岩倉の落日
清洲城の天守から尾張の平野を見下ろした時、俺の頭にあったのは勝利の余韻ではなかった。
(モメンタムだ)
ビジネスでも、戦争でも、流れ、勢い、すなわち「モメンタム」こそが全てを支配する。一度掴んだ流れは、決して手放してはならない。ここで一息つき、戦後処理などという悠長なことを始めれば、掴んだ流れはすぐに停滞し、敵に反撃の機会を与えるだけだ。
俺の視線は、清洲のはるか北西、岩倉城へと向いていた。
尾張上四郡を支配する、もう一人の守護代・織田伊勢守家。それが、この尾張市場に残された最後の、そして最大の競合企業だ。
俺は休む間もなく、清洲城の大広間に俺の経営チームを招集した。連戦の疲れと勝利の高揚感が入り混じった彼らは、論功行賞の話でも始まると思っていたことだろう。俺が口を開くまでは。
「全軍、ただちに再編する。これより、岩倉城を攻める」
広間が、水を打ったように静まり返った。
最初に口を開いたのは、案の定、柴田権六だった。
「若! 正気でございますか! 兵は疲弊しきっております! まずはこの清洲を完全に掌握するのが先決かと!」
旧来の武将らしい、正論だ。だが、それは凡人の戦術論でしかない。
しかし、俺の隣に立つ片目の軍師・山本勘助は、その目をらんらんと輝かせていた。
「…面白い。いや、これ以上ない妙手でございますな。岩倉の者どもは、まさか我らが即座に動くとは夢にも思うておりますまい。彼らが清洲の敗報に怯え、対策を練り始める前に叩く。これぞ電撃戦の極意」
島左近は、槍を握りしめ、「俺は、まだ戦えますぞ」と獰猛に笑う。
俺は、権六に向き直った。
「権六、ビジネスチャンスは一瞬だ。岩倉は今、清洲が落ちた報せに混乱している。『次は自分たちの番か』『いや、まさかすぐには来るまい』とな。この心理的な動揺こそが、奴らの最大の弱点だ。兵の疲れなど、圧倒的な勝利で吹き飛ばしてやればいい」
そして、俺は全軍に宣言した。
「そもそも、今回の戦は斯波様を殺されたことへの弔い合戦だ。その義戦に馳せ参じなかった織田伊勢守家もまた、逆臣・信友に与したも同然! 正義の鉄槌を下すのに、休息などいるか!」
完璧なPR戦略だ。兵たちの間にわずかに残っていた疲れは、新たな「正義」という名の熱狂に掻き消されていった。
俺は、清洲で降伏した兵も組み込んで再編した三千の軍勢を率い、嵐のように岩倉へと進軍を開始した。
俺の読み通り、岩倉方は完全に虚を突かれていた。
月影衆からの報告によれば、城下は混乱の極み。兵の動員もままならず、防衛計画すらまとまっていなかったという。俺たちが城下に到達した時、彼らは慌てて城門を閉ざすのがやっとだった。
「もはや、戦略は不要だ」
俺は全軍に命じた。
「ただ、蹂躙せよ」
山本勘助が立てた攻城計画は、シンプルかつ苛烈だった。
島左近と柴田権六を両翼の主将とし、競争させるように東西の城門から同時に攻めかからせる。俺が育てた鉄砲隊が城壁の上の兵を的確に撃ち抜き、その援護の下、兵たちが鬨の声を上げて城壁に取り付いた。
準備不足の敵に、勢いに乗る俺の軍勢を止める力はなかった。
「申し上げます! 藤林様の手勢が、城内に火を放った模様!」
決定打だった。藤林長門守率いる月影衆が、混乱に乗じて城内に忍び込み、天守近くの兵糧庫に火を放ったのだ。黒煙が上がると、城兵の士気は完全に砕け散った。
戦いは、たった一日で決着した。
織田伊勢守信安は、燃え盛る城の中で一族郎党と共に自刃。
こうして、尾張から俺に逆らう勢力は、名実ともに消滅した。
清洲城を落としてから、わずか三日後のことだった。
燃え落ちる岩倉城を背に、俺は尾張の空を見上げた。
親父・信秀の死を待たずして、俺は俺の力で、この尾張市場を完全に独占した。
「株式会社・織田ホールディングス」の、完全なる事業承継の完了だ。
ようやく、スタートラインに立てた。
この統一された尾張を新たな資本として、俺は次の市場…天下獲りへと乗り出す。
社内の反対勢力(弟の信勝)をどう始末するかという、最後の社内整理は残っているが、それも、もはや時間の問題だった。