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40.ずるい



「……ふあぁ」


僕は教室にある自分の席に座り、頬杖をついて、大きなあくびをひとつした。


現在、朝の8時20分。教室にはもうクラスメイトたちがほとんど集合していて、周りからガヤガヤと談笑する声が聞こえていた。


「ねえ聞いてよー!この前彼氏と映画観に行ったんだけどさー!」


「なあ、お前って彼女とどこまで進んでんの?キスまでいった?」


こうして改めて聞いてみると、みんなの会話って結構恋愛についての話題が多い。


いや、もしかすると、自分がそういう立場になったがゆえに、恋愛の話が耳に届きやすくなったのかも知れないな。


(映画、か……。そうだ、確か気になってた映画が今度の日曜日から公開されるっけ。黒影さん、誘ってみようかな)


僕は口元を弛ませて、彼女との初デートの誘い文句をワクワクしながら考えていた。


するとその時、教室の扉がカラカラと開かれた。 入ってきたのは、黒影さんだった。


彼女はいつものように肩をすくめながら、そろりそろりと自分の席に向かって歩いて行く。僕はその姿を、静かに目で追っていた。


「………………」


彼女の方も、僕の視線に気がついたらしく、こちらの方をちらりと一瞥した。


僕が小さく手を振ると、彼女も同じように手を振ってくれた。


窓の外からは、穏やかな朝の光が射し込んでいた。








「……はい!それでは各自、席についてくださ~い」


久石先生はやたらと綺麗な声で、僕たち生徒へそう告げた。


三時間目の、音楽の授業。これはいつもの教室ではなく、音楽室で受ける科目だった。


教室と同じように机が均等に並べられており、部屋の隅にはグランドピアノがどんと置かれていた。そして壁には、ベートーベンやモーツァルトの肖像画が飾られていた。


音楽の授業では席順が自由に決められるため、みんな各々好きな場所に座っていた。


この時僕は、一番左側の列の、一番後ろの席を選んだ。席に座って、教科書とノートを机の上に置いた。



ガタッ、ガタガタッ



ふと、右隣の方へ目をやると、そこには黒影さんが座っていた。


(あ、あれ?黒影さん?)


その時初めに思ったのは、まず「嬉しい」だった。


彼女が隣に来てくれて、嬉しい。 席替えする前の時みたいで、ちょっと懐かしい、という感情だった。


二つ目に思ったのは、「まさか隣に来るなんて」という驚きだった。


黒影さんは「公でイチャつくのは恥ずかしい」と言っていたので、ここで隣同士になるのは彼女も恥ずかしいだろうと思っていた。だから僕は敢えて黒影さんと約束せずに、一人で好きな場所に座ったんだけど、まさか彼女の方からこっちに来るとは……。


「あの……白坂、くん」


彼女は頬を赤らめて、僕へこう尋ねてきた。


「ごめん、ちょっと……教科書、見せてもらえないかな?」


「教科書?」


「うん。今日、忘れちゃって……」


なるほど、そういうことか。だから恥ずかしくても、僕の隣に来たかったわけか。


「そっかそっか、もちろんいいよ」


「ありがと、白坂くん」


黒影さんは僕へペコリと頭を下げてから、机と椅子を僕へ近づけた。 彼女と僕の机は隙間なくぴったりとくっつかれて、その間に僕は教科書を置いた。


(おお……く、黒影さんが、こんなに近くに)


隣を向けば、目と鼻の先に彼女がいる。周りに人がいるからか、二人きりの時よりずっと緊張する。


「えー、それでは前回の続きからですね。教科書の87ページを開いてください~」


先生の声が聞こえてくるけど、それが今の僕には遠く感じた。隣にいる黒影さんの存在感が大きすぎて、他のことが手につかなかった。


「…………………」


「…………………」


僕たちは黙ったまま、何も話すことなく、授業を受けていた。


時々、ちらりと横に目をやると、同じタイミングで彼女もこっちを見ていた。そんな時、しばらく見つめあってから……急に恥ずかしくなって、すぐ目を逸らしてしまう。


(な、なんか不思議だなあ。今までもずっと隣の席で、状況は同じだったのに……)


