百合の少女は悩み焦がれる③
「百合亜、なんて可哀想なんだ」
いつも飄々としてお気楽マイペース。
楽しみを覚える為には悪戯だってお手の物な筆頭書記官--朱詩は、忠望に抱えられてきた百合亜に驚愕するものの、それまでの経緯を聞いてそう慰めた。
「仕事、後にした方が良いかな?」
「そんな暇はありません」
百合亜はそう言うと、上級女官から渡された書類を手に、テーブルを挟んで朱詩と向かい合った。
近くには忠望が他の官吏から自分宛の書類を貰っていた。本来であれば忠望はまだ此処には来なくても良かったが、来たからには仕事を終わらせろと朱詩の意を受けた官吏に次々と書類を押しつけられてしまっていた。
「とりあえず、これとこれ、あとこれを財務省、こっちは科学省、こっちは宰相のとこで、これは陛下ね。あと、これらが軍部の所で」
「では、こちらが医薬殿、これが『海影』、それでこれが」
「うんうん、ばっちり正解!」
朱詩率いる書記官達は、あらゆる会議の書記を行なったり、会談やその他書面で残さなければならない重要な行事などでその辣腕を振るう。
特に会議などでは後で言った言わないの争いが起きないよう、また国際的な会談はその最たるもので、それらを防ぐ為にも書記達は重要な立ち位置に居た。
また、書き留める--という事から、書物を管理する部署とも関連性が高く、特に古い古書の書き直しに協力したり、昔の古代文字を現代文字に書き直したり--と仕事は山のようにあった。
『文字の職神』--その名の通り、彼等に文字を操らせれば右に出る者は居ない。
ちなみに、朱詩は外交官の仕事も兼任している事からも、外交関係の者達とも関連が深く--彼等が他国に赴く時には、書記官も同行するのが常だった。
だから、朱詩だけではなく、他の書記達も外交官を兼任していたり、兼任せず書記に徹していたとしても外交官の側で仕事をする事は多い。
今回、他国訪問が何件か続く為、各部署との調整が必要だった。特に書記は各部署に必要とされる為、そちらの調整も行なわなければならない。
「大変だと思うけど、頼むね」
「勿論です」
百合亜はそう言うと、書類をぱらぱらとチェックしていく。そんな百合亜に、お茶とお茶菓子が提供されるが、百合亜はそれに手を付ける事は無かった。
「百合亜、今日はお昼食べたの?」
「食べ……」
百合亜は朱詩に問いかけられ、考えた。食べ……食べた?……いや……食べた……記憶は無い。
「食べていません」
「やっぱりぃ! もう!! また痩せたんじゃないの?!」
朱詩はぷんぷんと頬を膨らませて怒った。
「そうですか?」
「鏡見てる?!」
「見てますが」
その自分でもキツイ眼差しと容姿しか目に入らないと伝えれば、朱詩は両手で顔を覆った。
「……百合亜、神生はまだ長いんだよ?」
百合亜はまだ成神前だ。たとえ、見た目が超有能キャリアウーマンお局様であったとしても、彼女はまだうら若すぎるぐらい若い十代なのだ。
「ええ、お先真っ暗です」
そして残りの神生をこのキツイ容姿と共に生きていかなければならない自分を思えば、幾ら諦観や達観しきっている百合亜でも、少々気が重くなってくる。
もう自分には乙女心は存在していないというのに。
「百合亜」
朱詩の声の調子が変わった事に気付いて書類から顔を上げれば、朱詩の姿が無かった。ギョッとした百合亜は、右頬に甘い息が吹きかけられるのを感じて反射的に振り返ろうとして、動きを止めた。
「そんな事言わないの」
朱詩が百合亜の隣に座り、百合亜の肩を抱いた。百合亜は朱詩よりも身長がある。女にしては身長が高く、可愛らしさとは無縁だ。
いくら美神でも、身長は男並に高いし、目つきはキツイし、顔立ちだってキツイ--。
だと言うのに、まるで女の子扱いをする様に朱詩は百合亜の肩を抱く。
「百合亜は凄く魅力的なんだから」
「朱詩」
一番最初は修羅が言ってくれた。
そして、次は果竪。
