64.千夏の気持ち
……12月9日、火曜日。午前五時過ぎ。
私、西川 凛は、日課の早朝ジョギングに精を出していた。
「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」
凍てつく冬の寒さを肌に感じながら、いつものルートを走る。吐息が白く吹き出て、鼻先をかゆくさせるほどに小さな風を受ける。
住宅街を抜け、大きな自然公園を外周一週する。
街灯がまだぼんやりと点いていて、薄暗い朝の道を照らしていた。
バタバタバタ……
遠くの方で、鳩が空へ羽ばたく音がした。空気が乾いているからか、やけにその音は大きく聞こえた。
「………………」
私は走りながら、改めて千夏と黒影さん、そして白坂くんのことについて考えていた。
(私が最優先すべきは、千夏と黒影さんの仲をもう一度繋ぐこと……)
お互いにギクシャクしちゃって、上手く話せなくなってる。だから、まずは二人がどんな気持ちなのかを聞き取りして、双方にそれぞれ上手く伝える。
そうして、頃合いを見計らって、あの14班の五人でもう一度遊びに出かける。そうしたら、わだかまりも解けやすいはず。
「ふう……」
公園の外周を終えた私は、近所のコンビニに立ち寄った。そこで無糖の純粋な炭酸水を買って、天を仰いで思い切り飲んだ。
「んぐ、んぐ、んぐ、っはあ……」
強刺激の炭酸水が、パチパチと喉を弾けさせた。
朝のルーティンの中で、この時間が一番好きだった。
気持ちもスッキリするし、何より目も覚める。モヤモヤとした悩み事がある時にも、こうして気を落ち着かせるために走り込む。
肌寒い季節でも、これだけ走れば全身にうっすらと汗をかき、着ているジャージもしっとり塗れてくる。
呼吸を整えながら、また千夏たちのことを考える。
(友人と好きな人が被る。それも、片方は付き合えていて、もう片方は失恋する……。それぞれに違う苦しみがあるはず)
千夏の方は分かりやすい苦しみだ。好きな人を、既に友人に取られてしまっていた憎しみ。
そして黒影さんは、そんな千夏への罪悪感と、千夏から距離をとられてしまった悲しみ。
このまま放置しちゃったら、お互いに全く口をきかないまま、疎遠になっていくことだろう。でもそんなことは、二人とも望んでいないはず。
黒影さんに悪意はない。千夏を苦しめたいから白坂くんと付き合ったとか、そんなことをする人じゃない。それは千夏だって知っている。それを今一度彼女に思い出して貰えれば、きっと……関係を修復できる。
私には、それを手助けする責任がある……。
ピリリリ、ピリリリ
その時、ズボンのポケットに入れていたスマホに、着信が入った。
スマホを取って、「はい、もしもし?」と応答した。
『あ……もしもし?凛?』
「!」
それは、千夏からの電話だった。
(珍しい、千夏がこんな朝早くに電話してくるなんて……)
「どうしたの千夏?何かあった?」
『いや……えーと、今日って凛、暇?』
「え?」
『今日の放課後さ、久しぶりにカラオケ行かない?』
「……二人で?」
『うん』
「………………」
もちろん、私には分かっていた。
千夏が二人きりでカラオケに誘う時は、何か私に相談がある時なのだ。
白坂くんが好きだという話も、カラオケで聞いた覚えがある。
(千夏の相談……。もしかして、黒影さんのことかな?)
時期やタイミング的に、おそらくその可能性が高い。なかなかこっちから誘い辛かったから、これは有りがたいお誘いだった。
「うん、いいよ。カラオケ行こう」
私は彼女に気を使って、なるべく明るい声で答えた。
少しずつ、朝日が昇り始めていた。
「……お待たせしました。グレープフルーツジュースと、タピオカミルクティーです」
午後16時25分。私は約束通りに、千夏と二人でカラオケへと出向いていた。
店員さんが、私たちの頼んだドリンクを個室へと持ってきて、それをテーブルの上に置いた。グレープフルーツが私で、タピオカミルクティーが千夏のものだった。
いつもなら、自分の目の前に飲み物が来たら、真っ先に口をつけて「おいしー!」とテンションを上げる千夏なんだけど、今は口をつけるどころか、容器に触れもしなかった。
千夏は選曲するためのタブレット端末をじっと見つめて、「ふう……」と疲れたようにため息をついていた。
私はグレープフルーツジュースをストローで啜りながら、そんな彼女のことを見つめていた。
「……なに歌おっかなあ」
千夏はそう呟きながら、眠たそうに左目をごしごしと擦った。
目の下には、クマができていた。あまり眠れていないのだろうか。
「………………」
「よし、これにしよーっと」
千夏が選んだのは、私たちが小さい頃に流行っていたアニメのエンディングテーマだった。
『僕たちはみんな~、頑張って生きてるよ~♪悪い人たちもいるけれど~、優しい人もたくさんいるさ~♪』
