60.不安な子
……黒影さんと金森さんの間に何があったのか、依然として分からない。
西川さんも、僕へ話すのを躊躇っており、未だに顛末を訊けていない。
まあ、それは仕方ない。僕みたいな部外者には話せないこともたくさんあるだろうから。ここで変に焦らない方がいい。
(なんとか、二人が仲直りできるといいんだけど……)
毎日のように、僕は彼女たちの関係を、心の中で憂いていた。
キーンコーンカーンコーン
それは、とある日の放課後だった。
大勢の人で溢れる廊下を突き進み、下駄箱で靴を履き替えた。
黒影さんとは、学校を出て少ししたところの、コンビニで待ち合わせをしている。そこから二人で一緒に帰るのが、最近のルールだった。
「さてと」
上履きを下駄箱に直して、コンビニへ向かおうとしたその時。僕は、金森さんの背中を発見した。
「あれ?金森さん?」
僕がそう言うと、彼女はぴたっと足を止めて、ゆっくりと振り返ってきた。
「あ、ああ、優樹。久しぶり……」
金森さんはどことなくぎこちない笑顔を浮かべながら、僕にそう言った。
頬も少しやつれていて、目の下にはクマがあった。
「金森さん、大丈夫?なんだか顔色がよくないけど……」
「え?ああ……だ、大丈夫大丈夫!ちょっと、寝不足なだけで……」
「………………」
彼女の様子から察するに、無理をして笑っているのは明らかだ。
もしかしたら、黒影さんとのことで悩んでいるのかも知れない。
(尋ねたいところだけど、西川さんが僕へ話すのを渋っている以上、下手に聞き出すのは悪手だろうな……。黒影さんと金森さんの喧嘩の原因が分からない内は、迂闊に首を突っ込まない方がいい)
僕は尋ねたい気持ちを抑えて、普段通りに接することにした。
「寝不足は大変だね。夜、何か用事でもあるの?」
「うーんと、その……まあ、えっと、いろいろかな」
「……そっか。なら、今日はゆっくり眠れるといいね」
「………………」
「……?金森さん?」
……その時、普段の彼女からは考えられない、想像もできないような表情を見せてきた。
眉間にしわを寄せて、歯を食い縛って、今にも泣きそうな眼差しで……彼女は僕を見ていた。
苦しくて苦しくて堪らないという気持ちが、言葉にせずとも伝わってきた。その瞳がすべてを物語っていた。
「………………」
突然のことに、思わず身体が固まってしまった。そんな僕へ、彼女は囁くようにこう告げた。
「……やっぱり優ぴだね、優樹」
「……え?」
「でも、今は、それ……辛いかも」
「………………」
そうして、彼女は僕へくるりと背を向け、タタタタと走り去ってしまった。
「あっ!か、金森さん!」
遠退く背中に向かってそう叫ぶけど、彼女は振り返ることもなく、そのままいなくなってしまった。
僕は追いかけることもできず、ただただその場に立ち尽くす他なかった。
「………………」
黒影さんとの待ち合わせ場所であるコンビニについた僕は、駐車場で一人、ポケットに手を入れてボーッと立っていた。
夕暮れ時で肌寒くなってきたので、僕は鞄から白いマフラーと手袋を取り出し、身につけることにした。
(……金森さん、大丈夫だろうか)
あんな悲痛な表情をする彼女を見たのは、初めてだった。
普段は明るくて元気だからこそ、そのギャップがありすぎて心配になる。
(何か、僕にできることがあればいいんだけど……)
「白坂くん」
ふと気がつくと、黒影さんが僕の隣に立っていた。
彼女も僕と同じように、白いマフラーと手袋をしていた。
「ああ、黒影さん。待ってたよ」
「ごめん、遅かったかな?」
「ううん、全然。僕もついさっき来たばかりだから」
「………………」
「それじゃ、一緒に帰ろうか」
「うん」
そうして、僕たちは二人並んで、通学路を歩くのだった。
「………………」
「………………」
僕たちの間に、会話はなかった。
今日の黒影さんは、いつも以上に暗かった。顔をうつむかせて、自分の足元を見つめていた。
そんな様子を見て、僕はなんとなく話しかけられなくて、お互いに口を閉ざしてしまっていた。
(でも、せっかく一緒にいるんだし、黒影さんとお話したいな……)
そう考えた僕は、何か喋りやすい話題はないか、ぐるぐると思考を巡らせた。
「……えーと、ねえ、黒影さん」