その後、そういう風に言ってくれる者達が増えた。
上層部やそれに準ずる者達--。
それで終わりだ。
他の者達には「喧嘩売ってんのか?!」と怒られ、「申し訳ありませんっ」と怯えられ、「……」と震えられた。
もちろん今でも、時と場合によっては、上層部やそれに準ずる者達がそういう風になる事はある。
「朱詩だって、私が喧嘩を売っていると思う筈です」
「視線だけならね」
視線だけなら、それだけで分厚い壁を射抜けそうなものである。
「性格もキツイです」
「上に立つものは時として厳しくキツクなきゃねぇ」
正に鬼教師、いや、スパルタ教師の様に女官達を動かしていく様は、軍隊の鬼教官達にも匹敵する。
「あの逸材、欲しい!」
と言った某将軍が
「あぁ?」
という、修羅の一声に恐怖して数日引きこもったのは記憶に新しい。
だが--
「何をしているのです貴方達」
「そこ! 仕事中ですよ!」
「この書類をすぐに各部署に伝達しなさい。五分以内に」
「この程度の事が出来なくて何が女官ですか! これでは他部署に顔向けが出ませんっ!」
「自分の体調管理ぐらいしっかりと行ないなさい!!」
キツイ眼差しと厳しく張りのある声が生み出す言葉の数々は、朱詩が思い出しても軍の鬼教官達に全く負けていなかった。
むしろ、上級女官達なんて百合亜の一声があれば、一糸乱れぬ行進だって出来る。
まあ--そもそも、上級女官達の殆どは、大戦時代は百合亜に付き従っていた者達だから当然と言えば当然だが。彼女達は、自分達で決めた主である百合亜の下で戦っていた。
「……朱詩は優しいですね」
「ん?」
「朱詩だけじゃないです。みんな--」
優しい。
そう、優しいのだ。
こんな、相手を怖がらせる事しか出来ない自分なんかに。
部下の女官達にだってそうだ。
本当ならもっと優しくしてあげる事だって出来るのに、何故か口から出る言葉は厳しい言葉ばかりだ。
「百合亜の方が優しいと思うよ? ボク、冷たいもん」
「本当に冷たかったら、こんな風にはしてくれません」
「それは百合亜が可愛いからさぁ! あ、勿論ボクの」
「唯一の神は小梅だけですね。当り前ではないですか」
「ふふ、ありがとね」
朱詩は百合亜に笑いかけると、その額に自分の額をコツンとくっつけた。
「こういうの、今では果竪にしかやらないんだからね」
「では、私は特別って事ですね」
「そうそう。このボクに特別扱いさせるぐらいなんだから、百合亜はとびっきり素敵な子だよ」
「お世辞でも嬉しいです」
「あ~~! もうっ! そんな風に言うんだからぁ」
朱詩はぷんすか怒るが、百合亜は思わずクスクスと笑ってしまった。
その時、丁度部屋の扉が開いた。
「朱詩、こっちの用件だけど」
書類を片手に入ってきたのは、医務室長である修羅だった。そんな彼の目に、朱詩と百合亜が額を付き合わせてクスクス笑い合っている姿が入った。
「……」
修羅は無言で、自分の武器を構えた。
「はぁ~~、お茶が美味しいですねぇ」
「そう思うのなら、書類から手を離して飲んでくれ。むしろ休んでくれ」
「休めませんよ、この書類の量ですから」
のほほんと言いながらも、凪国国王--萩波の右手は筆を握り高速で書き物を行ない、左手は湯飲みを掴んでいた。しかし、その湯飲みも下ろされると、代わりに判を掴んで次々と押していく。
「陛下!!」
凪国宰相--明睡がぶつぶつと言いながらも、空になった萩波の湯飲みにお茶注ぎ足そうとしたその時だった。部屋に官吏が駆け込んでくる。
「どうしました?」
上層部--朱詩の側近の一神に、萩波は首を傾げた。
「朱詩様と修羅様が取っ組み合いを始めましたっ」
「気分転換の運動ぐらい見逃してあげなさい」
「いや、どう考えても違うだろ」
萩波に思わずツッコミを入れた明睡は、代わりに側近から事情を詳しく聞いた。
「また百合亜がらみでの喧嘩か」
「『私のために争わないで』っていうあれですね」
