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百合の少女は悩み焦がれる④

「女官長様」

「女官長様」

「女官長様」


 毎日毎日、次々と女官長に決裁や判断を求めてくる女官達。

 それを忌々しく思うのは、百合亜の側近達だった。


 それぐらい自分で判断しろ--そう思う様な事柄もどんどん持ち込んでくるのは、下級女官と呼ばれる者達だった。これらは新入り又は能力がそれ程高く無い者達がこの地位に就き、続いてある程度の経験年数及び能力を示せば中級女官、そして大戦時代から百合亜に付き従い、または能力の高い者達が上級女官となる。


 上級女官達は必要な事柄だけ女官長に判断を仰ぎ、その判断は正に的確だった。中級女官達はそれには劣るが、それでもできる限りで判断し、過不足があれば上級女官達が助言する。


 しかし、新入りはまだしも、能力的に劣るとされて下級女官に居る者達の大半はただ言われるがままに仕事をしていた。


 自分で考える者達も中には居た。自分で考え、けれど能力的に足りずに下級女官となっている者達はまだ見込みがあった。


 だが、何でもかんでも上任せにしていた挙げ句、彼女達は度々仕事をサボっているのだ。休憩するなとは言わないが、油を売っても良いとは言わない。

 そして彼女達が休憩時間以外にも長く休む事のしわ寄せが、他の下級女官や中級女官、上級女官に来るのだ。しかし、百合亜はそれを良しとせず、増えた分の仕事を全て自分に来るようにしているのだ。


 このままでは女官長が倒れてしまう--。


 側近達が心配するのも当然だし、側近以外の上級女官達が心配そうに見つめるのも当然の事だった。



「このままでは百合亜様のお体が心配ですわ」

「全く、新入りならばまだしも、どうしてこれ位自分で判断が出来ないのかしら」

「神手不足でなければ、とっとと首を切るのに--」


 忌々しげな上級女官達の言葉に、右近と左近は溜息をついた。



「確かに、百合亜に負担がかかりすぎている」

「うちの所でももう少し自分の頭で考えるぞ」

「そうですわ! それも出来ない相手など、王宮にはいりませんっ」

「神手不足でさえなければ……」



 そう……絶対的な神手不足が、容易にリストラという手段を上の者達が選択肢として考えられなくさせているのだ。そうでなくても、王宮勤めは臨時でもなければそう簡単にクビは切れない。

 そして臨時どころかまず正職員の絶対数が足りないのだから、どうしたって正職員での採用となる。臨時なんて事になったら他に流れていかれないのだから。


 一応、王宮勤めは『花形』、『神気職』と言われている。しかし、相手だって生活があるし、今後の事だってある。保障やら何やらがしっかりしている方が良いだろう。


 また、百合亜もある程度そういった困った者達を突き放せれば良いのだが--そこが百合亜の良い所であり悪い所だった。

 見た目は厳しくてキツイし、中身だって厳しくてキツイ。自他共に厳しくとキツイ。


 けれど、百合亜は明燐と違って笑顔でバッサリと切り捨てるのではなく、怒りながらも相手を何とか引っ張り上げようとするのだ。


 百合亜自身気付いていないが、彼女は教師としての才能を持ち合わせていた。だからだろう。例えどんなに出来が悪くても、彼女は見捨てるどころか、必死になって相手を引きずり上げようとするのだ。


