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桶狭間の神

運命の日の夜明け前。

清洲城内には、死を待つ罪人のような、重く、湿った絶望が満ちていた。家臣たちは皆、最後の籠城戦を覚悟し、家族への遺書でも書いているかのような顔をしていた。

馬鹿な奴らだ。俺の脚本シナリオを、まだ誰も理解していない。

俺は、寝床からすっくと起き上がった。そして、蝋燭の揺れる光の中、静かに舞い始めた。

幸若舞、『敦盛』。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか…」

俺の謡う声に、広間に詰めていた家臣たちが、亡霊でも見たかのように息を呑む。

だが、これは死を覚悟した舞ではない。

これは、これから始まる壮大なオペラの成功を確信する、総監督(俺だ)による開幕のファンファーレだ。絶望に沈む役者(家臣)どもの度肝を抜き、彼らの思考を一度リセットさせ、俺という存在の異常性を改めて叩き込むための、計算し尽くしたパフォーマンスだった。

舞い終えた俺は、表情一つ変えず、一喝した。

「具足を持ってこい!」

呆気に取られる家臣を尻目に、俺は立ったまま湯漬けを掻き込むと、瞬く間に鎧を身に着けた。

「出陣する。城門を開けろ」

城門の外。そこには、俺が待ち望んでいた光景が広がっていた。

天の底が抜けたかのような、凄まじい豪雨。雷鳴が地を揺らし、叩きつける雨が視界を白く染め上げている。

「若…! この、嵐の中を…!?」

柴田権六が、信じられないものを見る目で叫んだ。

(来た。最高の舞台装置が、完璧なタイミングで届いた)

俺は、兜の緒を締めながら、心の中で快哉を叫んだ。これは神頼みの結果ではない。気象というデータを分析し、導き出した、必然の「天の時」だ。この豪雨が、我が軍の少なさを隠し、敵の五感を奪う最高のカモフラージュになる。

「天は、俺に動けと言っている。ついてこられる者だけ、来い!」

俺は、愛馬に飛び乗ると、わずかな手勢…島左近、柴田権六、そして俺が手ずから育てた馬廻り衆といった、信頼できる精鋭を率いて、嵐の中へと飛び出した。

目指すは、熱田神宮。ここで兵を集結させ、戦勝祈願を行う。これは、兵の士気を極限まで高めるための、最後の「人心掌握術」だ。

神社の森の中で雨をしのいでいると、ずぶ濡れの影が、俺の前にひざまずいた。藤林長門守が放った、月影衆の斥候だった。

彼がもたらした情報は、俺の勝利を決定づける、最後のピースだった。

「申し上げます! 今川義元本陣、田楽狭間にて休息中! 連日の勝利とこの豪雨で、完全に油断しきっております!」

田楽狭間…後の世で「桶狭間山」と呼ばれる、狭く、窪んだ谷間。大軍が布陣するには、最悪の地形だ。

(勝った)

俺は、勝利を確信した。

「天の時」は、この豪雨。

「地の利」は、桶狭間という最悪の地形に、敵の総大将が自ら入ってくれたこと。

そして「人の和」は、絶望を乗り越え、俺の狂気に賭けた精鋭たちと、敵の正確な位置情報という、究極の「情報アドバンテージ」。

全ての条件パラメータは、俺の勝利を示している。

「全軍、迂回するぞ! 奴らの背後を突く!」

俺たちは、豪雨に身を隠しながら、泥濘と化した道なき道を進んだ。今川軍の主力部隊に気づかれることなく、義元の本陣の、まさに喉元と言える丘の上へと回り込むことに成功した。

その時だった。まるで、俺たちのために天が幕を開けるかのように、あれほど激しく降り注いでいた雨が、すっと小降りになった。

眼下に、信じられない光景が広がっていた。

数千の兵がひしめく今川本陣。だが、その動きは緩慢で、鎧を脱いで酒盛りをしている者までいる。中央には、ひときわ豪華な幕が張られ、そこから楽しげな謡の声まで聞こえてくる。

(これはもはや、戦ではない。ただの、作業だ)

俺は、刀を抜き放ち、天に掲げた。

そして、俺の人生の全てを込めて、絶叫した。

「全軍、かかれえええええええええええっ!!」

俺の号令一下、二千の兵が、まるで堰を切った濁流のように、丘を駆け下りた。

油断しきっていた今川本陣は、まさに地獄絵図と化した。どこから、どれだけの敵が来たのかも分からず、兵たちはただ右往左往するばかり。

「敵襲! 敵襲ーっ!」

悲鳴と怒号、そして鉄と鉄がぶつかる音が、狭い谷間にこだまする。

俺は、ただ一点だけを見据えていた。

中央に鎮座する、義元の豪華な輿。

「目指すは義元の首、ただ一つ! 他の雑魚には目もくれるな!」

俺の馬廻り衆が、鬼神の如く敵の親衛隊を蹴散らしていく。

服部小平太が義元に斬りかかり、毛利新介がその首めがけて飛びかかる。

乱戦。怒号。血飛沫。

時の流れが、異常なほど遅く感じられた。

そして、ついに。

「今川義元、討ち取ったりいいいいいいいっ!!」

毛利新介が、高々と首を掲げた。

その瞬間、あれほど混沌としていた戦場の喧騒が、嘘のように静まり返った気がした。

総大将の死。

その報は、残存する二万以上の今川兵の心を、一瞬で砕いた。彼らはもはや軍隊ではなかった。ただの、逃げ惑う烏合の衆だった。

俺は、馬上で天を仰いだ。

降り注ぐ雨が、頬に付いた返り血を洗い流していく。

(…終わった)

巨大なプロジェクトが、完璧な形で完了した安堵感。

そして、歴史という名の巨大な奔流を、俺自身の力で捻じ曲げたという、途方もない高昂感。

この日、この瞬間。

尾張のうつけは死んだ。

そして、天下にその名を刻む、魔王が産声を上げた。

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