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月輪熊

作者: 大森

 森の怒りは熊の怒り。親熊は鈍重(どんじゅう)に口を大きく開けた。粘着性(ねんちゃくせい)のある唾液が、上顎と(おとがい)をつなぐ架け橋を建築した。(けだ)し、橋の横幅を短くして、縦幅を長くする意匠(いしょう)を試みるのであった。口をゆっくりと開ければ開けるほどに、白い唾液の架け橋は細くなり、あと何寸かで千切れてしまう。夜空を見上げながらも、(あた)る限りに口を広げるのであった。

 月光に照らされた月の輪グマは、三日月を食べる様に口を開こうとする。遠近法も失念(しつねん)して、どうやら丸飲みをしたいらしい。熊の口元からは(おぞ)ましい音が聞える。口内の中央付近に造形された、唾液の架け橋が崩壊した為であろう。ブチンという音が連続的に鳴り響く。ギリギリに上顎と下顎をつないでいる個所は、残すところ口の裂け目だけとなった。そして大きな二つの鼻腔(びこう)から森の怒りの一粒、一粒を肺胞へと取り入れる。吸い込んでいく音も恐怖の何物でもない。いわば冬の凍てつく北風が、月の輪グマを中心として流速(りゅうそく)分布(ぶんぷ)敷衍(ふえん)させているようにも見えなくもないからだ。

森の木々が白昼(はくちゅう)に光合成で作り出した酸素の(はし)っこに、人間への怨念(おんねん)を付属させていたので、(こと)に黒熊の真っ白の肺は愛煙家(あいえんか)ばりにどす黒くなっていた。だから森の怒りは熊の怒りなのだ。酸素にこびり付いた人間への怒りの爆弾が、黒熊の血中に落されていく。血中にばら撒かれた怒りの時限爆弾を、数多(あまた)の細胞が(むさぼ)る。酸素だけを取り入れたいのだが、しかし、酸素の端っこに怨念が膠着(こうちゃく)しているもんだから、細胞呼吸は止められない。

 あっという間に動脈の林道を駆け上って、脳細胞へと怒りの酸素が辿り着いてしまった。神経回路を通る球粒は、人間への怒りと悲しみ、あるいは裏切りと失望である。一秒もしないうちに、脳神経と脳神経が不規則的に結合を始めた。そして熊はとある義務感を覚える。それは定言(ていげん)(めい)法的(ほうてき)な、あるいは神の御心から発せられる命令ともいえよう。まるで誰からも教わっていないのにも関わらず、親熊は自分で狩りをする様に、大森林から斯様(かよう)な指令が下されるのであった、

「人間を食い尽くせ」

 と。

 大森林の復讐欲に答えたいのか、月の輪グマは冷たい空気をさらに取り入れた。肺は空っ風で満たされる。この空っぽの風へ、自由意志による報復的な英断を込めた。無力的な蹶起(けっき)に絶望的な力の差、(あまつさ)え、希望の欠片も無い勝機の皆無(かいむ)と、無謀な挑戦が空っ風に敷き詰められていく。熊というのは、負けると判っていても戦わなければならない性分(しょうぶん)なのだ。聖母たる大森林を庇護(ひご)しようと、自分の命を森のためだけに使う。今宵は熊の栄光なる人類に向けた(いくさ)の幕開けとなるであろう。たった一匹に何ができる。それでも月の輪グマは、フワフワと嘲笑をする三日月へ、魂の奥底から()(たけ)んだ。

「ウォォォォォォォォォォォォォォ!」

殊に遠吠えは凄まじい肺活量によって、金属音が混じる金切り声と、鈍痛的な重低音が調和していた。山の(いただき)から(たけ)り立った弓なりの怒号(どごう)が、黄金色(こがねいろ)をした三日月へと放たれる。まるで気温差によって形成された白い息が百千(ももち)の矢となりて、三日月へと発射される様であった。怜悧(れいり)な風を切り裂いていく音もする。大気が震えているのか、あるいは三日月が()(ぶか)く抉られたのかは、定かではないがしかし、法螺(ほら)を吹いた様な音があちらこちらから聞こえてくる。人間はこれを終末論の始まりだと言うだろう。(あまつさ)え、弦月(げんげつ)は月の輪グマの咆哮(ほうこう)によって何ヵ所も凹んだ。これを人間はクレーターと言うだろう。

