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影喰。  作者: AAVC
2/3

第1章。 これは、本当に起きているのか。

影は、気づかないうちに日常へ入り込む。

それが異常だと理解したときには、もう遅い。

――これは、

俺が『普通』を失い始めた日の記録だ。

白川・朔(しらかわ・さく)

影瀬・ユナ(かげせ・ゆな)



すすきのを、振り返らずに離れた。

騒音は、思ったよりも早く背後に消えていく。

最初に笑い声が途切れ、次に、半開きの扉から漏れていた音楽が遠ざかり、最後には、踏み固められた雪の上を歩く自分の足音だけが残った。

目的もなく歩いていた。

覚えのある道ばかりなのに、どこか違う。

まるで、街が俺一人のために空になったみたいだった。

冬だということは、見ればわかる。

角に積もった雪、マンホールから立ち上る白い蒸気、白く染まった路面に反射する街灯の光。

……それなのに、寒くない。

気づいたのは、少し経ってからだった。

不安になるには、遅すぎるくらい。

手をポケットに入れることもなく、普通に呼吸をしながら歩き続ける。

冷たい空気が肺を刺すはずなのに――何も感じない。

大通の近くを通り過ぎた。

公園には入らない。

歩道から見える白い景色は、誰も踏み入れていないみたいに静かで、整っていた。

何時間も、人がいなかったかのように。

そのまま通り過ぎる。

開けた場所は、今は避けたかった。

思考は、まとまりなく行き来する。

路地。

危険な気配。

異様な速さで動く何かの音。

……そして。

彼女。

いや……違う。

まだ、それじゃない。

脇腹に手を当てる。

痛い。

コートの下で、生地が硬く、張り付くような感触だった。

乾いた血。

いつ、どの瞬間についた傷なのかは思い出せない。

ただ――ひどく痛かったことだけは、覚えている。

それでも、歩き続けた。

通りは次第に狭くなり、音も、人の気配も減っていく。

低い建物。

明かりの消えた窓。

雪を被ったままの車。

夜の東区は、いつもこんな感じだ。

普通すぎて、静かすぎる。

何かが起きるはずのない場所。

建物に着いても、安心はしなかった。

あったのは、ただの疲労感だけ。

廊下の灯りを点けずに階段を上る。

鍵を取り出す手が、少し震えた。

二度目で、ようやく鍵が回る。

扉を閉めた瞬間、世界から切り離されたみたいな静寂が落ちた。

コートを椅子に放り、靴を脱ぐ。

動きは、すべて自動だった。

自分の身体を、誰かに使われているみたいに。

洗面所へ行き、灯りを点ける。

鏡に映ったのは、見慣れたはずの顔――

なのに、どこかおかしい。

乱れた黒髪。

帽子に潰された前髪。

濃い隈。

いつもより、明らかに血色の悪い顔。

寝不足の大学生としては、特別じゃない。

視線を落とし、シャツを持ち上げる。

切り傷。

打撲。

脇腹と腹部に残る、不規則な痕。


浅くはない。

転んだ感覚も、痛みも覚えている。

だが――

縁が、塞がり始めていた。

完全じゃない。

赤みは残り、触れれば痛む。

それでも……血は出ていなかった。

喉が鳴る。

「……じゃあ、夢じゃなかったんだな」

そのとき。

背後で、何かが動いた。

音じゃない。

感覚だ。

空気の温度が、一点だけ変わったような――そんな違和感。

鏡越しに、視線を上げる。

背後の影が、俺の身体と一致していない。

伸びる。

壁から剥がれる。

濃くなり、形を持ち始める。

振り返ったときには、もうそこにいた。

今度は、はっきりとした形。

少女の姿。

数歩先に立ち、意味のわからないほど落ち着いた視線で、俺を見ている。

完全に人間の姿だった。

……あまりにも、人間すぎる。

傷一つない肌。

肩まで落ちる、黒に青を含んだ髪。

寒さの気配はない。

冬服も着ていない。

それなのに、違和感がない。

震えない。

息も乱れていない。

不快そうな様子もない。

ただ、そこに『いる』。

「遅かったね」

声ははっきりしていた。

落ち着いていて――どこか、からかうようでもある。

俺は、その場から動けなかった。

「……お前、何だ」

問いかけると、彼女は小さく首を傾げた。

まるで、質問そのものを吟味するみたいに。

「うーん……そうだね。君の影、かな」

比喩じゃない。

冗談でもない。

声の調子に、曖昧さは一切なかった。

「……そんなはず、ないだろ」

「でも、ここにいる」

淡々と言われて、言葉に詰まる。

