36.聞き耳
……とある日の、午前7時50分。
朝の透明な空気に当てられて、ボクは少し身震いをする。
街路樹の葉は枯れ始めていて、歩道に落ちた枯れ葉が積もっていく。
ひゅううう……。
夏の名残は薄くなっていき、肌寒い秋の風が、ボクのすぐそばを吹き抜けていく。それに乗って舞う枯れ葉が、視界の隅にちらりと入る。
「……くしゅんっ」
ボクは鼻を押さえて、誰にも気がつかれないように、小さなくしゃみをひとつだけした。
学校に入ると、途端に周りが騒がしくなった。
「やっべ!宿題忘れたー!マジ死んだわー!」
「ぎゃははは!はいバカー!谷センセーに怒られろー!」
「ねえねえ、昨日YuuTube上がってたABOの新曲聴いたー?」
「聴いた聴いたー!めちゃよかったよね!」
がやがやと人で溢れかえる廊下の中を、いつものようにボクは肩を縮めて歩いていく。
クラスメイトたちとともに教室へ入り、静かに気配を消して席に着く。
「おはよう、黒影さん」
隣の席の白坂くんが、ボクに声をかけてくれた。
「お、おはよう、白坂くん」
「今日は寒いね~。ちょっと前まではあんなに暑かったのに」
「う、うん、本当に寒いね」
彼と他愛もない雑談を交えながら、ボクは鞄を机の上に置き、席へと座る。
「ああ、そうだ。黒影さん、賭博覇王録イカジの最新話読んだ?」
「うん、読んだ読んだ。面白かったよね」
「ね!久々に懐かしいキャラも出てきて、続きが気になるな~」
「白坂くんって、イカジだと何編が好き?」
「んー、悩むけど……くじ引き編かなあ?」
「くじ引き?あー、会長とやったギャンブル?」
「そうそう!あそこでイカジ負けちゃうのが凄いびっくりしたし、度肝抜かれちゃって。それでも気高くいようとしたイカジがめっちゃカッコいいなー!と思ってさ」
「うんうん、分かる」
「黒影さんは何編が好き?」
「ボクも好きなのいっぱいあるなあ。パチンコ編とか、サイコロ編とかも好きだし。だけど……一番は綱渡り編かな。あのギャンブルは、負けたら破産とか、地下施設行きとかじゃなくて、間違いなく死ぬっていうのが断トツで怖くて、凄く異質で印象深かった」
「あー!あれも面白いね!また読み返そうかな~」
「うん、ボクもまた読みたくなってきちゃった」
ああ、やっぱり彼との会話が一番落ち着く。
千夏さんと一緒にいるのも、最近はいいなと思えるけど、白坂くんと一緒にいる時が一番楽しい。
ボクの好きな話題で話せるし、何より……“ボク”だと言えるのが心地よかった。
───『私が最初に好きだったのに!』って言われて、そっから……絶交されちゃった。
「………………」
不意に、千夏さんの言葉が頭の中に反響する。
もし白坂くんが……他の誰かと付き合ったら、ボクは……どう思うだろう。
手を繋いだり、一緒にデートしたり、キスを……したり……。もとろん、その先だって……。
「………………」
そのことを想像しただけで、吐き気が込み上げてくる。
い、嫌だ。白坂くんが誰かのものになるなんて、耐えられない。
ボクは前に読んだ漫画で、白坂くんにそっくりなキャラが他のキャラとキスをしていただけで、かなりショックを受けていた。
漫画ですらそうなのに、白坂くん本人がそんなことになったら、もう立ち直れないと思う。
(本来なら、ボクなんかが白坂くんと仲良くさせてもらってるだけで、ありがたいと思わなきゃいけない。恋人ができても、嫉妬なんてできる立場じゃない。それは頭では分かってるんだけど……)
人の心は、理屈で全て割り切れるものではない。どうしても、彼のことを独占したいという気持ちが溢れてしまう。
(うう、で、でも、かと言って、ボクが告白なんて……)
客観的に考えて、ボクと付き合いたいと思われるはずがない。
どんなに白坂くんが優しいと言っても、恋愛感情をボクに持ってくれるかどうかは、別問題だ。
告白をすることによって、ボクと彼の……今まで積み上げてきた友情が、ジェンガのようにガラガラと崩れてしまうかも知れない。