「ほうほう、熊さんや。お主の覚悟はしかと受け止めた」

 弦月は、熊からもらった百千の矢を握りしめて、殊に自分の身体を弓のようにしならせる。そして、大森林全体へ流星の(ごと)くに月光という名の弓矢を、燦然(さんぜん)と射るのであった。これを人間は木霊(こだま)という。


 (どん)(じゅう)の臭いによって、三日月の鼻は雲に覆われた。月の輪グマは右の前足を開いて、その場を一周するように振り返る。むぎゅっむぎゅっと雪を踏みしめる音が、坂道の傾斜が急になるにつれて、畢竟(ひっきょう)、比例するように音量も上がる。月の輪グマは下山する。冬眠という義務の代替(だいたい)として、人間を食い尽くす定言命法に従うだけだ。雪の香りも同様に濃度が薄くなる。厚く覆われた毛皮の下に(ひそ)んでいる皮下脂肪は全くない。だから十歩程度だけ歩くたびに身震いをするのであった。筋肉を震わして発熱をしなければ、凍死してしまうからだ。体温はみるみると低下する。このままではマズいので、体温を逃がさないように、毛穴をキュッと絞めた。次第に毛先は立つ。故にいつもよりかは体躯(たいく)が大きく見えるのであった。(どん)(ぐり)の木の下へ来ると、秋特有の癖が思わず出てしまう。爪を引っ込め、一等に大きい肉球で落ち葉を搔き分けようとするのだ。三回だけ地面を掘れば、三回とも白い腕だけが帰ってくる。何とも(むな)しい。加えて虚無感のためなのであろうが、息もまた白いのが皮肉だ。

「お腹がすいたな」

 肉球にこびりついた雪は、(はかな)く溶けていく。だが、毛先に付着した雪はなかなか融解(ゆうかい)をしない頑固者であった。手の甲にある粉雪を長い舌でペロペロと舐めた。水分を補給しても、何も腹の足しにすらならない。却って唾液を無暗に浪費するばかりだ。水分の需要と供給が一致しないので、手を舐める癖を自力で直した。たった一つのどうでもいい癖が、冬の自然界ともなれば、命とりになりかねない。だがいくら危機的状況でも、人間とは違って熊は顔色を全く変えない。十二指腸が食べ物を欲して、上の臓器を刺激するために活発になっても、つまり、お腹がグーーっと鳴っても表情を変えない。眉間に(しわ)を寄せる事もなければ、苛立ちを覚えて八つ当たりをする事もない。真顔で一生懸命に食べ物を探すもんだから、愛くるしい思いもしなくはないだろう。ただ、大自然は残酷的にも熊へ寒風を容赦なく吹き付けるのであった。


 だいぶ山を下りた。途中に出会った動物はいない。既にお腹の中にいるというバカな意味ではなく、誰もが冬に(おび)えて眠っているからだ。自分にとって都合の悪いものは、見なきゃいいという訳だ。栗鼠(りす)や猪も目を(つむ)っている。だが、生きている。熊は洞窟を覗き見して彼らの寝顔を凝視(ぎょうし)した。彼らを食べる事はない。何故なら、人間を食い尽くす命令があるからだ。でも寂しいのには変わりない。

「寒いから隣にいてもいいかね。まて、やめだ、やめ!お前臭いな。(しばら)く水浴びすらもしてないと、こんな臭くなるのか。なんていうか、そうだな。汗が酸化した酸っぱさだ。まてよ、俺も同じ匂いがする。あきれた、何か言えよ」

 返事はない。寝息を立てているのかも怪しい所だ。猪の大きな体躯(たいく)(したた)かな右手でさすった。ゴロンとその勢いに任せて寝返りをうつもんだから、(まり)を転がすようにどうしても本能でじゃれてしまうのが愛らしい。いうまでも無く限られた力は減衰(げんすい)していく。