 しかしそれは相手が頑張ろうとしている時のみに有効で、そうでなければ逆に引きずり込まれてしまうだろう。


 現に百合亜はそうなりかかっていた。



「女官長様」

「女官長様」

「女官長様」

「女官長様」

「女官長様」



 彼女は大戦時代、現凪国国王の軍に拾われる前、たた一神で修羅を守ってきた。老若男女問わず、大枠の権力者達が狙う修羅を。


 彼を、たった一神で。


 最後は逆に守られてしまったけれど、それでも百合亜は修羅を守り続けた。誰にも頼らず、誰にも頼れず。


 だから彼女は誰かに頼るという選択肢がまずそもそも無かった。

 軍に拾われてからも、彼女は自分の能力以上の事を自分で行なおうとした。


 それは彼女の悪い癖だが、現実問題としては神員に余裕が無かった事も多く、仕方が無いと済まされていた部分もあった。

 しかしそれは一時的な物だったからこそ許されていたのであって、国を支える上層部の一神となった今、自分の能力を見極められないのは大問題だった。

 いや、能力は見極めている。ただ限界を知ってもそれを無視するのだ。


「何事も全力投球はあいつの良い所だが」

「時には撤退、周囲に仕事を振り分けるのも必要だ」

「やはり、明燐の方が良かったか? 女官長」

「いや、それは--」




『やはり、明燐の方が良かったか? 女官長』


 そんな右近達の声を、書棚を二つ挟んで聞いて居た百合亜は、手にしていた書物をソッと戻した。



『あ~あ、明燐様が女官長なら良かったのにぃ』



「……」


 百合亜は唇を噛み締め、別の書物に手を伸ばした。





「何ですかこの書類はっ」


 バシィと百合亜は女官長室の執務机にそれを叩き付けた。


「半分以上計算が間違えています! 足し引きも貴方は出来ないのですか?!」


 強く言うのは、いつもの事。けれど、今回ばかりはいつもの事では済まされなかった。


 身をすくませる下級女官に、百合亜は肘をついた手で頭を抱えた。


「この書類は明日までに財務省に提出する予定の物です。この書類が通らなければ、医薬殿に迷惑がかかる事は貴方も分かっている筈です。これは、医薬殿に新たな必要な備品の依頼申請をかける為に必要な物で、これが通る事によって新たな治療が行えるのです」


 もちろん、そんな大切な書類を下級女官に任せる方がおかしいのでは?という考えもあるだろう。しかし、今は空前絶後の神手不足であったし、いくら下級女官といえども、この先経験を積むことで中級、上級と官位を上げていくには沢山の経験を積ませて知識と技術を磨いてもらう必要があった。


 だから、百合亜は積極的に仕事を割り振ったし、下級女官達にだって重要な仕事を任せた。特に、今回の書類に関しては、目の前の下級女官が是非にと言ってきた事もあり、彼女に任せたのだ。


 しかし、これで十回目の再提出である。そして毎度のことながら、言われた箇所がきちんと修正されていない。

 前回などは、こことこことここを直してきてと、赤丸でチェックまでしたと言うのに。


「しかも、こちらとこちらの計算がおかしくなってます! 前回は合っていたのにどうして」

「も、申し訳ありませんっ」


 そう言って涙ぐむ姿は、とても女の子らしかった。そればかりか、思わず守ってあげたくなる様な可憐さを滲ませていた。

 さながら、このか弱き少女をいびる継母の様な感じに周囲からは見られてしまうかもしれない。


「--もう一度直しなさい」


 十回も同じ間違い--しかも、更に間違いを増やされれば、普通ならその仕事は取り上げられる。しかし、百合亜はそこで切り捨てずにもう一度チャンスを渡す。


 他の部署ならとっくに切り捨てられている。


 それは慈愛と慈悲の女神よりも遙かに優しかった。


 だが、そんな百合亜の優しさに気付かない者達はどうやったって気付かないものなのだ。




「女官長様、少しお休み下さい」

「そうですよ、今日もあまり食事が取れていないですし」


 百合亜の側近達は、意地でも書類から手を離さない主を心配する。そんな彼女達に向けられる視線は、相変わらずの厳しい視線だった。


 本来であれば、いくら側近とはいえその厳しくキツイ視線は彼女達ですら震え上がらせるが、今彼女達を占めているのは『主の心配』その一つであり、それは視線がもたらす恐怖を上回っていた。