ああ、怖い。そんなの嫌。
傷つきたくない。
傷つきたくない。
白坂くんから、嫌われたく……ない……。
「………………」
この時のボクは、まだうじうじと悩んでいた。
どうしても踏ん切りがつかず、右往左往してしまっていた。
そんなボクが、もうなりふり構っていられないと……ボクは白坂くんに告白しなければならないと、そう思うようになったのは、とある事件がきっかけだった。
……キーンコーン カーンコーン
午前中の授業が終わり、お昼休みとなった。
ボクはいつもの如く、500円をポケットに入れて、直ぐ様教室から出ていく。そして購買で焼きそばパンとメロンパンを一つずつ買った。
(今日は久しぶりに、白坂くんと話したいな)
ボクは胸を踊らせながら、パンを胸に抱えて、教室へと戻った。
「………………」
でも、それは今回叶わなかった。白坂くんは席におらず、教室の外に出て行っていた。
(あ、ああ……しまった。事前に約束しておけばよかった……)
ボクはしょんぼりと項垂れながら、自分の席に座って、一人でパンを齧った。
もそもそと、乾いたパンの食感が、口の中に広がった。
「……はあ」
一人寂しく食べ終わった後、ボクは小さなため息をついた。そして、そのまま机に突っ伏して、眠ることにした。
「なーお前ら!うちの学年の女子だったらさ、誰が一番可愛いと思う?」
遠くの方で、一人の男子が友人たちにそんな話題を振っていた。ボクはぼんやりとした意識の中で、その会話を朧気に聞いていた。
「オレはやっぱり、隣のクラスの金森さんだな!顔はもちろんだし、スタイルもよくて性格もいいとか、完璧すぎんだろ!」
「分かるわー!金森さんマジ胸でけー!」
「あとシンプルに、喋りやすいのもポイント高いよな~」
「いやいやお前ら!明るい金森さんもいいけど、クールビューティーな西川さんも捨てがたいぞ!」
男子たちの談笑は、教室全体に響き渡るくらいに、盛り上がっていた。
「可愛い女の子は誰か?」という話題なんだけど、その話題のほとんどを占めていたのは、千夏さんだった。
やはり誰がどう見ても、千夏さんは可愛くて素敵らしい。もうさすがという他なかった。
(この前も告白されてたし、千夏さんってほんとモテるなあ……)
微睡みの中、ボクは友人の顔をぼんやりと思い浮かべていた。
カラカラカラッ
教室の扉が開いた。そして、「おお!白坂!」という男子たちの声がした。
(あ、白坂くん帰ってきた。よかった、もう昼休みも終わり際だけど、ちょっとでも喋れるなら……)
そう思って、顔を上げて彼のことを見ようとした。
「おい!白坂!お前は誰が可愛いと思う?」
男子たちの話題は、白坂くんへと振られた。それを聞いた瞬間、ボクはドキッと胸が高鳴って、上げようとした顔を止めて、また机に突っ伏した。
「ん?え?なんの話?」
「うちの学年の女子だったら、お前、誰が一番可愛いと思う?」
「あー、そういう話か」
彼の言葉を聞き漏らさないために、ボクは眼を閉じたまま、息を殺して耳をすませた。
(し、白坂くんが、可愛いと思う人……)
ああ、怖い。凄く聞きたいし、絶対に聞きたくない。その両方の感情がいっぺんに湧き出てくる。
目をぎゅーっと閉じて、唇を噛み締める。
「んー、可愛いと思う人、かあ」
白坂くんの悩む声が、ボクの耳にはっきりと届いてくる。ボクはごくりと、生唾を飲んだ。
「あっ!白坂お前、ひょっとして黒影じゃねえの!?」
その時、男子の誰かが白坂くんへそう言った。白坂くんが「黒影さん?」と聞き返すと、またその男子はこう問いかけた。
「ほら、たまに一緒に帰ったりしてんじゃん!休み時間とかもよく話してるしさ!」
すると、周りにいた男子たちが、口々に叫んだ。
「えー!?黒影とかマジかよ白坂ー!趣味わりいー!」
「あんな陰キャがいいのかよ!?やべー!“B専”じゃん!」
B専というのは、ブスが好きな人という意味の蔑称だった。
