蝮の死と東からの嵐
俺の事業計画は、完璧に進んでいるはずだった。
三河に仕掛けた蟻地獄は今川の体力を確実に削り、尾張国内の経営基盤は磐石。北の斎藤道三とのアライアンスも機能している。このまま今川をさらに弱らせ、万全の状態で叩く。そのはずだった。
だが、ビジネスの世界に「絶対」はない。突如、北の事業提携先で、最悪の「お家騒動」が勃発した。
「申し上げます! 美濃にて、斎藤義龍様が父君・道三様に反旗を翻し、挙兵!」
斎藤義龍。道三の嫡男。あの蝮ですら、自らの息子のコントロールには失敗したらしい。親子間のM&A(経営権争奪)か。だが、タイミングが悪すぎる。
道三から、俺の元に必死の救援要請が届いた。
『婿殿、助けを乞う。この戦、儂が勝てば、美濃はお主のものと思え』
俺は、即座に思考を巡らせた。
ここで大軍を率いて美濃へ向かえば、その隙を今川義元が絶対に見逃さない。東の守りが手薄になった尾張は、赤子の手をひねるように蹂躙されるだろう。
だが、この同盟を見捨てれば、俺は「義」を失う。そして何より、あの面白い男・道三を失い、北には若く、俺を憎むであろう新しい敵が誕生する。
(どちらも、リスクが高すぎる…!)
俺は、経営者として最悪の状況…二正面作戦を強いられた。今川への警戒を解かぬまま、最低限の兵をかき集めて、美濃へ向けて出陣する。間に合え、と祈るような気持ちだった。
だが、俺の祈りは届かなかった。長良川を越える前に、凶報が届いた。
斎藤道三、討ち死に。
「…ちぃっ」
俺は、思わず舌打ちしていた。戦略的にも、そして個人的にも、あまりに痛い損失だった。あの蝮とは、一度ゆっくり酒でも飲みながら、腹黒い天下国家の経営論でも語り合ってみたかった。
失意の俺が清洲へ戻ると、そこには数人の亡霊がたどり着いていた。
美濃を追われた、道三の残党。その中に、俺の正室・帰蝶の弟である**斎藤利治**と、帰蝶の従兄弟だという、涼やかな目をした男がいた。
「…明智十兵衛光秀(あけち じゅうべえ みつひで)と申します」
俺は、二人を引見し、即座に判断を下した。
斎藤利治。まだ若いが、その血には価値がある。こいつは、俺が将来、美濃を「買収」する際の、最高の「ブランドライセンス(大義名分)」になる。
そして、明智光秀。こいつは違う。自己紹介の短い言葉の中に、俺は奴の底知れぬ知性と才覚を感じ取っていた。道三が手ずから鍛え上げたという逸材。これは、倒産したライバル企業から転がり込んできた、超一流のヘッドだ。
「二人とも、よくぞ参った。利治殿は、亡き道三殿の志を継ぐ旗頭として、俺が必ず美濃へお返ししよう。光秀、お主の才、この織田家で存分に振るうが良い」
俺は、災いの中から、二つの新たな資産を拾い上げた。
◇
だが、感傷に浸っている暇はない。北には、父殺しの斎藤義龍という、新たな脅威が誕生した。
「勘助! 犬山城を改修しろ! 美濃に対する、鉄壁の防衛拠点とするのだ!」
俺は、美濃との国境にある犬山城に、最新の築城術の全てを注ぎ込むよう命じた。北からの脅威を、まず物理的に「ファイアウォール」で遮断する。
しかし、俺が北の防波堤作りに奔走している、まさにその時だった。
東の巨人が、ついに動いた。
「申し上げます! 今川義元、駿河・遠江・三河の全兵力、総勢二万五千を率い、尾張への侵攻を開始!」
月影衆からもたらされた報告に、清洲城の広間は凍りついた。
二万五千。この時代の常識を遥かに超えた、未曾有の大軍だった。
俺は、すぐに軍議を開いた。内藤昌豊が、厳しい顔で兵力報告を読み上げる。
「我が尾張の石高は、三河と美濃の一部を加え、八十万石近くに達しております。銭もありまする。しかし…」
言葉を区切る彼の言いたいことは、俺にも分かっていた。
「北の斎藤義龍に備え、犬山城に兵を割かねばなりませぬ。西の長島・願証寺に巣食う一向門徒と、それに与する服部党も不穏な動きを見せております。こちらへの備えも必要。…今、今川軍に差し向けられる兵力は、最大でも、二万が限界かと」
二万五千 対 二万。
数字だけ見れば、絶望的というほどではない。だが、相手は海道一の弓取りと謳われ、完璧に統制された今川の主力。対するこちらは、統一したばかりで、まだ一枚岩とは言えない寄せ集めの兵だ。
家臣たちの顔に、絶望の色が浮かぶ。
だが、俺の心は、不思議なほどに静かだった。
(面白い)
ついに来たのだ。この会社の存亡を賭けた、最大級の危機が。
だが、俺はこの日のために、銭を稼ぎ、人を集め、国を改造してきた。
兵力は劣勢。四方を敵に囲まれ、状況は最悪。
だが、戦争は、数字だけで決まるものじゃない。情報、戦略、そしてCEOの、経営判断の質で決まる。
俺は、広間に集う家臣たちを見渡し、不敵な笑みを浮かべた。
「二万五千か。随分と、大きな図体だな、義元は」
「だが、図体のデカいだけの、旧時代の恐竜だ。俺が、新しい時代のやり方で、喰い殺してやる」
俺は、立ち上がった。
「出陣の準備をせい。日本の歴史上、最も面白い合戦を、これから俺たちで始めようぞ」




