墨俣の一夜城
美濃攻略プロジェクトは、情報戦という名の第一段階を終えた。内部に「寝返り」という名の時限爆弾を仕掛けた今、いよいよ本格的な軍事侵攻…すなわち、敵対的TOB(株式公開買付)のフェーズへと移行する。
だが、俺のやり方は、ただの大軍を送り込むような、旧時代のそれとは違う。
「全軍、出陣! 目指すは中美濃、猿啄城!」
俺は、清洲城に集結させた一万五千の本隊を率い、大々的に太鼓や法螺貝を鳴らしながら、尾張から美濃の中心部へと進軍を開始した。
この動きに、稲葉山城の斎藤義龍は、面白いように食いついてきた。
『織田信長、本隊を率いて中美濃へ! 全軍、これを迎え撃て!』
月影衆が掴んだ敵の伝令は、俺が望んだ通りの内容だった。
(馬鹿め。派手な花火を打ち上げれば、そちらに気を取られる。その隙に、俺は裏口からお前の金庫をいただくぞ)
俺が率いる本隊は、あくまで陽動…敵の目を引きつけるためのデコイだ。
本当の主役は、北伊勢に密かに集結させていた、もう一つの部隊。
丹羽長秀と島左近が率いる、五千の精鋭。彼らこそが、この作戦の心臓部だった。
俺が中美濃で派手な示威行動を繰り広げている、まさにその裏で。
丹羽たちの部隊は、音もなく北伊勢から長良川を遡上し、美濃国内の無警戒な地点…羽島へと上陸。そして、驚異的な速度で、そこに前線基地となる城を築き上げた。
これは、敵の懐に打ち込んだ、最初の楔だ。
「よし。次の段階へ進むぞ」
羽島に築いた城から、俺は次の指令を出した。
「この地域の川筋を支配する**『川並衆』**を、俺の味方に引き入れろ。銭はいくら使っても構わん。彼らの舟と、川を知り尽くした知識こそが、この作戦の成否を分ける」
内藤昌豊が、札束で川並衆の頭領たちの頬を叩き、俺が描く未来のビジョンで彼らの心を掴んだ。川賊あがりの連中も、ただの無法者で終わるか、新時代の覇者の下で正規の「水軍」となるか、どちらが得かくらいは分かる。彼らは、喜んで俺の側に付いた。
そして、いよいよ最終段階。
俺は、丹羽長秀に、不可能とも思える命令を下した。
「川並衆の手を借り、稲葉山城の喉元、墨俣に、城を築け。一夜でだ」
墨俣は、斎藤軍の目の前。これまで何度も砦を築こうとしては、ことごとく破壊されてきた「死地」だ。そこに、一夜で城を。
だが、俺には成算があった。前世の知識を応用した、この時代ではありえない建築方法だ。
木材は、羽島で、あらかじめ設計図通りに全て切り出し、加工しておく。そして、川並衆がそれを巨大な筏に組み、夜の闇と雨に紛れて、一気に墨俣まで運ぶ。
現地での作業は、もはや建築ではない。プラモデルを組み立てるような、「組付け」作業だけだ。
決行の夜。
俺が中美濃で繰り広げる陽動は、最高潮に達していた。斎藤義龍の目は、完全に俺の本隊に釘付けになっている。
その裏で、墨俣の川岸では、数千の男たちが、声を殺して歴史上誰も見たことのない光景を繰り広げていた。
川並衆が操る筏が、次々と加工済みの木材を運び込む。丹羽長秀の完璧な指揮の下、兵たちがそれを寸分の狂いもなく組み上げていく。
夜明けが近づく頃、そこに、まるで地面から生えてきたかのように、一つの城がその姿を現した。
◇
翌朝。
稲葉山城から墨俣を見た斎藤義龍は、我が目を疑ったことだろう。
昨日までただの湿地帯だった場所に、突如として織田の旗が翻る城が出現しているのだから。それは、神か、あるいは悪魔の仕業にしか見えなかったはずだ。
この**「墨俣一夜城」**がもたらした効果は、軍事的なもの以上に、心理的なものだった。
稲葉山城と、その西に広がる西美濃地域は、この城によって完全に分断された。
そして、西美濃の有力国衆…稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の「西美濃三人衆」は、絶望的な状況を理解した。
自分たちは、もはや孤立した。主君である義龍は、目の前の城一つ築かれるのを防げなかった無能だ。そして、その城を一夜で築いた織田信長という男は、人知を超えた何かを持っている。
そこへ、俺の使者として明智光秀が訪れる。
彼の提示した条件は、シンプルだった。
「我が主・信長は、過去を問いませぬ。今、我らに与すれば、皆様の所領は安どし、これまで以上の厚遇をお約束いたします。…さて、皆様は、沈みゆく泥舟に残りますか? それとも、我らと共に、新しい時代の船へと乗り換えますか?」
答えは、決まっていた。
西美濃三人衆は、雪崩を打って俺に寝返った。
俺は、中美濃から悠々と兵を引いた。
もはや、戦う必要すらない。
美濃という巨大な企業は、その中枢と西日本の事業部を分断され、さらに西日本の事業部長たちが、一斉に俺の側に寝返ったのだ。斎藤義龍に残されたのは、もはや稲葉山城周辺だけの、ただの「中小企業」に過ぎない。
(義龍。チェックメイトだ)
俺は、清洲城でその報を聞き、静かに勝利を宣言した。
美濃の完全買収は、もはや時間の問題となった。