「争っている方が余程ヒロインだけどな」
甘さも可愛さもない、キツイお局様的容姿の百合亜を巡る麗しき美姫二神の戦い--これが百合亜を知らなければ、きっと明睡はお腹を抱えて大笑いをしただろう。
「百合亜の『キツサ』は『天からの贈り物』ですよ」
「--ああ」
「百合亜を守る『鎧であり盾であり剣』なのです。それも、見事に彼女を守りきり、そして今も守り続ける--でなければ、百合亜はとうの昔に食い散らかされていました」
「……」
「修羅を襲ったあの--領主ですか。あいつも馬鹿な事をしましたね」
「……」
「確かに修羅は美しいですが、それで百合亜という『美女』をあっけなく殺そうとしたんですから」
クスクスと笑う萩波に、明睡は大きな溜息をついた。
「あれほどまでに『キツク』なければ、確実に手を出されていただろう--たとえ、本命は修羅だとしても、側室ぐらいには確実にされていた筈だ」
「そうしたら、修羅が何をしたか分かりませんが……そう、領主は全てを搾り取られて、それはそれは楽しい思いをさせられたでしょうねぇ?」
「正に『天からの贈り物』だな」
「塞翁が馬という言葉もあります。だから、百合亜は全くそれを引け目に感じる事なんて、本当は無いんですよ。好きな事を言う者達はどこにでも居ます。勝手に言わせておけば良い。誰がどれだけ好きな事を言ったからどうだと言うのです。誰が何を言おうとも、修羅が居るではないですか」
「むしろ自分の側に修羅が居る事で修羅に迷惑がかかっている--と思っている節もあるが--今回の件で特に」
「修羅と朱詩が戯れているのはいつもの事でしょう? 好きにさせておきなさい」
「また財務省長官が切れるな」
「それもいつもの事ですよ」
萩波は朱詩の側近に幾つかの事を命じ、部屋から出した後は再び書類へと視線を戻したのだった。
「どうしてあの二神はいつも喧嘩をするのでしょうか」
「それは、まあ、なぁ」
「なんというか」
今日は朝から門番達の早朝ミーティングに参加した百合亜は、書類を手早く纏めながらポツリとそう呟いた。
門番達の長にして、上層部仲間の双子門番--右近と左近は、視線を彷徨わせながらそう答えた。彼等は別に百合亜の威圧感にたじろいでいるのではない。百合亜の疑問になんと言って良いか分からないだけだ。
「右近様、こちらの資料を」
「左近様、こちらに関しては先にお届け致します」
「ああ、頼む」
「早くて助かる」
今日は百合亜以外に二神の上級女官を連れて来ていた。彼女達はてきぱきと仕事を行ない、動いていく。
「百合亜、食事は取れているか?」
「--私、そんなに食べていないように見えますか?」
「なんか少し痩せた気がする。他の奴らは言ってなかったか?」
「……朱詩が」
「だろうな」
右近と左近が心配そうにこちらを見つめる。
「右近、左近」
彼等の名を呼ぶと、彼等は視線を逸らした。うん、分かってる。
「お面」
「いや、いらないから」
「笑いを提供しないでくれ」
「茨戯はお面を被っても、私の怖さは隠しきれないと言っていました」
だが、それは二枚重ねの話である。三枚重ねならきっと大丈夫だ。
「いやいやいや、やめよう」
「というか、そんな事する必要はないだろう?」
「--視線を貴方達に逸らさせるぐらいなら」
どこか悲しそうな様子だが、それすらも「てめぇら、この私をこんな風にしてナメたまねしくさってんじゃねぇぞ!」という感じに変換された挙げ句、どうしても喧嘩を売られている様にしか見えない。
右近も左近も時と場合によっては喧嘩っ早いものの、これに関しては買う気はない。実際に百合亜は喧嘩など売ってないのだから。
まあ、最初の頃は喧嘩を売られたと誤解する者達はかなりの数が居たが。
そういえば、修羅以外は萩波と果竪だけが喧嘩を売られた様には感じなかったという。やはり、萩波と果竪は凄い。お似合いの夫婦--夫婦?