のんびりとしていながら、どこか哀愁のあるメロディーで、改めて聴くと少しノスタルジックな気持ちになった。
「………………」
私の方からは、話しかけなかった。
千夏は一通りカラオケに満足できたら、いつも自然にぽつりぽつりと話し出してくれる。
たぶん、ストレス解消の意味もあるのだろう。その気持ちは私もよく分かる。私にとってのジョギングがそうであるように。
「………………」
その日、彼女はあまり明るい歌は歌わなかった。かと言って、 バラードや切ない系の歌も歌わなかった。
少しだけ寂しくて、でもどこかあたたかいような、そんな選曲だった。
「……ふう」
カチッ
歌い始めてから一時間ほど経った後、千夏は小さく息を吐いてから、マイクの電源を切った。
異様なほどに、部屋の中は静かだった。咳払いすら躊躇われるほどに、何の音も響いていなかった。
『あなたの歌唱力は~!?92点!凄い!』
そんな空気に水を差すかのように、備え付けのモニターから女の子のキャラクターの声が響いた。
パンパカパーン!という効果音とともに、千夏の歌が採点されていた。
千夏と私は、その採点画面をぼんやりと見つめていた。
「……さっぽんはあーしのこと、許してくれるかな?」
掠れるほどに小さな声で、千夏はそう呟いた。
私はふっと、彼女へ目を向けた。
千夏の方はまだモニターを見つめていて、横顔をこちらに向けたままだった。
そんな千夏の横顔へ、私ははっきりとこう告げた。
「許すも何も、私は二人とも悪くないと思ってるよ」
「………………」
「今回は、その……タイミングが悪かっただけだと思う。千夏も、黒影さんも、もちろん白坂くんだって、悪くないよ。ただ、ただ本当に……タイミング悪く、気持ちがすれ違っちゃっただけで……」
「………………」
千夏は、苦しそうに笑いながら、私の方へ顔を向けた。
そして、絞り出すような声で、「あーしは、悪いよ」と言った。
「あーし、悪いことしちゃった。さっぽんに、悪いこと……」
「………………」
「優樹と付き合ってるって聞いてから、さっぽんのことが、ちょっとだけ……嫌いになって、それから、わざと無視しちゃった」
「!」
「修学旅行の間、さっぽんと話したくなくて、知らん顔……しちゃった」
「……千夏」
千夏は、口をへの字に曲げた。
唇をぶるぶると震わせて、上ずった声で続けた。
「さっぽんと優樹が付き合ってるのが、いいなって思って……!すごい、やきもち焼いちゃって……!」
「………………」
「さっぽんのこと、困らせようとして、それで、それで、あーしは……!」
真珠のように透明な涙が、頬から顎を滑って、ぼろぼろと下に落ちた。
「でも!でも!これって、あーしがされて嫌だったことだよ!あーしも昔、友だちの好きな人と付き合っちゃって!それで……結局、仲悪くなって!嫌なことされるようになって!」
「………………」
「あーしは、自分がされて嫌なことを、さっぽんにやっちゃったの!だから、だから、本当に……酷くて!」
千夏は顔を伏せて、嗚咽しながら背中を丸めた。
私はすぐに彼女の隣に近づいて、その丸まった背中を優しく擦った。
「ううっ、ひっく、ひっく……」
「………………」
千夏が泣き止むまで、私はただひたすらに黙っていた。
カラオケのモニターには、流行りのアイドルグループやバンドグループの新曲のCMを流れており、それが場違いなほどに明るかった。
「………………」
5分ほどして、千夏はようやく落ち着きを取り戻した。
涙で濡れた顔を、ハンカチで拭っていた。
「……へへ、また泣いちゃった。恥ずかしいなあ」
「………………」
「……ねえ、凛」
「……なに?」
「あーし、さっぽんにね、ちゃんと謝ろうと思う」
私は、改めて千夏の顔を見た。彼女は切なげに微笑みながら、私と目を合わせた。
「さっぽん、許してくれるかな?」
「………………」
「あーしと友だちで……いてくれるかな?」
「………………」
私は、何度も頷いた。そして、小さく「きっと大丈夫」と、そう呟いた。
それを見た千夏は、ようやくいつものように……ぱあっと明るい笑顔を浮かべてくれた。
ああ、よかった、よかった。
千夏はやっぱり、優しい子だ。
私があれこれと、お膳立てする必要なんかなかった。2人の仲を繋げる橋渡しをしなきゃいけないって、心配しなくてもよかった。
千夏は、黒影さんへ歩み寄ってくれている。自分のことを省みて、心を開いてくれている。
ギャルギャルしくて、マイペースで、子どもっぽくて、そういう彼女に呆れることも多いけれど……こういう優しいところを知っているから、私は昔から友だちなんだ。
大丈夫、大丈夫。
千夏ならきっと、大丈夫だ。
……だけど、この二人の問題は、容易に解決するのを許してくれなかった。
想像することなんて敵わない、恐ろしい事態を招くことになるとは、この時は私を含め、誰にも分からなかった……。