「だめだ、だめだ。こんなことをしている場合じゃない」

 洞窟を出ると、朝日が止めを刺してきた。眩しい。だが、目を細めない。人間が動物と距離感を感じてしまうのは、表情筋を使わないからであろう。人間と動物の決定的で大きな違いともいえる。動物の笑みはどこにあるのか。笑みを探し求める訳でもなく、ただ熊は鉄仮面という面構えで早朝の中、鈍間(のろま)に山を下る。太陽の光は本当に温かい。なるべく日陰を歩かずに、遠回りをしてでも木漏れ日を狙いにいく。(けだ)し狙われたのは熊の方であった。それは太陽光によって、白い雪から乱反射された紫外線が、黒い集合体へと向かうからである。光は凄まじい勢いで寄せ集められていく。それでも、寒いのには変わりなかった。


 山の(ふもと)まで来れば、思わず手を引っ込めてしまう程の小さな池が、熊の瞳の玻璃(はり)へ映るのであった。水温慣れをするためにも熊は何度も鼻を浸したり、乾燥させる事を繰り返した。凍てつくように鼻の毛先が冷え込めば、ポタポタと鼻先の雫が(したた)り、それをお構いも無しに舌を垂直に落すのであった。

「つめた!」

 でも美味しい。軟水は硬水よりも栄養は無いが、しかし、味は格別だ。水腹にした熊は、深い呼吸をした。

「むむ、焦げ臭いぞ」

 蹈鞴(たたら)を嗅覚で発見したのだ。自分が今までこのかた森で生きてきた土地勘からしても、なんだか近しい気もする。人工的な香りは、もうちょういだけ下りた先のはずだが、蓋し、自分が数か月も山の頂でのんびりと暮らしていた隙に、ここまで人間が進撃していたことに一種の寂しさを覚えた。最初は岡山県の備前(びぜん)から森林を伐採されて、殊に備中(びちゅう)から美作(みまさか)までをも領海侵犯されてきた。新庄村(しんじょうそん)の主である月の輪グマは、無意識的にその焦げの香りにつられてしまうのであった。


二足歩行にすれば、この熊は体長が約三メートルなんぞ容易に超えているかもしれない。皮下脂肪が無い分、横幅に威厳を感じられないが、やはり動物としての気迫は凄まじいものだ。動物は火を恐れるが、しかし、冬眠を克服した動物も同様に適応されると考えるのは浅はかなものである。この月の輪グマに怖いものはない。それは、死ぬ思いでこの山を下ったからである。空腹になればなる程に、血糖値も下がって頭の回転が速くなる。肉体は最後の力を振り絞る臨戦態勢へと入り、自律神経へと鞭を打てば、最終的にかぎ爪を硬化させる。だが、あまりにも食べなさ過ぎて、何本かの奥歯が抜けていた。奥歯を支える為だけに、(わず)かな力を(こころよ)く配るのであれば、なるべく節約をするのは当然だろう。

 しかし熊が嗅いだのは蹈鞴の芳香(ほうこう)ではなくて、村人の火起こし後であった。瞥見(べっけん)すれば無残に散らかっている。大きな石から甘い匂いがするので、熊はそれを嗅ぐことにした。

「なんていい香りなんだ。」

 始めて熊は人間の香りを(したた)めるのであった。これからはこの甘い脂肪を含んだ薫りを頼りに、熊は歩くことを無意識に決断する。気持ちばかしか、気温が上がっている様にも感じる。それは日中というわけでもなく、山の麓は頂よりも温かいのだ。故に熊は麓を気にった。麓も熊を気にったのか、目の前へ新鮮な朝ごはんを用意した。

「早く村へ帰ろう。寒いったらありゃしないよ。冬のうちに木を伐採してしまえば、人間様の不戦勝利ってもんさ。冬を制する動物が自然を制するんだ。今の言葉を書き留めておけよ」

「はい、おとうさま。ふゆを制するどうぶつは、どうぶつにも制圧されると・・・」

「ドアホ。違うわい。冬を制する動物は、自然を制するんだよ」

 お父さんとその娘は、自分たちが歩いてきた足跡を頼りにそぞろと帰宅をしていた。どうやら、地理を把握するための偵察ともいえよう。人間の会話はどうして、こうも低い音と高い音でやり取りができるのかを不思議に思った。それに啄木鳥(きつつき)が木に穴を空けるときの連打音並みに喉を鳴らすもんだから、怖さも感じなくはない。音程も一律で、極端に上がる事も無ければ下がる事もない。熊はそんな不潔な声の方角と嗅覚を頼りに、歩幅を大きくした。熊の一歩が二人の半歩になので、いずれ追いつくことが予測される。