「え?つーかさ、あいつと話すことってなんかあんの?あいつと話しててもつまんなそ~」
「どーせあれだろ?BLのキショイ漫画とかアニメの話なんじゃねーの?ぎゃはははは!!」
「………………」
ボクは、胸がはち切れんばかりに痛かった。思い切り心臓をつねられているような、そんな感覚だった。
もちろん、分かっていた。ボクなんて可愛くないって……ボクなんて女の子としての魅力がないって、そんなこと分かってた。
でも、それでもボクは泣きたかった。
今すぐこの場から消えたかった。教室になんか、いなければよかった。
だけど、今ここで席を立つ勇気もなかった。だって、もし教室を出るところをあの男子たちに見られたら、「黒影の奴、気にしてやんの!」って笑われるかも知れないから。
だからボクには、狸寝入りをしてやり過ごすしかなかった。何も気にしてない風を装うしかなかった。
(……ごめんなさい、白坂くん)
ボクは、心の中でそう呟いた。
(ボクのせいで、白坂くんがからかわれてしまった……。ごめんなさい、ボクなんかが友だちでごめんなさい。白坂くんは何も悪くないのに、ボクは、ボクは……)
目蓋の裏に浮かぶ白坂くんの顔に、ボクは何度も謝り続けていた。
その時だった。
「君たちは、黒影さんと話をしたことがあるの?」
……白坂くんの声色は、間違いなく怒っていた。
文言こそ柔らかいけど、いつもの穏和な言い方じゃなくて、ぴんっと張りつめた雰囲気が漂っていた。
いつだったか、白坂くんがボクを痴漢から助けてくれた時と、同じように感じた。
「「………………」」
その空気を男子たちも察したのか、けたたましい笑い声をぴたりと止めて、みな一斉に黙り込んでしまった。
「黒影さんの好きな漫画が何か、知ってる?どんなことが好きで、どんなことが苦手が、聞いたことある?」
「「………………」」
「彼女とちゃんと会話をして、その上で評価したなら、それは仕方ないと思う。他人への印象に個人差があるのは、当然だから」
「「………………」」
「でも、ちゃんと話をしたことがないのに、そういう評価を下すのは、僕は違うと思う。彼女に対して失礼だし、あまりにも浅はかだ」
「……な、なんだよ?何をムキになってんだよ白坂」
「………………」
「ちょっとした冗談じゃん。なにマジになってんだよ」
「……そうやって他人を貶すことが冗談なのかい?そういうことでしか、人を笑わせることができないのかい?」
「「………………」」
「彼女は、優しい人だ。少なくとも君らのように、むやみやたらに誰かを貶したりしない。口下手かも知れないけど、他人を思いやれる人なんだよ。そういう人が貶されるのが、僕は一番嫌いなんだ」
「「………………」」
「とは言え、友だちとの会話が盛り上がって、悪ノリでそういうことを言ってしまう気持ちも、まあ、分からなくはない。だから今回は水に流すけど……」
白坂くんは、はっきりとした声色で……最後に一言、こう言った。
「次は、ないからね」
……そうして、白坂くんは席から離れて、ボクの隣の……いつもの席へと戻ってきた。
「な、なにあいつ?ノリわりい」
「なー、意味わかんね。マジになんなし」
遠くの方で、男子たちの陰口がひそひそと聞こえていた。
ボクは薄く目を開けて、隣にいる白坂くんのことを見つめた。
いつになくムスッとした顔で、本当に怒っていることが伺えた。
「………………」
キーンコーンカーンコーン
昼休みを終えるチャイムが鳴り響く。ボクはそれに合わせてすっと身体を起こし、あくびをするフリをした。
「おはよう、黒影さん。今日は珍しく教室で寝てたね」
白坂くんはいつものように、優しい笑みを浮かべてくれていた。
「う、うん……。そうだね」
ボクは声が震えるのをなんとか押さえながら、彼へそう答えた。
「……?黒影さん、どうしたの?」
「え?」
「だって……その、泣いてる……から」
「……あ、ああ、これね」
ボクは目尻に溜まった涙を指で拭って、「あくびのせいかな」と嘘をついた。




