二つの大動脈
近江の六角がたった一日で滅んだ報せは、京に巣食う三好三人衆にとって、もはや死刑宣告に等しかった。
俺の十万の軍勢は、その六角の拠点であった観音寺城で、僅かな休息を取るだけで、すぐに京へと進発した。
(馬鹿どもめ。俺が京までたどり着くには、まだ時間がかかるとでも思っていたか?)
俺は、三好三人衆の甘い見積もりに、内心で嘲笑していた。
当然、三好三人衆は、戦う気など起こさなかった。
俺の軍勢が、まるで黒い津波のように京に迫る頃には、彼らはすでに、京の都から逃げ出していた。畿内の領土は全て捨て置き、阿波の本拠地、四国へと落ち延びていったという。
(それでいい。無駄な血は流したくない。俺の目的は、敵を滅ぼすことではない。天下という市場を、俺の秩序で統一することだ)
最も効率的な「無血開城」。これが、俺の望んだ結末だった。
永禄9年(1566年)、九月。
俺の軍勢は、整然と京の都へと入城した。
市中に混乱はなかった。むしろ、俺の旗印…木瓜紋と、足利義昭の二つ引両の紋が京の街を埋め尽くす光景に、民衆からは歓喜の声さえ上がったという。
長年、三好や松永といった武闘派大名たちの間で翻弄され、疲弊しきっていた京の都は、ついに俺という新しい支配者を得たのだ。
俺は、足利義昭を奉じて、御所へと向かった。
天皇陛下への謁見。そして、将軍宣下の儀。
永禄九年九月二十九日。
足利義昭は、正式に室町幕府第十五代将軍に就任した。
「ははは! 信長殿! やりましたぞ! この義昭、ついに将軍の座に就きましたぞ!」
上機嫌な義昭は、満面の笑みで俺の手を取った。その顔は、まるで子供のように純粋な喜びに満ちていた。
(この男は、まだ、自分がただの「商品」であることすら理解していない。だが、それでいい。今は、この喜びが、俺というブランドイメージを最大限に高めてくれる)
俺は、義昭のその高揚感を、存分に利用することにした。
将軍就任の祝宴の席で、義昭は、上機嫌な表情で俺に問うた。
「信長殿。この義昭が将軍となれたのも、偏に貴殿の力あればこそ。何か、望む褒美はあるか? この義昭に言え。天下に聞こえる名誉も、豊かな領地も、望むがままに与えようぞ!」
家臣たちは皆、俺が摂津一国か、あるいは近江の守護職を望むだろうと、固唾を飲んで見守っていた。
だが、俺が望むのは、そんな旧時代の遺物ではない。
「将軍様。某が望むは、二つにございます」
俺は、静かに答えた。
「一つは、堺の支配権。もう一つは、銭の鋳造・発行権にございます」
その場にいた全ての者が、俺の言葉に息を呑んだ。
堺。
それは、日本最大の自由都市であり、全国の富が集まる、日本の心臓部たる商業都市だ。その支配権を要求するとは。
そして、銭の鋳造・発行権。
それは、国家の経済そのものを支配する権利に他ならない。
義昭は、一瞬、戸惑った表情を見せた。だが、将軍になったばかりの彼には、俺に逆らう理由も、その要求の持つ真の意味を理解する知恵もなかった。
「…うむ。堺か。銭の鋳造か。分かった。信長殿の功に免じ、望み通り与えようぞ!」
義昭は、上機嫌でそう宣言した。
家臣たちは、俺の思惑が読めず、ざわめいた。だが、明智光秀だけは、俺の隣で、その涼やかな瞳の奥に、深い理解と、畏怖の色を宿しているのが見て取れた。
(よろしい。これで、全て手に入れた)
俺は、高らかに笑った。
これで俺は、陸と海の制海権、そして金山と、この二つの新たな「キャッシュエンジン」を手に入れた。
堺という、日本の経済の大動脈を直接支配する権利。
そして、日本経済の血流そのものを、俺自身がコントロールする権利。
旧時代は、領地の広さで天下を争った。だが、俺が創る新しい時代は違う。
銭が、天下を動かす。
俺は、京の都の、最も高い場所から、この天下を見下ろした。
将軍を擁し、権威という最高のブランドイメージを手に入れた。
陸と海、全ての物流ルートを支配し、国家経済の心臓を握った。
これより先、俺の天下布武は、加速する。
誰も、俺を止めることはできない。