「……なに?」
「今日僕たち、マフラーと手袋の色、同じだね」
「………………」
「なんだか、ペアルックみたいで嬉しいね。へへへ」
「……ほんと?」
「え?」
黒影さんは顔を上げて、僕を見ながらもう一度、「ほんとに嬉しい?」と尋ねてきた。
「そ、そりゃもちろん。黒影そんと一緒なのは、嬉しいよ」
「………………」
彼女はその時、ようやく笑ってくれた。その笑顔は、どこか安堵したような、緊張が解れたような種類のものだった。
「よかった、白坂くんにそう言ってもらえて」
黒影さんは頬を赤らめて、また顔をうつむかせながら、自分が巻いているマフラーを右手で掴み、頬に寄せた。
「ボクね、このマフラー、白坂くんのに合わせたの」
「合わせた?」
「うん、白坂くんのと同じ色のものを買ったの」
「わ、わざわざ買ったの?僕のと同じ色のを?」
「うん。白坂くんと、一緒になりたかったから」
「………………」
「ねえ、白坂くん」
僕が呆気に取られている間に、黒影さんは僕へこう尋ねてきた。
「千夏さんと……何の話をしてたの?」
「え?」
「ほら、今日……下駄箱で二人、話してたから」
「い、いやあ、別に大したことは何も。ただ、金森さんちょっと具合悪そうだったから、心配になったくらいで……」
「………………」
その時黒影さんは、静かに眉をひそめていた。
それは、ひどく怒っているようにも見えたし、今にも泣き出しそうにも見えた。
「く、黒影さ……」
彼女の名前を言い終わらない内に、黒影さんは僕の右腕にしがみつき、自分の胸に抱き寄せた。
それによって、僕は足元がよろけてしまい、その場で立ち止まった。
……雪が、降り始めた。
ちらちらと、灰色の空からまばらに舞い降りて、僕たちの頭や肩に落ちていく。
「……白坂くん」
「な、なに?黒影さん」
「千夏さんのこと、好きなの?」
「え?」
「ボクよりも、千夏さんのことが好き?ねえ、白坂くん、教えてください」
「………………」
黒影さんは、上目遣いで僕のことを見つめた。
その瞳の中に、困惑する僕の顔が反射していた。
(……これは、嫉妬、なのかな?)
彼女の感情を想像しながら、僕はなるべく彼女の目から逸らさずに、ゆっくりとこう伝えた。
「……大丈夫だよ、黒影さん。僕は金森さんよりも、君の方が好きだ」
「………………」
「金森さんのことは、友だちではあるけど、それ以上の気持ちはないよ。黒影さんが、僕の恋人だよ」
「……ほんと?」
「うん」
「ほんとに、ボクのこと好き?一生好きでいてくれる?」
「い、一生?」
この言葉には、さすがの僕も面食らった。
確かに彼女のことは大好きだが、さすがにその後の人生の……つまり、結婚までは考えたことがない。
もちろん、このまま彼女とずっと仲良くいられて、結婚までいけたら嬉しいことこの上ない。だけど、高校生の自分には、まだそこまで想像を膨らますことができなかった。
この、彼女への返答が遅れたほんの一瞬が、命取りだった。
「ねえ、どうして言葉に詰まったの?一生そばにいてくれないの?」
「い、いや、そんなことは……」
「ねえ、ボクの何がダメだった?嫌なことしちゃった?も、もしそうなら謝るから。どんな償いでもするから」
「大丈夫だって、ほ、ほんとに……」
「ボクは、一生、白坂くんのこと好きだから。ずっとずっと、白坂くんのことだけ考えるから。ボクは絶対絶対、君から離れないから」
「黒影さん……」
「ねえ、白坂くん、お願い、ずっとそばにいて。ねえ、お願い……」
───君は、ボクのすべてなんだから。
……彼女は、ずっと不安そうな表情を浮かべて、僕に詰め寄ってきていた。彼女を落ち着かせるのに、30分以上もかかってしまった。
その間、ずっと彼女は僕の腕を抱き締めていた。まるで、逃げないでと言うかのように。
延々と、黒影さんは「嫌いにならないで」「一生そばにいて」と、その言葉を繰り返していた。
それはまさしく悲鳴だった。掠れるような小さい声で叫びながら、必死に僕にすがりついていた。
そんな悲痛な彼女の姿を見てしまったら、「大丈夫だよ」「ずっとそばにいるよ」と、そう答える以外の選択肢はなかった。
肌寒い冬の風が、僕たちの髪を音もなくなびかせた。