「なんで人間は四足歩行ではないんだろうか。あれでは、腰を痛めるに決まっているだろう」

 熊の独り言にお父さんは振り返る。喉を極限まで(うな)らしていたからだ。万事休す。娘は音よりも先に嗅覚で酸っぱい匂いを感受してから振り返った。

「おい、嘘だろ。今は冬だぜ・・・・」

 男は二歩だけ踏み出して娘を背中に回す。逃げれないのは、背中を見せたら無抵抗に殺されるという訳でもなく、そんばバカな意味ではなく、ただ、熊に気圧されたのだ。娘は自分が女である事を痛感する。これほどにも自然界では弱い存在であり、男は何だかんだ強い生き物である事を重々理解した。雄々(おお)しいお父さんへ、自分の生命を預ける事しか出来ない無力さに、一種の恥じらいと誇りを味わうのであった。筋肉量が全く違う。ただ、贅肉が沢山あるだけで、これは全く何の自信にもならない。出産をする際は頼りになる体の一部分だが、しかし、戦闘状況では邪魔者の何物でもない。だから娘は、お父さんの薄紗(はくさ)な上着を千切れるくらいに強く引っ張る。

 娘が強く羽織ものを掴んでいるのが、何となくでも判る。こうなれば、最終手段を使うしか無いとお父さんは腹に決めた。武器はない。だが、人間が絶滅をしない唯一の自己保存能力は繁殖ではなくて、畢竟(ひっきょう)、自己犠牲である。背中から娘の温かさを感じる。このまま家族愛に包まれて、お天道様の所へ成仏するのも悪くない。子供じみた甘えと、大人ぶった義務感が葛藤する。だが、迷っている暇もない。後悔するなら後悔をしない方を選ぶのが、男という生き物なのだ。男は負けると判っていても戦う性分なのだから。

 最後に娘の顔を見たい。あんな鉄仮面を見ながら死んで溜まるもんかと、声に出した。だが、余りの恐怖で唾液も乾き、(あまつさ)え、舌は緊張で硬直していたので何を言っているのかも聞き取れない。熊にはいつも通りの言葉に聞こえるのが皮肉でもあるが。

 熊との距離はもう二メートルもない。ここでお父さんは振り返った。

「いいかい、可愛い俺の大切な娘よ。足跡をたどって逃げるんだ。いいね、振り返ってはいけないよ。まっすぐ走るんだ。服を離せい、いいから離せ。行けよ!行ってくれ」

 娘の瞳は残酷な一場面が永久(とこしえ)に止まっているようにも見えた。満面の笑みを浮かべながらも泣きじゃくるお父さんの背後に、真顔の月の輪グマが両手を青空へ(かざ)しているからだ。こんな光景を目にして、逃げれるわけがなかろう。足はすくんで腰は抜けている。震えは戦慄(せんりつ)でもなく、単なる恐怖だ。お父さんは熊に引きずられて、無様に餌食となる。熊は大きな口を開き、そして首を噛み千切った。血が(ほとばし)る。あらゆる木々の幹に点々と付着した。樹液と混じった為に、甘い鉄の錆びた匂いがする。蹈鞴の付近とはまた違った鉄の香りだ。

残酷の主人公にも関わらず、月の輪グマは顔色一つも変えない。せめて人間の弱さを笑ってもいい。蓋し眉一つも動かさないで食べるのであった。娘は自分のお父さんが熊に食べられている姿を見る事しかできない。これが自然の摂理である。自分の順番が来るのをただ待つことしかできないのだ。真っ白の雪は、お父さんの血を吸いこんで地面へと溶け込んでいく。生温い血液は、積雪を赤色に染ながら地面へと吸収された。雪と絡め溶け合った血液は、母なる大地へと帰っていく。ただそれだけの事であった。

「早くこっちに来なさい!」

 帰りの遅い夫と娘を心配して、(こと)に母親が迎えに来ていた。娘は雪の上に正座をして、お父さんをじっと見ている。声がする方へ娘は振り向いた。つぶらな瞳は充血をして、まるで白い雪に迸る血潮そのものであった。頬がふやける程に涙を流しており、殊に泪を出し切ってしまったのか、落涙(らくるい)のなり果ての血涙(けつるい)へと移り変わっていた。ほうれい線に沿って赤い筋がなぞられている。ただじっと、骨をバリバリと食い荒らす音を聞くだけで、娘は何もできないのだ。逃げる事すらも出来ないのだ。熊は娘を気にも留めずにお父さんを(むさぼ)る。味わうこともなく、ただ作業めいた食事作法であった。

