62.青黒いカタルシス(2/2)
「はあ……全く、あなたはまだまだ子どもね」
お母さんは、呆れたようにため息をついた。
「私がいなきゃ、なんにもできない。何が大切なのかすらも見えていない」
「………………」
「今度からは、誰とどこで会うのかも報告しなさい。私が誰と付き合うべきか、ちゃんと管理してあげるから」
「………………」
両手が、自然と拳を作っていた。
手の平に爪が突き刺さる勢いで、強く強く、握り締めていた。
マグマは、もう食道を焼いて、口の中を満たしていた。
一瞬でも口を開いたら、そこから一気に溢れ出て、何もかもを焼いてしまう。
だから耐えた。
耐えた。
石のように耐えた。
(大丈夫、ボクが……我慢すればいいだけのことだから)
いつものように、言うことを聞いておけば、何も問題ないから。
お母さんから、嫌われないから。
いい子として、認めて……貰えるから。
「………………」
この時ボクは、現実逃避をするように、白坂くんのことを考えていた。
『黒影さん、おはよう』
『ねえねえ黒影さん、あの漫画読んだ?面白かったね!』
天使のように優しい白坂くんの笑顔に、ボクは胸が締め付けられた。
(白坂くん、大好き……)
思わず、涙が溢れそうになった。彼のあたたかい声が、恋しくて堪らなかった。
彼のことを想う瞬間は、どんな時でも孤独じゃない。どんな時も辛くない。
「………………」
その時、不意にボクは……初めてのデートで観に行った、とある映画のことを思い出していた。
『黒影さんは、一番印象に残ったのはどこだった?』
白坂くんの声が、耳の奥で響いていた。そして、その時の、ボクの回答も……。
『え、えーとね、そうだなあ。いろいろ印象に残ってるけど……』
『母親を……』
「………………」
「ところでその男の子は、成績優秀なの?もしそうなら、交際も特別に許可するけど」
「………………」
「まあでも、あなたのことだから、どうせ男を見る目はないわね」
「!」
顔が、引きつった。
必死に塞き止めていた何かが、瓦解しようとしていた。
ボクがこれほど抑え込もうとしているのに、お母さんはまるで意に介さず、壁にヒビを入れようとしてくる。
「どうして令和の男の子って、ナヨナヨして頼りなそうなのばかりなのかしら。私、そういう男の子ほんと嫌いなのよね。あなたのボーイフレンドもそんな感じで、見ててため息が出たわ。人生に高い目標もなさそうだし、薄っぺらいのよ」
「………………」
「いい?あなたはそうなっちゃダメよ?いつだって精進して、世間様に恥ずかしくない人間になりなさい。そのためにも、パートナーはしっかりした人を選ばないと」
「………………」
「時期が来たら、私がいい子を選んであげるから、早くその子と別れなさい。私の言うとおりにしていれば、幸せになれるんだから。あなたは余計なことしなくていいの」
「………………」
「分かったわね?」
「………………」
……我慢。
我慢。
我慢、だって?
ふ。
ふふ。
───もう。
もう。
もう。
もう。
もう無理。
無理。
無理。
無理!
無理!!
無理!!!
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
ボクは、金切り声を出してお母さんに飛びかかった。
そして、お母さんの細い首を、両手で思い切り掴んで、絞め上げた。
「うぐっ!?」
お母さんの顔が苦痛で歪んだ。
ガタンッ!!
ボクは飛びかかった勢いで、お母さんを地面に押し倒した。馬乗りになった状態で、手に力を込めていった。
「さ、彩月!な、なにを!うっ!し、してるの!?は、早く!離しな……」
「うるさい!!」
「!」
「うるさい!!うるさい!!うるさいうるさいうるさい!!!うるさいーーーーー!!!」
マグマが、身体全体を焼いていた。
いや、身体どころか、辺り一面を焼いていた。
もう何もかもが許せなくて、苛立って、ムカついて、ああ、くそ。ふざけんな。
ボクのことを罵るのは、まだいい。我慢する。でも、でも……!!
『好きだよ、黒影さん』
「ぎい!!ぎいいいいいいいいいいい!!!」
歯が割れるんじゃないかと思うほどに、ぎりぎりと歯を食い縛った。
この時になって、ようやく内から溢れたマグマの正体が分かった。
それは、怒りだった。
それは、憎悪だった。
それは、慟哭だった。
それは、カタルシスだった。
この女の、存在そのものの否定だった。
ガンッ!!
ガンッ!ガンッ!ガンッ!!
首を持って、思い切り上下に揺らした。お母さんの頭は何度も床に打ち付けられて、その度に鈍い音が鳴り響いた。
「い、痛…………彩月………待ち……!!さ……き……!!」
お母さんが何か喚いていたけど、オーバーヒートしたボクの頭には、途切れ途切れにしか聞こえなかった。
視界もなんだかチカチカしていて、妙に眩しかった。目の前で火花が散っているように思えた。
「ああああああああ!!ああああああああああああああ!!!」
ボクの口は、ありったけの感情を爆発させていた。それは、お母さんも、ボク自身も、すべて焼き払う勢いで火が広がった。
「白坂くん!!白坂くん!!白坂くん!!ボクの彼氏だ!!恋人だ!!彼だけがボクの味方なんだ!!分かってんのかクソバアア!?」
「おっ、おげっ!!うえっ!!」
「よくも白坂くんをバカにしたな!?許せない!!死ね!!死ね!!死ね!!死ね!!死ね!!」
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!
死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!
「……げえっ!!!」
お母さんの口から、吐瀉物と血が溢れ出た。
蟹のように泡立った唾液が、その血と吐瀉物に混ざって、口から垂れていた。
「!」
その時、ボクはようやく我に帰った。
お母さんから手を離して、直ぐ様立ち上がった。
その首には、ボクの爪痕がくっきりと残っていて、うっすらと血も滲んでいた。
「はあっ!はあっ!はあっ!げほっ!げほっ!」
お母さんは濁った咳をしながら、よろよろと上体を起こした。
ボクはそんなお母さんの姿を、じっと上から睨みつけていた。
「さ、彩月……あ、あんた……」
お母さんがボクへ向ける瞳の中に、怯えの色が見えていた。
さすがにやり過ぎたという罪悪感と、「なにを今さらボクに怯えてんの?」という苛立ちが同時に沸き上がった。
ボクが今まで反抗して来なかったから、小馬鹿にしても何も反撃しないだろうって、高を括ってたんだろう?だから、反抗されて怯えているんだろう?
そういうところも、心底本当に大嫌いだ。
「……出て行って、お母さん」
「………………」
「また白坂くんのことを悪く言ったら、今度こそ殺すから」
「………………」
そう言われたお母さんは、そそくさと部屋から出て行った。
部屋の中は、嵐が去った後のように、しーんと静まり返っていた。