「ありがとう。ですが、今は先にこちらの書類を仕上げないと」

「では、私達が」

「なりません。既に貴方達にはかなりの量を割り振っています」

「しかし、それでも女官長様の受け持つ量に比べればかなり少ないです」

「それでも駄目です。そうですね、貴方達は今請け負っている仕事が終わりましたら、一度休憩に入りなさい」

「女官長様!」


 しかし、百合亜はそれ以上の反論を許さず、自分の仕事に集中してしまった。書き上げた書類を次々と整理し、それらを中級、下級女官達に運ばせる。


 それらは、各部署の書類であり、各部署の書類整理を手伝うという仕事だった。それ以外にも、女官の部署で必要な書類作りも有り、女官長はそれを一手に引き受けていた。


 頭痛を堪えながら、目の下に隈を作りながら女官長の名に恥じぬ仕事を行なう姿は鬼気迫る物さえ感じさせた。




「あんまり良くない傾向ねぇ」



 それを窓の外--少し離れた建物の屋根から望遠鏡で観察していた茨戯は、やれやれと軽く頭を振った。



「どうすんだ?」


 後ろから声をかけてきたのは、典晶だった。彼はたまたま自分の職場に行く中で、たまたま建物の屋根の上から望遠鏡を使用する神物を見付けた。

 それが上層部仲間である事は分かっていたし、彼がそれをするのは別に珍しい事では無かったが--見ている方向が気になって上がってきた。


「百合亜、ま~た無理してるのか?」

「そう。あの子、限度を知らないで頑張っちゃう所があるからねぇ」

「根が馬鹿がつく程真面目だからな。もう少し手抜きすれば良いのに」

「アンタみたいに手抜きばかりしてるのも問題だけどね」


 茨戯にピシャリと言われ、典晶は「うぇぇ」と嫌そうな声を上げた。その美貌は、それは麗しく可憐なものだが、何故か彼がそんな声を上げてもその美貌と魅力を損なう事は無かった。


「ってか、アンタ仕事は?」

「もちろん、終わらせてるに決まってるだろう? 俺は要領が良いからな」


 胸を張る典晶に、茨戯は呆れた。


「自分で言ってりゃ世話無いわ。--なら、百合亜の仕事を手伝いなさいよ」

「無理だね」

「あん?」

「部下の言う事さえ聞かないあいつが、他部署の俺の言う事なんて聞くもんか」

「--余所様に迷惑をかける事を激しく嫌うからね、あの子」

「そしてぶっ倒れるよな。俺、修羅が医師を目指したのって、百合亜と自分の子の出産に全力を尽くす為以前に、倒れた百合亜を治療したり看護する為だと思う」

「言えてるわ」


 なかなか鋭い典晶の考えに、茨戯は素直に感心した。


「……最終兵器持ち出すか?」

「どうやって? 今の百合亜は『後宮』に足を絶対に向けないわよ? 仕事が立て込んでるんだから」

「この前は行っただろ?」

「色々と手を尽くしてね。それだって、数時間で仕事に復帰しちゃうし」


 一服盛れば良かった--そう呟く茨戯に「お前、悪女だな」と典晶は心の中でだけ呟いた。


「とりあえず……果竪には歌うように伝えておくわ」

「あ、俺、『遙かなる子守歌』が良い」

「アンタの希望を聞いてどうすんのよ」

「百合亜もぜってぇ好きだって! それに、果竪の歌をじっくり聴けるなんてそうそう無いし」

「アンタねぇ……」


 例え、『後宮』の奥深くであろうとも--。

 それが『後宮』の最奥の宮で歌われようとも。


 その声は、遠く離れた自分達にしっかりと届く。



「ま、それも希望に出しておくわ。でも、百合亜が好きな歌は『母なる水の旋律』よ」

「あ、それ俺も好きだ」

「大抵が好きだと思うわよ--アタシもそうだし」



 大戦時代、自由気ままに歌っていた果竪の『歌』は、後に様々な題名がつけられその後も歌い続けられる事となる。

 それ以外にも、各地に伝わる歌を果竪は実に正確に、見事に歌いきった。


「本当は神術が使えれば良いんだけど」

「眠りの術か? バレたら怒られるぞ」

「それをバレない様にするのが、『海影』の腕の見せ所よ」


 そうなのか?そういうものなのか?『海影』って仲間に術をかけてバレない様にする為の組織か?


