いつの間にか、意識を手放していた。
――数時間後。
アラームが鳴る前に、窓から朝の光が差し込んできた。
急な目覚めじゃない。
夜の闇が、少しずつ下げられていくような感覚。
雪に反射した白い光が、部屋を冷たく、澄んだ色で満たしていく。
一瞬、すべてが夢だったんじゃないかと思った。
だが――
布団から起き上がって、すぐに分かる。
彼女は、そこにいた。
ユナは、窓際に立ったまま、
ガラス越しに街を見ている。
昨夜、寝間着代わりに渡したTシャツを着ていた。
テレビドラマに出てくる、普通の女子高生みたいな格好。
朝に驚く様子も、好奇心を見せる様子もない。
ただ、景色を見ている。
まるで、すべてを記憶に刻むみたいに。
東区の低い建物。
雪を被った屋根。
仕事へ向かう人々で、少しずつ動き出す通り。
……眠っていなかった。
少なくとも、俺と同じやり方では。
何を言えばいいのか、分からない。
家族以外の女の子が、朝を迎えて、同じ部屋にいる。
それだけで、十分に落ち着かない。
音を立てないように身体を起こす。
身体が痛んだ。
昨夜とは違う。
もっと深く、重たい痛み。
考える前に、浴室へ向かう。
灯りを点けた。
傷は、まだ残っていた。
けれど――確実に、変化している。
縁は、さらに閉じている。
皮膚は赤く、触れれば痛むが、昨夜ほどの痛みはなかった。
普通じゃない。
奇跡とも言えない。
……ただ、居心地が悪い。
そう思った瞬間、自分が一人じゃないことに気づく前に、声がした。
「生きてるね」
浴室の入口から、ユナの声。
驚いて振り返る。
「……いつから、そこにいた」
「君が入ったときから。布団から起きたときも、ずっと一緒だったよ」
小さく、息を吐いた。
「……なあ。それ、やめてくれ」
「何を?」
「勝手に入ってくるの。ここだ」
自分を指さす。
彼女は一秒ほど、俺を見る。
その表情は、意味を計算しているようだった。
「悪いこと、ある?」
「……ある」
言葉を探す。
「プライバシー、だ。人が……シャワーを浴びてるときに、入るもんじゃない」
「どうして?」
即座に返される。
「分かれてる意味、なくない?」
答えに詰まった。
目を閉じて、一度だけ考える。
「……そういう決まりだからだ」
納得したような、していないような顔。
彼女は、いわゆる『鈍い女の子』じゃない。
むしろ、自分の理屈で世界を作り替えようとする側だ。
「じゃあ、その変な理屈だと……君も、私が洗うときは入っちゃダメなんだね」
「……そうなるな」
少し間が空く。
「で、私は、いつ洗うの?」
言葉が出なかった。
「……今だ」
そう答える。
「その姿でいるなら、普通の人みたいに振る舞わないといけない」
彼女は、じっと俺を見る。
「じゃあ、教えて。何をすればいいのか、分からない。人間の習慣って、変なのばっかり」
「……それは、自分でやることだ」
「はあ。じゃあ、君は出ていくの?」
「ユナ……」
額に手を当てる。
「そういう話じゃない」
しばらく、無言。
結局、それ以上は何も言わなかった。
それだけで、少し安心する。
浴室を出て、クローゼットへ向かう。
取り出したのは、俺のものじゃない服。
妹が、週末に泊まりに来るときのやつだ。
今まで、気にしたこともなかった。
――今までは。
「これ、着ろ」
そう言って渡す。
彼女は無言で受け取り、珍しい物でも見るように眺めてから、何も言わずに着た。
少し大きめの濃い色のパーカー。
シンプルな黒のパンツ。
目立たない。
特別でもない。
……それなのに。
着ているだけで、何かがおかしい。
黒が、異様に白い肌を際立たせている。
黒に青を含んだ髪が、まるで服のために存在しているみたいだった。
不快そうでもない。
気にする様子もない。
ただ、そこに立っている。
自分のものじゃない服を着て――
それでも、普通の中から浮き上がっている。
「……これ、私の?」
鏡を見ながら聞く。
「違う。妹のだ。当分の間だけ使え。後で、ちゃんとしたのを買う」
「……ふうん」
少し考えてから、言う。
「どうして、もらっちゃダメ?」
「……そういうもんだからだ」
少し考えてから、彼女は言った。
「じゃあ……君の妹を殺せば、この服は私のになるね」
反射的に、振り返った。
その言い方があまりにも淡々としていて、冗談じゃないと、すぐに分かった。
「……ダメだ」
きっぱり言う。
「昨日も言っただろ。殺すな」
彼女は俺を見る。
