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死の舞踏への誘い

天文23年(1560年)、5月。

初夏の熱気を帯びた風が、尾張の平野を撫でていた。だが、その風は爽やかなものではない。東から迫りくる、二万五千という巨大な軍勢が巻き起こす、鉄と汗と土埃の匂いを運んでいた。

今川義元、動く。その報は、俺の想定より少しだけ早かったが、誤差の範囲内だ。

清洲城の評定の間は、重苦しい沈黙に支配されていた。

「…籠城すべきにございます!」

林秀貞が、震える声で進言した。

「清洲城は堅城。ここで耐え忍び、今川勢が疲弊するのを待つしか…」

他の家臣たちも、ほとんどが同じ意見だった。城に立てこもり、嵐が過ぎ去るのを待つ。弱者の、あまりに凡庸で、そして最も愚かな戦略だ。

(籠城? 笑わせるな)

俺は、内心で吐き捨てた。

籠城とは、自ら檻に入り、敵に生殺与奪の権を委ねる行為だ。兵糧が尽きれば終わり。水の手を断たれれば終わり。内応者が出れば終わり。そんな不確定要素の塊に、俺の会社の未来を賭けるつもりは毛頭ない。

俺は、立ち上がった。その顔には、いつもの不敵な笑みが浮かんでいた。

「籠城などせん。こちらから、出向いてやる」

「若!?」

「だが、まともに戦ってもやらん。二万五千の巨大な恐竜に、正面から挑む馬鹿がどこにいる」

俺は、広間に掲げた尾張から三河国境にかけての巨大な地図を指差した。

「これより、**『出血作戦』**を開始する。敵に、こちらの肉を斬らせる。だが、そのたびに、奴らの骨を断つ」

俺の作戦は、シンプルだった。

国境に築いた砦群を使い、徹底的な遅滞戦術とゲリラ戦を展開する。敵の進軍速度を極限まで鈍らせ、その巨大な図体を維持するための補給線ロジスティクスを、じわじわと締め上げていく。

そして、計算し尽くしたタイミングで砦を放棄し、少しずつ、少しずつ、尾張の奥深くへと敵を誘い込むのだ。

「島左近、柴田権六!」

「「はっ!」」

「お前たちに、国境の砦を任せる。好きに暴れろ。ただし、絶対に深追いするな。敵の兵を削ることだけに集中しろ。そして、俺の合図があれば、いかに戦況が有利でも、即座に砦を捨てて撤退せよ。いいな?」

二人は、戸惑いながらも俺の命令に頷いた。

こうして、日本の戦国史において、最も狡猾で、最も一方的な消耗戦の幕が切って落とされた。

戦端が開かれると、今川軍は津波のように国境の砦へと殺到した。

だが、彼らを待っていたのは、俺が張り巡らせた無数の罠だった。

島左近は、神出鬼没の遊撃部隊を率い、敵の側面や後方を嵐のように襲っては、霧のように消えた。

柴田権六は、砦に籠もって敵の猛攻を正面から受け止め、凄まじいまでの粘り腰で敵兵に甚大な被害を与えた。

そして、その裏では藤林長門守率いる月影衆が、闇夜に乗じて今川軍の補給部隊を襲い、兵糧を焼き、伝令を殺した。

俺の軍は、まるで粘つく泥沼のようだった。今川軍が力任せに足を踏み入れれば入れるほど、その動きは鈍り、兵と士気という名の体力が、確実に削られていく。

今川方の武将たちは、苛立ちを募らせた。

「おのれ、織田の兵は田の蛙か! コソコソと逃げ回るばかりで、一向に決戦に応じようとせん!」

砦は、一つ、また一つと、計画通りに今川の手に落ちていった。だが、彼らが手に入れたのは、もぬけの殻となった砦と、味方の死体の山だけ。そして、その占領した砦を維持するために、さらに兵力を割かねばならないという、新たな「コスト」を背負わされた。

一方、俺は清洲城で、月影衆がもたらすリアルタイムの戦況報告を分析し、将棋を指すように駒を動かしていた。

「…鷲津砦の兵、疲弊しているな。権六に伝えろ。今夜半、砦を放棄し、鳴海城まで後退せよ、と」

俺が下す命令は、常に「撤退」だった。

家臣たちは、日増しに色を失っていく地図を見て、不安を隠せない。

「若…これでは、我らは負け続けているも同然にございます…!」

俺は、彼らの不安を一蹴した。

「負け? 馬鹿を言え。これは、投資だ。領地という資産を一時的に放棄して、敵の体力というリターンを得ている。ビジネスにおいて、最も重要なのは最終的な損益計算だ。途中のプロセスなど、どうでもいい」

そして、ついに今川軍の先鋒は、尾張の中心部である鳴海城まで到達した。

今川義元は、自らの本陣を、尾張と三河の国境近く、沓掛城に置いた。連日の勝利(と彼が思っているもの)の報に、彼の警戒心は緩みきっていた。

『尾張のうつけ、戦らしい戦もできず、ただ逃げ惑うばかり。臆病者よ』

義元がそう嘯いた、という報告を、俺は冷たい笑みで聞いていた。

いいぞ、義元。もっと、そう思え。

もっと、苛立て。もっと、油断しろ。

お前という巨大な恐竜は、今や俺が作った一本道を、ただまっすぐに進むことしかできなくなっている。

そして、その道の終点には、お前の墓場が用意してある。

俺は、清洲城の天守に登り、東の空を見上げた。

空には、雨を予感させる、湿った黒い雲が広がり始めていた。

「…風が、吹いてきたな」

俺は、誰に言うでもなく呟いた。

死の舞踏会は、もうすぐ始まる。その主役を、最高の舞台へと誘い込むための準備は、全て整った。

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