友人として見てた時は、黒影さんに対してこういう感情を持たなかったのに、彼女が好きだと自覚した途端、いきなり照れ臭くなる。恋をすると、人は臆病になるのかも知れない。


彼女の視線にそわそわさせられるし、彼女の香りに思わずときめいてしまう。 自分の心境の変化に、ただただ驚かされるばかりだ。


だけど……この変化こそ、きっと恋愛の醍醐味なのだろう。




……キーンコーン カーンコーン



授業はいつも通りに終わり、クラスメイトたちが一斉に音楽室を出る。 僕は人混みの中に入るのも気が引けて、しばらく人が出て行ってから席を立つことにした。


「ごめんね、白坂くん。教科書ありがとう」


黒影さんにそう言われて、僕は「ああ、全然気にしないで」と答えた。


「……あれ?」


その時、視界の端に、黒影さんの机の中が写り込んだ。


そこには、黒影さんが持っていないはずの音楽の教科書が入っていた。


「黒影さん、机の中に、教科書入ってない?」


僕がそう言うと、黒影さんはびくっ!と肩を震わせた。


そして、頬を赤く染めて、静かにうつむいてしまった。


「……?黒影さん?」


彼女はどこか罰が悪そうに……まるで叱られている子どもかのような表情を浮かべていた。


肩をすくめ、拳を太ももの上に置き、ごくりと生唾を飲んだ。


「ど、どうしたの?黒影さん」


「………………」


「ああ、その教科書は黒影さんのじゃなくて、誰かの忘れ物かな?だったら確かに、ちょっと借りづらいかもね。それじゃあ、それを持ち主に届けて……」


「……あの、ご、ごめんなさい」


「え?」


「ボク……う、嘘……ついちゃったの」


「嘘を?」


僕がそう聞き返すと、黒影さんはこくりと頷いた。


「ほんとは、持ってきてたの。教科書」


「持ってきてたけど……嘘をついたの?」


「…………………」


「えっと、それは……なんで?」


「…………………」


黒影さんは頬から耳元まで真っ赤に染めた顔で、本当に小さな……耳をすまさないと聞こえないほどの声で、こう囁いた。


「白坂くんの……近くに、いきたかったから」


「え……?」


「し、白坂くんの、隣の席になる口実が欲しくて、そ、それで……」


「そのために……嘘をついたの?」


「……うん」


「…………………」


「音楽室に入った時に、そのことを思い付いて……。つ、机の中に教科書を隠したの。ご、ごめんなさい、ずるいことして。本当は素直に隣にいたいって言うべきなんだろうけど、ど、どうしても……恥ずかしくて……」


黒影さんは、太ももの上に置いている手を、もじもじと動かしていた。


そして、ゆっくりとこちらへ目を向けた。


彼女は潤んだ瞳で上目遣いをしながら、か細い声で言った。




「ボクのこと、き、嫌いに……なった?」




「…………………」


僕は、彼女のことがいじらしくて仕方なかった。


胸の奥がくすぐられたような気持ちになって、不思議と満たされていた。


恋は人を臆病にするのかも知れないが、同時に……驚くほど大胆にもさせるんだろう。


(ああ、そう言えば、僕もちょっと前に……同じようなことをしたっけ)


ふと、僕は1ヶ月ほどまえの出来事を思い出していた。


黒影さんがひどく落ち込んでた様子だったから、授業中話しかけるために、教科書を忘れたフリをして、席を近づけた。


近づくために思い付く発想が、僕も彼女も似ているんだ。


それもなんだか、今の僕には嬉しかった。


「……嫌いになんてならないよ、黒影さん」


「……ほ、ほんと?」


「うん。むしろ可愛いなと思ったよ」


「え、か、可愛い……?」


「うん」


「そ、そんな、そんなこと……」


「そんなことあるよ。僕は間違いなく、可愛いと思った」


「…………………」


「黒影さんのそういうところ、僕、好きだよ」


僕の言葉を聞いた黒影さんは、さらに顔を真っ赤に染めて、両手で顔を覆った。


そして、聞こえるか聞こえないかというくらいの声量で、「ずるい」と呟いた。







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