産声は鬨の声
意識の最期は、無機質な白色だった。
蛍光灯が照らす会議室の白い壁、白いテーブル、そしてクライアントが突きつけてきた分厚い資料の、うんざりするような白。
「ですから、この計画では無理だと何度も…!」
声を張り上げた瞬間、心臓が軋むような熱い痛みに貫かれた。霞んでいく視界の端で、誰かが悲鳴を上げたのが分かった。床に倒れ込みながら、経営コンサルタント・長谷部聡の脳裏をよぎったのは、後悔とも諦めともつかない、一つの思いだった。
(ああ…結局、俺は他人の駒のままか。一度でいい。ゼロから全部、自分の裁量で、世界を動かして…みたかった…)
それが、三十四年の人生の、あっけない終着点だった。
◇
次に感覚が戻った時、彼は温かい羊水の中にいた。
いや、無論、そこが羊水の中であると理解できたのは、ずっと後のことだ。最初はただ、暗く、狭く、音のくぐもった世界に意識だけが漂っている、奇妙な浮遊感があるだけだった。時折、遠くで響く鼓動が、唯一の時間を示す指標だった。
どれほどの時が流れたのか。
突如、世界が彼を押し潰しにかかった。抗いがたい圧力、身を捩るような苦しみ。暗闇が終わり、経験したことのない眩い光が瞼を焼いた。外の冷たい空気が、初めて肌を撫でる。
その瞬間、彼の意志とは全く無関係に、身体の奥深くから生命そのものの叫びが込み上げてきた。
「オギャアアア! オギャアッ、ギャアアアアッ!」
甲高く、だが力強い産声。
それは、長谷部聡の意識を持つ赤子が、自らの誕生に対して上げた、最初の抗議だった。
「おお…!おおお…!産まれたぞ!元気な若君じゃ!」
野太い、歓喜に満ちた男の声が響く。視界は涙と粘液でぼやけて、何も見えない。ただ、巨大な何者かに身体を持ち上げられ、温かい布で拭われている感覚だけがあった。
混乱する頭で、聡は必死に思考を巡らせる。
(なんだ…これは…? 俺は死んだはずだ。臨死体験か? それにしては、感覚がリアルすぎる。痛い。寒い。息苦しい。そして何より…手足が、動かせない!)
もがこうとしても、意思の伝達がうまくいかない。神経がまだ繋がっていないかのように、手足はただ未熟に震えるだけだ。思考だけが空回りする焦燥感。それはまるで、頑丈な鋼鉄の牢獄に精神だけが閉じ込められたような、途方もない閉塞感だった。
やがて彼は、清潔な産着に包まれ、別の腕に抱きかかえられた。
ふわりと、白粉の香りがした。
「…この子でございますか」
凛とした、しかしどこか感情の薄い女の声。おそらく母親だろう。聡は必死に目を開こうと試みるが、未発達な眼筋は言うことを聞かず、ぼんやりとした影を捉えるのが精一杯だった。
「うむ。ようやった、土田。俺の子じゃ。この尾張を束ねる、俺の跡継ぎじゃ!」
先ほどの野太い声が、すぐ近くで轟いた。その声には、生命力と自信が満ち溢れていた。この男が、父親か。
「して、名は」
「決めておるわ! この城、那古野の吉兆となるよう、**吉法師**と名付ける!」
「…吉法師…」
──きっぽうし?
その単語が、聡の意識に鋭く突き刺さった。思考の霧が、さっと晴れていく。
聞いたことがある。いや、日本人なら誰でも知っている。父の名は、おそらく。
「ご覧ください、信秀様。あなた様によく似た、凛々しい顔立ちでございます」
──のぶひで。
聡の脳内で、バラバラだったパズルのピースが、恐るべき速度ではまっていく。
吉法師。織田信秀の子。生まれた場所は、尾張・那古野城。
(まさか…そんな馬鹿なことがあるか…!)
彼は、歴史上、最も苛烈に、そして最も鮮烈に生きた男。天下布武を掲げ、旧時代の全てを破壊し、新しい世を創造しようとした革命家。
(俺が、織田信長に…なったというのか…?)
天正十年、本能寺でその生涯を終えるはずの魔王に。
時代は、天文三年。西暦で言えば、1534年。
聡は、そのありえない事実に愕然とし、天を仰ごうとした。しかし、もちろん首は座っておらず、ぐにゃりと傾くだけだ。その無力さに絶望し、彼は再び、自分の意志とは無関係に泣き叫んだ。
「オギャアアアアアアアッ!」
それは、新しい生を受けた喜びの産声ではない。
これから始まる、魔王と呼ばれる苛烈な人生の始まりを告げる、鬨の声だった。
◇
「赤子の牢獄」での日々が始まった。
思考は三十四歳の経営コンサルタント。しかし、肉体は生後間もない赤子。このギャップは、聡にとって地獄以外の何物でもなかった。
腹が減れば泣き、不快であれば泣く。それ以外の意思伝達手段を持たない。明晰な頭脳で今後の戦略を練ろうとしても、生理的欲求の波が全てを押し流していく。眠たい。腹が減った。おむつが濡れて気持ち悪い。人間の尊厳は、いとも簡単に崩れ去った。
それでも、彼は必死に情報を集め続けた。
ぼやけていた視界は、数ヶ月もすると少しずつ焦点を結ぶようになった。
父・織田信秀。日に焼けた精悍な顔つき。身体は鋼のように鍛え上げられ、その眼光は常に領土と敵を見据えている。だが、吉法師である自分に向ける眼差しには、不器用ながらも確かな愛情があった。
母・土田御前。美しい人だった。しかし、彼女が自分を抱くその腕は、どこかぎこちなく、慈しむというよりは役目を果たしているような、不思議な距離感があった。彼女は、聡の(つまり吉法師の)大人びた、まるで全てを見透かすような視線を、少し怖がっているのかもしれない。
そして、傅役の平手政秀。
初老の、皺の深い謹厳実直な武士。彼はただ世話をするだけでなく、聡の瞳の奥をじっと覗き込むように、観察していた。他の者たちが「赤子」としてしか見ない自分を、この男だけは「一個の何か」として捉えようとしている。聡は、この男こそが、この世界で最初に「交渉」すべき相手だと直感した。
情報を集め、分析し、戦略を立てる。それはコンサルタントとしての彼の本能だった。
この戦国の世で、織田信長として生き抜く。いや、ただ生き抜くのではない。史実の彼を超える。本能寺で死なない。その先へ行く。天下を統一し、その先にある新しい国を、この手で作り上げる。
(そうだ…俺は、最高のプロジェクトを手に入れたんだ…!)
前世で果たせなかった夢。他人の駒ではなく、自らがプレイヤーとなり、世界を動かす。こんなに胸が躍る事業計画が、他にあるだろうか。
そのためには、まず、この「赤子の牢獄」から脱出しなければならない。
自分の意志で身体を動かし、自分の言葉で思考を伝え、自分の足でこの大地に立つ。
生後六ヶ月。
聡こと吉法師は、壮大な天下布武への第一歩として、最初の目標を設定した。
──プロジェクト目標:寝返りの完全遂行。
うつ伏せにされ、もぞもぞと手足を動かしながら、彼は来るべき未来に思いを馳せる。
天下統一への道は、畳の上から始まる。
まだ誰も知らない魔王は今、襁褓の中で、静かに、しかし確かな意志を持って、天下への第一歩を踏み出そうとしていた。