6
高台の屋敷の一室は、日が昇っても薄暗かった。
カーテン越しの弱い光が床をかすめ、
古いスピーカーのジャズがゆっくりと部屋を巡っていく。
サイラス・ヴァーンは窓際で静かに街を眺めていた。
夜が明けても何も変わらない街。
死体が一つ増えようと、朝は平然と動き始める。
そんな街だった。
机にはノートが開かれ、
淡々とまとめられた報告書が置かれている。
――店主の処理は完了。
だが、最後に一言。
“頭部に外傷がありました”。
サイラスはその行を見つめたまま、
椅子に腰を下ろした。
「外傷は残すなと……伝えたはずだが」
怒りはない。
むしろ淡々とした確認だった。
しかし、その静けさが部屋の温度を確実に下げた。
余計な痕跡は推測を呼ぶ。
推測は線となり、線は余計な人間を引き寄せる。
仕事は“歪みのない形”で終わっていなければならない。
サイラスは万年筆を手に取り、
ノートの別のページを開く。
ペン先が紙に触れ、
一つの名前を書く。
――Reed
筆圧は均一。
乱れも迷いもない。
書き終えた指先が、
机横に立てかけられた古い本の背表紙に触れた。
擦れて色の剝げたその本には、
長く持ち歩かれた跡が残っている。
サイラスは机の右隅に置かれた小さな銀のベルを手に取った。
軽く鳴らす。
澄んだ音が部屋の静けさを割った。
一拍置いて、
扉の向こうで足音が近づいてくる。
やがて、控えめなノック。
「……サイラス様。お呼びでしょうか」
「入って構いません」
扉が開き、
若い部下が緊張した面持ちで姿を見せた。
サイラスは机から目を離さずに言った。
「リードを呼んでください。
少し話があります」
「は、はい……ただちに」
部下は深く頭を下げ、
足早に廊下へ消えていった。
扉が閉まると、
再び部屋にはジャズの音だけが残った。
サイラスは窓の外を見ながら、
ノートの“Reed”の文字を指先で軽く叩いた。
「……精度を欠く者が増えると、
この街の均衡は崩れます。
修正が必要ですね」
呟きは静かで柔らかい。
しかし、その声に救いは一切なかった。
やがて、階段を上がる足音が響いてくる。
足取りは重く、迷いを帯びていた。
その音だけで、誰が来たのか分かる。
扉の前で足音が止まり、ノックが鳴る。
「……サイラス様。リードを……お連れしました」
サイラスはページを閉じ、
椅子の背にもたれながら言った。
「入ってください」
ジャズが流れ続ける部屋へ、
静かに扉が開かれた。
扉がゆっくりと開き、
リードが部屋へ足を踏み入れた。
サイラスは椅子に座ったまま、
窓の外へ視線を向けている。
背筋はまっすぐで、微動だにしない。
「……し、失礼いたします。サイラス様」
リードの声は、
その場の空気に押し潰されそうに弱かった。
「お座りなさい」
サイラスの声は柔らかく、一定だった。
リードは言われた通りに椅子へ座ったが、
姿勢はぎこちなく、膝の上の手は強張っていた。
サイラスは数秒、無言のまま彼を見た。
その沈黙だけで、リードの喉は鳴り、呼吸が乱れる。
「昨夜の仕事について……少し伺いたいのですが」
「は、はい……」
サイラスはノートを開き、
昨日書いた“Reed”という文字に目を落とした。
「店主の件ですが――
私は“外傷を残すな”と伝えましたね」
「か、かしこまっております……」
「では、どうして頭部に痕が残ったのでしょう」
声は平坦。
怒りの色はなく、事実を確認するだけの口調。
それがリードの恐怖を倍増させた。
「そ、それは……あの……
海に落とす時に……岩に……」
「岩に?」
「はい……ぶつかったのでは……と……」
サイラスは軽く首を傾けた。
その仕草だけで、リードの肩が震えた。
「では、一つ伺います。
あなたは……店主をどちら側から落としたのでしょう」
「……え……?」
「報告書のの位置から見ると岩場は左側です。
しかし遺体の外傷は“右後頭部”にありました」
リードの顔から血の気が引いた。
サイラスの声は一切変わらない。
「偶然では説明がつきません。
あなたは……意図的に傷をつけたのでは?」
「そ、そんなことは! 私は……私は……!」
「落ち着きなさい。
私は怒ってはいませんよ」
リードは震えながら俯いた。
怒っていない――
その言葉こそが恐怖だった。
「あなたは、店主を殴りましたね?」
「……っ……」
沈黙。
リードの喉が詰まる。
サイラスは視線をリードから外し、ノートへ視線を落とした。
「……申し訳、ございません……」
「謝罪は結構です。
必要なのは“理由”です」
再びリードを見つめる。
「あなたは……なぜ彼を殴ったのです?」
その問いには逃げ場がなかった。
「……あいつが、舐めた態度を……
自分を見下すような……