 典晶は考えた末に、とりあえずツッコみたい気持ちを飲み込んだのだった。




「ふぅ……」


 ようやく百合亜の仕事が一段落したのは、それから三日後の夜明け少し前の事だった。百合亜は既に冷たくなった夜食のお粥を口にする。

 食べやすいように、じっくりと煮込まれたそれは、刻んだ野菜とお肉も混ざっていた。


「美味しい……」


 冷えても美味しいそれは、百合亜の大切な部下達が作ってくれたものだ。いつも満足に食事をしない百合亜を心配して、いつもいつも食事の用意をしてくれていた事は分かっていた。


 それでも、忙しくてなかなか食べられなかった分、百合亜はそれを一口一口味わうようにして食べた。


 だが、すっかり小さくなってしまった胃は全量を受け付けず、半分ほど食べた所で百合亜は疲れて眠ってしまった。しかも、座ったまま執務机に倒れる形で。


 起きた時には、執務机の上には何も無かった。あれほど積み重なっていた書類も無い。起きたら運ぼうと思っていたのに。


 ただ一枚のメモ用紙だけが残されていた。



『食堂でゆっくりと食事をして下さい』



 見覚えのある部下の達筆な筆跡に思わず苦笑が零れた。



「……久しぶりに、行ってみようかしら」



 仕事が全て終わったわけではないが、とりあえず食事をするぐらいの時間はあるだろう。今までにだいぶ頑張ってきたおかげで、百合亜は久しぶりに少しだけ穏やかな食事の時間を得られそうだった。


 百合亜は皺になってしまった女官服の代わりに新しい女官服を手に、まずは湯殿へと向かう。職員用の湯殿は、二十四時間いつでも開放されている。だからまだ朝早い時間ではあるが、百合亜はゆっくりとお湯につかる事が出来た。


 そうして、途中で洗濯場に立ち寄り、皺になった女官服の洗濯を下女達に頼んだ。


「……」

「……」

「……」



 ガタガタと子リスの様に震える下女達は、残念な事に新神だった。その後、すぐに下女頭の側近がやってきて代わりに洗濯物を請け負ったが……。


「ごめんなさい」

「いや、百合亜のせいじゃないだろう」


 相変わらず悩ましくも見事な腹筋を持つ下女頭こと、上層部仲間の女性はそう言ってパタパタと顔の前で手を横に振った。


「私の顔が凶悪だから」

「いや、迫力系美女の間違いだろう」


 こう、威圧感が凄くて、全身から厳しくキツイものが放出されているが……美女なのだ、百合亜は。もう研磨しまくった宝石の様に硬質的な輝きではあるが、美女なのだ。


 視線がきつすぎて、大抵の者達には喧嘩を売られているようにしか感じなくても、美女なのだ。


「確かに最初に百合亜を見た時には、その」

「喧嘩を売られたと思いましたよね? 分かってます」


 危うく何神かに殴りかかられそうになるわ、他の何神かに掴みかかられそうになるわ、怒鳴られ、怒り狂われ、罵詈雑言を浴びせられた事など何度もあるし。

 反対に怯えて泣かれたり、震えられたりもあった。


 キツイ、恐い、厳しい、恐ろしい--そんな言葉ばかりかけられてきた百合亜だ。下女頭が何を言いたいかなんてすぐに分かった。


「それは最初に限った事だ」

「ありがとう。でも、今だって喧嘩を売っていると勘違いされる事も多いですし」


 分かっている、分かっているのだ。

 それでも、周囲は百合亜のキツさに喧嘩を売られているとしか思えない時があるのを否定する事は出来なかった。いや、時どころかいつも喧嘩を売られている--なんて思う時もある。


「百合亜、百合亜は自分を過小評価している」

「いえ、そんな事はありません。私は私のキツさが周囲にもたらす影響を正しく理解しています」


 むしろ過大評価すらしている--と胸を張る百合亜に、下女頭は何とも言えない顔付きとなった。そんな妻の表情に、妻に用事があってその場に現れた下男頭が驚いた様に駆け寄ってきた。見た目は、匂い立つ様な妖艶な美女たる美貌の下男頭は、一体誰が妻にそんな顔をさせたのか?と周囲に視線を向け--。


