残月(脚本)
1 河川敷・橋の下
ラジオを聴いている多田博(62)。
ラジオから流れるベイスターズの野球実況。
多田、震えた手でタバコに火をつける。
2 廃れた道
ラブホテルから出てくる若い男女。
街を監視するようなカラスが一羽。
段ボールを乗せたリアカーを引いている
多田。
多田、汚れたジャケットとスウェット姿。
ラブホテルの前で口論になっている伊勢崎真理(30)と伊勢崎渡(30)。
真理「良いから車出してって言ってんの」
渡「何年耐えたと思ってんだ」
渡、真理の手を掴む。
真理、その手をはらう。
真理「痛い」
渡、真理の腕を再び掴む。
渡「なんなんだ。愛していないならそう言えっ」
真理、座り込んで伏せる。
真理「痛い。痛い」
3 車内
真理と渡の様子を見ている伊勢崎加奈
(7)。
真理と渡の横を通り過ぎていく多田の姿。
4 廃れた道
ただ無関心にリアカーを引いていく多田。
5 倉庫
リアカーから段ボールを積み下ろす遠野忠(19)。
遠野の作業を見ている多田。
遠野「俺、筒香四番はやめた方が良いと思うんすよ。転がすのうまいじゃないですか。あたったらホームラン外しても最悪、進塁打。あ、座っててください」
多田、それでも立ったまま見ている。
遠野「適材適所。おやっさんも俺も本当はこうしてるべきじゃないかもしんないすね」
遠野、段ボールを奥へ持っていく。
リアカーに段ボールが一つ取り残されている。
それを見つめる多田。
多田の元に戻ってくる遠野。
遠野、多田に百円玉を手渡す。
遠野、多田の肩を軽く叩く。
遠野「(満面の笑みで)どうっすか。二番筒
香なんて」
6 廃れた道
段ボールが一つ残ったリアカーを引く多
田。
多田、リアカーを路肩に留める。
多田、自動販売機の前に立つ。
多田、立ったまま前傾になり自動販売機の下を覗き込む。身体が柔らかい。
ふと隣に同じように覗き込む加奈の姿。
多田、ゆっくりと身体を起こし辺りを見るが加奈以外誰もいない。
加奈、多田を見つめている。
7 廃れた道
リアカーを引く多田。
ゆっくり振り返る多田。
距離を置いてついてきている加奈。
多田、少し歩くペースを速めて角を曲がる。
多田、止まる。
加奈、角から顔を出す。
多田、加奈と向き合う。
多田、加奈の上方を睨んで奇妙に唸る。
多田の口から涎が落ちる。
加奈、多田を屈託なく見ている。
8 河川敷・橋の下
力なく座り込んでいる多田。
加奈、川辺でうろうろしている。
多田、半分になったタバコをポケットから取り出し火をつける。
カラスが飛んでいく。
マキタの声「あなたの子じゃないでしょう」
隣にいつの間にか立っている警官服姿のマキタ(54)。
無関心にタバコを吸い始める多田。
マキタ「くたばるまでの時間稼ぎですか。ええ、今日もあなたには何も見えていなかった。所詮、時代に忘却される残滓。さようなら。さようなら。そんな声も聞こえませんね。ええ、だから。あなた。彼女にもあなたは見えていない。彼女をめいいっぱい愛するが良いさ」
タバコの煙に加奈の姿が重なる。
マキタ、多田の手に拳銃を握らせ、タバコが落ちる。
マキタ「あなたに殺して欲しい人がいます。
率直に、私の部下ですよ。彼は本当に優
秀な巡査です。まもなく彼は昇進して私は追い出される。いえ、そういうことではありませんとも。……率直に、私は彼に恋している。彼に……(涙ぐむ)……彼に……私は見えていない……」
加奈、多田の前に立っている。
多田の手に握った拳銃が加奈に向いてい
る。
マキタ、立ったままただ泣いている。
多田、呆然として加奈の上方を見つめる。
多田、発砲する。
加奈、倒れている。
多田、ハッとしてゆっくり視線を加奈におろす。
加奈、何ともないようにそこにいる。
加奈の手には濡れた大洋ホエールズのキ ャップ帽が握られている。
多田、拳銃を捨て加奈を抱き寄せる。
マキノの姿は消えている。
多田、加奈の肉体を震えた手で擦って確かめる。
加奈、持っているキャップ帽を多田に被せて笑う。
9 廃れた道
リアカーを引くキャップ帽を被った多
田。
リアカーに段ボールと一緒に乗っている
加奈。
通行人、彼らに無関心に通り過ぎる。
10 倉庫
リアカーから段ボールを積み下ろす遠
野。
リアカーに乗っている加奈。
多田、座ってタバコを吸っている。
遠野「高木豊。あれはベイスターズの星っすよ。やあ、景気良い走りっすね。個人的にはやっぱあの三盗っすね。完全に牽制よんでますよ。あれは」
多田、何度か頷く。
遠野「良いんじゃないっすか。良い感じっすよ」
遠野、段ボールを奥に持っていく。
段ボールがリアカーに一つ取り残される。
