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夜が終わりかけていた。
漁港の灯りはまだ点いたままで、
濡れたコンクリートが早朝の光を反射している。
船のエンジンが低く震え、
作業員たちが眠気の残る足取りで動き始めていた。
その中で、一人が突然足を止めた。
「……おい、あれ見ろよ」
防波堤の先。
水面に黒い塊が浮いていた。
波の上下とは別のリズムで揺れ、
ゆっくり岸へ吸い寄せられるように近づいてくる。
「箱じゃないな……形が……」
「……やべぇ、あれ人じゃないか?」
一瞬でざわめきが広がり、
作業員たちが防波堤に集まった。
「おい、警察……呼んでこいよ」
「いや、こんなん朝一で警察呼ぶのか……?」
判断に迷っているようだった。
そのとき――
港の奥から、疲れ切った足音がした。
ロングコート。
目は赤く、寝ていないのがわかる。
ハーディン・クロウが坂道を降りてきた。
明け方まで別件の調査をして帰るつもりだった。
ただ港が近かっただけ。
何の目的もなく、ただ歩いてきただけだ。
だが、クロウは人だかりを見て眉をしかめた。
「朝からずいぶん集まってるな。何だ」
「く、クロウさん……ちょうど……いや、ちょうどじゃねえけど……」
「どうかしたか?」
作業員が指を震わせて海を示した。
「多分……人が、浮いてます」
「なんだと。見せろ」
クロウはゆっくり防波堤へ近づいた。
黒い影はもう手を伸ばせば届く距離にあった。
「引き上げるぞ。
そっちの腕を頼む」
「お、おうっ!」
クロウは靴を脱ぎ、
ズボンの裾を折って海に入った。
潮で冷えた水が腰まで上がる。
この時期の海は冷たく肌を突き刺す冷たさだ。
死体は重かった。
海水を吸って、まるで石のようだ。
「いっせーの、でだ」
三人がかりで力を入れ、
死体は濡れた床にずるりと押し上げられた。
クロウは呼吸を整えて、顔を確認した。
一拍遅れて、作業員が呟く。
「……あれ……港の店、やってたオヤジじゃ……?」
「ああ」
クロウは表情を変えず言った。
後頭部にだけ小さな凹み。
血の固まりは最小限。
他の部位に傷はない。
財布も鍵もそのまま。
抵抗した形跡もない。
「……事故じゃねぇな」
静かに言った。
作業員たちは息を呑んだ。
「事故じゃ……ねえんですか?」
「事故にしては頭の傷が自然じゃねぇ」
濡れた床に、死体の髪から滴が落ちる。
クロウはポケットからスマホを取り出し、
登録名を押した。
数コールで、
しかつめらしい声が出た。
『……誰だよこの時間に……』
「俺だ。港で店主が死んでる。海からだ」
『……は? あの店のオヤジか?』
「そうだ。後頭部一撃。抵抗なし。
財布もそのまま。整えられてる」
ハンクはしばらく黙った。
静かな沈黙だったが、
その裏で舌打ちする気配が強く伝わった。
『クソ……マジで最悪な朝だ。
警察はどうせ“事故”扱いだ。動きたがらねぇ』
「分かってる」
『今から行く。……十五分かかる。
触るなよ。絶対だ。』
「そこは信用していい」
『……お前の“信用”ほど信用できねぇ言葉もねぇんだよ……』
その愚痴で、ハンクが本気で心配してることが分かる。
クロウは通話を切り、
もう一度死体を見下ろした。
「…落ち着かねぇな」
誰に向けた言葉でもなく、
ただ港に向けて落とした。
作業員たちは黙って海を見ていた。
朝の光は、
静かに街の端へ広がり始めていた。
作業員たちが距離をとる中、
クロウは死体の周囲をゆっくり歩き、
濡れた床の状態や、流れ着いた角度を確認していた。
十五分ほど経った頃、
港の奥から荒い足音が響いた。
「おいクロウ! 本当に触ってねぇだろうな!」
声が近づき、
息を弾ませた大柄な男が姿を現した。
ハンクだった。
シャツはシワだらけ、
ネクタイは結んでるだけマシという状態。
寝癖を無理に抑えつけた跡が残っている。
「……今日に限って遠い駐車場しか空いてなかったんだよ。
お前、ほんとタイミング悪いんだよな……」
「こっちも選んで呼んでるわけじゃない」
クロウが淡々と返すと、
ハンクは「はいはい」と手を振りながら死体へ近づいた。
しゃがみこみ、後頭部を確認する。
髪を押し分け、眉をひそめた。
「……一撃だな。
殴り殺したにしては……妙に綺麗だ」
「そうだな。
抵抗も、揉み合った跡もない」
「警棒でもねぇな。形が違う。
丸いもんで“正面からじゃなくて後ろ”……」
ハンクは視線を死体の足元へ移した。
「靴も新品みたいに綺麗だ……
誰かが整えたって感じか」
「俺も同じ考えだ」
ハンクは立ち上がり、港を見渡した。
船のエンジン音。
箱を運ぶ作業員。
普通の朝。
しかしその普通の朝に、
異物のように死体が転がっている。
「……警察はどうせ動かねえ。
署に連絡したら、
“自然死か事故で片付けたい”だとよ」
「想定通りだ」
「お前……もう慣れちまってるだろ。
そういう反応するなよ、たまには驚け」
ハンクはぼやきながら、
クロウに目だけ向けて言った。
「……で、どう見る?」
「後頭部だけ殺して、
他は何も触らず、
財布も奪わない。
ただの喧嘩でも盗みでもない」
「だな」
「まぁ…消されたんだろうな」
クロウが言うと、
ハンクは苦い表情をして言った。
「……ああ。
この店主、最近見慣れないやつと関係を持ってたらしい
タイミングが良すぎる」
「署でも噂になってた。
“何を運んでるのか”ってな」
ハンクはため息をつき、コートのポケットから小さな手帳を取り出す。
「……クロウ、後で署に来い。
外の連中の動きについて、上から来てる資料がある。
お前にも見せた方がいい」
「ようやく動く気になったか」
「違ぇよ。
上が“動かせないからお前が見ろ”って押し付けてきたんだよ。
マジで使えねぇ連中だ……」
ハンクは頭を掻いて、死体を見下ろした。
「……クロウ」
「なんだ」
「こういう死体、増えるぞ。
嫌な波が来てる」
「知ってる。
だからここにいる」
ハンクは肩を落としながら、
しかしどこか安心したように笑った。
「……ほんと、お前が探偵でよかったよ。
警察にはもうこういうの、無理だ」
クロウは何も返さなかった。
港の朝日は薄く広がり、
濡れた床に鈍い光を伸ばしていた。




