72.そうしよう
……ボクは、ベッドのかけ布団を覆い被さり、背中を丸めてうずくまっていた。
苛立ちを抑えるために、ガリガリと頭や顔を掻いていたけど、あまり効果はなかった。
ああ、気が。
気が、おかしくなる。
自分の心がぐちゃぐちゃで、バラバラで、ズタズタになっている。
発狂寸前のところで、ギリギリ生きている。
「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
気がつくと、過呼吸になっていた。シーツを掴み、身を捩らせ、ガクガクと震えて噛み合わない顎に苛立っていた。
「ふー!ふー!ふー!」
『優樹、おはよー!』
金森さんは、初めから優樹くんのことを下の名前で呼んでいた。ボクはこの前の動物園で、やっと呼ぶことができた。
もちろん、彼と交際してるのはボクだ。ボクの優樹くんのはずなんだ。
でも、先に名前を呼ばれていたことを思い出して、お腹がキリキリと痛くなった。何かが胃の中からせり上がって、思わず吐きそうだった。
『分かった、それじゃあまたね西川さん』
そして、優樹くんが西川さんと電話している光景もフラッシュバックしてきた。
当たり前だけど、優樹くんはボクのいない時に、ああして他の女の子と話しているんだ。
ボクの知らないところで、仲のいい人ができていくんだ。
「う~!う~~~~!」
獣のような唸り声が、自分の口から発せられていた。布団の中で、その唸り声がくぐもっていた。
(優樹くんは、浮気なんてしない。優しい人。優しい人。でも、でも、でも……)
ボクは、本当にとことん自信がない。
優樹くんのことを好きになるほど、身体が八つ裂きにされる。不安と恐怖の津波に飲まれて、溺れ死にそうになる。
彼は本当に、ボクを見捨てないでいてくれるのだろうか。
こんな嫉妬ばかりする根暗な女じゃなくて、金森さんや西川さん、二階堂さんや小岩瀬さんみたいに、もっと素敵な人と付き合える選択肢があるのに。
ボクでいいの?本当にボクと付き合ってていいの?
いや、もしかしたら、心の中ではもう別れたいって思ってるのかも知れない。
ボクと早く別れたくて、仕方ないのかも知れない。
千夏さんのように、ボクのこと……嫌いになったのかも知れない。
動物園の時、ボクの下の名前、呼ぶのを渋ってたのも、もしかしたらそれで……。
ボクが彼のことを優樹くんと呼び出したのは、閉園前の17時頃。彼がボクを彩月さんと呼んでくれるようになったのは、帰り際の20時前。この間に、3時間もタイムラグがある。
あの時はあまり気にしてなかったけど、よくよく考えると、このタイムラグは長すぎる。これは、優樹くんがボクの名前を呼びたくなかったからじゃないか?
ああ、もしそうだったらどうしよう。堪えられない。堪えられない。怖い。嫌だ、お腹痛い。
胸がムカムカする。痒い。掻いても掻いてもおさまらない。
胸の中に、蟲が何万匹として、それがもぞもぞと蠢いているかのよう。
「ぐううううっ!うううううっ!!」
ボクは、今日、優樹くんに構って欲しくて、わざとLimeや電話を無視した。
ボクのせいで困って欲しくて、ボクのことを考えて欲しくて、敢えてそうした。
ああ、気持ち悪い。
面倒臭い。なんだ、この女。
ほんと、嫌い。
大嫌い。
お前なんか大嫌いだ、黒影 彩月。
……ピンポーン
インターホンが鳴った。たぶん、優樹くんだ。
ボクは岩のように重たい身体をなんとか動かして、玄関の扉を開けた。
そこにはやっぱり、心配そうにボクを見る優樹くんが立っていた。
「だ、大丈夫?彩月さん」
「……優樹くん。ありがとう、来てくれて」
「も、もちろん来るさ。心配だもの」
「……とりあえず、ボクの部屋に来てくれる?」
「うん、分かった」
彼は玄関で靴を脱いで、「し、失礼します」と一言断りを入れてから、一歩先に踏み出した。
そうして、優樹くんを自分の部屋に連れて行った。
「こ、ここが、彩月さんのお部屋なんだね……」
「ああ、来るの初めてだったっけ?」
「うん、何気にね」
「………………」
「……あの、彩月さん。電話口でも教えてくれてたけど、今……とても不安なんだよね?」
「………………」
ボクは、優樹くんに思い切り抱きついた。彼はその勢いで、少し足がぐらついた。
「……怖いの」
「………………」
「怖くて怖くて、仕方ないの。もう、ずっと、身体の震えが止まらない……」
「彩月さん……」
「優樹くんから愛されてるって、分かってるはずなのに、毎日毎日、君がボクのそばからいなくなる気がして、それが怖くて堪らないの」
「だ、大丈夫だよ彩月さん。ボクは決して離れたりしない。本当だよ」
「………………」
「ずっと一緒にいる。大丈夫だから」
ああ、なんでだろう。
遠い。
彼の声が、遠い。
まるで何メートルも遠くから声をかけられているかのように、優樹くんの声はボクの耳に届かなかった。
「……だと思うし、彩月さんが……。だから、僕も一緒に……」
優樹くんはそれからも何か言っていたけど、ボクには何も分からなかった。
不安が、拭えない。口から噴き出す血を何度洗っても、止めどなく垂れてくるような感覚。
ボクは、優樹くんと付き合えたら、幸せになれると思ってた。
優樹くんと付き合えたら、ずっと安心できて、何も怖くなくて、孤独を感じずに済むと思っていた。
でも現実は、まるで逆。好きになればなるほど、嫌われたらどうしようっていう不安が募っていく。
不思議で堪らない。なんで付き合う前よりも、付き合ってからの方が辛いのか。
両想いになれて、叶わないと思ってた恋人になれて、言葉だけで見れば幸せいっぱいのはずなのに。
『さっぽん、大好き!』
「………………」
ああ、そうか。
“付き合ったから”、苦しむんだ。
一度好きになって貰ったからこそ、嫌われるのが怖いんだ。
初めから嫌われるよりも、好きでいて貰えたのに嫌われる方が、ずっと辛いんだ。ボクはそれを知ってしまったんだ。
漫画やアニメは、付き合って幸せになるところまでしか描いてくれない。現実は、そこからがもっと苦しいんだ。
ぎゅっ
優樹くんを抱き締めている力を、もっと強めてみた。
彼の体温を感じる。呼吸も感じる。
それでもボクは、ぽっかりと胸に穴が空いていて、寒かった。
ただひたすらに、孤独だった。
千夏さんの時に空いたこの穴は、やっぱりこれからも、埋まることはないんだ。
ああ、嫌だ。お願い、どうかこの苦しみから助けてください。
どうしたら、苦しまなくて済みますか。
どうしたら。
どうしたら。
どうしたら……。
「………………」
あ。
いや。
え。
待って。
そうだ。
死ねばいいんだ、ボク。
死ねば、もうこんな思いをしなくて済む。
優樹くんが、他の女の子と喋ってるかも知れないって、不安になることもない。
優樹くんが、ボクを嫌いになるかも知れないって、怖がることもない。
今、ボクを好きなままでいてくれる、この時に死ねばいいんだ。
そして、優樹くんがそれで傷ついてくれたら、ボクのことを、ずっと覚えててくれる。
その方がいい。
その方が、これ以上、醜いボクをさらけ出さずに済む。
ああ、ああ。
そう、か。うん。
そうしよう。