思考が、一気に押し寄せた。

傷。

昨夜の出来事。

血の感触。

ここ数時間、ずっと内側から感じていた『視線』。

「……俺から、出てきたのか」

そう聞くと、彼女は小さく首を振る。

「生まれたの。君から。全然、違うよ」

一歩、距離を詰めてくる。

威圧感はない。

――それが、逆に不気味だった。

「影はね、何かが壊れたときに現れるの。感情が、限界を越えたとき」

理屈で理解しようとした思考は、別のものを拾い上げてしまった。

思い出したくない記憶。

聞きたくなかった言葉。

視線。

まだ皮膚の奥に残っている、あの嫌な感覚。

俺は、視線を逸らした。

「……そうか」

彼女は、かすかに笑う。

「じゃあ、あのときに生まれたんだね」

まるで心を読んだみたいだったが、それ以上踏み込んでこない。

……少しだけ、気遣いとも取れた。

再び、部屋に静けさが落ちる。

「……いつまでも『影』って呼ぶのは、嫌だな」

しばらくして、そう言った。

彼女は首を傾げたまま、俺を見る。

「じゃあ、何て呼ぶつもり?」

少しだけ考えた。

本当に、少しだけ。

名前は、最初からそこにあったみたいに、自然に浮かんだ。

「……ユナ」

「ユナ?」

口の中で、音を転がす。

「急だね」

「急じゃない……ただ、しっくりくる」

彼女は黙って俺を見つめる。

驚きも、拒絶もない。

ただ、重たいほどの注意深さ。

「……別に、特別な感じはしないけど」

肩をすくめる。

「今は、それでいい」

ほんのわずか、口元が緩んだ。

「まあ……悪くはないかな。今のところは」

知らないうちに、息を吐いていた。

「好きなときに実体化するなら……俺と一緒にいるなら、名前だけじゃ足りない」

――何言ってるんだ。

これじゃ、同棲の相談みたいじゃないか。

頭がどうかしてる。

「そこ、気になるんだ」

「……他人に見られたら、困るだろ」

「見られたら、殺せばいい」

何のためらいもなく、そう言った。

「ダメだ」

即答した。

「絶対に、するな」

彼女は俺を見つめる。

反抗するでも、驚くでもなく。

そして――

理由もなく、納得したみたいに、小さく頷いた。

「……じゃあ、決めて」

もう一度、考えた。

今度は、さっきより少しだけ長く。

こんな状況になるなんて、想像したこともなかった。

「……影瀬だ」

そう言った。

「影。そこに、留まる場所」

彼女は、低くその姓をなぞる。

「影瀬……ユナ」

もう一度、俺を見る。

さっきとは違うものが、その表情に浮かんでいた。

「君、創造力ってものが本当にないね」

小さく、からかうように笑う。

「でも……まあ。嫌いじゃない」

洗面台に背中を預け、一気に疲労が身体に落ちてくるのを感じた。

「……正直言うとさ」

息を整えながら、続ける。

「お前が何なのか、まだ分からない。これから何が起きるのかも」

彼女は、一歩だけ近づいた。

距離を詰めすぎることはない。

けれど――

存在を無視できない位置。

「私も、分からないよ」

そう言って、肩をすくめる。

「生まれたばかりなんだから。覚えてるでしょ?」

軽く視線を巡らせ、部屋を見る。

「でもね……ひとつだけ、確かなことがある」

こちらを見ずに、言った。

「私は、消えない」

比喩じゃない。

慰めでもない。

ただ、生き残ろうとする者が言う――

そのままの言葉だった。

俺は、何も言えなかった。

安心もしない。

恐怖もない。

それが、この状況を余計に暗くしていた。

――ああ。

俺の、今までの『普通』は、もう終わったんだ。

そんな、不快な確信だけが残る。

夜は、まだ終わっていなかった。

それでも、これ以上起きている気力はなかった。

「……少し寝る。あと三時間くらいで、朝だ」

そう言って、続ける。

「ベッド使っていい。俺は、床で寝る」

彼女は、何も答えなかった。

ただ、バルコニーへ歩いていく。

月明かりに照らされた、地区の景色を眺めながら、

手すりの向こうに広がる夜を、黙って見つめている。

冬の夜は冷たかったが、空は澄んでいた。

雪を被った屋根が、淡い光を反射している。

その光景が、気に入ったのか。

それとも、別の理由があったのか。

そのときの俺には、もう考える余裕がなかった。

床に敷いた布団に倒れ込み、いつの間にか、意識を手放していた。

――数時間後。

アラームが鳴る前に、窓から朝の光が差し込んできた。

急な目覚めじゃない。

夜の闇が、少しずつ下げられていくような感覚。