自分が、あんなやつの言葉で……」
「“感情”ですか」
サイラスの声が、わずかに低くなった。
「……そう、なのかもしれません……」
サイラスは目を伏せ、ゆっくりと呼吸をした。
「リード。
あなたは……組織の仕事を、まだ理解していないようだ」
「……はい……」
「私たちの仕事は“私情”では動きません。
感情で傷をつけ、
感情で殺し、
感情で乱せば――
遺体は語ります」
静かな声に、リードの体が硬直した。
「語る遺体は、こちらに不利をもたらします。
そして……街の均衡を乱します」
サイラスは立ち上がった。
リードは反射的に身を縮める。
サイラスは机の端にある古い本を手に取り、
表紙を軽くなぞった。
「私は、秩序を守りたいだけです」
その言葉の意味は深いが、
サイラスは何も説明しない。
本を静かに置くと、
リードへ振り返った。
「さて……リード。
あなたの“仕事の誤差”について、
どうやって改善すべきか……考えています」
「……サイラス、さ……」
「安心してください。
あなたを罰するのは、私ではありません」
リードの顔が困惑と恐怖でゆがむ。
「この街が、あなたを罰します――
精度の乱れは、必ずどこかで跳ね返る」
サイラスは微笑みすら浮かべ、
ベルを軽く鳴らした。
部屋の外に待つ2人の部下がすぐに現れる。
「リードを部屋で休ませてあげてください。
今は、冷静さが必要でしょう」
「……かしこまりました」
部下たちはリードの両腕をそっと掴み、
抵抗できないまま連れ出していった。
サイラスは扉が閉まり、
ジャズだけが再び流れ始める部屋に一人残った。
「……精度を欠く者を置けば、
いつか街が崩れる」
◆
リードが部屋から連れ出され、
静寂が戻った屋敷の一室。
サイラス・ヴァーンはベルを一度だけ鳴らし、
扉の外に立つ部下へ声をかけた。
「……車の準備をお願いします。
行きたい場所があります」
数分後、
サイラスは黒い車に乗り込み、
街の裏通りへと下っていった。
街の中心から離れるにつれ、
建物の古さは増し、
舗装も途切れ、
雑多な路地が入り組んでいく。
その一角に、
少年ギャングたちのたまり場となっている廃倉庫がある。
車が停まると、
入口にいた少年たちの表情が一変した。
「……サ、サイラスさん」
一瞬警戒の色が走り、
次の瞬間には背筋を伸ばし、
緊張した顔で道を開ける。
サイラスは軽く会釈を返し、
倉庫の奥へと歩いた。
◆
奥のソファに座っていた少年が立ち上がった。
この小さな非合法組織のリーダーであり、
サイラスに心酔している少年だ。
「来てくれるなんて……珍しいですね、サイラスさん」
「ええ。あなたにお願いしたいことがありまして」
柔らかい声。
だが少年はその声の奥にある“本気”を聞き取っていた。
「……誰ですか?」
サイラスは微かに微笑し、
ノートから一枚の紙を取り出した。
そこには一つの名だけが、丁寧な字で書かれている。
――Reed
少年の目が紙へ落ち、
すぐに意味を理解した。
「……組織の方、ですよね」
「はい。
ただ、彼は……少し“精度”を欠いてしまいました。
なのでしかるべき時に退場していただきたいのです。」
淡々とした言い方だが、
そこには容赦がなかった。
「処理は……自然に?」
「外傷は問いません。
時間をかける必要もありません。
“いなくなる”だけで十分です」
少年は静かに頷く。
「分かりました。
サイラスさんの仕事の邪魔をする人間はいらない……
そういうことですね」
「ええ。
街の秩序を保つために、
小さな綻びは早めに摘まなければいけません」
少年はサイラスから紙を受け取ると、
その名をじっと見つめた。
恐れはない。
ためらいもない。
サイラスの前では、
ただ“役割”をこなすだけの顔になる。
「サイラスさん。
彼は……どこにいます?」
「尾行ですか…部下に案内させましょう」
少年はコートを羽織りながら言った。
「サイラスさんが整える街……
俺たちも、その中に入れてください」
その言葉に、
サイラスは穏やかに微笑んだ。
「もちろんです。
あなたたちには未来があります。
だからこそ、託せるのです」
少年はわずかに目を細めた。
誇りと高揚が混じった表情。
「……任せてください。
完璧にやります」
「タイミングは追って伝えます
それと、期待していますよ」
サイラスは軽く頭を下げ、
ゆっくりと倉庫を後にした。
建物の外に立つと、
彼の表情は最初の無表情へ戻る。
「……綻びは許容できません。
この街を整理するために」
ぼんやりとジャズの余韻のような言葉を残し、
サイラスは再び車へ乗り込んだ。
少年ギャングたちはすでに動き出していた。
リードの物語は、もう決まっていた。