 (むせ)び泣きながらもお母さんは、良妻(りょうさい)賢母(けんぼ)として娘を守る義務を遂行する。夫が(ほふ)られたのであれば、今度は自分が娘を抱いて逃げなければならない。先程のような怒りを込めた叫びではなくて、女らしい(うら)らかな声で娘を抱き寄せた。

「大丈夫だから、お母さんにつかまりなさいな」

 柔和(にゅうわ)な声が娘を抱擁(ほうよう)する。(まばた)きを忘れてしまったのか、娘の瞳はみるみる乾いていく。このままでは、失明だ、いや、娘は盲目に自分から成ろうと試みていた。見たかないもんを見てしまったので、二度と見ない様に目を潰している最中というわけだ。光と闇が背中合わせをして、あるいは希望と絶望の表裏一体から遊離しようと娘は挑む。親はなるべく子供へ闇だけを見せずに、光だけを見せようと一生懸命になる。とどのつまり、それが愛であり、いわば法律や政策に加えて対策などは、先祖代々から受け継がれる血と涙の結晶なのだ。

「いけませんよ。あんたが目を潰してしまったらどうすんのよ。お父さんは何の為にあんたをまもったのかしらん。いいわね、目を開けなさい。そんでもって、あんたが大人になったらね、自分の子供でもなんでも、次の世代にはこの闇を見せない様にするのよ。今は闇だらけかもしれないけども、いずれかは光だけの世界が来るのよ。人類共通の目的でしょうが。

お父さんは闇を抱えて一緒に死んだのよ!あんたも闇を抱えなさい。次の世代のためにも。絶対に時代が進むにつれて、この世界は綺麗になっていくの。だって、みんな・・・みんな、身体の中に闇を抱えて墓場まで持って行ってるんだから」

 涙で濡れた長い睫毛(まつげ)で、娘の血のついた睫毛をくっつけた。そして、蝶々が羽ばたくようにお母さんは(まばた)きをする。娘の睫毛と自分の睫毛が優しくこすれあう。娘も睫毛を羽ばたかせて、(ようや)く瞬きをした。かなりこしょばい。それでも二人はお互いの睫毛同士で接吻をするのであった。

「逃げましょう・・・・・あのクソ熊め。絶対に夫の遺骨は返してもらうんだからね」

 娘を強く抱いてお母さんは、新庄村(しんじょうそん)へと帰宅した。


 一連の流れを村長へと報告した。その晩にも有権者を集った村長会議が開かれる事となった。大抵の男どもは、女の戯言(ざれごと)なんぞは聞き入れもしないのだが、今回ばかしは違った。だが、その中でも一人の男だけは考え方が皆と違う思考を有していた。

「こりゃ大変ですな。冬眠をしない熊がいるなんて聞いたことがない。それに、その熊が交尾をして子孫を残してしまえばだな、恐らく冬眠をしない熊が量産されていくぞ。これはとんでもない突然変異だ。何としても殺さなければならないが、こちらも対策を練ればならん。奥さん、もう少し待てないかね」

「村長さん、お言葉ですがね、あたしはまてません。愛している夫を取り返しにいかなければ、殺してもこの想いは晴らされないでしょうね」

 炯々(けいけい)としてお母さんは、村長へと訴えた。周りの豪族共も肯首(こうしゅ)する。会議の流れは、(ただ)ちに遺骨を取り返す方向へと進んだのにも関わらず、多額の税を納めている豪族の一人が横やりを入れて来た。

「そりゃだめです。私情で行動するのが女の(さが)ってもんでしょ。これだから困るんだ。何人もの男どもが村から離れれば、新庄村は隣の村に攻められますぜい。この会議に出ている者の中で、相手の村と通じている化けの皮を被ったやつが、いないとも限らないでしょ。違うかね。遺骨ごときにこだわるな。そんなことより、お前はもう未亡人だ。俺の嫁にこい。可愛がってやるよ」

