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始まり

赤子の牢獄」からの脱出は、存外あっけなかった。

生後八ヶ月で高這いを始め、一歳になる頃にはおぼつかないながらも自らの足で立った吉法師の肉体的成長は、周囲から見れば「やや早い」という程度だった。

ある日、信秀は庭で遊ぶ吉法師を呼び寄せ、試すように自らの前に座らせた。周囲には、織田家の重臣たちが並んでいる。

信秀は、側にあった尾張国の地図を広げた。まだ大雑把な、勢力圏を示す程度のものだ。

「吉法師、この尾張で、一番強いのは誰ぞ」

家臣たちが固唾を呑んで見守る。これは子供への戯れの問いではない。信秀の跡継ぎとしての器量を、家中に示すための試験だった。

聡の意識を持つ吉法師は、逡巡しなかった。小さな指で、地図の中央、那古野城を力強く指し示す。

「ちちうえ。いまは」

そして、その指をすっと動かし、東の三河、北の美濃を指した。

「しかし、こちらと、こちらの敵が、ちちうえを狙っておる。川を越えてくる。兵糧は、港から」

言葉は途切れ途切れだが、意味は明確に伝わった。地政学的なリスクと、経済(兵站)の重要性を、この幼児は理解している。

信秀は、それまでの愉快そうな表情を消し、我が子を真剣な目で見つめた。そして次の瞬間、腹の底から湧き上がるような大音声で笑い出した。

「わっはっはっは! 見たか、聞いたか! さすがは俺の子じゃ! 天は俺に、麒麟児きりんじを授けてくださったわ!」

信秀の豪快な笑い声が、那古野城に響き渡った。

この日を境に、吉法師は「神童」として、織田家中で特別な存在となっていった。

だが、その非凡さを、誰もが好意的に受け止めたわけではない。

母・土田御前は、日に日に人間離れしていく我が子に、愛情よりも畏怖を抱くようになっていた。そして、傅役の平手政秀は、信秀とは違う意味で、吉法師の存在に危機感を覚えていた。

ある夜、政秀は二人きりになれる部屋に吉法師を招き、人払いをした。三歳になったばかりの吉法師は、小さな身体に似合わぬ落ち着きで、老獪な傅役の前に座っていた。

「若様」

政秀は、探るような目で切り出した。

「近頃、若様が口にされる言葉…治水のこと、銭の流れのこと、南蛮渡来の鉄砲のこと。それは、どこでお知りになられたのですか」

「…書を読んだ」

「まだ誰も教えておらぬ文字を、でございますか」

政秀の追及は厳しい。聡は観念した。この男は誤魔化せない。ならば、味方に引き込むしかない。これは、前世で幾度となく経験した、手強いクライアントとの最初の交渉だ。

じい

吉法師は、政秀を真っ直ぐに見つめて言った。

「わしは、時々、夢を見る」

「…夢、にございますか」

「うむ。見たこともない町、鉄の馬が走り、空には鉄の鳥が飛ぶ。争いのない、豊かな世の夢じゃ。その夢の中で、わしは多くのことを学ぶ」

これは、賭けだった。物の怪憑きと断じられれば、この場で斬られてもおかしくない。

政-秀は、しばらくの間、目を閉じて沈黙していた。部屋には、蝋燭の炎が揺れる音だけが満ちていた。やがて、彼はゆっくりと目を開き、深く、深く頭を下げた。

「…天が、若様をこの尾張にお遣わしになったのでございましょう。その『夢』、この平手政秀、生涯を懸けてうつつのものとすべく、お力添え仕ります」

聡は、心の中で安堵の息をついた。最強の後見人を、手に入れた瞬間だった。

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