雪に反射した白い光が、部屋を冷たく、澄んだ色で満たしていく。

一瞬、すべてが夢だったんじゃないかと思った。

だが――

布団から起き上がって、すぐに分かる。

彼女は、そこにいた。

ユナは、窓際に立ったまま、

ガラス越しに街を見ている。

昨夜、寝間着代わりに渡したTシャツを着ていた。

テレビドラマに出てくる、普通の女子高生みたいな格好。

朝に驚く様子も、好奇心を見せる様子もない。

ただ、景色を見ている。

まるで、すべてを記憶に刻むみたいに。

東区の低い建物。

雪を被った屋根。

仕事へ向かう人々で、少しずつ動き出す通り。

……眠っていなかった。

少なくとも、俺と同じやり方では。

何を言えばいいのか、分からない。

家族以外の女の子が、朝を迎えて、同じ部屋にいる。

それだけで、十分に落ち着かない。

音を立てないように身体を起こす。

身体が痛んだ。

昨夜とは違う。

もっと深く、重たい痛み。

考える前に、浴室へ向かう。

灯りを点けた。

傷は、まだ残っていた。

けれど――確実に、変化している。

縁は、さらに閉じている。

皮膚は赤く、触れれば痛むが、昨夜ほどの痛みはなかった。

普通じゃない。

奇跡とも言えない。

……ただ、居心地が悪い。

そう思った瞬間、自分が一人じゃないことに気づく前に、声がした。

「生きてるね」

浴室の入口から、ユナの声。

驚いて振り返る。

「……いつから、そこにいた」

「君が入ったときから。布団から起きたときも、ずっと一緒だったよ」

小さく、息を吐いた。

「……なあ。それ、やめてくれ」

「何を?」

「勝手に入ってくるの。ここだ」

自分を指さす。

彼女は一秒ほど、俺を見る。

その表情は、意味を計算しているようだった。

「悪いこと、ある?」

「……ある」

言葉を探す。

「プライバシー、だ。人が……シャワーを浴びてるときに、入るもんじゃない」

「どうして?」

即座に返される。

「分かれてる意味、なくない?」

答えに詰まった。

目を閉じて、一度だけ考える。

「……そういう決まりだからだ」

納得したような、していないような顔。

彼女は、いわゆる『鈍い女の子』じゃない。

むしろ、自分の理屈で世界を作り替えようとする側だ。

「じゃあ、その変な理屈だと……君も、私が洗うときは入っちゃダメなんだね」

「……そうなるな」

少し間が空く。

「で、私は、いつ洗うの?」

言葉が出なかった。

「……今だ」

そう答える。

「その姿でいるなら、普通の人みたいに振る舞わないといけない」

彼女は、じっと俺を見る。

「じゃあ、教えて。何をすればいいのか、分からない。人間の習慣って、変なのばっかり」

「……それは、自分でやることだ」

「はあ。じゃあ、君は出ていくの?」

「ユナ……」

額に手を当てる。

「そういう話じゃない」

しばらく、無言。

結局、それ以上は何も言わなかった。

それだけで、少し安心する。

浴室を出て、クローゼットへ向かう。

取り出したのは、俺のものじゃない服。

妹が、週末に泊まりに来るときのやつだ。

今まで、気にしたこともなかった。

――今までは。

「これ、着ろ」

そう言って渡す。

彼女は無言で受け取り、珍しい物でも見るように眺めてから、何も言わずに着た。

少し大きめの濃い色のパーカー。

シンプルな黒のパンツ。

目立たない。

特別でもない。

……それなのに。

着ているだけで、何かがおかしい。

黒が、異様に白い肌を際立たせている。

黒に青を含んだ髪が、まるで服のために存在しているみたいだった。

不快そうでもない。

気にする様子もない。

ただ、そこに立っている。

自分のものじゃない服を着て――

それでも、普通の中から浮き上がっている。

「……これ、私の?」

鏡を見ながら聞く。

「違う。妹のだ。当分の間だけ使え。後で、ちゃんとしたのを買う」

「……ふうん」

少し考えてから、言う。

「どうして、もらっちゃダメ?」

「……そういうもんだからだ」

少し考えてから、彼女は言った。

「じゃあ……君の妹を殺せば、この服は私のになるね」

反射的に、振り返った。

その言い方があまりにも淡々としていて、冗談じゃないと、すぐに分かった。

「……ダメだ」

きっぱり言う。

「昨日も言っただろ。殺すな」

彼女は俺を見る。

反抗でも、驚きでもない。

ただ――理解しようとする視線。

そして、ほんのわずかに、唇が歪んだ。

「ふうん……分かった」

小さく、楽しそうに。

「それは、『やっちゃいけないこと』なんだね」