反抗でも、驚きでもない。
ただ――理解しようとする視線。
そして、ほんのわずかに、唇が歪んだ。
「ふうん……分かった」
小さく、楽しそうに。
「それは、『やっちゃいけないこと』なんだね」
俺は、黙って頷く。
「でも」
そう前置きして、彼女は笑みを深めた。
「いつも言うことを聞くとは、限らないよ。覚えておいて」
そう言い残し、再び窓の方へ歩いていく。
俺は、その背中を見つめるしかなかった。
「……思ってた以上に、厄介だな」
誰にも聞こえないように、呟く。
それから、あまり時間を置かずに外へ出た。
札幌の朝は、驚くほど普通だった。
足早に歩く人たち。
分厚いコート。
話すたびに、白くなる吐息。
店のシャッターが上がり始め、街は何事もなかったかのように動き出している。
世界は、ちゃんと回っていた。
そのとき、腹が鳴った。
「……しまった。朝飯、食ってない」
「……あさめし?」
ユナが、首を傾げる。
「朝に、食べる」
「お腹、空いてなくても?」
「空いてなくてもだ。そうしないと、一日もたない」
彼女は、周囲を見回した。
「でも、ここは静かだよ」
「今日はな。雪が続いて、学校は休みだし、在宅勤務も増えてる」
「毎日、そんなことしてるの?」
「……まあな」
「変なの」
即答だった。
「どうして、人間は他の動物みたいに、ただ生きるだけじゃダメなの?」
知能は高い。
知識も、吸収が早い。
それでも――
社会の『振る舞い』は、まだ理解できていない。
「……言葉で説明するのは難しい」
無理に笑って、続ける。
「そのうち、分かると思う」
ユナは、わずかに眉を寄せた。
「面倒な生き方だね。自分で自分を縛ってる」
反論できなかった。
コンビニに入る。
中は、外と比べて驚くほど暖かい。
おにぎりを二つと、温かい飲み物を手に取る。
一つ、彼女に渡した。
ユナはそれを眺め、匂いを確かめるようにしてから、口にした。
……少しだけ、目が開く。
「……悪くない。これは何?」
「ただの食べ物だ。おにぎり」
彼女は、ゆっくり噛む。
急がない。
がつくこともない。
ただ――
味を確かめるように。
「人間のものは、変だね」
そう言ってから、続けた。
「でも、面白いものもある。
……これ、もっと食べていい?」
それは、初めて見せた『普通』に近い反応だった。
「いいぞ」
追加で、いくつか手に取る。
「歩きながら食べよう」
「じゃあ、持つ」
そう言って、俺の手からおにぎりを奪う。
「……せめて、ありがとうくらい言え」
「それ、食べ物?」
真顔で返されて、思わず息を吐いた。
会計を済ませ、再び外へ出る。
しばらく歩き、人通りの多い中心部の交差点に差しかかったときだった。
突然、ユナが足を止める。
次の瞬間、俺の腕を掴んだ。
「……朔。ここ、離れよう」
「……え?どうした」
周囲を見回す。
人は、普通に歩いている。
誰一人として、異変に気づいている様子はない。
「分からない」
ユナは低く言った。
「でも……何かが、見てる」
「……特に変なものは見えないけど。本当に?」
少し間があってから、彼女は言った。
「さっき言ってたよね。殺すのはダメだって」
「……ああ」
「じゃあ」
視線を逸らさず、続ける。
「ここにいたら、たくさん死ぬと思う」
一瞬、言葉に詰まる。
「……どっちを選ぶ?」
何も感じなかった。
理由も、根拠も分からない。
それでも――
俺は、彼女を信じた。
昨夜、命を救われたのは事実だ。
「……分かった」
そう言って、踵を返す。
来た道を戻る。
ユナはパーカーのフードを深く被り、足早に歩き出した。
運動は得意じゃない。
それなのに、不思議とついていけた。
中心部から離れ、人通りの少ない場所へ。
やがて、人気のない路地の近くで立ち止まる。
「ユナ――」
「待って」
遮るように言う。
「まだ、安心できない。ここに隠れよう」
商店の壁と壁の間。
狭すぎず、広すぎもしない隙間。
身体を寄せて、息を潜める。
外では、街がいつも通りに動いていた。
何事もなかったかのように。
平穏そのものの朝。
――けれど。
俺たちにとっての『問題』は、まだ始まったばかりだった。
次回:『俺たちは、追われているのか。』
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!
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