「いやです。あたしは娘と二人でくらしますので」

「女に拒否権があるとでもいうのか。身の程をしれい。お前は黙って俺の愛玩(あいがん)になるんだよ。ほほう、よく見ればいい女だな、娘もついてくるとなりゃ、これはとんだ儲けもんだ」

 今にも殺す勢いでお母さんは、立ち上がる。

「おいおい、まてまて!そう怒るなよ。俺が養ってやるんだからさ。恨むならお前の弱い夫を恨め。俺は強いから死なない。弱いお前たちを守ってやるんだからさ、俺のいいなりになれよ。この会議が終わったらお前だけでもいい。俺の部屋へくるように。気が強い女も俺は好きだぞ」

 いつの時代も女は法律やら政治的謀略に妨げられているのは否めない。室町時代なら、なおさらに女の差別は激しいものだ。

「わかりました。ですが、明日にでも遺骨を取りに行かせてください」

「何度いえばわかるんだね」

「一人で行きますので」

「勝手にしろ」


 翌日の早朝に、なみだ化粧のお母さんを娘一人が見送った。まるで雪女のように美しかった。寂しさに怒りと強さが混沌(こんとん)とされており、つまり人間味のある表情であった。笑顔には悲しみの陰りが見えなくもないが、それでも温かい夫への愛が芽生えた美しい顔立ちをしていた。お母さんが小さくなっても、娘はその場にしゃがんで待ち続けた。頬を紅潮とさせて、耳たぶが真っ赤になる。手もかじかむ。ハーハーと温風を掌に閉じ込めて、震えながらもお母さんを待ち続けた。一時間、二時間と経過をすれば不安になっていく。だが、泣いてはいけない、泣いてはいけないと心を奮い立たせるのであった。

お腹が空いても緊張と不安で全くとして喉を通らない。お母さんのお手製のおむすびは、ハスの葉っぱにくるまれているだけで、開けた痕跡(こんせき)もない。喉が渇いても、唾液を飲むだけ。長いようで短い時間の悪戯(いたずら)に、娘は(すこぶ)る付きで遊ばれるのであった。女はいつの時代も時間に(たぶら)かされる(たち)なのだ。

「お母さん!」

 娘は颯爽(さっそう)と駆けて、村の柵をまたいだ。一等に大きい乳房へ飛び込んで、風呂敷には恐らく遺骨があるのだろうが、しかし、娘はお母さんだけを抱きしめる。

「今日中にでもお葬式をやりましょうね」

 感情に声が追い付いてこない。娘は口を開けて頷いた。娘とお母さんは村の外れで火を起こし、お父さんを弔うのであった。二人は火を囲みながら、両手を上昇気流の最長点へ置く。かじかむ手も、毛細血管が弛緩(しかん)する事によって、雪がとけていくように指先の感覚が復活するのであった。

「お母さん、また今日もあのへんな、おとこの所へいっちゃうの。いやだよ、行かないで」

「こればかしはどうしようもできないのさ。女はいつもいじめられる運命なのかもね。でも、いつか必ず痛い目に合わせてやるんだから。とか言っておきながら、女は何だかんだいい人なのよ。きっと未来になっても女の立場は低いままね。それは妥協をしているわけじゃなくてよ。弱い立場だからこそ、守ってくれる本当に優しい男がいるから、この立場も嫌いってわけじゃないの。つまりその男があたしの夫。あんたのお父さん」

「よくわからないけど、お父さんはだいすき。でも、新しいお父さんはだいきらい!」

 ヒンヤリした娘の髪を優しく撫でながら、お母さんはクククと喉を鳴らして笑った。いつまでもこの親子愛が続けばいいと、お母さんは誰よりも(こいねが)う。家族三人の水入らずで、永劫の時のはざまに閉じこもりたくもなった。いや、無限の時を超越した異世界的な楽園に帰還して、娑婆と絶縁したい思いもなくはない。

しかし、三人で一生懸命に創造した愛の空間をぶち破る不潔な声が、(こと)にお母さんを桃源郷(とうげんきょう)から娑婆へと引きずり込ませる絶望の挨拶が、(おぞ)ましく聞えるのであった。

