70.動物園デート(3/3)
……♪♪……♪
物悲しいオルゴールの音楽が、園内に響き渡った。
『閉園時間となりました。みなさま、気をつけてお帰りください』
そのオルゴールに混じって、アナウンスが流れた。黒影さんはそれを聞いて、僕からすっと離れた。
「……じゃあ、帰ろうか。優樹くん」
「う、うん」
僕は少し吃りながら、彼女へそう返事をした。
それから僕たちは、二人で仄暗い帰り道を歩いていた。
空は藍色に包まれていて、街灯もぼんやりと点灯し始めた。
黒影さんは僕の左腕に抱きついたまま、離れなかった。歩いている間、ずっとその体勢だった。
僕は周りの人に見られるのが少し照れ臭いなと思いながらも、彼女へそれを止めて欲しいとは言わなかった。
「……え、えっと、黒影さん。晩御飯は、どうしようか?」
「……優樹くんは、何食べたい?」
「僕?」
「うん。ボクは、優樹くんの食べたいものが食べたい」
「………………」
それで僕は、悩みに悩んだ挙げ句、近くにあったうどん屋さんへ入った。
「はい、きつねうどん小盛りと肉うどんお待ち!」
注文したうどんを、僕たちは黙々と食べた。
多少の雑談は交わしたけど、お昼の時ほどの盛り上がりはなく、どこか上滑りした会話だけで終わった。
食べ終わった後、僕たちは店を出て、ついに自分の家へと向かい始める。
その間も、僕と彼女に会話はなく、ただただ静かに寄り添うばかりだった。
「……それじゃあ、そろそろここで別れなきゃ」
そしていよいよ、彼女の家と僕の家との分岐点に差し掛かった。
今着いているのは丁字路であり、右が僕の家へ向かう方向で、左が黒影さんだった。
「………………」
黒影さんはしばらくの間、磁石のようにじっと僕へしがみついていた。離してくれたのは、10分以上経ってからだった。
「……えっと、黒影さん。名残惜しいけど、今日はこの辺で」
「……うん」
「また明日、学校でね」
「………………」
黒影さんは、貝のように押し黙っていた。眼を伏せて、じーっとその場を動かなかった。
僕はそんな彼女のことを、ただ静かに見守っていた。
……タタンタタン、タタンタタン
どこからか、汽車の走る音がする。
空気が澄んでいるから、きっとこうして遠くの音が聞こえてくるのだろう。
その汽車の音を聞いていると、なんだか奇妙な寂寥感が沸いてくる。しーんとした夜の寂しさを、全身で感じているみたいだった。
『優樹くん、愛してる』
……僕は、バカだ。
僕は黒影さんが金森さんと仲直りできるように、サポートすることばかり考えていた。
違うだろう?白坂 優樹。今、お前のすべきことはなんだ?
彼女の寂しい気持ちに、少しでも寄り添うことだろう?
今、心のバランスが崩れている黒影さんを支えられずして、何が彼氏だ。
もちろん、友人関係が良好になって欲しいと思う気持ち自体も、悪いことじゃない。でもそれは、結局僕のエゴだ。
まずは、彼女のことを目一杯安心させる。金森さんとの話は、それからでいい。
今の自分にできる最善を尽くす。そういう風に生きようよ、僕。
「………………」
僕は、ごくりと生唾を飲んで、夜の沈黙を破った。
「さ、“彩月”さん」
「………………」
「ぼ、僕も、あ、愛してる、よ」
「………………」
「君のことを、愛してる。だから、心配しないで?」
「………………」
彼女はようやく顔をあげて、僕のことを見た。
驚いているような、喜んでいるような、いろいろと感情の入り交じった表情をしていた。
「……ありがとう、優樹くん」
彼女からそう言われて、僕は少しも照れ臭かったけど、でも嬉しかった。
そうして僕たちは、静かな夜の闇に紛れて、人知れずキスをした。
『……あ、もしもし、白坂くん?』
西川さんへ電話をかけられたのは、夜の八時を過ぎた頃だった。
僕は既に帰宅していて、ベッドに大の字になって寝そべっていた。
「ごめんよ西川さん、こんな時間になっちゃって」
『ううん、こっちこそごめんね、出かけてる時に電話して』
「ああ、いや、いいんだ……」
『なんだか疲れてるみたいだね。何かあったの?』
「疲れてるわけじゃないんだけど……まあ、ちょっといろいろあって」
僕は眼を閉じて、「ふう」と息を吐いた。
「今日、彩月さんとデートしてたんだ」
『あ、そうだったの?じゃあ尚更ごめんね、邪魔しちゃって』
「いやいや、ほんとにそれは大丈夫なんだけど……彩月さん、いつにも増して気持ちが重くて。好きでいてもらえるのは嬉しいんだけど、僕とだけしか関係を持ちたくないと思うのは、少し危うい気がして……」
『白坂くんとしか?それってどういうこと?』
「端的に言うと、もう僕以外と話したくないみたいな……そういう感じだね」
『す、凄いね……。黒影さん、そこまで言うなんて。でもそっか、よく考えてみたら、もともと黒影さんはあまり人と関わるの好きじゃなさそうな人だったもんね』
「そう、だから心配なんだ」
僕は渋い顔をしながら、頭をカリカリと掻いた。
「ところで、西川さんが訊きたいことってなんなの?」
『えっとね、黒影さんの様子はどうかな?と思って。近況を知りたかったの』
「ああ、なるほど。まあ今話してたとおり、上手くいけそうな雰囲気じゃなくて……。正直に言うと、金森さんとも西川さんとも、今は話したくないって」
『……そっか。まあ、白坂くん以外ってことなら、私たちもダメだよね』
西川さんは寂しそうに、ぽつりとそう言った。
『それじゃあ、話すのはまだ難しそうだね』
「いや、ちょっとだけ話してみたよ。金森さんは彩月さんと仲直りしたいって」
『そうなの?』
「でも、結局さっき言った反応で終わったんだ」
『………………』
「ただ、改めて考えたから、僕は彩月さんの気持ちを無視しちゃってたんじゃないかと思ってさ」
『どういうこと?』
「彩月さんは、今金森さんとすれ違っちゃって、寂しくなってる。そんな時に、僕は金森さんと仲直りしてもらうことばかり考えて、結論を急いでしまった。それは、彼女の気持ちを無視してることになるなと思って」
『………………』
「金森さんから告白されたのが、僕の中で結構ショックでさ。彼女の気持ちに比重を置きすぎてたんだ。早く金森さんのために、彩月さんを説得しないとって、そう焦ってた。それがよくなかった気がする」
『……そっか』
「だから、金森さんには悪いけど、もう少し彩月さんが落ち着いてから、改めて話すことにするよ」
『うん、それがいいよね。千夏もきっと、そうして欲しいって言うと思う』
「うん」
『それじゃあ、ごめんね、こんな時間に電話して』
「ううん、いいんだ。心配してくれてありがとう」
『じゃあ、またね』
「うん、また明日」
僕は希望の薄い約束を西川さんと交わして、その電話は終わった。
身体が、鉛のように重かった。ベッドにずしりと沈んでいて、そこから動くことができなかった。
『一年前から、好きだったよ、優樹』
『さっぽんの彼氏だから、もう……諦めるけど』
「……ごめんよ、金森さん」
目蓋の裏に映る彼女に向かって、小さな声で謝った。
僕はろくに寝る準備もできていないのに、そのまま眼を閉じて、深い眠りの谷に落ちてしまった。