「……」

「……」

「……」

「……お面」


 いやいやいや。


 夫婦揃って、百合亜を止めた。


「ひょっとこが駄目なら、こちらで」

「それ! 包丁の妖精さんのだろっ」

「余計に恐ろしいからやめろっ」

「馬鹿! 百合亜は恐ろしくないっ」

「いや、そこは冷静に考えてくれ、妻」


 そう言った下男頭だが、恐ろしいのは百合亜の醸し出すキツイ雰囲気と厳しすぎる視線と、その他色々なものであって、百合亜の中身が良い子なのは彼だって理解していた。


 本当に、美しい美女だと言うのに、そのキツイ全てが彼女の美しさを覆い隠してしまっている事が酷くもったいないとすら思う。

 しかし、覆い隠してくれたからこそ、百合亜に魔手が伸びなかった事を考えると、それはやはり『天からの贈り物』なのだ。


「と、とにかく! 食事前に寄っただけだろ?! 洗濯はこっちでやっておくから、さっさと飯をくっちまえ!」

「そうだ、妻の言うとおりだ」


 そうして夫婦で百合亜を食堂の方へと押していった。だが、彼等も仕事があるので、途中から百合亜一神になった。



「私は、周りに気を遣わせてばかり」


 むしろ百合亜の方が何十倍も何百倍も気を遣っているが、百合亜からすれば周囲が自分の為に沢山気を遣ってくれている様にしか思えなかった。



 周囲を心配させてばかりの自分に、百合亜は自己嫌悪に陥る。それはいつもの事だった。周囲は百合亜に酷い事をした--と思って居る節があるが、それは仕方の無い事なのだ。

 だって、百合亜は周囲を怖がらせてしまう。


 百合亜自身はそんな気持ちは全く無い。

 周囲と争いたいなんていう気持ちはないし、ましてや周囲を怖がらせたいとも思わない。


 思わないが、百合亜の意思とは裏腹に百合亜のキツさは周囲を怖がらせ怯えさせ、恐れさせてしまう。喧嘩を売っているとさえ思われる。


 自分が苛められている、酷い扱いを受けていると思わせてしまう。


 百合亜はそれが嫌だった。

 申し訳なくさえ思った。


 本当は、百合亜は神前に出てはいけないのだ。


 多くの者達の目に触れるようになれば、余計に周囲の心を疲弊させてしまうだろう。


 百合亜は出てくるべきでは無かったのだ。

 いや、そんな事はとっくの昔に分かり切っていた。


 なのに--。



 それでもなお、こうして居るのは--。




「もう本当に腹が立つっ!」


 聞こえてきた声に、百合亜は反射的に物陰に身を隠した。その時はどうしてそんな事をしたのかは分からない。ただ、まるでそれが自然だと言わんばかりに彼女は、大戦時代と同じように息を潜め気配を消した。