俺は、黙って頷く。

「でも」

そう前置きして、彼女は笑みを深めた。

「いつも言うことを聞くとは、限らないよ。覚えておいて」

そう言い残し、再び窓の方へ歩いていく。

俺は、その背中を見つめるしかなかった。

「……思ってた以上に、厄介だな」

誰にも聞こえないように、呟く。

それから、あまり時間を置かずに外へ出た。

札幌の朝は、驚くほど普通だった。

足早に歩く人たち。

分厚いコート。

話すたびに、白くなる吐息。

店のシャッターが上がり始め、街は何事もなかったかのように動き出している。

世界は、ちゃんと回っていた。

そのとき、腹が鳴った。

「……しまった。朝飯、食ってない」

「……あさめし?」

ユナが、首を傾げる。

「朝に、食べる」

「お腹、空いてなくても?」

「空いてなくてもだ。そうしないと、一日もたない」

彼女は、周囲を見回した。

「でも、ここは静かだよ」

「今日はな。雪が続いて、学校は休みだし、在宅勤務も増えてる」

「毎日、そんなことしてるの?」

「……まあな」

「変なの」

即答だった。

「どうして、人間は他の動物みたいに、ただ生きるだけじゃダメなの?」

知能は高い。

知識も、吸収が早い。

それでも――

社会の『振る舞い』は、まだ理解できていない。

「……言葉で説明するのは難しい」

無理に笑って、続ける。

「そのうち、分かると思う」

ユナは、わずかに眉を寄せた。

「面倒な生き方だね。自分で自分を縛ってる」

反論できなかった。

コンビニに入る。

中は、外と比べて驚くほど暖かい。

おにぎりを二つと、温かい飲み物を手に取る。

一つ、彼女に渡した。

ユナはそれを眺め、匂いを確かめるようにしてから、口にした。

……少しだけ、目が開く。

「……悪くない。これは何?」

「ただの食べ物だ。おにぎり」

彼女は、ゆっくり噛む。

急がない。

がつくこともない。

ただ――

味を確かめるように。

「人間のものは、変だね」

そう言ってから、続けた。

「でも、面白いものもある。

……これ、もっと食べていい?」

それは、初めて見せた『普通』に近い反応だった。

「いいぞ」

追加で、いくつか手に取る。

「歩きながら食べよう」

「じゃあ、持つ」

そう言って、俺の手からおにぎりを奪う。

「……せめて、ありがとうくらい言え」

「それ、食べ物?」

真顔で返されて、思わず息を吐いた。

会計を済ませ、再び外へ出る。

しばらく歩き、人通りの多い中心部の交差点に差しかかったときだった。

突然、ユナが足を止める。

次の瞬間、俺の腕を掴んだ。

「……朔。ここ、離れよう」

「……え?どうした」

周囲を見回す。

人は、普通に歩いている。

誰一人として、異変に気づいている様子はない。

「分からない」

ユナは低く言った。

「でも……何かが、見てる」

「……特に変なものは見えないけど。本当に?」

少し間があってから、彼女は言った。

「さっき言ってたよね。殺すのはダメだって」

「……ああ」

「じゃあ」

視線を逸らさず、続ける。

「ここにいたら、たくさん死ぬと思う」

一瞬、言葉に詰まる。

「……どっちを選ぶ?」

何も感じなかった。

理由も、根拠も分からない。

それでも――

俺は、彼女を信じた。

昨夜、命を救われたのは事実だ。

「……分かった」

そう言って、踵を返す。

来た道を戻る。

ユナはパーカーのフードを深く被り、足早に歩き出した。

運動は得意じゃない。

それなのに、不思議とついていけた。

中心部から離れ、人通りの少ない場所へ。

やがて、人気のない路地の近くで立ち止まる。

「ユナ――」

「待って」

遮るように言う。

「まだ、安心できない。ここに隠れよう」

商店の壁と壁の間。

狭すぎず、広すぎもしない隙間。

身体を寄せて、息を潜める。

外では、街がいつも通りに動いていた。

何事もなかったかのように。

平穏そのものの朝。

――けれど。

俺たちにとっての『問題』は、まだ始まったばかりだった。

次回:『俺たちは、追われているのか。』

最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました!

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よければ評価していただけると、今後の励みになります!

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