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影喰。  作者: AAVC
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プロローグ。

――影が、生きた夜。


裏切りが、ここまで痛いものだとは思っていなかった。

怒鳴り合いもなかった。

記憶に残るような場面もない。

ただ、ひとつのメッセージだけ。

短くて、冷たい。

あまりにも見慣れた言葉で書かれていた。

嘘。

距離。

拒絶。

俺はスマートフォンの画面を、必要以上に長く見つめていた。

駅前のベンチに座ったまま、人の流れだけが視界を横切っていく。

夜間講義を終えた学生。

コートの前をきちんと閉めていない会社員。

もう遅い時間だというのに、地図を覗き込む観光客。

札幌は、いつもと変わらなかった。

変わってしまったのは、俺だけだ。

スマホをコートのポケットにしまい、立ち上がる。

行き先はなかった。

冬になると、街は変わる。

完全に静かになるわけじゃない。

ただ、音が鈍くなる。

足音は雪に吸われ、車は慎重に進み、声は遠くまで届かない。

冷たさが、骨の奥まで染み込んでくる。

いつの間にか、すすきのにいた。

習慣だったのか、

それとも、何も考えていなかっただけなのか。

ネオンの光が、雪を人工的な色に染めている。

赤。

紫。

緑。

濡れたアスファルトは歪に光を反射し、居酒屋から漏れ出した酒と揚げ物、古い煙草の匂いが混じっていた。

いつも通りの夜。

――今の俺には、あまりにも普通すぎる夜だった。

大通りから外れる。

すすきのは、一本角を曲がるだけで騒音が消える。

路地は狭く、必要以上に人を威圧する。

低い建物。

閉ざされた金属製の扉。

壁際に溜まった雪。

そのとき、違和感を覚えた。

最初は寒さのせいだと思った。

コートの首元から入り込む、あの不快な感覚。

だが、それとは違う。

背中を、何かに引かれている。

軽い圧が、確かにあった。

足を止め、足元を見る。

――影が、そこにある。

だが、俺の動きと連動していなかった。

すぐに振り返る。

誰かがいるはずだと思った。

しかし、誰もいない。

路地は空っぽで、遠くで聞こえた笑い声もすぐに消えた。

「……疲れてるな」

そう呟いて、歩き出す。

考えが、勝手に戻ってくる。

裏切り。

もう二度と同じにはならない視線。

やってもいないことの重さが、なぜか俺の肩に乗っている。

怒りがあった。

爆発するようなものじゃない。

静かで、重たい怒り。

足音がした。

後ろじゃない。

前だ。

路地の奥に、ひとつの影が現れる。

男……のように見えた。

暗いコートに、茶色のマフラー。

両手はポケットの中。

何もおかしくない。

どこにでもいそうな姿だった。

視線が合った瞬間、寒気が走る。

冬の冷たさじゃない。

内側から凍りつくような感覚。

男の目が、変わった。

派手な変化じゃない。

光ったわけでも、歪んだわけでもない。

――壊れた。

薄い氷に圧がかかったように、色が失われ、無視できないひび割れの模様が浮かび上がる。

考えるより先に、身体が動いた。

走った。

衝撃。

殴られ、壁に叩きつけられる。

肺から空気が抜け、

腕に切り傷。

次の瞬間、脇腹にも痛み。

雪が、あまりにも早く赤く染まっていった。

動きは正確で、無駄がなかった。

叫ぶことも、迷うこともない。

一撃一撃が、確実に殺しにきている。

――ここで終わりか。

そう思った。

その瞬間……

俺の影が、動いた。

目では見えなかった。

だが、確かに感じた。

何かが足元から生まれ、背中を這い上がってくる。

まるで、反射が――

今まで無視していた規則を、勝手に破ったかのように。

襲ってきた男が、初めて後ずさった。

あの目――氷のような目が、驚きに見開かれる。

次の瞬間、頭の中で痛みが弾けた。

膝をつく。

身体が震える。

血は流れ続けているのに、寒さを感じない。

……いや、ほとんど何も感じなかった。

ただ、ひとつの存在だけがあった。

近い。

近すぎる。

「遅かったね」

声がした。

空気を震わせたわけじゃない。

俺の中で、直接響いた声だった。

「……な、に……?」

そう言おうとしたが、声にならなかった。

目の前の『それ』が歪む。

何か、見えないものが貫いた。

乾いた衝撃音。

湿った音。

――そして、静寂。

顔を上げたとき、路地は空っぽだった。

残っていたのは、雪と、血と……俺だけ。

壁に背中を預ける。

息をするだけで、ひどく痛んだ。

声が、また聞こえる。

女性の声。

落ち着いていて……どこか満足そうな響き。

「それは、君を喰おうとしていた」

目を閉じた。

「……お前は、誰だ」

自分のものじゃない『笑み』の気配を感じる。

「今は、どうでもいい」

そう言って、声は続けた。

「大事なのはね……君が今、気づいてしまったってこと」

「都市伝説だと思っていたものが――

本当は、ちゃんと『ある』って」

俺は目を開いた。

すすきのは、まだ数本先の通りにある。

ネオンは消えていない。

街は、変わらず生きていた。

それでも――

俺の影は、もうただの影じゃなかった。

そして、決して俺だけのものでもない。

札幌の冬よりも冷たい確信が、胸に落ちる。

――あの夜を境に、俺の日常は、確実に壊れてしまったのだと。

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