加奈、その段ボールを遠野の元に持って
いく。
遠野、受け取る。
遠野「ありがとう」
11 河川敷・橋の下
野球実況が流れるラジオ。
ラジオ『八十年代のベイスターズの実況』
寝転んでいる多田。
隣にいる加奈、ラジオのスイッチを回す。
ラジオ、不協和音を放ち乱れる。
多田、加奈を抱き寄せる。
多田、震えた手つきで加奈の身体を再び確かめる。
多田、ハッとする。
遠方よりこちらを見ているマキノ。
加奈、橋の下から出ていく。
多田「あっ」
多田、追いかけようとして何かを蹴飛ばす。
無防備に横たわっている拳銃。
12 華やかな道(夕)
路肩に座り込む多田と加奈。
加奈、立ち上がって柱の方へ行く。
多田、ポケットから小銭を取り出す。
多田の掌に小銭『百四十円』。
小銭、新しく光沢がある。
加奈、柱に添えられた花を摘んでいる。
加奈の傍に女のレイ(19)が立っている。
女のレイのモノローグ『子供は苦手。子供の
前ではすっごく緊張する』
13 商店街・駄菓子屋前(夜)
多田、加奈にアイスクリームを手渡す。
加奈、片方の手には花を握っている。
加奈の隣に立っている女のレイ。
女のレイのモノローグ『子供は下にいる。でも本当は私の方がもっと下にいる』
14 同・道(夜)
手を繋いで歩く多田と加奈。
その後ろをついてくる女のレイ。
女のレイのモノローグ『学校の先生になりたい。三年になったら歴史を頑張らなきゃ。歴史は嫌い。知らない時代は知らない。父さんと母さんと姉ちゃん、ワカナ、ユウト、カオリ、ハナちゃん、伊藤先生。私にはそれだけ。私には―』
ギターの演奏が聞こえてくる。
15 同・ある一角(夜)
シャッターの閉まった店の前に座り込んでギターを演奏しているタク。
観客はいない。
タクの目の前に座り込む加奈。
タク、気にせず演奏を続ける。
離れたところで座っている多田。
演奏が終わる。
拍手の音。
加奈も多田も拍手をしていない。
多田、後ろを振り返る。
マキノと部下・田辺仁(24)が立っている。
マキノ、多田を捕らえる。
田辺、加奈を抱き上げて去ろうとする。
加奈、田辺の手の中で唸って暴れる。
タク、何事もなく二曲目を演奏し始める。
マキノ、多田のポケットから拳銃を取り出して多田に握らせる。
加奈を抱える田辺の後ろ姿。
マキノ「(拳銃を握った多田の手を田辺の方に向けさせて)これが私たちの姿だ。憶するな。時代に知らせてやれ」
多田、マキノを振り払ってマキノの足に発砲する。
マキノ、その場に倒れる。
多田、田辺の方を追いかけていく。
タク、無心に演奏している。
女のレイ、タクの隣に寄り添うように座り込む。
16 廃れた道(夜)
ネオン街を力なく歩く多田。
多田、足を引きずっている。
遠野の声「おやっさん!」
駆けつけてくる遠野。
遠野、倒れそうな多田を支える。
多田「……腹いっぱい喰いてえ」
遠野、多田を抱きしめる。
17 焼肉屋・店内(夜)
年季の入った木造建築。
多田、無心に肉を頬張る。
多田の顔、肉を焼いた煙で朧げになる。
遠野、ビール片手に多田を悲しげに見ている。
遠野「その帽子かっこいいっすよね。何の帽子っすか?」
多田、こたえずビールを飲み干す。
18 同・外(夜)
多田、陽気にふらつく。
店から出てくる遠野。
多田、ポケットからありったけの小銭を取り出し、遠野に握らせる。
遠野「いいっすよ」
多田、陽気に被っていたキャップ帽をとってお辞儀し、踵を返す。
遠野「おやっさん」
多田、そのまま歩いていく。
遠野「おやっさん! 明日、野球見に行きま
しょう! 外野自由席、チケットあまって
んすよ! きっと僕らのとこまで飛ばして
くれます! 我らベイスターズはここから
っす! おやっさん!」
多田、聞いているのか聞いていないのか分からないまま闇に消えていく。
× × ×
多田、『横浜大洋ホエールズ応援歌』を歌いながら歩いていく。
片手にキャップ帽。
近くを川が流れている。
多田、立ち止まってキャップ帽を川に投げ返す。
川面に眩い光が映っている。
多田、空を見上げる。
空には「何か」がある。
多田、表情が和らぐ。
多田、再び歌いながら歩き始める。
多田、自分のこめかみに拳銃を向ける。
躊躇なく一発、発砲する。
そのまましばらく歩き続けて突然倒れる。
19 商店街(早朝)
誰もいない。朝日が差し込む。
タク、シャッターにもたれかかったまま一人眠っている。
20 新しい道(朝)
整頓された街路樹、行き交う人々。
加奈、真理に手を引かれていく。
加奈、真理から手を離して立ち止まり、空を見上げる。
空には「何か」が残っている。
真理「また迷子になるよ」
加奈、真理に手を引かれていく。
終わり。