「ウォォォォォォォォォォォォォ!」

 熊が来た。もう遅い。お母さんは肩を噛まれて引きずられていく。どうらや熊は自分の巣へと戻っていくつもりだ。それに熊の習性は、恐ろしい程に自分が手に入れた有機物への執着心を覚える為に、畢竟、お母さんに骨を強奪されたと勘違いをしたのだ。熊は骨を取り返しに来ただけなのだが、女が余りにも美味しい事に驚愕を覚える。

「これだ!最初に嗅いだ、いい香りはこれだ。この人間は美味いぞ。一人目よりも脂肪が凄い。こりゃ溜まらんな」

 やはり真顔だ。

「逃げなさい!」

 積雪の足あとをたどって娘は逃げた。二回目だから慣れたというわけではない。生きる意義を見つけたからだ。お母さんを自分の力では助けられないので、新しいお父さんに救ってもらおうと伝令兵になる事を英断。斯様(かよう)に生きる理由を見出したので、娘の足は運ばれていく。

「やっぱり・・・いかないで」

 口が生きようとするので、必死にお母さんは口を暖かい(てのひら)でおさえた。娘が小さくなる。肩がしこたま痛い。舌が娘を呼び戻そうとする。

「だまれ!」

 舌を噛み千切った。幸せそうな顔でお母さんは絶命。それでも娘は振り向かずに、韋駄天(いだてん)よりも早く走る。柵をいつものように超えて、新しいお父さんの所へ駆け寄った。大きな広間の中央で、見知らぬ女と一緒に添い寝をしていた。それでも斯様な事も気にせずに娘は、必死に限られた語彙で伝達を試みるのであった。

「大変です!お母さんが食べられてるの。助けにいってください」

「うるさい小娘だな。あれほど言ったのに、ホント女はバカだ。ほっとけ、今頃食われているよ。それにあいつはもう用済みだ。やるだけやったらからもういい。そこの暖簾(のれん)を早くおろしてくれ。俺は眠いんだからさ」

 娘は激昂(げっこう)した。昼間から寝ている男に怒りを覚える。見知らぬ女にも憫笑(びんしょう)された。娘が意識を取り戻してハッと気づいたときには、既に柵を超えて、足跡を辿っている自分がいた。地面を見ながら、幾多の木を娘はかわしていく。そんでもって、葬式の火おこし後を見つけてからは、無残な痕跡によって胸が締めつけられるのであった。お母さんが引きずられた為に、足跡ではなくて、ある種の道ができていた。その道の中央には赤い血が沁み込んでいる。たまに四足歩行の足跡が見受けられる。涙を堪えて娘は走った。熊の巣へ辿りついたころには、既にお母さんは食い殺されていた。娘はお母さんのあばらの骨を何本か持って村へと向かう。

 骨が滑って落ちそうになるが、それでも強く握りしめて娘は走った。柵を飛躍してからも、その勢いに乗って新しいお父さんの家へ向かう。そしてお母さんのあばら骨を、新しいお父さんが寝ている枕の上へ静々と置いてから、娘はその家から遠くへ逃げることにした。よく手を洗い、服も一応きがえる。


 数時間後。計画通りに新しいお父さんの家の周辺が騒がしい。知らぬふりをしながら娘は足早に向かった。野次馬の間を(くぐ)って(べっ)(けん)をすれば、新しいお父さんと見知らぬ女に加えて、あの月の輪グマも死んでいた。

「ありゃりゃ、あの豪族の旦那は熊に引っかかれて即死だそうだ。あれを見ろ、首の動脈に触れていやがる。それに女はもう見れないほどの滑稽だな」

「熊をどうやって殺したんだ」

「そりゃ、女を食べ散らかしている間にね、男どもが後ろから武器を使ってぶち殺したってもんよ。今日は熊の肉で打ち上げだな。おっと、お嬢ちゃん、ご両親も新しいお父さんとお母さんも殺されて散々だな。同情するよ」

「きにしないで」

 一番の被害者である娘は、この状況を容易く克服して前に進もうとしていた。悲しみを引きずらずに、過去へも執着しないで、だが軽視をするわけでもなく前進あるのみ。止まれないのだ。何があってもこの自然界では止まる事は許されない。一秒も止まれないこの世界で、娘は胸を張って生きていくしかない訳だが、これは残酷のなにものでもない。なぜなら動いて生きていく物の、いわば動物の(さが)であるのだから。

 


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