第3話「前日」
ハルシニカ魔法世界
オルド=アカデミア 魔法学部第1学年塔、午前七時半。
ルシアナ・グランテールは、塔の食堂で小さなパンとスープの朝食をとりながら、憮然とした表情で机にひじをついていた。
「召喚試験、いよいよ明日だねぇ……」
向かいに座ったのは、ドワーフ族の女性で一学年上級生のグレタ。
肩幅広めで、腕には革の鍛冶用プロテクターをつけたまま。おそらく、早朝から自らの召喚体と装具の制作をしてきたのであろうか。
彼女はルシアナの食事ペースを見て、眉をひそめた。
「またそんな顔して、しかめっ面しながら食べても味は変わんないよ! しっかり食わなきゃ、アニマは動せないんだから!」
「わかってる……けど、明日の召喚試験の事を考えると、気が重いのよ……」
ルシアナは匙をスープの中でかき混ぜる。
胃の奥が重い。明日、自分の“無能”がまた証明されるのだと思うと、胸の奥に黒いものが広がっていく。
◆◆◆
授業中。
「アニマ干渉は“共鳴”が肝心じゃ。己の精神が揺れれば揺れるほど、世界もまた応じる」
水系魔法の教師、エルフのマスター・ティリアは、静かな声で黒板にアニマの式図を書き続ける。
ルシアナは背筋を伸ばし、必死でノートをとっていた。
(共鳴、ね……私は、ちゃんと“感じて”いるつもりなんだけど……)
でも、魔法は動かない。召喚陣も安定しない。炎も水も、他の生徒のように従わない。
彼女は“何も”まともに呼べたことがない。
「……おい、また落ち込んでるのか、ルシアナ」
隣の席の獣人族、皮肉屋リオネルが、呆れたようにささやいた。
「召喚試験なんて、どうせ半分は事故だ。あんまり気張ると逆に失敗するって」
「励ましてるの? それとも馬鹿にしてるの?」
「どっちかって言うと、きみの反応を観察してるだけ」
「最低……」
「あんたはいいわよ。私と違って魔法が全く使えないわけではないんだから…
きっと明日の召喚試験は合格できるわよ。」
「どうだろうね~~。おいらは他の連中と違って、炎や水を飛ばしたりすることは出来ないからねぇ。
魔法は自分の内側にしか作用しないんだよねぇ。でもそのぶん、アニマの触媒も呪文も要らない。
変わり者扱いされてるけど、先生は“興味深い”って言ってくれてるよ」
「ルシアナも案外、そういった変ったタイプの魔法が使えるのかもよ」
「……ありがとう。励ましてくれて。明日はお互い、進級できるといいわね」
リオネルとこうやって、とりとめもなく話をしていると妙に落ち着く。
落ちこぼれ同士、どこか通じるものがあるのかもしれない。
◆◆◆
昼休み。中庭の噴水広場。
ルシアナはお気に入りの白い石のベンチに座り、本を読みふけっていた。
といっても、ページをめくっては戻し、行を追っては内容が入ってこない。
「ルシー、ちゃんと食べた? 朝、半分しか食べてなかったでしょ」
上品な声が降ってきた。見ると、エルフ族のカミーユが、本を片手にこちらへ歩いてくる。
彼女は成績も容姿も完璧、他の貴族や教師からも一目置かれる存在だ。
「ん、食べた……ような気がする……たぶん」
「ダメ。あんた、そういうときは本を閉じて、空見なさい。で、深呼吸」
ルシアナは言われるがままに本を閉じ、青空を仰ぐ。
澄んだ風が頬を撫で、少しだけ心が軽くなる。
「カミーユってさ……どうして、私なんかと友達でいてくれるの?」
「またそれ? “なんか”って、自分を蔑むのはやめなさいって言ってるでしょ」
「でも、私……まともな魔法一つできないし、家の期待も裏切ってるし……」
カミーユは一瞬だけ目を伏せて、少し困ったように笑った。
「“できない”と“無意味”は違うわよ、ルシー。あなた、どんなときも努力だけは止めない。私は、そういう人が好きなの」
(……嬉しい、でも……重い)
心のどこかで、ルシアナは自分が“どこか違う”ことに気づいていた。
この世界の理ことわりから、少しだけずれている感覚。まるで、無意識に別の回路を探しているような――
◆◆◆
夕刻、塔の寮、第四室。
書物と巻物が整然と並ぶ部屋で、ルシアナ・グランテールは、窓際の椅子に腰掛けていた。
翳りのある空から差し込む鈍い光が、床の石目を青白く照らしている。
窓の外では、風が静かに木々を揺らしていた。
どこか遠くで、魔導灯の点灯を知らせる鐘の音が、かすかに響いてくる。
(明日……)
小さく、唇が動く。
手帳も開かれていない。魔導式の筆も動かさない。
ただ、彼女はじっと、夕暮れの色が変わってゆく空を見つめていた。
頭の中には、思考が波のように満ち引きしていた。
――自分は、なぜこの学園にいるのだろう。
――なぜ、“何も起きない”のに、まだ希望を持っているのだろう。
――もし、明日の試験で召喚することが出来たら《なに》がおこるのだろう。
いや、そもそも私には何もなすことができないのかも…
思考は答えに至らず、ただ、静かに流れていく。
やがて、ルシアナは目を閉じた。
風が、頬を撫でていった。
彼女はそのまま、しばらく動かなかった。
音のない夕暮れの中で、ただ一人、思いの岸辺に佇んでいた。
そして夜が更け、やや欠けた二つの月が、明日の運命を静かに見下ろしていた。