猫の後ろ影
なんだかなぁ。
夕闇。黄昏時とも言うんだっけ。
まぁ、どっちでも良いのだけれど。そういう時間帯に私は一人、公園のブランコを漕いでいる。
カラスの鳴き声。手を繋いで歩く親子。真っ赤な空。
一瞬、私はここに居て良いのだろうか。帰らなければいけないのではないか、と不安になる。
そんな仄暗く、寂しい時間。
そんな寂寥に私は口笛を吹いて対抗する。
対抗するなんて表現をしてみたものの、別に心細くなんかは無い。寂しくも無いし、況してや怖い訳でも無い。
ただ、良く判んないけれど、何となく吹いてみただけ。
そんな自己分析より何よりも、今は苛立ちが私の頭の中を蝕んでいた。
イライラする。何が腹立たしいって、お母さんや学校の先生、クラスの友達、それに彼氏の良太の言動の全てがムカつく。言ってしまったら、私の周りに居る全員が自己中心的で、稚拙で、愚かしい子供。誰も私の気持ちなんて解ってくれない。
お母さんなら、家事を手伝えだの、晩ご飯作りなさいだの、何かにつけて女なんだからそれくらい率先してやらないと駄目なんて言うけれど、託けた理由で本当は自分が楽したいだけなんだ。結局、この一カ月ずぅーと私が家事をやっている始末だし。
先生なら、反発する生徒には言い辛い事を水を得た魚のように私にだけは事細かに注意したり、怒鳴ったりする。それも全部は、口答えしない私を間に挟むことで本当に指摘したい生徒へ間接的に怒っているのだ。質が悪い。
友達なら、どこそこへと遊びに行こう、行きたいと言うだけ言っては行き方や営業時間、金銭面その他諸々の下調べを人任せにするのだ。スマホと言う便利なツールがあるというのに、調べるのは私達の仕事じゃない、みたいな体でいつも調べるのは私だけ。スケジュールを組む上で何か食たいものは無いかと訊けば、何でも良いよ、の一つ返事。全く何様の積りなのかしら。
良太なら、何かにつけて行動を把握したがるし、向こうが会いたいと言った時に会えない事を理由と共に説明しても、分かった振りをしてその実、恨みに思っているのだ。後になってもそれを憶えていて、次のデートの引き合いに出してくるのだから卑怯も甚だしい。その癖、俺はお前のことを分かってる、などと簡単に嘯くのだから困りものだ。どうしてこんなのと付き合ってるんだろう。別れたい。別れたいけれど、なんだか恐くて切り出せないの。どうして察してくれないのかな。
誰も私の気持ちなんて解ってくれない。
本当、嫌になる。
どうしていつも私ばっかりが我慢しなければいけないのだろうか。世の中不公平だ。
このままずぅっと私だけが私の感情を圧し殺して生きていかなければならないのだろうか。
皆、そう。きっと自分の事しか頭に無くて、自分さえ良ければそれで良いんだ。生きてきた時間なんて関係無くて、どうやって生きてきたかが問題なのだ。結局、子供の頃から皆、何一つ変わってなんかいない。皆同じ。でも、私は違う。
だって、その事に気付けているのだから。
ミャー。
口笛を吹くことも忘れて、内憤に耽る私の足元で一匹の猫が鳴いた。
「こんばんは、猫ちゃん」
私はそう言って猫の頭を撫でる。
この猫は私を好いているのか、一人でこの公園に居ると必ずと言って良いほど寄ってくるのだ。
特に餌付けした覚えも無いのだけれど、無性に甘えてくるこの猫が可愛くて、今では私の心の拠り所でもあった。
「お前は可愛いね。ここが好きなの?」そう言いながら、頭を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めた。
「猫ちゃんの事は何でもお見通しよ」だから私の気持ちも解ってくれて傍に居てくれるんでしょう。心の中でそう続けた。
猫は、私の言葉を吟味するようにじっと私の目を覗き込み、そして首を傾げるとミャーと一鳴き。愛らしいその姿を私も真似る。
「あれ?」
気分が変わったのか、猫は踵を返して何処ともなく歩いていってしまった。
いつもならもっと一緒に居るのだが、今日はそうじゃないらしい。
猫の後ろ影を見ながら、途端に寂しくなる自分に気が付く。
私は胸を締め付けられる様な窮屈な感情を抱えながら、帰りたくない家へと帰ることにした。
あれから三日が経った。
あの日以来、猫は姿を見せなくなった。
ほぼ毎回と言って良いほど私の前に現れていた猫はどうしたのか、居なくなってしまった。
こんなこと今まで無かったのに。もしかして事故に遭ってしまった、とか………。
そんな不安が過り、私は慌てて辺りを探してみる。そんな事をしても無意味と分かっていても、居ても立っても居られないのだ。
しかし、そもそも猫をここで良く見掛けるというだけで何処で暮らしていて、どのような行動をするのかなんて分からない私には探す手立てが無かった。
途方に暮れた私はいつものブランコに腰を下ろす。
ここに座っていれば、いつものようにひょっこりと姿を現すんじゃないか。そんなどうしようもない期待を抱いて。
結局、猫は私の前に姿を見せることは無かった。
ミャー。
とぼとぼと帰路に着く私の耳に、聞き慣れた猫の鳴き声が聞こえる。顔を上げると、あの猫が別の誰かと一緒に居た。咽元を撫でられ、気持ち良さそうにゴロゴロと咽を鳴らしている。
私はその姿を見て、猫が無事であったことに安堵した。
しかし、同時に腹立たしくもあった。私にだけ懐いていた訳じゃなかったのだ。
何よ。あなたも結局、私の気持ちなんて解ってくれていなかったのね。
「お前はここが好きなんだねぇ」猫を撫でるお姉さんが言う。
ミャー。喉元を撫でられ目を細める猫は、私が撫でていた時よりも気持ち良さそうで、おねだりするように自分から頬を擦り付けていた。
その光景を見た瞬間、私は何とも言えない感情に身悶えする。
私は何て勘違いをしていたんだろう。
猫の気持ちを解った積りで、その実何も解っていなかったのだ。私は解ってるから私の事も解ってくれているなんて、勘違いも甚だしい。自己中心的な考えを猫に押し付けて、猫のことを解った気になっていて……。
結局、私も私のことしか考えて無かったんだ。
これじゃまるで皆と一緒じゃない。
恥ずかしい。私だけは周りと違うと思っていた事が恥ずかしい。私だって皆と変わらない子供だったんだ。
否、違う。
本当は、私自身も他の誰かに私を押し付けたかっただけなのだ。でもそれが叶わないから不満になっていた。
本当に変えるべきは、周りに期待するという甘えだったんだ。
それを私は勘違いして、誰も解ってくれないとばかり嘆いて………。若しかしたら、私の周りの人よりも私が一番、卑しく愚かな子供だったのかもしれない。
夕闇に染まる道の向こう。
猫の後ろ影に、そう気付かされた。