 賑やかな話し声の持ち主は、女官達のものだった。

 主に下級女官と呼ばれる者達が多いが、中に数神の中級女官も居た。


 美しくうら若い女官達が連れだって歩く様は本当に華やかであり、そこだけ光が差込んでいるようだった。


「そんなに怒らないの」


 腹立たしげに地団駄を践む女官に、他の女官が慰めの言葉をかける。それは心から同情しているのが目に見える声音だった。


「仕方ないじゃない! ああもう、あのお局、本当に有り得ないわ」


 そう言ったのは、何度も書類の計算を間違えたあの女官だった。彼女は愛らしい顔を苦々しげに歪め、まるで呪詛の様に言葉を吐いていく。


「確かに相変わらずキツイ方ではありますが」


 他の女官も同意する。


「キツイっていうか、可愛げがないじゃない! ってか、あんなのがよく上に立てるわよね!」

「確かにね」

「やる気失っちゃうわ」


 クスクスと周囲が笑う--その笑顔は、悪意に満ちていた。


「こっちは一生懸命やってんのに、煩いったらありゃしない! 何よ、たまたま運が良くて上層部に入っただけのくせして」

「そう? 能力は高い方だと思うけど」

「どうだか! というか、女官長は上層部の中では下っていう話は有名じゃない。まあ、その噂は確実に真実だろうけど。あんなのが上だなんて有り得ないわ」

「確かにヒステリーよね、凄く」

「こっちに欲求不満とかぶつけてきてんじゃないの? 自分はロクな仕事をしてないくせに」


 百合亜の胸を、毒のある言葉が貫き続ける。


「一生懸命やってんのにいつもキーキー煩くて! ああいうのが上だと、本当に頑張ろうとする気持ちがなくなっちゃうわ」

「確かにいつもいつもキーキーキャァキャアワアワア煩い方よね」

「怒ってばかりだし、そもそもあんなキツイ顔で怒られると完璧にやる気がなくなるわ」

「そうよ! 頑張ろうっていう気がなくなるのよっ」

「あら? 貴方、そんなに頑張ってるの?」

「頑張ってるわよ! 私なりにね。なのに相手の頑張りも認められないなんて、やっぱり上に立つ資格なんてないわ。というか、どうしてあんなのが女官長になれたのかしら?」



 あ~あ、と女官は残念そうに言った。



「あんなヒステリーババアより、美しくて綺麗で愛らしい凪国一の美姫と名高い明燐様が女官長だったら良かったのに」

「まあ、明燐様は本当に才色兼備で文武共に秀でた素晴らしいお方ですしね」

「明燐様こそが凪国一の美女よ! というか、あの方は王妃にだってなれるわ! なのに、侍女長なんて……今頃、あの無能で地味な王妃にこき使われて我が儘を言われまくっているんじゃないかしら」

「むしろ、女官長が侍女長の方が良かったんじゃない?」

「言えてる! 流石に女官長も王妃様にはキツク出来ないんじゃない? むしろ、自分がキツクされるわ。ああ、そう考えると凄く楽しいわね!!」


 ケラケラと女官が笑うと、他の女官達もクスクスと笑い出した。


「それに無能の王妃に、口だけ煩いヒステリーババアなんて最高の組み合わせじゃない? というか、私は明燐様の下で働きたいし、何よりも王妃様となった明燐様の下でお仕えしたいわ」

「私も仕えたいわ」

「わたしもよ」

「やっぱり、明燐様は素敵よね」

「それに比べて、女官長は本当に最悪!」


 そう言うと、酷く不憫そうな声が聞こえてきた。


「しかも、医務室長様--修羅様まで振り回しているって話だし」

「ああ、確か女官長と修羅様は大戦時代、軍に入る前から一緒に居たとか」

「女官長が脅して修羅様に言う事を聞かせていただけでしょう?! きっと奴隷のようにこき使ってきたのよ! あんなにキツいんだから--ああ、可憐で愛らしい修羅様があんな女に好き勝手に扱われるなんて本当にお労しいわ」

「修羅様は確かに素敵よね」

「むしろ、あんな素敵な方が女官長と知り合いだなんて、絶対におかしい、世の中間違ってる」

「案外、修羅様も思ってるんじゃない? 女官長は女官長という大役に相応しくないって」

「それは修羅様だけじゃないでしょう?」

「絶対に、他の方達も思ってるわ。だって私、聞いたもの」


 一神の中級女官が、愛らしい声に毒を詰めて口にした。



「『やはり、明燐の方が良かったか? 女官長』とか『百合亜には向いていないかもしれない、女官長は』とかって。ああ、他にも沢山あったけど」



「ふふ、やっぱり女官長は女官長に向いてないのよ。みんな迷惑しているんだから、さっさと辞めれば良いのに。そして明燐様が女官長になって下さればみんな幸せになれるんだから」



 その後もクスクスと笑いながら女官長に対する不平不満と、いかに明燐が素晴らしいかを可愛らしい澄んだ笑い声を上げながら話しつつ、女官達はその場を離れて行った。


 気付けば座り込んでいた百合亜は、しばらくの間身動き一つとれなかったが……やがてため息をつくと、ゆっくりと立ち上がり、歩き始めた。


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