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脱出劇

京の都が、主君殺しの血で穢された頃。

その南、古都・奈良の興福寺一乗院に、一人の僧がいた。名を、覚慶かくけい。殺された将軍・足利義輝の実の弟。

彼は、兄の非業の死を伝え聞いても、ただ経を唱えることしか許されなかった。その実態は、三好三人衆の監視下にある、高貴な囚人。次に殺されるのは、自分かもしれない。そんな恐怖の中で、彼は無力に日々を過ごしていた。

だが、闇の中にも、光はあった。

亡き将軍・義輝は、決して無策ではなかったのだ。彼は自らの死を予感し、最後の策を打っていた。

「…今宵、決行する」

興福寺の片隅で、二人の武士が声を潜めていた。

一人は、細川藤孝ふじたか。もう一人は、その兄である三淵藤英みつぶち ふじひで。二人とも、亡き義輝が最も信頼した、幕臣中の幕臣だった。

彼らの胸には、生前の義輝から託された密命が刻まれていた。

『もし、儂の身に万一のことがあれば、弟の覚慶を必ず脱出させよ。あやつこそが、足利の血を継ぐ、最後の希望である』

計画は、用意周到に進められた。三好方の監視網に巧妙な偽情報を流し、警備に一瞬の隙を作る。

その夜。

三淵・細川兄弟を中心とする十数名の決死隊は、僧に変装して寺に忍び込んだ。

「覚慶様! お迎えに上がりました! 亡き公方様の、ご遺命にございます!」

覚慶は、闇の中から現れた忠臣たちの姿に、涙を流した。

脱出は、壮絶を極めた。

三好方の追っ手を、決死隊が命を賭して食い止める。闇夜に響く怒号と、剣戟の音。その全てを背に、覚慶はただ前へ、光へと走った。

彼らは、かろうじて大和の国を脱出し、近江の豪族の元へと転がり込んだ。

こうして、殺されたはずの足利将軍家の血脈は、奇跡的に生き延びた。

次期将軍候補という、日本で最も価値のある**「神輿みこし」**が、野に放たれた瞬間だった。

将軍殺害と、その弟の脱出。

二つの報は、全国の大名たちを激しく揺さぶった。

甲斐・武田信玄

「将軍が死んだか。これで、京の重しは消えたな」

躑躅ヶ崎館でその報を聞いた信玄は、むしろ好機と捉えていた。

「義理だの、幕府の威光だの、うるさいことを言う者がいなくなったわ。今こそ、長年邪魔であった今川を叩き、駿河を手に入れる絶好の機会よ」

京の混乱など、他人事。彼は、このパワーバランスの崩壊を、自らの領土拡大のために最大限利用しようとしていた。

越後・上杉謙信

「三好の逆賊どもめ…! 天に代わって、誅してくれる!」

春日山城の謙信は、義憤に燃えていた。

秩序と正義を重んじる彼にとって、将軍殺害は許しがたい暴挙。だが、背後には宿敵・武田が控え、関東の情勢も不安定だ。今すぐ京へ駆けつけられない自らの立場に、彼は歯噛みしていた。

安芸・毛利元就

「…また、京は荒れるのう」

老獪な西国の覇者は、吉田郡山城で静かに呟いた。

「将軍という御旗が消えた。これより先、西国は西国で、儂が法となり、秩序となる他あるまい」

彼は、中央の混乱が自領に及ぶのを警戒し、守りを固めることを選択した。天下よりも、足元の安泰。それが、彼の現実的な判断だった。

越前・朝倉義景

「ふむ…公方様の弟君が、助けを求めておられる、と。我が朝倉家は、足利家とは縁の深い間柄。無下にはできまい」

一乗谷の館で、義景はそう言って公家と和歌を詠むばかり。覚慶(後の義昭)が最初に頼ったのが、この男だ。最高のカードを手に入れたというのに、何一つ具体的な行動を起こす気配がない。

(名門という過去の遺産に胡坐をかくだけの男よ。最高のビジネスチャンスを目の前に、リスクを恐れて何もしない。宝の持ち腐れとは、まさにこのことだ)

豊後・大友義鎮(宗麟)

「京はまた荒れておるのか。それより、ポルトガルとの新しい交易はどうなっておる? 鉄砲と硝石は、いくらあっても足りぬぞ」

九州の覇者は、遠い海の向こうを見ていた。彼の関心は、中央の政変よりも、宿敵・島津との戦いと、南蛮貿易がもたらす莫大な富。将軍の死は、彼のビジネスモデルに直接的な影響を与えない、ただのニュースに過ぎなかった。

(賢明な判断だ。奴は、俺とは違う盤上で、違うゲームをしている。当面の競争相手コンペティターではない)

近江・六角承禎

「将軍が死んだだと? これで、京への道を指図する者はいなくなったわ! 我ら六角こそが、日の本の中央よ!」

観音寺城の老獪は、自らの価値が上がったと勘違いしている。京への街道を塞ぐ、ただの時代遅れの関所。自分が、新時代の高速道路を建設しようとしている俺にとって、いずれ撤去すべき障害物でしかないことを、まだ理解していない。

(せいぜい、今のうちに通行料で稼ぐがいいさ。お前の寿命も、そう長くはない)

摂津・本願寺顕如

「…仏法の敵が、また一人減りましたな」

石山本願寺の主は、静かにそう呟いたという。

彼にとって、世俗の権威である将軍など、自らの教えを広める上での障害でしかない。秩序が乱れれば乱れるほど、救いを求める民は、彼の寺の門を叩く。

(こいつは、他の連中とは違う。信仰という名の、巨大なフランチャイズのオーナーだ。俺の目指す中央集権国家ピラミッドとは、根本的に相容れない、別の秩序システムを築こうとしている。最も危険で、最も厄介な、潜在的な敵だ)

彼らは皆、動けない。

あるいは、動く気がない。

誰もが、この日本の危機的状況を、自らの利益のためにどう利用するかしか考えていない。

岐阜城の俺の元には、これら全て、全国津々浦々の情報が、月影衆によってリアルタイムで届けられていた。

俺は、それらの報告書を静かに机に置くと、壁の日本地図を見上げた。

(面白い)

将軍は死に、その弟は助けを求めて諸国を放浪している。

東の虎も、北の龍も、西の謀神も、誰もが自分の領地のことしか見ていない。

この国の中枢に、ぽっかりと巨大な「権力の空白」が生まれている。

(最高の、ビジネスチャンスだ)

この巨大な権力の空白を、最初に埋めた者が、次の時代の覇者となる。

そして、そのための最高の「商品」…覚慶という名の、正統なる神輿は、今まさに売り出し中だ。

俺は、明智光秀を呼び寄せた。

「十兵衛。すぐに、覚慶殿と接触しろ」

「…と、申しますと?」

「決まっているだろう」

俺は、地図上の、京の一点を、力強く指差した。

「この織田信長が、覚慶殿を奉じて京へ上り、天下に巣食う逆賊どもを討ち果たす、と。そう伝えるのだ」

「『天下布武』の、本当の始まりを、告げに行くぞ」

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