「右近、どうした?!」
「左近、俺を殴ってくれ!」
「なんでだよ!」
突然殴れと言い出した双子の片割れに左近は驚いた。百合亜も驚いた。
「百合亜でも良い! 俺を、俺を殴ってくれ!」
「嫌です」
彼女は驚きながらも冷静に対応した。
「何故だっ!」
「殴る理由が無いからです」
正論だった。
「殴る理由ならある! 俺は許されない事をしたんだっ」
脳内で萩波と果竪をお似合いだと思ってしまった。そんな果竪に対して激しく失礼な事を思ってしまったのだ。
「強烈なのを一発頼む!」
懇願されてしまった。左近はどうやって片割れを止めようかと迷った。あと、百合亜に迷惑をかける片割れをどうドツこうか考えた。
「右近、百合亜はこれから食事があるから駄目だ」
「食事前の運動は必要だろ」
「冷静になれ! なんでそんなに殴られたいんだよっ!」
Mか?被虐的思考の暴走か?!
片割れとして左近は右近を止めなければならない。
「……分かりました」
「百合亜?!」
「右近がそれ程困っているのなら、私は全力を尽くさなければ」
「いやいやいや、右近少しおかしくなっているだけだから。少し休めば元に戻るから」
むしろ今すぐ落すから関わらないで下さい--と左近は百合亜に懇願した。
「ですが、それでは左近に負担が」
「いや、俺の負担なんて微々たるものだ。産まれた時から一緒だからな。それより右近を殴らなきゃならない百合亜の方が大きな負担だし、殴れば絶対に百合亜は罪悪感を抱くだろう?」
何神も殴って足蹴にして踏んづけてきた様な美貌の持ち主だが、それは所詮見た目だけである。内面はごく普通の少女なのだ--百合亜は。
明燐のように、相手を踏みつけねじ伏せ、痛めつける事に快感を覚える様な輩では無い。
「それより百合亜はまだ朝食は食べてないだろう?」
「仕事が」
「手づかみで食べられる物を用意させているから、ここで食べていけ。他の女官の分もあるから」
「女官長様、私お腹が空きました」
「私も少し食事をさせて戴いて宜しいですか?」
女官達がそう言って、左近の提案に賛成する。
「ほら、部下達もそう言ってるし、部下達の健康への気配りも上司の勤めだろう?」
「……わかりました」
百合亜は頷き、食事を一緒に取る事にした。
「あいつ、あんまり食事を食べてないだろう?」
「それは、右近様と左近様も同じではありませんか」
「俺達は時間がある時にバクッと食べるから大丈夫だ」
「よく食べ歩きならぬ食べ走りしてますしね」
食事中も書類を手放さず、片手に食べ物を持ちながら室内の書棚にある書物を手に動き回る百合亜を見ながら、右近と左近、そして百合亜の側近である上級女官達はひそひそと話し合う。彼等だって、書類を手にしてはいるが、流石に今は忙しなく動き回ったりはしない。
「きちんと寝られているか?」
「……」
「何徹目だ」
「五徹目」
「「寝せろ」」
右近と左近は同時に命令した。
「絶対に倒れるだろ!」
「しかし、百合亜様は聞き入れては下さいません」
「それに、仕事も本当に多くて……」
「……まあ、女官の仕事はかなり忙しい部類に入るからな。侍従達もそうだが、各部署の使いっ走りやら調整やらもやれば、王宮と『後宮』の使いっ走りや調整、その他様々な雑務を行なう部署だ。俺達もそれで大いに助けられているから」
「それだけではありません」
「仕事を増やす愚か物共達が居るのですわ」
「は? どこの部署に」
「うちの部署です」
上級女官達は忌々しげに告げた。